(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
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Q:今、振り返ってみて、どんな中学生、どんな高校生でしたか?
中学・高校生の時は正直そんなに目立つタイプではなかったと思います。成績もそんなに良い方ではなかったですし、すごく活発で目立つタイプの子ではなかったです。ただ好きなことはすごく一生懸命やっていました。高校生の時、部活では和太鼓をやっており、全国大会に出て準優勝したのはいい思い出です。
中学生の時に池上彰さんの週刊こどもニュースで「国境なき医師団」を取り上げていたのを偶然見ました。レポーターが同じ年齢の中学生だったのですが、「国境なき医師団」の現場に行って、わかりやすくレポートしていました。そのお医者さんがアフリカの農村で医療活動することで何百人もの人が助かっているということを知り、国際協力に興味を持ちました。そして高校生の時に国際協力について調べ始めて、外務省に話を聞きに行ったり、青年海外協力隊の説明を聞いたりしました。
そして大学に進学し、国際協力について継続して調べて勉強しました。「こんなに好きなことを勉強すると大学では単位になるんだ」と思ったことを記憶しています。
Q:中学時代にお父さんにおこづかいの値上げ申請をされたとか(笑)?その時のエピソードを教えてください。
父にお願いしたら、たった1万円で同じ年の子がタイやカンボジアでは学校に通えると話をされました。私のお小遣い数ヶ月分で途上国では学校に通えるんだと言うことを知り、「私でも頑張れば支援出来る!」と思いました。途上国と日本では貨幣価値が全く異なるので、日本では少額でも途上国では大きなインパクトを生むことをその時知り、"ハッ""としました。
Q:お父さんのお仕事は海外関係ですか?
いいえ、国家公務員です。しかし、父が仕事で行ったマレーシアやインドネシアの方たちにすごく親切にされて、それでアジアの人に恩返ししたいということで、私が13歳の頃から毎年3日間、夏の間ホームステイの受け入れをしていました。それ以外に年間4人ほど身元の"保証人"になっていたので、半年に1回は留学生が遊びに来ている状態でした。ですので、私にとってアジアはとても近い存在でした。
Q:国際交流やアジアのバックグラウンドが家庭内にあったと考えられますね。そして、いよいよ大学の選択となりますが?
受けたい授業、国際協力の授業がたくさんあったので、フェリス女学院大学に進学しました。例えばUNDP(国連開発計画)駐日代表で国連事務次長補兼UNDP管理局長の弓削昭子先生。一時期フェリス(1999~2002年)で教えておられて、その時期に授業を受けることができました。他にもNGO出身の方とか実務家による授業がたくさんありました。
Q:西尾市にはどのくらいの期間いたのですか?
9月から2月までの半年です。保育園だけではなくて、週2回は、宿泊していた老人ホームで介護補助のボランティアをしていました。
Q:スタディー・ツアーに参加したのは大学2年生でしたね、きっかけは何だったのですか?
弓削先生の授業で、売られた子どもの話を新聞記事で知ったことがきっかけです。その子は当時20歳で亡くなり、当時19歳だった私とたった1歳しか違わない歳でした。もともと12歳の時に、家族を助けるために働きに出て、その後14歳の時に騙されて売春宿に売られてしまい、最後はエイズを発病しました。その少女が何故家を出たかというと「大好きなお父さん、弟や妹達がお腹いっぱい食べられて、弟や妹達が学校に行けるようにしたい。出稼ぎに出るのは怖いけれども、家族のために出稼ぎにでる」と。でも結局死んでしまった。そして、彼女の最期の言葉がその新聞記事に載っていました。その言葉は、「学校に行って勉強っていうものをしたかった」
私は学校に行ってそんなにしたくないと思っていた勉強を彼女はしたかったということを亡くなる前の最期のことばで残している。それがすごくショックだったんです。
しかも売られた金額が1万円。その時の状況は毎日殴られながらお客さんを1日に10人近くとらされていたと書いてあった。当時の私は大学に行っていて、親のお金を使っていて、親孝行をしたことがありませんでした。家族を助けようとした子が亡くなっていて、勉強するとか生きるとか当たり前だと思っていたことが奪われている現状。日本で1万円といえば、ワンピース1枚我慢したら助けられた金額。「本当にこんなにひどい状況があるのか?」と気になって調べてみたら世界にはこんなひどい現実があると調べていくうちに分かりました。世界中に毎年200万人もの子どもの被害者がいることが分かって、現場に行くスタディー・ツアーに参加することにしました。一方で「これはNGOの人が支援を受けるために誇張して書いているじゃないか」という疑いの目もあって、実際に自分の目で現場を見て確かめようと。アルバイトをしてスーパーマーケットの試食販売を一生懸命やって、お金を貯めて行きました。そうやって貯めたお金を使って、大学2年生の夏休みに10日間ほどタイに行きました。
Q:タイの地域はどちらでしたか?
タイの山岳部で、北タイと東側のイーサーンと呼ばれる貧しい地区です。
Q:そこで"売られた"子どもたちと会われたのですか?
間接的に被害にあった人たち、つまりお母さんが17歳で買春させられて、19歳くらいで既に亡くなってしまい、残されたエイズ孤児と出会いました。その5歳の子ども達もいつ発病してもおかしくない状況でした。「この子がHIVを持って生まれたのは誰のせいだろう?」と考え、「売られる子どもの問題」をした人たちやそれを斡旋している人たちに責任があると強く思いました。本で読んだり文献で調べたりすることは"机上の空論"ではなくて、本当にこういうことがあることを知って、なんとかしたいと思いを強く持ち、日本に帰って来てから活動を始めました。
Q:事業展開がタイでなく、カンボジアだったわけは?
この問題は状況が変わりやすく、5年単位で状況が変わっていきます。タイでは2000年に取締が強化され、法律も改正されて、タイで子どもを買うことが難しくなりました。私が活動を始めたのが2001年ですので、ちょうどタイの状況が良くなってきた時期でした。日本語の文献というのは現地で文献が出て英語の文献にして日本語化するので、タイムラグがあって情報伝達が遅れます。日本語の文献は90年代のことばかりで、タイがひどいと書いてあった。「かものはしプロジェクト」を作る時に、英語の文献や現地調査をしてちゃんと調べてみると、タイではなくカンボジアがひどい状況だとわかりました。カンボジアに仲間が行って現地を調査したら、5歳の子どもが売られていることが分かりました。そこで、対象国をカンボジアにしました。
Q:大学の2年生の時に、ご自身の考えに近いNGOで半年間ボランティア活動をされていた。それは「かものはし」を始める前ですね。
当時、自分なりに動きました。その過程で世界会議にも出させて頂きました。政府間レベルのトップ級の会議にも参加しました。しかし、大枠は大きな会議で決まるものの、現場で苦しんでいる子ども達が守られるまでに時間がかかる。自分の当時の力を出しきって最大限頑張って、意見を出しました。それが国連の文章の素案になって、世界中の人にその文章を見てもらえる状態になりました。外務大臣クラスの国のリーダーに私たちの意見が聞いてもらえたと思いました。
しかし、それでも世の中は変わらないと気づいた。継続的にやり続けないと変わらない。法律改正させたり、条約を批准させたり、予算配分を変えたり等の具体的なことをしないと変わらない。加えて、現地の子どもたちに支援が行き届くレベルで活動しないといけないことに気がつきました。
またその会議で気づいたことがあります。「売られる子どもの問題」について、世界でもっとも活動している人たちが3,000人集まっていたのですが、その人たちだけでも十分な変化をつくることができなかったのです。かつ日本は加害国としてすごく有名でした。「児童ポルノを一番作っているのは日本です」とか「加害者をアジアで一番出しているのは日本です」と言われているわりには、この問題を知っている人も活動している人も少ない。最も活動している人が集まっているはずなのに層が薄いことに気づきました。子ども・若者代表も日本人が30人くらいでしたが、会議の基調講演を作るグループに入ってしまい、彼らと一緒に文章を作りました。まだ活動を始めたばかりの私が文章を作っるくらい層が薄いことに驚いたと同時に、取り組んでいる人が少ないんだったら気がついた人がやっていかないと変わらない、タイで出会ってきた人たちを誰が守るんだと強く思いました。この問題を知ってる人が伝えて、動いていかないとあの人たちは守れない。それで活動していこうと思いたちました。
Q:確かにタイに行かれたのは2001年8月。同じ年の12月に第2回世界会議に参加されている。4ヶ月しかないのに、そこまでの活動をされた。ある意味層が薄いと考えられるのも当然かもしれませんね。その後、NGOでボランティアを半年ほどされて、そこの理事会で、ある提案書を出されたとか?
大学の3年生の時に作成したもので手のこんだものではありませんでした。その当時「売られる子どもの問題」防止に関して、そのNGOではリソースが割けなかったので、理事の方にプレゼンしましたが、通りませんでした。結局半年間その団体でボランティアをしたのですが、既存の団体でやって通らないんだったら、自分で団体を創った方が早い。それで動き回っている時に、今の仲間と出会って、一緒に団体を創ったという経緯です。
Q:カンボジアの職業訓練センターでインターンをされたのはいつ頃だったのですか?
カンボジア国内のNGOを1ヶ月で40団体くらい回りました。その中のNGOの一つで1週間ほどインターンをさせていただいたのが、大学4年の4月〜5月です。そこで子どもたちと一緒に遊びながら、日本語を教えていました。
Q:20歳で2002年、大学3年生の時に、任意団体でスタートされましたが、当時のご両親の反応はいかがでしたか?
団体を作って活動することは反対ではありませんでしたが、卒業してカンボジアに行くことは反対していました。
Q:就職活動は3年の時に始まったと思いますが、ご両親は"通常のレールに乗る"のが当然だと考えられたわけですね。大学は、現役で入学されて、休学せずに卒業された?
そうです。
Q:大学を卒業された2004年に事務所を立ち上げて、任意団体からNPO法人にもなっていた。カンボジアに作られたのですね?
はい、プノンペンです。
Q:現地でカンボジア人をパソコン教師として採用し、当初は孤児院の生徒向けに教えられていた?
そうです。
Q:めでたく04年9月にNPO法人を取得され、村田さんがカンボジアで活動されて、共同代表のお二人は日本で活動し、その後3年でパソコン教室は一区切りを付けられました。それは、どのようないきさつだったのですか?
最初タイでの事業モデルを考えていました。タイは中学の卒業者が多いので、タイであればパソコン教室をして日本から仕事を持ってくることがあり得た。カンボジアでそれをやろうとすると、対象者と事業内容がずれている。現場では葛藤がありました。事業モデルはずれているが、ビジネスとしては成り立つ。ただ対象者はまったく学校に行ったことがなかったり、1,2年でドロップアウトしている子がほとんどでした。「売られる子どもの問題」の被害者は大半が教育を受けたことがなかった。その人たちにパソコン教育していくことは時間とコストがかかります。それよりも農村支援に切り替える方が費用対効果が高かったし、被害者は農村出身の子どもたちが多かった。事業モデルを変えたほうがいいというのが現地から出ていて、ただ日本からはパソコン教室をやるというのでお金をいただいていた。途中で急には変更できなくて、現場ではフラストレーションがたまっていました。事業モデルを変えるというのは、意思決定をしながら戦略を変えることが必要でした。当時それがうまくいかなくて、団体の根幹を揺るがす議論がありました。「ミッションを取るか事業を取るか」という議論の中でミッションを取り、事業モデルを変更しました。
Q:農村支援は雑貨を作る工房が主な事業ですね。「警察訓練支援」とはどんな形だったのですか?
政府がやっている警察官へのトレーニングの能力アップのための資金を出しています。本来警察が加害者を捕まえ、裁判で裁くべきなのですが、現実は女の子と外国人がホテルに入っていても捕まえないし、売春宿で子どもが売られていても誰も摘発をしない。警察官の摘発能力が低いので、証拠品を集めていなくて裁判で有罪判決が出ない。カンボジア国内でもそういう状況で、ましてや保釈金を払って海外に逃げてしまった加害者はアメリカや日本の裁判で証拠品になるようなレベルの証拠品はないし書類も作れない。証拠品を押収が出来ていないので、有罪判決がほとんど出ない。いくら法律を整備しても現場の警察官がちゃんと動かないと加害者が逮捕出来ない。それで、現地の警察官の能力を上げるために法律の内容を理解してもらう座学の講座、摘発の仕方、証拠品の押収する実習などを訓練しています。また犯罪者データベースを作って海外に逃げてもすぐ情報が来るようにすることや、「売られる子どもの問題」ホットラインを立ち上げ、その電話番号をゲストハウスやホテルに貼って、もし「売られる子どもの問題」を見つけたら電話してもらうような仕組みを作りました。
Q:専門性が高いですね。
私たちがやっているのではなく、それに対し「資金援助」をしているのです。被害者を出さないようにしていても加害者が大手を振って買っていることを自慢している現状だったので、なんとかしたいとずっと思っていました。被害者を出さないようにする農村支援を始めて、いろんな人にかものはしプロジェクトの活動を認知してもらえるようになり、警察支援を一緒にやらないかという話がきました。それで加害者の処罰に関しても、サポートするようになりました。
Q:2009年から、売られてしまうリスクの高い子どもたちがいる孤児院の支援をされていますね。規模はどれくらいですか?
いろんなプロジェクトに取り組んでいる孤児院なのですが、その中でも親元に帰れない、返すと売られてしまうリスクの高い子どもたちを保護している施設です。常時50人ほどが暮らしています。タイとの国境の町に住んでいる再貧困層やストリートやスラムで暮らしている子どもたちは、タイ側に売られやすい。タイでは物乞いをしたり、物売りをしたり、ひどい状況で働かされる。物乞いのお金が集まらないとご飯を何日も食べさせてもらえなかったり、殴られたりわざと怪我をさせられます。一度働きに出て戻された子どもたちは、売られやすい最貧困層の親元に置くとそのまま売られてしまうので、一時保護施設に入れて親への経済サポートをするのですが、それでも難しい場合は、その孤児院で暮らしています。
Q:かものはしプロジェクトは10周年を迎えられましたが、これからの5年10年の展望はいかがでしょうか?
インドに展開を始めていて、インドでのサポートを今後進めていきます。この問題は法律が変わったから、急に問題がなくなることもありえるので、常に状況を見ながら活動していきます。インドは自立心が強く、非常に優秀なインドの人たちがNGOでこの問題に取り組んでいるので、現地の人たちをサポートしていきます。ただインドは土地が広いので都市によっては全くこの問題に取り組んでいない場所もある。それで、その団体の活動の支部を作って、団体のサポートをしています。
Q:NPOの運営の議論として、ある意味いい評価でもありますが、「かものはしプロジェクトの活動は村田さんしかできなかったですね」とか「これからも村田さんにしかできないことですね」と言われたらどうでしょうか?属人的になりますが...
「売られる子どもの問題」防止の活動に関しての想いが一番強いのは私なので、想いを伝えるのは私が一番得意かもしれません。実際に出会ったタイやカンボジアの子どもたちとの出会いが、10年の活動を継続する原動力になっています。でも、貧困削減や雇用創出は私がいなくてもできると思います。
Q:中高生・大学生に伝えたいことは?
留学したり旅に出たりするのは見聞を広げられるので、自分の人生を豊かにします。日本では、世の中の仕組みは一番数が多い人向けにレールが作られているので、そのレールから外れると"生きにくさ"はあるかもしれません。でも外れたとしても自分がしっかりしていれば、自分がやりたいことができ、遠回りしても結局近づいていることもあります。
私の場合は、就職を全くせずに団体を立ち上げ、10年やってきています。ちょっと"ふつう"とは違う。大学を卒業した時点で社会からこぼれおちた感覚は、正直ありましたね。例えば当時は、クレジットカードが作れないとか身分証明書がなくなってしまうとか・・・。これまではフェリス女学院大学の村田だったが、会社に入らなかったら○○会社の○○というような身分証明書がない。社会から認められていない存在なんだと感じました。
また、保険・税金の仕組みが全然わからず、年金は払い続けながら、103万以上稼げなくて、アルバイトという状態で働いていました。団体設立当初は月3万円くらいで暮らしていました。金銭的にも非常にきつく、親の扶養に入ってなかったら、医者にもかかれない状態でした。
その時にやっぱりメインストリームにいた方が安全なんだ、だから敷いたレールの上を歩めば良かったと後悔しました。そんな中、私の周りには「類は友を呼ぶ」で不思議なキャリアを積んでいる人がたくさんいた。イギリスで起業する人や、世界一周している人など色んな人がいました。そこで気づいたのは、キャリアは人それぞれで、生きにくさはあるけれど、自分さえしっかりしていればどんな状況でもやりたいことはできると思いました。
もともと高校生くらいの時は外務省で外交官になりたかった。受験を上手くできなかったので、そのキャリアは遠いなぁと思いました。でも「国際協力」の仕事は今まさにドンピシャでできている。外交官になることだけが「国際協力」に関わる方法ではないと思います。確かに肩書きとか組織に入れるとかとは違うけれど、自分なりに専門性や力があればやりたいことはできると思います。
Q:今お聞きしていて思ったことは、人材育成のプロジェクトを一般企業と協業されていますね。つまり、既存の企業も「かものはしプロジェクト」を認めてしまっていて面白い。メインストリームから離れているようにみえて向こうからもアプローチがあって、一緒にできることがないかというのが今のステージですね?
余りにも外れちゃったという感覚が、卒業した後、強かったのです。でも努力をしていって本当にどうしたら子どもたちが助かるのかとか国際協力はどうしていくべきか考えていました。地道にやって力をつけていって、いろんな人からサポートしてもらえるようになりました。そして資金も集まるようになりました。カンボジアで職業訓練センターをやって、警察支援もやって積み重ねていった結果、何が起きているかというと周りに仲間が増えていて、私がやりたかったことに近づいています。さらにやり方は沢山あるので、決まったやり方だけではないことに気づきました。
Q:JGAPでエッセイを書いている学生のひとりも実は「かものはしプロジェクト」でインターンをして鍛えられて、その後さまざまな活躍をしています。最近スタッフとかで"ギャップイヤー"ということばを聞くことはありますか?
周りから聞くことはあります。秋入学のこととか。今このインタビューの窓口をしてくれた彼女はギャップイヤー中で、休学してインターンしています(笑)。
Q:大学卒業しても仕事に就かない・就けない人が10万人も存在する現実。そんな中で、社会体験・就業体験というギャップイヤーの概念が、日本でも議題に上がってきた。高校から大学までの期間だけでなくて、大学卒業後の就職・起業も充実した時間がもてるように創っていこうという仕組み提言だと言えます。
すごく伝えたいのは中学・高校・大学受験とか就活で失敗したと思ったら、人生が終わったと思ってしまう人が多い。私も大学受験が上手くいかなくて「あ、もうこれで人生終わった」と思いました。それに親の反対で浪人が出来なかった。でも結果的にはそれでよかった。大学に入学後、結構努力したので成績もそれなりによかったです。そして大学で弓削先生に出会っていろんなチャンスをもらえました。大学入ってすぐにノーベル平和賞を受賞したジョディ・ウィリアムズ氏が来校して講演された時に、学生代表スピーチに選ばれたんです。それは周りの人たちが活動しているからと推薦してくれました。2年生で世界会議にも参加出来ました。メインストリームから外れてしまったけれども、努力次第で自分の道は拓けるし、やりたいと思った勉強が出来て、突き進むことが出来るし、新しい道は拓けたんです。人間ってどこで努力するかだけなので、私の場合は、大学に入ってから努力したというだけです。それだけで人生が終わるわけではないから、そこで上手くいかなかったといって投げ出さないでほしい。そこから先の道は努力したら絶対に拓けるということを伝えたい。
Q:それぞれの人生だから、上手くいかなかったと自分で簡単に、また勝手に決めつけてほしくないですね。
私たちの親の世代はいい大学に入ったらそれで安泰だと思っている人が多いかもしれませんが、今の世の中はそうではなくなっていると思います。コミュニケーション力があるか、モチベーションがあるかとかで変わってきます。時代は日々変わっています。
"落ち着いた強い炎を絶やさず保てる人"
インタビューの随所で、村田さんの感性を感じる読者は多いことだろう。
中学生の時に偶然見た、池上彰さんの週刊こどもニュースで「国境なき医師団」の存在を知り、「国際協力」に興味を持つところ。1万円で同じ年の子がタイやカンボジアでは学校に通えると話を聞き、自分のお小遣い数ヶ月分で途上国では学校に通える対価であることを知り、「私でも支援は出来る!」と自分の問題に落とし込めるところ。「少女が売られた金額が1万円。日本で1万円といえば、ワンピース1枚我慢したら助けられた金額」という発想と表現。
普通の大学生は、こんな途上国の現状を知っても、そのときは心を痛めても、心に引っかかっても、その解決のために人生を賭ける事業を興すところまではいかないだろう。それは、"瞬間に燃え上がり強いが持続しない炎"でもなければ、ろうそくのように"持続性はあるものの風が強ければ消えてしまう弱い炎"でもない。"強くて、持続する炎"だ。村田さんのギャップイヤーは、大学4年の4月〜5月のカンボジアでのインターンで、概念でいうと「ショート・ギャップ」だろう。その時期、40団体ほどのNGOを廻ったという。それで、卒業後の自分の進路に腹をくくり、かものはしのマネジメントや方向性を確認した時期だ。
「かものはしプロジェクト」は、村田さんの言葉を借りれば、多くの人に支えられた10年だという。村田さんの著書「いくつもの壁にぶつかりながら」に、"最初のオフィス"について触れられている箇所がある。「今は渋谷だが、最初は一軒家の一室。お金がないので、粗大ゴミ置き場から拾ってきた机を使っていた。事務所で夜遅くまで仕事するときも外食なんてもってのほか。みんなで鍋を作って食べた。」
これを読んでも、村田さんの無謀とも思える「最初の勇気ある一歩」なくして、かものはしは今日生まれ得なかったことも事実だろう。社会を変えるのに、「最初の一歩」である強い想いと勇気と決断、これほど大事なものはないと今更ながら唸ってしまった。(砂)
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(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
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Q:高校卒業後、何故日本でギャップイヤーを取ろうと思ったのですか?
最初大学でスペイン語を勉強しようと思っていました。高校でも4年間勉強したこともあって・・。ギャップイヤーの説明会があって、言語の上達のためにスペイン語を話す国を調べたら、あまり興味を持てなかったんです。言葉に興味があっただけだったんですね。地域としては、アジアに興味がありました。それで、まず中国を調べました。それから、いろいろ調べて日本に興味を持ちました。特に日本のポップカルチャーがいいなぁと思って日本に行きたいと思いました(笑)。日本でギャップイヤーするなら、スペイン語じゃなくて、日本語の勉強をしなければと思いました。英国のAレベル資格試験の1年生の時に決めました。17歳の時です。
Q:前のブリティッシュ・カウンシルの代表だったジェイスン・ジェームスさんがケンブリッジ大学に入学した80年代は、高校卒業後、翌年大学入学するまで16ヵ月あったと言っていました。それで、ほとんどギャップイヤーを取っていたと・・・。
今は、高校で試験が終わって、6月〜8月の間はAレベルの資格結果が出てないので、厳密にいうと"休み"じゃない。休みなんですけど、ちゅうぶらりんのペンディングの状態の期間ができて、皆悩んでいます。だから、その期間は旅行とかはしてないですよ(笑)。
Q:日本の受け入れ先はどうやって探したのですか?
ネット検索で'Japan''Gap Year'と入れて探しました(笑)。いろんな団体が出てきたのですが、そこで英国のギャップイヤー支援機関である非営利のラティチュード(Lattitude)が僕がやりたいことにあっていました。
Q:昨年来Lattitudeの代表とは情報交換をやっていました。日本だと日赤病院とか受け入れてくれますよね。
僕が応募したのは、子供の世話をするのに興味を持っていたので、保育園(愛知県西尾市)でした。
Q:西尾市にはどのくらいの期間いたのですか?
9月から2月までの半年です。保育園だけではなくて、週2回は、宿泊していた老人ホームで介護補助のボランティアをしていました。
Q:西尾市にいてよかった出来事は何ですか?
子供たちと一緒に勉強したこと、日本の四季や祭を経験できたことです。
Q:日本に「肌合いが合う」ということばがありますが、それはそんな感じでしょうか?
今でもたまにボランティアに行くほど、気に入ったのです。日本のポップカルチャーも素敵ですし・・。
Q:ポップカルチャーって、もう少し具体的にいうと?
ロック、ビジュアル系が好きでした。ラルクとか...。外国で日本を知ってる人の中で、知られています。17歳の時はかっこいいと思いました(笑)。
イギリスにいる時はサブカルチャーとかもCoolだと思っていましたが、日本に来てそうじゃないこともあることに気がつきましたが・・・(笑)。
Q:西尾市にいる時はホームステイですか?
僕は、老人ホームの2階の部屋にずっと泊まっていました。もう1人は保育園、あと2人は病院です。そして、彼らは病院でベッドメイキングや清掃などのボランティアをしていました。
Q:日本の何が気に入ったのですか?
一番気に入ったのは"人"です。やさしくてよかったです。しかも安全で住みやすかった。日本語を勉強するなら、このまま日本で勉強した方がいいとその時思いました。
Q:英語も教えていましたか?
スタッフとかには、定期的に教えていましたね。
Q:英国の大学は決まっていましたよね(笑)?
デファード・エントリー(Deferred Entry、大学入学延期制度)をしていました。シェフィールド大学(The University of Sheffield)日本研究学科に決まっていました。
Q:西尾市で半年ギャップイヤーを堪能し、そのまま日本に、それともいったん英国に帰国されたのですか?
3月に帰国し、ICUに9月入学するまで自由な時間があったので、ロンドンにある日系旅行会社で、またまたギャップイヤーでインターンシップをしていました。父が家にいるとよくない、ニートになるといわれていましたから(笑)。
Q:2004年当時の英国技能省(現・教育省)がロンドン大学に「Gap Yearとは何か?」の研究委託をしていますが、ギャップイヤーは一見ニートと間違えられると報告書にも書いてあります。
そういう意味では、大学入学延期制度があったので、安心して自由にできたと思います。
Q:本来英国の大学が決まっていて、日系旅行会社でインターンをして、結局英国の決まっている大学に行かなかったのですか?
西尾市にいる頃に日本にもっといたいと思っていました。一緒にギャップイヤーをしている友達が、日本にも「国際」の大学がある。インターネットで「国際大学」で検索したら、'ICU'=国際キリスト教大学が出てきたんです(笑)。
Q:イギリスに帰った時には、ICUに入ろうと決めていたんですか?
ICUに入試試験を申し込んだのは2007年1月、つまり日本にいる時でした。母と相談してエントリーしました。実は僕は一人っ子で、最初は「寂しい」と言われ、当然反対されました。母にはICUを卒業したら、大学資格になるかは確認するよう釘を刺されました(笑)。学位がちゃんと取得できる大学だからと説得したら、その後は両親とも応援してくれました。イギリスに帰った1週間後に、ICUに合格したのがわかりました。
Q:ICUも4月入学からですよね。
外国人のためには、当時から9月入学がありました。
Q:イギリスの大学は入学をキャンセルされると学費も入らないし、困るのではないですか(笑)?
いいえ、Deferred Entry(入学延期制度)で僕を失ったけれども、他の優秀な人が入ったはず(笑)。
Q:ところで、ICUでの卒論も、現在の大学院同様日本研究ですよね?ちなみに論文のタイトルは?
今日オックスフォード大学大学院の修論を出したばかりで、だいたい同じようなテーマなんで、まだ頭の中にありますよ(笑)。大学ではチャールズ・ワーグマンという人についてです。日本の明治維新に、ロンドン生まれの新聞記者が横浜居留地で暮らしていました。当時、風刺画の雑誌を出した人です。彼の目から見た明治維新について論文を書きました。今の修論も同じようなテーマで、彼だけじゃなくて日本人の記者や、作家の視点も拡張させて、明治維新について書きました。
Q:ICUでは4年間三鷹の学寮に入り、2011年6月に卒業された。そして2011年10月オックスフォード大学に入学され、専攻も日本研究ですが、同じ学年に何人ぐらいいるんですか?入試問題はどのようなものでしたか?
15人くらいです。自分が研究したいテーマについてのエッセイ、今までの論文の抜粋2稿、そして履歴書でした。
Q:日本の総合商社に内定しているんですね。就職活動はどんな感じだったのですか?
会社の説明会が今年5月に大学内であって、説明したのは偶然ICUの卒業生でした。縁を感じましたね。日本人ですが、彼のキャリアを聞いて、商社(SHOSYA)ならいろんな国や地域で働けるし、自分の経験を生かせると思っていいなと思いました。
Q:修士の1年生で決まるのは早いですね。
僕のコースであれば1年で就職準備はしますが、実は、最初は博士課程まで行きたいと思っていました。
Q:日本研究は1年と2年のコースがあるんですね。
そうです。
Q:まだ先ですが、キャリアチェンジは考えていますか?
5年10年は働いて、その後、博士課程まで行って、大学で教えるとか?大使館に行くか?まだ先はわかりませんが、学術研究をするにも、働く経験、ビジネス経験があったほうがいいと思います。
Q:イギリスの場合、学部内でギャップイヤーのために、休学する人はあまりいないですね?
ギャップイヤーは普通、大学入学前か卒業後のタイミングですね。「ショート・ギャップイヤー」という概念もあり、休学なしに長い夏休みのボランティア、インターンシップとかの短期間のギャップイヤーはあります。学部内で休学してギャップイヤーというのは、特殊な語学習得のため当該国へというケースなどは考えられますが・・・。
Q:先程のロンドン大学への委託研究でも、イギリス人のパーセプションは「3ヶ月〜2年」だそうです。インターンでも親元から離れるとか教員がいないというのはギャップイヤーですよね。日本は「大学入学延期制度」がないので、大学生になってからイギリスのギャップイヤーは魅力的と気づいて休学する。中国もそうです。大学に入ってからか、就職してから3年くらいしてからギャップイヤーを取る。日本でギャップイヤーのカルチャーを創るには「大学入学延期制度」というシステムを導入するのがよいと考えています。
僕もディファード・エントリーがなかったら、今の自分はないですね(笑)。
Q:8・9月と日本のブリティッシュ・カウンシルでインターンをされていましたが、どんな仕事をしていましたか?
広報、翻訳、イベントの運営、Webの更新、Exchange Programを増やすための奨学金企画などです。
Q:ギャップイヤーを取ると理数系の能力が落ちるという懸念を持つ人がいますが、どう思いますか?
結構困ったほうですね(笑)。今でも数学は勉強しています。日本語は上達しましたが、数学は・・。ある意味トレード・オフで、両立が難しいこともありますね。バランスを取るために、自分で意識して、特にアカウンティング、数学の勉強をしています。
Q:最後に、ギャップイヤーをやってよかったこと、そして、概念を知らない生徒や学生たちに向けて、注意することも教えてください。
注意することは僕の友達にいるんですが、何もしない、ゲームばかりやってる人がいる。イギリスではタイとかに旅行してドラッグをやる人もいる。日本でも同様で、だから人によります。あまり自由だとよくない人もいます。ギャップイヤーを風刺した動画「Gap Yah(ギャップイヤーをする上流階級の子弟)」だってあるんです。いろんな国に行って、飲んだり吐いたりしているだけ、そんな懸念もあります。だから問われるのは、自分に対する規律で、計画性と意志の強さだと思います。
よかったことはやはり"壁に囲まれた教室"ではなく、生身の世界や外に出て経験できたこと。日本語を勉強したというよりも、日本そのものを経験できた。歴史を現地に行って勉強できました。修論で明治維新の横浜居留地の最初に日本に来た外国人たちのことを書いたのは、自分がICUにいた時に感じていたことが近いからだと思います。何故彼らが日本に来たかに興味を持ち、19世紀の外国人と同じような考え方、感じ方がわかりました。僕がイギリスで勉強していたら、こんなことはわからなかったことでしょう。日本に来たからこそ、出会いもあり、勉強も研究もできました。ほんとに、ギャップイヤーを通じて人生が変わりました。
ひとことで言うと、さわやかな好青年。日本を愛し、多様な価値観を理解し、自分の意見やモノの見方を正確な日本語で伝えることができるのだから、日本のグローバル企業が放っておくはずがないとまず思った。ギャップイヤーは万能薬ではないだろう。しかし、ウォレン・スタニスロースさんは自らの経験から目をキラキラさせて言った、「日本でのギャップイヤーで、人生が変わりました」。
日本にも半年なり1年なりの「大学入学延期制度」があれば、過酷な受験をした希望する高校卒業生が、大学入学前に安心して自分を見つめ直したり、大学で何を学ぶかを整理したり、将来のキャリア形成に役立つ期間ができる。ギャップイヤーは親元・教員から離れた非日常化での社会体験(ボランティア・課外の国内外留学等)・就業体験(インターン等)のことで、オトナへの大切な助走期間でもある。先進国のギャップイヤー経験者の中退率低下やバーンアウトの防止効果、大学入学後の修学能力・就業力の向上、リーダーシップ・社会課題克服能力などを考え合わせると、日本も早急に、人材育成の視座から、ギャップイヤーを取得できる環境整備を産官学民の各セクターは協力して構築するべきだとあらためて感じた。
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(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
]]>Q:高校は中高一貫に行かれていたんですか?
いいえ。埼玉県の川越女子高校という公立の学校です。
Q:それでAFSを知ったのは高1のときですか?
そうですね。両親がAFSを知っていて。草の根の高校留学で世界平和を目指す団体で、世界中に支部があります。高2の3学期から1年間オーストラリアに留学しました。学校が1月から始まって12月までいました。南半球なので1月は夏でした。
Q:なるほど。それで1年行かれて戻ってきて、単位認定とかなかったのですか?
そう、たぶん学校と交渉すればそういうのもあったと思うんですが、でも私はもう帰ってきたら高3の3学期だったので、受験は無理だなと思って。それで私は1回ダブって、高校4年行ってるんです。それこそギャップイヤーですよね。
Q:ところで、オーストラリアの高校で2度転校されたというのは、どうしてなんですか?
実はそんなに珍しいことではないのですが、ホストファミリーとあまり合わなくて、それで結局引越しすることになり、まず転校しました。ところが今度は転校した先の学校とあまり合わなくて、それでカウンセラーの人に相談して合いそうな学校を紹介してもらいました。AFSは非常にサポート体制が手厚くて、ボランティアのカウンセラーが2人ついて、いつでも相談できるようになっています。とはいえ、当時は非常に悩みました。いろいろ世話してもらったのになんか合わないとか言うのもすごく気が引けて・・・。英語も最初はそんなに達者じゃなかったので、うまく表現もできなかったですし・・・。17才の自分にはかなり大きな負荷でした。
Q:ということは、オーストラリアで高校は1年で3校行かれたということですか?
そうなんです、3つ行きました。
Q:それで、非常にセンシティブなお話だと思うんですけれども、人種差別のようなものを感じられて、ショックを受けたとか。それは、どんなものだったのでしょうか?
オーストラリアは移民が多い国で、アジア系も多いんです。学校にもよるんですけど、いろんな人種がいて、人種関係なくすごく仲がいい学校もあれば、人種ごとに固まっちゃってみたいなところもあります。私が2つ目に行った学校がそんな感じの学校ですごく固まっていて。でも日本人はいなくて、私は学校で1人だったんですよ。でも見た目だけじゃわからないじゃないですか。だいたい韓国人か中国人だと思われていて、それでアジア系だからと一くくりにされ、その雰囲気がツラくて・・・。散々悩んだあげく、ホストファミリーとカウンセラーにそれを打ち明けて、別の学校を紹介してもらって転校しました。3校目は生徒数が少ないこじんまりした学校で、AFS帰国組の子も何人かいて留学生に理解のある学校でした。最初に私のお世話係みたいな感じで学級委員長みたいな子が付いてくれたんですけど、その子は確かご両親がレバノンで、その子のグループにはいろんな人種の子がいて、スリランカ人とか、ギリシャ人とか、ヨーロッパ系の白人の子もいたりとかして。最初に聞かれたんですよ、「アジア系のグループ行く?私のグループに来る?」みたいな。それで「え、ちょっとよくわかんない」って言って、保留にしました。私は留学生って立場だったので、みんな興味をもって話しかけてきてくれたりして、別にどこのグループにとかいうよりはいろんな子と話すようにしようと思って。それで特定のグループに入らないようにしました。結局その学校でもやっぱり人種によってグループが分かれていたんですよ・・・。しかもグループ間のコミュニケーションってほとんどなくて。
でも、そこに私が入るっていうのはなんか意味があるんじゃないかなって。それで最初のうちはもう見ためだけでアジア系って差別されるっていう経験をして・・・。それは街を歩いていてもそうなんですけど。でもその当時はまだ日本人は金持ちで一目置かれている?というか、また1990年ぐらいのバブルがはじけたぐらいの時で、日本人っていうと「あっ」みたいな、ちょっと見方が変わったりとかして、でもなんかすごいそういうのが嫌だなと思っていました。それで、この学校に私が留学生として来た意味は、そういう「人種の垣根」みたいなものを崩すとかそういう役割があるんじゃないかなと考えて、それで人種関係なくいろんな人と関わるようにしました。ほんの数ヶ月のことでしたが、私が帰国するころに、気が付いたらそういうグループの境界線がうすくなっていたんですよ。本当にミックスされて、例えばよく話すようになった韓国系の子がいたんですけど、一方で、ベネッサっていう白人のヨーロッパ系の子とも仲良くなって、家にも遊びにいかせてもらったりしたんですけど、私つながりでその韓国系の子と白人の子が普通に親しげに話すようになったりとか。それまでは全然、口をきかなかった人たちがそういうふうに交流するようになるのを目の当たりにして。なんかそういう"触媒"的な役割を果たせたんじゃないかと。私自身も、1年間オーストラリアにいて、ただ自分のために異文化体験をするっていうだけでは意味がないなというか、わざわざAFSのミッションを背負って派遣されてきた意味がないってずうっと思っていて。私費留学ならいいと思いますが、AFSという世界的な組織で世界平和っていうミッションを掲げてやっているその一員として派遣されたからには何か残さなきゃいけないというような、そういう使命感みたいなプレッシャーがあったんです。それで、高校生なりに、その世界平和にどうやって貢献できるだろうみたいな、いろいろ考えていて。でも最初はすごく挫折感がありました。自分が普通に人種差別される側として存在していて、そんななか自分に何ができるんだろうって途方にくれて。帰国が近づくにつれて、私まだ何も成し遂げてないってプレッシャーにさいなまれました。でも最後の最後で、自分の通っていた学校でそういう変化が起こせたってことで、これで帰れるなって、でもほんと帰る直前でしたけどね、それを実感できたのは。
Q:そこで達成感が生まれたということですか?
そうですね...いや、そんな清々しいものではなく...じんわりと、ですけど。世界的にみたら本当に小さな変化で。そして、大人になってから、そんなことごときで満足してちゃダメだと思い至りましたが。
Q:それで帰国されて高2を2回やったということですよね?
そうですね、一つ下の学年の2年生の3学期に復学です。
Q:その後、高3ということなんですけども、そのときに大学どうしようかって話に当然なりますよね。そこでどんな感じで東大・文3を受験ってことになったのでしょうか?
私はオーストラリアにいる間は全く勉強する余裕がなくて。英語は一生懸命やりましたが、古文とか漢文とか理科とか全く忘れました。向こうは選択授業とかで本当に楽しんでしまったので、ちょっと日本の受験勉強にはついていけず。あと1年しかないから絞らないと間に合わないなと。いくつも受験すると試験の形態や内容が全然ちがうので志望校を1つに絞ってそれでそこの過去問を研究してそれでいこうと思って。まずは東大を調べたら、暗記をあんまりしなくていいということがわかった(笑)。年号とかじゃなく、大体の流れを把握していて大事なポイントが書けていればいい。それでほとんど記述の問題だから、これはいいなと。オーストラリアの高校ではいわゆる日本の穴埋め試験みたいなものは一切なくて、とにかくエッセイという小論文みたいなものをいっぱい書く。それが自分に合うなとも思っていました。暗記物で全部覚えて記号で答えるみたいなはすごくナンセンスだとずっと思っていて、こういう自分の頭で考えて調べて書くみたいなことをオーストラリアでも一杯やってきたので、たまたま東大の入試スタイルが似ていてイイと思いました。
Q:全く知らない人のブログを見ていたら、その人は大学生でアメリカ人の友人がいて、日本の大学の入試を見せてくれって言って国語がどんなものかってことで簡単に訳したんですよね。そうしたらそのアメリカ人がえらい驚いて「えっ、今、君何言った?」と。つまり「この筆者はどう考えているか次のうちから1つ選べって、そんな質問あるのか?」と。著者じゃなく、自分はどう思うかっていう質問じゃないのかと念を押されたという文化の違いのお話です(笑)。
でも受験って結局採点の効率の問題なんですよね。どう思うかっていくつか選択肢を用意しといて答えさせるだけならマークシートで採点できるけど、どう思うかを書かれたものを採点するのって1個1個手作業だから、その受験の手間を考えたら。教員がどれだけ負担を負えるかってことになるんでしょうか。
Q:それで3年生から文学部美学芸術学科というところに進学されたわけですけど、例えばそのときにキャリアのイメージって芽生えたんでしょうか?
学部のときは本当に漠然としていて、何が自分の職業になるのかが見えていなくて、とにかく自分の興味のある方向に勉強しに行ったという感じです。演劇だったり映画だったりとかそういう人間の体を使った芸術に興味を持って、だから絵画とか写真とかよりも、まあそれも好きでしたけど、その人間が動いて体を動かして表現するっていう分野にすごく興味がありました。蓮實重彦先生が学長になったころだったんですけど、映画の授業を取ったり、自分自身でも踊りをやったりで、でもそれが何の職業につながるのかっていうのは全く考えていなかったというか、いつかはつながったらいいなくらいでした。
Q:でも当時から、「つながったらいいな」っていうのはやっぱり思われていたんですね。
漠然とですね。でも若いとこう...危機感がないじゃないですか。今みたいにインターン制度とかもなかったですし、わりとみんな、そんなに職業に対しての危機感っていうのは周り見ていてもあんまりなかったように思うんですよね。「今を生きる」、みたいな感じで。そう、キャリア教育も無かったですから。
Q:4年の頃(1995年)ですか、NYに1か月行ってダンスやヨガのレッスンを受けられたということですが、その時期って、世の中的には「就活」の時期では?
普通は、そうみたいですね。でもあの頃ってそれこそ就職氷河期の始まりなんですよ。でもバブルの"残り香"みたいなのもあって、だからすごい二極化した時代ですよね。いわゆる一流企業に勤めている友人はいます。一方、(ホリエモンで有名な)堀江貴文さんが1つ上の先輩なんですが、そうやって起業する人もいて。「就職したくないなぁ」っていうのが私の周りの友達の口癖でした(笑)。ちなみに、もちろん当時は"ホリエモン"じゃなくて、普通に堀江さんって呼ばれていました。
Q:"ホリエモン"とは当時お話されたことあるんですか?
東大は語学でクラス分けされるんですけど、1つ上の先輩が下のクラスを面倒を見るみたいな伝統があって。私はスペイン語クラスで、上クラスの人が新入生歓迎合宿みたいなことをしてくれるんですけど、その合宿の世話人をしてくれたメンバーに堀江さんもいました。だから、ほんとに入学して最初に会った人ぐらいな感じです。ゼミも文化人類学の船曳建夫先生っていう、今でも堀江さんと交流がある有名な先生ですけど、そのゼミでも一緒でした。堀江さんがオンザエッジっていう会社を立ち上げたのも割と身近で、私の友達もライターとして関わっていたり。フリーターをしながら会社をたちあげるとか、友達が立ち上げた会社に参画するとか、そんな友達が何人もいたので、就職しない生き方もありなんだという認識でした。だから、その新卒一括採用の道からは完全に私もその時点で外れたんですけど、私は研究者になるのかなって漠然と考えていました。モラトリアムとも言えますが、自分の興味のある大学院にはいって、そういう体のことをもっと追究していきたいと真面目に考えていました。それが職業になるとしたらどうなのかなって思って、そうするとやっぱり研究者になって、身体運動科学を専攻してそういう分野で研究者になれば、例えば大学の体育教師になれないかなって。
Q:それで94年4月から生身の身体を研究したいということで大学院に進学されたということですね。
そうなんです。美学芸術学は完全に哲学だったので、手で触れることができるようなという意味でのリアルな身体を扱う分野に行ってみたくて。
Q:ところが、縁あって妊娠、出産を経験されるという展開に?
ここが、いきなり飛躍してるんですよね(笑)。
Q:それは、修士の2年のときですか。
修士の2年ですね、修論書かなければいけない時だったんですけど。でも今思うと大学院の入試までに解剖学とか運動生理学とかバイオメカニクスとかスポーツ科学とか、ほぼ独学で全部勉強して、その期間に学んだことが、実は今の仕事にもすごく役立っています。大学院に入ってからのことは、授業よりも、研究室の実験や測定のお手伝いが印象に残っています。たとえば最大酸素摂取量を調べる設備があって、測定にきたスポーツ選手の呼気を袋に集めてそれを二酸化酸素と酸素を分析するみたいなことをやっていました。私はその袋を密閉して、その分析器のところまで運んで、呼気が漏れないようにつないで、とか。そういうデータをとるための測定はすごく勉強になりました。一方、自分自身は、研究ってなんのためにやるんだっけ?ということが見えなくなってしまって。産後の心身について日夜研究している今と違って、その当時はそこまで強い問題意識や現場があるわけじゃなかったですから、「研究」そのものに意味を見いだせなくなってしまったんですね。それがストレスで盲腸になっちゃったぐらいです。盲腸になって腹膜炎も併発して1か月ぐらい入院したんですけど、盲腸で1か月入院するって普通じゃないですよね(笑)。
Q:ないですよ、盲腸なら普通1週間の世界ですよね。
ひどい腹膜炎も併発して。自分のやりたくないことを無理してやるとこうやって身体に出てしまうんだと思い知りました。それでもう大学院をやめてフリーターになろうかと思っていたんです。そしたら、私の指導教官が私のくすぶっているのを見て、ギリシャでオリンピックスタディという研修会があって、日本からも1人行ける枠があるんだけど、英語しゃべれるならと声をかけてくださったんです。1か月ぐらいの合宿で、世界中からスポーツ科学をやっている大学院生が集まってきて、オリンピックについて学んだり自分の研究を発表したりしました。私も学部の卒論のテーマが身体論で、16世紀まで遡って西洋と東洋の身体論の比較みたいなことをして、そこでオリンピックがどう影響するかみたいなことも文献をたどって調べました。そういうのもあったので、東洋と西洋の身体の考え方を比較した研究を引っ提げて行ったんです。でも自分のなかでは、それが終わったら大学院は辞めるつもりでいました。向こうに早めに行って、結局3か月ぐらい滞在したんですけど、天気もいいし、完全に大学院のことは忘れてリハビリというかオフの状態でした。先生には申し訳なかったですが...。
Q:完全にオフな感じで・・・。
はい。本当に天気もよくてね、のんびりしたいところで。たまたまそこで出会った人がいて、それは全然オリンピックスタディとは全く関係ない人だったんです。たまたまいい感じになって、それで向こうで結婚して家族を持つってのもいいかなと思って・・・。
Q:ギリシャで出会いが?
この話をするたびに、ほんとに自分がもう嫌になるんですけど、今の自分だったら絶対にそんなことしないと断言できますけど、その当時は24歳でして、なんかその、ちょっと、自分の人生に行き詰まっていたところがあって、自暴自棄になっていたのは否めません。でも必死で考えて選択したつもりなんですよ当時の自分としては。
Q:チェンジをしたいような気持ちもちょうどあった頃なんでしょうね?
とらえどころのない身体の研究をするよりも、家族をもつとか、自分の身体をつかって出産するとか、そっちのほうがすごくリアルで手ごたえがあって、尊いことに思えてしまって。
Q:ちょっと、びっくりしたのが自宅で出産されたっていうことで、それは日本でですか?
そうです。
Q:普通は多くの人が病院(産婦人科)ですよね。これはあえて選んだんですか、それとも何かお考えがあってですか?
最初は病院に行きました。その頃、若くして子どものいる友達っていうのが数人いて、自宅出産とか助産院とか病院以外の選択肢を教えてくれて、いろいろ出産のスタイルについても勉強しました。私も"身体オタク"なので、人間の持っている力を最大限に発揮して赤ちゃんを産むというのを試してみたいというのもありました。ただ、自宅出産は危険も伴うので助産師さんがすごくその方の覚悟を試すようなところがあって、流行っているからとかオシャレだからとかの理由でこられちゃ困ると。最初に問い合わせの電話をかけたときに「なんで自宅で産みたいんですか」と厳しく問われました。もちろん、安全に産むために、食事、運動、体重管理、すべて頑張りました。もちろん、病院での妊婦検診にも定期的に通いました。
Q:女性の産後の大変さをまさに身をもって体感されたと思いますが、「産前と産後」の違いについては、「理論」としてもいろいろ研究もされたんですか?
そうですね。まず安全に産むためにやっぱり相当な体力づくりも必要ですし、あとはやっぱり栄養のことですとか、妊娠中に安産をするために妊婦がどうやって過ごさなきゃいけないのかとか、ほんとに日本語の文献以外にもフランス人が書いた水中出産の本とか、ミシェル・オダン博士という有名な先生がいるんですけど、それの英訳のバージョンとか、当時はAmazonなんてなかったので紀伊国屋に行って文献を探して、いろいろ読んで身体については、よく研究しました。ただそこですごくびっくりしたのが、「産後の情報」って全然ないんですよ。最初のうちは妊娠と出産のことにしか興味が向かないので、妊娠・出産のことを一杯読んでいたんですけど、産後になって気づいたのは、いろんな人の出産体験記とかはありますが、あと子育て体験記になってしまうんです。それでわたしがよく参照したのが、米国人のシーラ・キッツィンガーという女性が書いた「出産後の一年間(The year after childbirth)」という本です。ちゃんと分厚い本で全て網羅されていて、子育てのことだけじゃなくて本人の身体のことだったりとか、心のケアのことだったりとか、夫婦関係のことだったりとか、仕事のことだったりとかが網羅されている。イラストも大人っぽくて、ほんとそれだけが頼りみたいな感じで手元にいつも置いていました。なんで日本ではこういうのがないのかなと思いました。それが最初の問題意識。結局日本語の文献がないってことは、日本にそういう文化がないってことだから、いろんな人と話していても結局子どもを産むと、あとは子育ての話ばっかりなんですよね。それでなんか変だなっていう違和感を感じ始めたっていうのが、それが今の「産後ケア」の領域につながります。
Q:そこが、原点ですよね。自分で体感されて実際に研究もされて、「産後」ジャンルはやっぱりない。だけど、世の中的には絶対必要ですよねということでしょうか?
そうですね、必要ないならいいんですけど、自分も出産を経験して実感したのが、ほんとに出産って、身体にすごいダメージを与えるんです。みんな赤ちゃんが出てくるからおなかが軽くなって楽なんじゃないの?って勘違いする。でも、それは間違っているんです。あれだけ大きなものが出てくるから、関節が一回破壊されるようなもので。関節をつないでいる靭帯もやわらかくなって、関節もぐらぐらになります。だからまず出産後はうまく歩けないんです、ほんとに。あとは子宮から赤ちゃんが出てくるだけじゃなくて、胎盤という臓器がはがれて出てくるので、子宮の中が傷だらけなわけです。こんな大きな臓器が内臓からはがれて出てくるわけですから。
Q:表現が不謹慎かもしれませんが、なんかロケットの切り離しみたいな感じで、ドカーンといっちゃうみたいな・・・。
はい、人間の身体から内臓がはがれて出て来るって大変なことですよ。ひざをすりむくとそれだけでも痛いじゃないですか。あれだけの大きさの傷が、人間の身体の中にあるってなると相当なダメージです。だから本当におなかに力が入らないし、起き上がるのもしんどいし、眩暈(めまい)がするし。そんな状態で、本当に身体はぼろぼろになるんです。私はこういう仕事をしているから、そのときの記憶をリアルに覚えていて。覚えているのは、いつもいろんな人に吹聴しているからなんですけど、普通は、みんな忘れちゃうんです。この話をお子さんがいる人に結構話すんですけど、「身体ぼろぼろになるじゃないですか」って言うと「うーん、そういう人もいるみたいですね」っていうんですよ。「自分はそうじゃなかった」って言い張る人すらいます。
Q:たぶん、多くの女性は大変ゆえ忘れたいっていうのと、次は「育児」「子育て」の大変さにかまけて、興味関心が子供に向いてしまう?
そうなんです、みんな通ってきた道だからと、諦めてしまうような。だから余計にこの大変さや対策が伝承されないし、明るみに出てこないんですよ。だからみんな人知れず我慢して我慢して乗り切った人は、いいですけど、それをこじらせて鬱(うつ)になっちゃう人もいるし、夫婦仲が冷えきってしまう人もいる。虐待しちゃう人もいるし、やっぱり問題の温床なんですよ。
Q:ご主人との関係も変わってきますしね。
そうですね。パートナーとの関係は激変します。でもそれに向き合うだけの体力が産後にはないんですよ。それでうまくコミュニケーションがとれなくて、家庭がギスギスしてしまったり、というのはよくあります。でもそれが女性の産後の身体の回復が足りてないからなんだってみんな思い当たらなくて、結局子どもに向かう虐待は本人の心の弱さのせいだとか、鬱もその人の気質のせいだとかまわりの環境のせいだとか言われる。出産後の体がすごくダメージを受けていて、それがちゃんとケアされてないから心にも出てしまうみたいな発想にいかないですよね。
Q:心と体ってリンクしてるんだけど、あえて分離して考えがちというか・・・。
それは実感がないからっていうのもあると思いますけど。でも、経験者、当事者からは「そうそう!そうなんです!」って共感してもらえることが多い。そういう人はマドレボニータのプログラムを知って「こういうのが欲しかった」と言ってくださいます。
Q:なるほど。それでだんだんこうビジネス的なところに進展してきます。1998年の9月に立ち上げられましたが、当時まだ産後6ヶ月ですよね、これって大変じゃないですか?
最初は、出産後はギリシャで暮らそうと思っていたのですが、産んでみたらすごく大変で、生きているだけで大変だったので、これは飛行機に乗ってギリシャに移り住むとか、今住んでいるところを引き払うとか現実的に本当に無理でした。また、子どもが乳児の一番大変な時期にパートナーと協力して生活を送ることができなかったことは、その後のパートナーシップに決定的な打撃を与えることになります。それも「産後が大事」だと主張する大きな理由のひとつなんですが。そんなわけで当面は日本で暮らしていくことにしました。
でも日本で暮らしていくには、とにかく新卒一括採用の道からは外れてしまったわけで、ここが日本のひずみだと思うんですけど、新卒一括採用のレールからいったん外れるとオフィシャルには全く道がない。乳児がいるので5時半には帰りたいという条件で働きたい人に、働き口なんて全くないんです。
Q:これまでやってきたことが評価される道が閉ざされる。
それは新卒でも同じかもしれないですね。まあ百歩譲って子どもがいなければ契約とかで夜遅くまでなんでもします!みたいな感じで雇ってもらえたかもしれなかったですが・・・。当時は育児休業法も整備されてなかったですし、あっても正社員にのみ適用される制度ですから、フリーターには全く縁のない制度でした。そう考えると結局勤め先がないので、自分でなんとかやってくしかないじゃないですか。それで自分で自活してやってくしかないなと思って「産後のボディケア&フィットネス教室」という教室を立ち上げました。これが本当にビジネスになっていけばいいなと思っていたんです。でも現実はそんな全然甘くなくてですね、とにかく集客ができない。知名度もない実績もない中で、何十人も一気に集客なんてできない。ほんと今でこそ受益者が3000人なんて言ってますが、年間3000人なんて夢のまた夢で、1回のレッスンに5人集まればいいようなものでした。でも、それじゃ全然食べていけないですから。それで結局9月に始めて、現実的にやっぱり無理だなと思って、98年12月にいったん閉じました。
Q:99年1月以降、一旦契約社員として働かれているんですね。
そうなんです。もう無理なので、父の友人に出版社を紹介していただき、でもやっぱり10時から5時半までしか働けないということもあるので、と言われて、本当はそういう理由ではいけないと思うんですけど、とりあえず3ヶ月間の試用期間は時給で働くことになりました。
Q:大学院のときにストレスを感じられて腹膜炎になられて、それと同じようなことが働いても起こったとか。
そこで正社員になれていたりすれば、そこで頑張れたかもしれないです。医療系の出版社で、毎日のように病院や大学病院の先生に電話して校正大丈夫ですかとかチェックしたりしていました。仕事自体はすごく面白かったのですが。5カ月目くらいから体調を崩してしまいました。声がでなくなって、電話もとれなくて迷惑かけました。
Q:今の仕事にも関連している仕事ですね。
そうです。ほかには病院の院内報や腰痛の冊子を作ったりしていました。私も解剖学や運動生理学の知識もあり、自分の関心にはある程度近い分野だったので、編集者としてもし正社員になっていたらそこで頑張っていく道もあったのかもしれません。
Q:大学・大学院で培った自分のスキルというか能力を活かせるということですね。
そうです。それで3ヶ月間の試用期間が終わって、4月から公立の保育園に入ることができたので、少し勤務時間も延ばすことができました。9時半から5時半というのが正規の時間いっぱい働けるようになったのですが、残業ができないという理由で、正社員にしてもらえませんでした。
Q:だから今そういう想いが、"ワークライフ・バランス"みたいなところに来ているんでしょうか?
そうですね、契約社員として働いていた頃は、9時半〜5時半、月曜から金曜までずっと働いてもだいたい16万円前後。社会保険にも入れないですし、ボーナスも出ない。その中から年金とか、国民健康保険とか、保育園代とかを払う。いわゆるワーキングプアー、そんな言葉は当時はなかったですけど、現実に経験しています。
派遣とか契約ってそういうことですよね。その分正社員がたくさんもらっている。同じ仕事していてもすごい格差が存在します。
正社員にしてもらえなかった時点で、ここで働き続けても未来がみえないと思って、最初は新たに正社員にしてくれる会社を探そうとしました。当時「とらばーゆ」とか駅の売店で売っていたのを覚えてます?
Q:リクルートの雑誌ですよね。
そう、「とらばーゆ」と「サリダ」。まだネットの時代じゃないので、売店で週2で出ていたんです。210円とかで売っていて、毎日のように今日は「サリダ」今日は「とらばーゆ」って感じでした。ただ、子持ちで正社員になれるような会社はなかなかないですよね。資格ももってないですし。
でも私も本気で全国チェーンのエステサロンが正社員を募集しているのをみて、現実的に応募を考えていました。身体に関係する仕事だし、実家の近くに引っ越して、3交代だから遅番のときは実家に子どもを預かってもらってとか、そこまでシミュレーションしていました。でも想像すればするほど、無理だなって。私がやりたかったことじゃ全然ないなと思って。それでちょっと発想を転換して、1カ月くらいしたら次はバイト雑誌に切り替えたんですよ。当時「フロムエー」と「an」が週に2回出ていました。毎日読んで休日に面接いったりして。時給も半分ぐらいになっちゃうけど、バイトをして週1回この教室を再開すればいいじゃんって思いつきました。
Q:それで、スポーツクラブで下積みをされていたというわけですね。
"バイト+教室"の2足のわらじで働いても、計算したら前の会社と結局稼ぎはさほど変わらない。時給は試用期間は750円からスタートで週5で働きました。今まで9時半5時半で働いていたときは保育園のお迎えがすごい遅くなってしまっていたので、もっと早くお迎えにいきたいというのもあり、休憩なしの9時〜15時のシフトにさせてもらいました。
Q:1日に休みなしの"通し"の肉体労働では、相当キツイのでは?
そうでもないです。たった6時間ですから。でもその後、3時上がりだと保育園のお迎えも早く行けますし、例えば3時から自分のバイト先のジムやスタジオでトレーニングして帰れたり、ためになる研修にも参加させてもらえたり、いい環境でした。前の会社だったら9時半から5時半まで全部仕事で自分の時間は一切ない。それなのに保育園のお迎えだってギリギリだし、ほんとに追われるような生活でした。
ところが、スポーツクラブだったら、シフトも融通がきくし、仕事がそのまま勉強になったし、子どもの保育園にも明るいうちにお迎えに行ける。子育ての時間も取れるし、それで大体ひと月に稼げる金額が8万円ぐらい。同じ時期に週1で教室を再開したんですけど、当時お月謝を1万円に設定して10人集まれば10万円。スタジオ代など経費引いて収入8万円。そうすると16万でしょ、そうすると出版社時代とそんなに変わらないんです。でもお教室は午前中だけだから午後いっぱいは自分の時間がとれる。その時間に書きものをしたり、セミナーに行ったりもできるし。
だから時間の使い方としては、同じ金額を稼げて、空いた時間に自己投資もできることになります。毎日毎日「お先に失礼します」って急いで会社を出て、ぎりぎりで走ってお迎えに行って、もうお友達は誰も残っていないところに最後のお迎えっていうのが、自分でも本当にいやで。それよりも、早めに5時とか5時半に迎えに行って他のお母さんとも喋れて、子どもたちが一緒に遊んでいる様子も見られる。もう1時間違うだけでも全然、保育園の様子が違うんですよ。
前の会社だって、保障があるわけでもない。だったら、同じく保障がないバイトでも、自己投資できて、生活を自分でデザインできるような生活がしたいと思って、その会社は辞めさせてもらいました。でも、紹介してもらった手前、本当に親には申し訳なかったです。理由はともかく半年で辞めてしまいましたから。
Q:01年が事業の始点で、今のマドレボニータが形成されていくわけですが、吉岡さんは株式会社でなく、"社会運動"としてのNPOを形態として選ばれた。そしてマドレボニータという素敵な組織名をつけられたわけですが、これは突如生まれたものなのか、それともスペイン語を大学のときに選択されたことと関係あるのでしょうか?
たまたまスペイン語の辞書がそこにあったんですけど(笑)。でも最初から「マドレボニータ」という名前を付けてはじめたわけじゃなくて、最初はほんとお教室があっただけでした。活動自体に名前が付いていたほうが紹介もしやすい、なんか屋号みたいなのないの?って言われたことがきっかけです。それを考え始めたのも、初めて2〜3年経ってから(笑)。
でもその活動の中で母親たちに出会っていく中で、やっぱりなんかこう日本の母親文化のいびつさというか、すごく違和感を感じていました。それは何かというと、母になった瞬間にみんな幼稚になってしまうというか。でそれは自分たちもそうだし周りもそうやって扱うっていうか。みんな「ママ」って呼ぶとか。
Q:"一人称"じゃないんですよね。「私は」っていうのが消えちゃって「○○ちゃんのママ」とか、「○○さんの奥さん」とか。
例えばテレビのニュースで母親たちのことを話題にするときは、ママって言わないじゃないですか。「○○県○○市の母親たちが集まってこういう活動をしています」とか。でも新聞ですら見出しには「○○ママ、~をスタート」とかやっちゃうんですよ、大手の新聞でも。マドレボニータでは、絶対にママという人称を使わないという価値観と行動規範は徹底して共有しています。
百歩譲って「母親」、本人たちに呼びかけるときは絶対に名前で呼ぶっていう、それは本当に厳しいコードがあるんですね私たちの中では。ママってすごい画数も少ないし、それこそ新聞記者とか編集者の人とかにしたら文字数食わない便利な言葉。産後ママとか、働くママ、在宅ママとか。私たちはそんな中、「産後の女性」って言い方をするんでけどわかりにくい。
Q:たしかに、「産後ママ」のほうが、頭の中にぱっとイメージが浮かぶ(笑)。
でもそこにみんな流されて、本人たちも人間としてのアイデンティティというよりは、母親としてのアイデンティティ一色になってしまって、自分のこともママって呼んでしまうし、人のこともママって呼んでしまうみたいな。それが日本人の母親たちを幼稚にしてしまっている一つの要因なんじゃないかなと思っています。中には、私みたいに甘んじたくないと思っている人もいるんじゃないかなと思って、そういう人に出会っていきたいなと思って、こういう活動を始めたという経緯もあります。名前を付けたときに甘い名前は嫌だなと。雑誌の見出しなんかを見ていくと、大体「○○ママ」とか、そういうのばっかりなんですよ、"元気ママ"とか。そういう甘ったるいフレーズを使いたくないなと、まずその頭があって、たまたまスペイン語の辞書が目について、こうパラパラやって母ってなんだっけって見たらマドレって出てきて。マドレっていう音はあんまり甘くなくていいなと。
Q:あと「産後白書2」が終わって3が発売ですよね?
3が出ました。
Q:その「産後白書」の意味ですね、白書にかける想いとか、お話ください。
ここが企業とNPOが違うところだと思うんですけど、それこそビジネス的にサービスを提供してそれでお客さんからお金を頂いてまわっていけばいいっていうならただのビジネスでいい。NPOの価値っていうのは、今まで社会的に必要とされているのに、なかったサービスを作って提供していくっていうところに意義がある。市場すらなかったところに作るわけだから、サービスだけでなく市場も作って行く。だから現場そのものが新しい。今まで誰も見たことがない現場を持っているっていうところが強みだと思うんです。その現場をただ回しているだけって本当にもったいないというか、すごい損失をしていると思うんです。だから新しい現場だから常に研究しなきゃいけないし、開拓しなきゃいけないし、検証しなきゃいけない。ほんとにこれでいいのかとかほんとにこの流れで正しいのかとか。それを研究室でやるのではなくて、現場に来てくれている母親や赤ちゃんたちの表情だったりリアクションだったりとか、その人たちが発してくれる言葉だったりとか、指摘し書いてくれる言葉だったりとか、そういうものから研究していく。だから、その現場を私たちはただ回しているだけじゃなくて研究しながらやっています。そうしていくと、すごい知見がたまっていく。それで「産後の現実ってこうなんですよ」とか「産後の女性には、この3つの柱が必要で・・・」とか、普遍性のある事実が見えて来る。でもそれをただ普遍的なんですよと言うだけだと信用してもらえないんです。特に女の人が言うと「女の人がこう元気にやってて、結構なことですね」みたいな感じで世間話になっちゃうんです。
いやいや、ほんと税金を投入するぐらい価値があることなんですよって言っても、ただ叫んでいるだけでは説得力がないですよね。当事者からは「そうなんですよ」って共感してもらえるんですけど、当事者じゃない人にはポカンとされてしまうので。やっぱりそれをちゃんとデータとして、目に見える形にしてそれを発表しなきゃいけないなと。それが「産後白書」第1弾でした。現場にいる私たちが、私たちのところに来てくれる母親たちの声や表情から肌感覚で感じとっていることを、ただ言葉で言ってもわからない。それじゃ、その人たちに実際に紙でアンケートとって実際に答えてもらって、それをデータとして蓄積して分析して、っていうことをやっていたんです。
実は膨大なデータが集まったのですが、収録されているのは、その中のほんとに厳選された3割ぐらいなんです、全く関心のない人にもわかってもらえるように、本当に必要なデータだけを凝縮して出したのが「産後白書」でした。でもそれを発行したことによって、当事者じゃない人たち、関心のなかった人たちにも興味をもってもらえたり、理解してもらえたりという効果がありました。
Q:おじいさんとおばあさんが買って、孫が生まれた方に配ったりっていうこともあったとか?
はい。当事者だけでなく、当事者の周囲に届いたのが大きな成果でしたね。マドレボニータには事業の1つめの柱として、当事者(産後女性)に教室を届けるという事業があります。それと同時にスケールアウト(事業の横展開)するために、教室で教えられるインストラクター養成と認定という事業があって。まぁ、この2つだけの事業だったらNPOじゃなくてもよいと思います。ただ私たちは3つ目の大事な柱として調査・研究・開発事業を掲げています。誰もチャレンジしてない現場から出てきた知見や問題に向き合い、そこを追究して世に問うていくというのはNPOの大事な役割だと思います。当事者へのサービス提供、スケールアウトのための指導者養成、自分達が扱っている分野の調査・研究・開発その3つの柱がそろった上で、それを応援してくれる会員さんがいます。
マドレボニータの会員制度は、賛助会員と正会員があり、賛助会員は募金感覚で細く長く応援というかたが多く、正会員の方々は、マドレボニータの活動やミッションだけでなく、その研究の部分にすごく共感してくださっているかたが多いです。NPOの会費としては年間2万5千円って結構高いと思うんですけど、「マドレジャーナルの最新号が読みたい」といって正会員になってくださるかたも多いです。
そうすると、例えばNECとの恊働事業であるワーキングマザーサロンのファシリテーターを募集しますっていったときに、正会員の中から募集するのですが、そうするとマドレボニータの文化をかなり深いところまで理解して価値観を共有しているかたが応募してくださるのでプロジェクトの進行もスムーズですし、なによりもパッションをもって応募してくれるファシリテーターが集まるのでプロジェクトが成功しないはずありません。会員さんは、ですから、「応援してくれる人たち」というだけでも充分なのですが、それ以上に、マドレボニータという文化を盛り上げて行くコミュニティのメンバーのようなかたもたくさんいらっしゃいます。
Q:そうですね、深く関与もしていただけるということですね。「産後白書」の2と3のコンテンツなり編集の違いってどうでしょうか?
「産後白書2」は当初はその名前にするかって実はすごい議論がありました。まず、ワーキンマザーサロンという長く続けている活動がありまして、そのサロンに参加してくださる方々に毎回アンケートをとっていたものを何かの形でまとめようということになりました。NECとの恊働事業だったので、まとめたものをつくる予算をNECさんからの協賛金に計上しました。そこはパート1と違うところです。
「産後白書」パート1のときはほとんど自己資金と、あとは社会起業支援のSVP東京さんからの助成金で発行したのですが、「産後白書」の実績と、ワーキングマザーサロンの受益者が年々増えているという実績(2011 年度は全国で1399人が参加してくれました。)もあり、NECさんの協賛というかたちで制作することができました。「産後白書2」は、「子どもを持って働くことを考える」ということをまとめた白書になりました。
Q:NECの社員で妊娠された女性以外でも参加できるのですか?
誤解されやすいのですが、このプロジェクトはNECの「人事部」ではなく、「社会貢献室」の事業なので、むしろNECの社員の参加がまだ少なく、そこはまだ課題の部分なんです。昨年は全国で半年間のあいだに1299人のかたに参加していただいたのですが、社内の参加者は1割未満に留まっています。まだ社内で人事的な効果があるということは認めてもらえていなくて。どちらかというと、地域の市民に貢献した、メディアに注目してもらえたという部分が評価されています。
Q:社会貢献としての位置づけ?
NEC社会貢献室が協賛をしていて、主催はマドレボニータです。NECさんと社会的なミッションや目的を共有しながら、マドレボニータが持っている技術や知識や、会員さんなどの人的ネットワークを使って、「ワーキングマザーサロン」というプログラムを全国で展開する。NECが協賛しているので、冠に「NEC」をつけてNECワーキングマザーサロンとして実施する、という構造です。全国でのサロンを展開する担い手であるファシリテーターはマドレボニータの正会員からボランティアを募り、研修をして、その年のファシリテーターになります。研修の費用や、サロン開催の費用はNECさんが負担するので、ファシリテーターは金銭的な負担なく活動できます。ファシリテーター候補生は2カ月間の厳しいオンライン研修と、2日間の合宿を経て晴れてファシリテーターとなり、6月からサロンの開催がスタートします。サロンはファシリテーターの住む地域で11月まで毎月実施します。今年も全国で実施していますよ。
Q:全くのオープンでフェアに参加できるんですか、素晴らしいですね。
そうなんです。この事業はNECの社会貢献室との恊働事業なので、評価の指標もどれだけNECの社員だけでなくの地域の人たちに対して貢献できたかというのも大きいんです。
Q:「産後白書3」の特徴はいかがですか?
2はお話したように「ワーキングマザー白書」でもよかったんですけど、でもやっぱり1が評判よく、いろんな人に話題にしていただけたので、その名称を引き続き使おうということで「産後白書2」と名付けました。産後をめぐるいろんなことを研究するのが私たちの使命だから、第3弾第4弾と出していこうよと。そこで、私たちが独自にやっていた「マドレネットワークサロン」というイベントがあって、社会起業支援のSVP東京の「ネットワークミーティング」のようなものですけど、それを年に3回、4年前からやっていました。それは完全にオープンな場で学生も男性も来れる場です。「産後白書」を出したことによってほんとにいろんなステークホルダーが参画してくれるようになって、今まではほんと女性と子どものためのNPOという見られ方だったのが、男性とか老若男女、いろんな方が関わってくださるようになりました。
そこで、もっと男性の言葉を聞こうっていう意見がでてきました。私たちは日頃から産後の女性に接しているんですけど、その人たちの悩みの大部分を占めるのがパートナーとの関係なんです。私も産後にそれで失敗してシングルになったというのもあるのでその深刻さは切実にわかります。それで、こういう活動をしていると、いろんな人から「子育ての相談に乗ったりするんですか」って聞かれるんですけど、実は子育中の女性の悩みの多くは「子育て」そのものよりも「パートナーとの関係」の問題であることがほとんどで。それがうまくいっていれば、子育ては、協力して乗り越えられる。
だから私たちが子育ての相談に乗るよりも、パートナーとの関係をいかによくするかに貢献する方が効果的なんです。マドレボニータのプログラムに出たことでパートナーとの関係がよくなったという声を男性からも女性からもよく聞いていたので、じゃあ、その女性だけでごちゃごちゃやってないで、男の人からの意見を聞こうということで、イベントを進めました。出産後にパートナーとの関係がよくなる人も、悪くなる人もいて、じゃあどういうからくりなんだろうねということでネットワークサロンの登壇者には男性も呼んで、カップルで登壇してもらったりして、産後のパートナーシップをテーマに語るというイベントを何度かやりました。それがすごく評判がよくて。たとえば、夫婦のパートナーシップに関してエッセイを何千字で書いてくださいっていうこともできたかもしれないけれど、書くのと喋るのとは全く違うんですね。オーディエンスがいて司会者がいて、それだからこそ、ぽろっと本音の言葉が出てくるっていうのがあるんです。「あ、いま話してて思いだしましたけど」って忘れていた重要なエピソードを語ってくれたり。
Q:なるほど、身構えないんでしょうね。会話の中、言葉にすることによって明らかになるというか。
そういう「場」の力と、その肉声から語られる「産後から考える夫婦感のパートナーシップ」の内容を形にしようと。それを全部で6回分。全部は載せられないので、これも制作ボランティアを募って、みんなで分担してリライトして、みんなでチェックして、冊子としてまとめたのが「産後白書3」です。
Q:英語版というのは、何を訳されたんですか?
昨年夏に慶大准教授の井上英之さんたちと、シアトルのiLEAPという素晴らしいイノベーター教育をしている米国のNPOでおこなわれた日米ソーシャルイノベーションフォーラムというプログラムに参加させていただきました。シアトルでいろんな人と「産後」の問題について話す機会がありましたが、母子の支援も、母子支援に対する認識も、日本と大して変わらないという印象を受けました。助産師が訪問するとか、ママサークルとかはあっても、産後女性の母体のリハビリとかエンパワメントとかそういう文脈は見つけられなかった。米国にも、ウツや虐待の問題は依然としてあるけれど、あまりオープンには語られない。構造は日本とかわらない。やっぱりこれは発信しないといけないなと思いました。アフリカなどで衛生状態が悪くて母親や赤ん坊が亡くなるといった話はみんなうっすら知っている。でも、新生児死亡率が世界最少の日本で、虐待やうつなどで人が亡くなっている、その現実はあまり知られていない。そういった事実とともに、それを予防するための方法として「産後ケア」が大事なんだっていうことをグローバルに発信していきたいと思いました。
Q:ボランティアを募って共同で翻訳されたとか。
最初から翻訳家に依頼するのでなく、会員さんから翻訳ボランティアを募り、facebookのグループを作って共同翻訳しました。1日何センテンスか担当者がアップして、でそれに対して訳文をコメント欄に記入していくという形で。みんなで訳文を見て、こういう表現がいいんじゃないかとか、コメント欄で議論していく。結果的に、時間はかかりました。翻訳者に頼んだ方がずっと早かったと思うんですけど、これもひとつの市民参加の機会を作ったということで意義深かったと思います。
産後の問題に思い入れのある会員さんが、英語のスキルをつかってこのプロジェクトに参加してくれました。最終的には二重にネイティブチェックしたので、実はこのやりかたのほうがコストがかかるんです(笑)。時間もお金も。そういうことも含めて、運営は大変でしたが、みんなで英訳する場をつくったことに意味があると思っています。マドレボニータは、そういう市民参加のプラットフォームにもなっていると。
Q:ちなみに(発売は)いつ頃の予定ですか?
夏には冊子版が完成します。その後、kindleで電子書籍の発売を予定しています。
(編集:青学・土田友里)
"「理論と実践」両方を見事に回せる人"
吉岡マコさんは「妊娠→出産→育児」というプロセスに足りないもの、欠けているものを発見した人だ。それは「産後」というステージ。産婦人科の医師だって、「産まれる」ところまでが業務領域で、あとは小児科にパスしてしまう。だから「産後の肥立ち」って言葉も現在は隠れがちで、なかなか「産後」領域のケアや保健に気付かなかった。マコさんは「妊娠→出産→産後→育児」が普通の感覚で受け入れられる社会を目指している。昔は大家族で、「産後」ステージはばあちゃんが担ったり、周りに「知恵袋」が存在して、「育児」へのスムーズな連係があった。それが今は築きにくい。そこで考えたのがネーミングも秀逸だが「産後白書」の制作である。もう5千部以上売れたが、遠くに住む「ばあちゃん、じいちゃん」が買い求め、出産する孫娘に贈るケースがあると聴いて合点がいった。「理論」のほうは大学とも共同研究したり、「実践」では教室という現場で教え、自分の"分身"といっていよいほどのクオリティで「認定インストラクター」を養成し、日本を席捲しようとしている。しかも、英語を通じて異文化の世界に発信しようとしている。これほどバランスよく"理論と実践の融合"課題を克服する能力を持った人も珍しい。そのマコさんがここまで、赤裸々にこれまでの人生を話してくれた。参考になる若者もきっと多いと思う。
たまたま多くの共通の知人がいるが、ほとんどのマコさん評は「あんなに短時間で知らない分野のことを吸収できる人はいない!」だ。"新卒一括採用"という規定のレールに乗らなかったことが、今の吉岡さんの活動と成果を生んだとしたら、皮肉な感じがする。かつて聞いたことがある。「なぜ、株式会社じゃいけないんですか?」「マドレは"運動"なんです。だからNPOが一番すっきりくる」と即答された。産後という新しい領域から、パートナーとの関係を考え、そして生きやすい共生へ。吉岡マコさんは健全な社会変革を目指しているように感じる。だから、国や行政により近い「公」の世界で活躍してほしい。こう願ってしまうのは私だけでは決してないはずだ(砂)。
(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
]]>Q:お茶の水女子大学附属高校を退学して、アメリカのボーディングスクールに通っていらっしゃるわけですが、石角さんは日本ではどんな高校生だったのですか?
結構、「穿(うが)った人」だったと思います。中学校の時から人と同じことをするのが好きではなかったですね。お茶の水女子大学附属は、中学校までは共学で高校から女子校になるんですが、高校入った瞬間にすごくつまらなくなってしまったんです。学校内に男の子がいなくなったっていうのもあるし、なんだか急にみんな受験に対して準備し始めちゃったりして、「もっと根本的に楽しいことがあるのに・・・」って思ったり。あとは、高校生になると色気づいて、みんな放課後に男子校の子と遊んだりするんですけど、遊びながらも楽しくないなぁーって思う自分がいた。男子校の文化祭に遊びに行って、何のためにこんなことしてるんだろうって思ったりとか。
Q:醒めてたということですかね?
そうですね。ランチタイムにお弁当をみんなで机を移動させて食べたりとか、ああいうのも嫌いだったんですよ(笑)。つるむのが嫌で、決まり事のようになんでみんな一緒に食べてるんだろう、みたいな・・・。そういう高校生でした。
Q:高校をやめようと思ったきっかけは何ですか?
きっかけは、その「穿った自分」が爆発したことです。もうこれはやってられない!と。私は「思い立ったら吉日」人間なので、高校1年の夏休みに、現状を変えたいって閃いてすぐ、行動に移しました。高校2年になるまで待ったら遅いって思ったんですね。高2になると授業が大学受験用になってきてしまうので、そこまで待ったら何か行動に移すのは難しいだろうと思って。
人生の重要な節目って、あたかも昔からそう決まっていたかのようにすっと決断を下せることってないですか?誰かに言われた言葉がきっかけではなくて、昔から考えていたことがただ顕在化したという感じでした。
まずは退学じゃなく休学という形をとって、シアトルにいた両親の友達を頼ってとにかく今すぐ行こうと。彼らが推薦してくれた、シアトルの郊外の学校に行くことに決めました。
高1の夏に決めて、高1の3月に高校をやめてアメリカに渡りました。英語も勉強できなかったので、決めてからベルリッツに毎週通って。あんまり役に立たなかったかもしれないですけど(笑)、準備に明け暮れました。
Q:高1の3月に日本の高校を退学して、その年の秋からアメリカの学校に通ったのですか?
違うんです。アメリカは9月入学なんですが、4月から6月まで最終学期なので、3月にアメリカに渡ってすぐ、最終学期に「お試し期間」として入ったんです。この3か月で英語を徹底的に鍛え、パブリックスピーキングなどの授業も受けました。この3か月は、ホームシック・カルチャーショック・英語ゼロ、という状態。それまでの私は、アジア人を見たらみんな日本人だと思ってしまうくらい国際経験がなかったんです。
その後、6月から8月までの夏休みはボストン大学のESL(English as a Second Language、第二言語としての英語)のクラスで徹底的に勉強しました。まずは英語力をどうにかしないと、学校の成績うんぬんという話にならないですし、アメリカのボーディングスクールって、学校の成績が悪いと退学になりますから。
Q:なぜ他の国ではなく、アメリカだったのですか?
なんとなくですね。親も大学院の時アメリカに行っていたということと、旅行やホームステイで行ったことがあり、身近に感じたというのはあるかもしれません。
Q:ボーディングスクールでは先生も一緒に住んでいるという形なんですか?
そうですね、大体先生の6~7割が、寮の中に一緒に住んでいます。「クッキー焼いたからおいでー」なんて呼ばれて、先生のうちに遊びに行ったり、先生の家で特別に勉強を教えてもらったり。
若いうちに親以外の大人と接することってとても重要だと思います。それにはふたつの理由があります。ひとつは親に対する感謝の気持ちが芽生えるということ。ふたつめは将来の選択肢が増えるということ。親以外の大人を知らなかったら、親の背中しか見れないから、結局親と同じような人生選択しかないのかなって思っちゃうじゃないですか。
人生で一番損することって、情報を知らないことだと思うんです。いろいろな選択肢を知ることで、「こういう行動をとればこういう結果が出る」と学べる。若いうちに多くの価値ある情報に大人がふれさせてあげることが大切だと思っています。
Q:アメリカで見事にボーディングスクールを卒業されました。卒業後に日本に戻ることは考えなかったのですか?
一切考えませんでした。日本人でボーディングスクールに留学している生徒の半分くらいは、日本に帰国して日本の大学に通うんです。やはり資金的な理由もあったり、弁護士や医者になりたかったら日本で国家資格を取らなくてはいけないので。私は「この仕事につきたい」というのが明確にはありませんでしたし、そもそも日本の大学受験が嫌でこっちに来たというのもあったから、ここで日本に戻っても意味がないなと思いました。
Q:アメリカ国内でいろいろな進学の選択肢はありますが、ボーディングスクール卒業後の進路として、リベラルアーツカレッジへの進学を選んだのはなぜですか?
アメリカの大学は大きくユニバーシティーとリベラルアーツカレッジに分かれます。ユニバーシティーは一般総合大学といって、大学院がある、大きな研究機関としての大学です。一方、リベラルアーツカレッジは大学院のない小さな大学です。全校生徒数も2000人規模で、ものすごい少人数。教授と学生の比率が1:10くらいで、私塾みたいなイメージです。
カウンセラーと高校の進学アドバイザーに相談して、私はボーディングスクールが肌に合っていたので、その延長線上のようなリベラルアーツカレッジのほうが伸びるだろうというアドバイスをいただいたんです。あとは、心理テストも受けさせられるんですよ。200個くらい項目があって、いろんなデータをベースに私はこういう規模の、こういうジャンルの大学があうだろうと。日本のように偏差値で学校を決めるのではなく、個人個人の性格や将来したいことをカウンセラーやアドバイザーが理解したうえで、学力と、SATという日本でいうセンター試験のようなものの点数も加味して、受験する学校のリストを作るんです。
Q:アメリカの入試では社会貢献が評価の対象になるということですが、何かそういった活動はされていましたか?
していました。アメリカの入試では、「いかに主体性をもって人生を作っているか」「どうしてうちの学校にきたいのか」ということを、インタビューやエッセイで伝えることが重要です。自分の課外活動について、なぜそれをしていたのか、その活動が入りたい学校にどうつながるのか、ということをうまく話して伝えるんです。ボーディングスクールでは毎日3時に授業が終わったあと2時間、課外活動の時間がありました。私の場合コミュニティーサービスといって、社会奉仕、たとえば汚れた道を掃除したりとか、近所のおじいちゃんの家に行って手伝いをしたり。あとは、心理学に興味があったので、夏休みに日本に帰った時、精神科の作業所でボランティアをしたりもしました。とにかく実社会での経験を少しでも積んでいる、ということが重要なんでしょうね。
Q:素晴らしいのは、その経験をちゃんと評価するシステムができていることですね。
そうなんです。日本の大学だと、試験の点数だけで受かった・落ちたというのが決まってしまいますよね。アメリカの大学でも、ある程度は点数や出身の高校のランキングで振り分けているかもしれないですけど、でもその後に絶対インタビューがあるんですよ。インタビューがものすごく重要で、そこで「この子はうちの大学に合うかどうか」を見るんですね。逆に生徒側も「この大学は私にあうかどうか」を見る。インタビューであんまり感じがよくない面接官に会ったりすると「ここは私合わないわ」って。こっちから選んでやる、っていう感じなんですよね。きわめて対等です。
アメリカは大学だけではなくて大学院でも、企業も、いかに学校以外でユニークな経験をしてきているのかということを重視するんです。「人間としてどんな風に面白いか」ということが大切なんです。
Q:リベラルアーツカレッジの卒業後、日本で起業をされますね。
大学4年の時にビジネスアイデアを思いついて、立ち上げました。一言で言うとインキュベーションビジネス、起業家支援です。「インキュベート」って日本語で「卵を孵化させる」っていう意味なんですけど、文字通り起業家の卵を育てる、ということで、レンタルオフィスを作ったり、起業家が必要としているコネを紹介したり。ジェトロでインターンをしていた経験から、外国人起業家が日本で起業する時の支援をパッケージプランとして提供したりもしていました。
Q:ジェトロでインターンをされていたとのことですが、それはいつごろですか?
大学3~4年にかけてです。2年くらい、ジェトロのロサンゼルス支社でインターンをしていました。
大学の授業を月・水・金の朝8時から夜8時くらいまでまとめてとって、火・木はジェトロのインターン、というスケジュールを自分で組んでやっていました。アメリカでは社会のシステムとして、とてもインターンシップが盛んなんです。
Q:ジェトロに就職されることは考えなかったんですか?
全然考えなかったですね。当時は起業をしたかったんですよ。やっぱり、みんなが就職活動しているなか、同じことをやりたくないっていう思いがあって。あんまり社会のことを知らなかったのかもしれないですけど、興味のある会社が思い浮かばなかったんですね。
Q:日本だと圧倒的に官公庁や大手企業に行くのが「勝ち組」のように思われがちで、あまり起業というイメージはないと思うんですが、アメリカの場合は起業に対する意識というのは高いんでしょうか?
今でこそ高くなってはいますけど、当時の、しかもリベラルアーツカレッジの学生で、起業する人はあまりいませんでした。ビジネススクールに進学する場合は就業経験があったほうがいいといわれるんですけど、リベラルアーツカレッジの場合は働かないで直接大学院に進学する人がものすごく多いです。
Q:起業の経験後、なぜハーバードビジネススクール(HBS)に進学されたんですか?
3年間事業をしていて、すごく楽しかったんですけど、とても視野が狭くなってしまうことに気がつきました。ひとつの商品を決まったターゲットのお客さんにいかに売るか、いかに持続させるか、っていうことが商売じゃないですか。それをずっとやっていて、じゃあ5年後、10年後に私はインキュベーションのプロになりたいのか?って。ある不動産会社から「大阪に支店を出さないか」と声をかけてもらったこともありました。その時に、私はこの分野のエキスパートになりたいのかって自問して、違うな・・・ってどこかで思ったというのもあって。
あとは、まだ20代なので、もっと視野を広くして、世界に羽ばたくような経験をする必要があると思った。ビジネスの知識が自分にはものすごく足りないとわかっていたんですよ。リベラルアーツカレッジの時の友達がみんな大学院に行っていたし、私自身も大学院に行くことは当たり前だという意識があって。機が熟したというのと、チャンスがあったので、それでHBSを受けました。
Q:HBSに入るための受験勉強について、日本人へアドバイスをいただけますか?
アドミッションオフィスの人に「面接に呼んでみたい」「どんなやつか会ってみたい」って思わせるパッケージをどうやって作るかっていう全体的な視点で、戦略を作って受験をしたほうがいいと思います。自分の願書をひとつの売り物として、いかに魅力的な人間像を見せられるか。
Q:今おっしゃったことって、受験だけでなくグーグルが欲しい人材ともかぶっていますよね。
そうなんです。同じなんですよね(笑)。グーグルに限らず、誰もが欲しがるような人材なんですよ、そういう視点がある人って。主体的に全てのことに疑問を持ってとりかかる視点を持っている人、現状を打破するチャレンジ精神のある人は、どこでも通用すると思いますね。アメリカに限らず、どこの国にいてもそういう視点を持ってみんながんばってほしいです。
Q:HBS在学中に結婚・出産されたのは驚きですが・・・。
私は、人生はタイミング重視だと思っています。やりたいって思った時が一番のタイミングだと思って生きているんですね。将来仕事がすごく楽しくなって子どもはいらないって思うかもしれないし、親が病気になって自分の子供のことは考えられない日が来るかもしれない。だから、できるうちにすべて実現させて親を喜ばせてあげたいし、自分もやったことないことをやることで、さらなる飛躍をしたいって思っているんですね。成長って経験でしかできないので、すべて実行することに意味があると思っています。HBSの時も、自費で、ものすごい高い金利で1千万円の借金もして・・・。
Q:スチューデント・ローン(借金)は利用されたんですか?
そうなんです。お金がなかったので。誰かにお金を支援してもらうと、やりたいことができなくて嫌じゃないですか。同級生には親から借金している子も結構いましたけど、私にとって、借金してでも自分の意思でHBSに通うというのはすごく重要でした。
Q:HBS在学中もボランティアやインターンをされたんですか?
1年目はサマーインターンをやりました。HBSは2年間なので、その間の夏の3カ月に何をするかが卒業後のキャリアに大きく関係するんです。今まで経験したことない業界で働いてみたいと思ったときに、サマーインターンでどこかで働いている経歴があると、MBA卒業後のキャリアがつきやすくなったりします。私は日本で戦略コンサルとベンチャーキャピタルでインターンをして、戦略コンサルからは就職のオファーももらいました。このインターンはほんとに今でも大きな経験になっていて、感謝しています。この時は卒業後、オファーを受けて日本に帰る予定だったんですよ。
サマーインターンについては、ギャップイヤーとちょっと似ているかなと思いますね。興味あることを自分がトライできる、企業がさせてくれるチャンスなんです。海のものとも山のものともわからない人を正社員として雇うリスクってすごい高いけど、MBAインターン生として3カ月だけ雇うリスクって、あまりないんです。だから、とりあえずはインターンとしてやらせてみようって。その姿勢が社会や企業にある。
私はコンサルの経験はまったくないのに、「なんだか面白そうだからやらせてみよう」って思ってくれて。それはインターンならではですね。
Q:HBS卒業後はどんな活動を?
日本に帰る予定だったプランを変えて、シリコンバレーに乗り込みました。コネもあてもないなか、乳飲み子を抱えて(笑)。
Q:お子さんは卒業の時に生まれたんですか?
卒業と同時に産んだ、という感じです。子どもを産んで5日後に試験を受けて卒業したので。大変でした。臨月がちょうど期末試験期間だったんです(笑)。あれは精神的にも結構ピリピリしましたね。腰もやられるし、クラスに行くのも一苦労でした。HBSってとにかく予習が大変なんです。毎日3つ授業があって、その予習に6時間くらいかかるんですが、それをやりながら、同時に卒業論文を4つ書かないといけなくて。だからもう本当に、遊ぶ暇はゼロです。
Q:HBS在学中に妊娠・出産する学生って、いましたか?
全然いないです(笑)。一学年に学生が1000人いる中、そのうちの3~4割が女性、そのうちの2割が既婚者だとして、2年間で妊娠した子は3人くらいでした。私の場合、結婚した相手も同じHBSの学生でしたので、更にレアケースです。入学当初から、結婚相手をここで見つけようと考えていました。
Q:卒業されて、すぐグーグルに入社だったのですか?
違います。1年くらい、間があきました。2010年の5月に卒業して、2カ月後にシリコンバレーに行きました。夫と一緒に、なんのあてもない中、部屋を借りて「とりあえず1カ月やってみよう」と。でも、とりあえず1カ月といっても、「ここにもうちょっといて頑張ってみよう」ということになったので、私はまだ小さい子どもの面倒をみて、夫がまず就職活動をしました。夫が12月末に企業からオファーをもらい、仕事を始めることができたので、その収入で子どもを保育園に預けて、そこから私も本格的に就職活動です。グーグルには2011年の5月に入社しました。結果的に、ちょうど1年間のマタニティー・リーブ(育児休暇)となっていました。
Q:グーグルでは、今どんな仕事をされているんですか?日本に転勤もありうるのですか?
今は日本と関係のある仕事はしていません。私が日本人であるというバックグラウンドは強みですが、転勤の事は未定ですね。
Q:これからのキャリアをどういうふうに考えておられますか?日米の環境の差を実感される中で、教育に興味をお持ちだとうかがいました。
グーグルで働くのはすごく楽しいですし、まだまだ学ぶことがあるので、将来どういう形で何をしたいか、という具体的な案はまだ詰めていません。苦労してアメリカのシリコンバレーの本社で働くチャンスを手に入れたので、これを最大限に生かしながら、学べるところを学びきって貢献したいと思います。ただ、これで成功しただとか、企業のブランドに頼って生きていくことはありません。そもそもそういう主体性のない人はあまりシリコンバレーにはいないと思いますが、やはり常に自分個人として今、どういう成果を出したいか、何をしたいかを考えています。
そしてやはり教育に興味はあります。自分の娘が将来大人になったときに、どういうものが必要かって考えたときに、どうしても教育が重要になってくるんですよ。アメリカと日本の教育を両方見ているというユニークな立場にいるので、これは本当に私にとってこれからも人生のテーマになってくると思います。今回本を書いた(「私が『白熱教室』で学んだこと ボーディングスクールからハーバード・ビジネススクールまで」阪急コミュニケーションズ刊)ことも、私の中でひとつの貢献の意味もありました。就活しながらずっと原稿を書いていたんです。子どもが寝た後に作業をしたり、娘を授乳しながらiPadで原稿確認したりとか(笑)。出版直前ってものすごい忙しいんですね。時差もあったし。でもこれも、私の中のひとつの教育事業への思い入れの表れかなって思います。
Q:アメリカでご自身が受けられた教育についてご著書に詳しく書かれていますが、どんな人に読んでほしいですか?
留学を考えている10、20代の若い人のほか、ボーディングスクールは親の紹介で行く人も結構いるので、親御さんにも読んでほしいです。あとは教育関係者ですね。教室の作りを変えたり、机の配置を変えるなど、ちょっとしたできるところから変えてみたり、ディスカッションを授業で取り組んでみるとか・・・。そういう、日本の教育をちょっとでも変えられる立場にある人にも、ぜひ読んでいただきたいと思います。
Q:日本の若者はどんどん画一化していっているように感じます。特に就活生の服装なんかを見ていると、同調圧力の中で息苦しく生きている人たちがたくさんいると思います。若い人たちに何かアドバイスできることはありますか?
私は大学を出てすぐ起業したから、それをネガティブにとる人もいました。社会経験がないとか、企業での経験がないから君はわかってない、と言われたことも。人と違うことをすることについてポジティブな意見を言わない人もいるけど、人と同じことしていたら絶対に人と違う結果を生めないですよね。
ロバート・フロストというアメリカの詩人がいます。「目の前に道がふたつある。みんなが歩んだ道と誰も歩んでない道。私は"Less Taken" (誰も歩んでなくて草ぼうぼうな方)の道を選ぶ、それで今の自分がいる」という詩が私は大好きなんです。本当に重要なことだと思います。
建設的批判ではない、ただの個人批判のような意地悪を言う人、若い女性を見下す人もいるかもしれないけど、それは無視ですね。嫌みを言われた時にいつも自分に言い聞かすのは、「この人の言うことをそのまま信じてやっていても、この人みたいにしかならない」っていうこと。その人みたいになりたいなら従ってもいいけど、そうじゃないなら無視です。生意気なんですけどね、でもそれくらいの強気さがないと、殻は破れないのかなと思っています。そして大抵、私が尊敬する人は個人批判のような意見を言わないものです。
Q:先が見えないことに対する不安を恐れている若者も多いと思います。石角さんはこれまで不安とどのように戦っていたのですか?
シリコンバレーに行って仕事が見つかるまでは、私も日々泣いていました。そんな先のない不安に立ち向かうときは、まずバックアップシステムをひとつ持つことと、心の支えをもつこと。
特に私は子どももいるので、「プランB」を持っておくことが絶対でした。私にとってのバックアップは、コンサルからオファーをもらっていたことでした。シリコンバレーでの就職活動は1年までと決めてやっていました。それでだめだったら仕方ないと考えて実行していたので、そういう大きなリスクを避ける戦略と、何かあったときには別の道があるって思える気楽さというのはすごい重要だと思います。
あとはやっぱり家族がいると、「まあ死ぬわけじゃないし」って思える。そういう気持ちって大事だと思いますね。真剣であることは大切だけれど、深刻になっちゃだめなんですよ。いい意味の逃げ道をどこかに作りながら挑戦すること。そうすればまったく先の見えない真っ暗闇に挑んでいても、光は見出せると思います。
"ありきたり"に対する"拒否反応"をバネに、大きく飛躍できる人
石角友愛さんのギャップイヤーは、まずはレールに乗ったありきたりな大学受験が嫌で、高校中退した時から始まる。それは米国の全寮制の高校に正式入学する期間までの半年であろう。当時TOEFL400点以下という英語力であったというから、すごい集中力を発揮された。それはその後見事に名門リベラルアーツカレッジ入学で開花する。二度目のギャップイヤーは、実は大学卒業後、帰国して東京・丸の内で起業家を支援するインキュベーションビジネスを立ち上げ、3年間マネージメントに携わった期間ではないかと思う。そして2008年に再び渡米し、経営に関するエッセイが評価され、難関のハーバード・ビジネススクールに入学する。そこでもありきたりな学生生活を送ることはなく、なんと在学中に結婚・出産までしてしまう。こういうリスキーで勇気あるチャレンジ精神に富む人材を放っておかないのが、米国の企業社会なのではと思ってしまう。現在は、人もうらやむグーグル本部で活躍する。教育に関心があるという。近い将来、 "ありきたりな"日本の教育にカツを入れて、イノベーティブに社会をリードしてくれる日が待ち遠しい。(砂)
(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
]]>Q:中学から高校にかけてどんなことを考えておられましたか?
中学校の時は総理大臣になりたかったんです(笑)。政治を知った上での総理大臣でなくて、"権力者"という勝手な想像の中で、国のトップになれば、いろんなことが自分で決められると思っていました。小学校の時の夢の延長みたいなものです。公民の勉強で議院内閣制と大統領制の違いを知った時に、大統領制は権限が強い、韓国をみても大統領が変われば体制が変わる。一方、議院内閣制はそうでなくて、みんなに認められないといけない。全然違うなと思ってやめました。
今まで親にやりたいと言ったことを否定されたことがありませんでした。いつも言われていることが2つあって「自分が好きなことをやりなさい」ということ。もうひとつは小学校の時からずっと言われてきたことですが、「30歳までに自立しなさい」と。
父親からは「29歳までは広い意味でのコストは親が出してやる」と言われ、「じゃあ、何故30なのか」と聞きました。「昔は人生が30歳くらいだった時に、成人儀式で男の子は13歳。それが人生60の時代になって成人式ができた。そして人生80年時代だ。成人を20歳に置くのは時代にあわないし、無理がある」と父は言っていました。社会学者は60歳が人生の終わりの時期に20歳が成人だった時と比べて、今人生80年になって精神年齢は0.8掛け、精神心理的には0.7掛けとも言われているそうです。30に×0.7で21、×0.8で24なので、30までにいわゆる昔でいう本当の意味での成人にたどりつけばいいんだということ。僕にとっては、30までに自立すればいいんだと前提がありました。だから29まで好きなことをやっていい。工藤家における自立というのは「自分の力でお金を稼いで食べていくことだ」とわかりやすく定義をされていました。20歳までは食べられなくても実家にいていいし、好きなことをやっていいよと。
Q:ご両親は勤め人でいらっしゃいましたか?
いいえ、自営で今もNPOをやっています。
Q:そういう環境にあるとものの考え方は違ってきますね。何故成城大学のマスコミュニケーション学科を選んだのか?また、進路を決めるにあたって、どんな影響を受けましたか?
どちらかというと私は働くというのは、勤め人としてのサラリーマンを描いていました。起業家の志向はまったくなかった。ただひとつだけ自分から父親に高校2年生で進路を決める時期に「高校を卒業して働きたい」と伝えました。深く考えてないんですが、当時大学生っていえばコンパするとか、勉強するわけでもなく社会人になるための最後の余暇みたいな気がしていました。社会のことを全く知らない前提ですが、4年という時間を無駄に過ごすのであれば、4年早く働き始めた方が"使える"ようになると思っていました。
Q:それを聞いて、高校卒業してプロになるか、大学に行くか?野球の田中将大選手と斎藤祐樹選手を思い出しました(笑)。
大学に行かないって言ったら、父親に初めて進路・人生に口を出されてびっくりしました(笑)。「おまえはずっとサッカ一筋でやってきて、アルバイトもしたこともない。30歳まで時間をやっているんだから、どこでもいいから大学に行け。大学に目的を持たなくていいから、4年というある意味許された自由な時間で社会をちゃんと見ろ」と。大学は高校とは違う自由と責任があり、その時間に価値があると言われました。"第1次ギャップイヤー"はその時ですね(笑)。自分は働くと決めていたのに4年間という時間を押し付けられたと思いました。じゃあ、納得した上で何に進もうかと。
高校生の頃は、漠然とですが、新聞記者になりたいと思っていました。実家が自営で不登校の生徒の塾をやっていました。幼心に実家の仕事が新聞に出た日は黒電話が鳴り止まない。ずっと鳴っていたのを覚えています。正直言うと、小学校の時に宿題で「親のお仕事」というのに答えられなかったんです。不登校とか鑑別所から出てきた人たちと共同生活していて、30人の大所帯で暮らしていました。今でいう自立支援です。家庭が社会に開かれていたので、家族という枠組みが僕にはよくわからなかった。いわば、お兄さん、お姉さんが20人以上いて、結構入れ替わる、自立すればいなくなるが、新しい人が日本中からやって来る。みんな何からの傷を抱えている。そんな中で、自分の親の仕事が宿題で伝えられず、悶々としていました。「僕のお父さんは車を売っています」「とかお母さんは花屋で働いています」とわかるように言えない。単純にサラリーマンですと言いたいんですけど、勤め人でもなく、一般的な塾でもなく、父の仕事が説明できずにかなり苦労しました。障碍を持っている方もいたので、まだ幼い頃には訳わかんない家と近所から思われていました。石を投げられたこともありましたし、通り様に罵声を浴びせられることもあった。家業に対する自己肯定感が持てなかったんです。その一方で、テレビや新聞に自分の家のことが記事で書かれると、困っている方から三日三晩電話が鳴り続ける。大人からは「君の家の記事が出ていたよ」とか「お父さんはすばらしいね」と言ってくれた。幼な心に「新聞やテレビってすごい」と思いました。誰にも理解されないものがペンひとつ、映像ひとつで日本中の人に理解してもらえるとはなんと凄いことかという原体験がありました。進学にあたっては総理大臣というのはなかったので(笑)、メディアに近いところの勉強がしたいと思いました。それで取りあえず大学でマスコミ学科を選びました。成城大学は近くて小さい大学でした。安倍晋三氏など総理大臣も出ていますけど、そこまでは調べていませんでした(笑)。でも具体的にホントにマスコミに行きたかったか、記者になりたかったかといえば、それより"働きたい"という気持ちが先でした。正直後づけで目的意識はあまりなかった。親はともかく、学校の先生や友達には何故この大学とか何故この学部かと言われれば、記者になりたいと理由付けしていました。
Q:実際大学生になってからの生活はどうでしたか?
学校はほとんど行ってなかったと思います。入学してすぐにバイトを始めてました。父親からは「自由な時間を遊べ、つまり社会を知れ」というのと「1年間で、本を雑誌漫画もありで千冊読め」と。親からの指令はこのふたつであとは自由。だから当時、バイトは深夜・朝・昼働いて、もちろん悪いバイトはしていませんが、年間で300万くらい稼いでいたと思います。時給千円以上のアルバイトに絞り、どうしたら店長さんやお客さんに役に立って、そこで働く一番高い時給に持っていけるのかをめざしていました。結局、あまり寝ないで1ヶ月で26日間くらい働いていました。でも、学校は出席がある授業には行っていました。社会を見るため、夏休みや冬休みは海外も行きました。お金も時間もあったので、最初の夏休みはアメリカや、オーストラリア、そしてフィリピンにも・・
Q:旅行はバックバッカーという形ですか?
僕はバックパックみたいなのは苦手だったので、1か月とか3週間のチケットを取って、最初の3日だけはホテルを決めて、その間に泊めてくれる人を探すんです。観光に興味がない。そこに住んでいる現地の人、日本人の留学生が当たり前に生活している空間や時間に関心がありました。そこにいる人たちに泊めてもらって、同じ時間を共有したかった。学生が多かったので、彼らも休みの時期で、生活を共にしながら、一緒に過ごすんです。
Q:2年が過ぎて大学を辞める決断はどんな感じでしたか?
1年の夏にアメリカに旅行した時に、サッカーやっている公園を訪ねて、入れてもらって1か月泊めてくれる人を探すということをやっていた。サッカーは22人でやるので、22人の犯罪者集団はいないだろうと安心かなと(笑)。その時は台湾人に泊めてもらい、毎日、お酒飲んで遊んでいました。「何でアメリカに来ているの?」という話をつたない英語と漢字でコミュニケーションをとりました。英語ができるようになりたいとかアメリカンドリーム的な話やいつかはビックになるという答えを想像して聞いたところ、彼らは全然違う考えでした。台湾と中国の国交は大変難しい状況で、いつ中国が台湾にミサイルを打ってくるかわからない。もし起こった時に自分がアメリカの市民権を持っていれば、家族や親族をこちらに連れてこられる。市民権を持つためには一定の成績や納税が必要になる。だからそこをめざして今勉強していると言われて、大変ショックを受けました。親の庇護のもと学校にも行かず、バイトしてフラフラしている自分が・・。アメリカで同世代の台湾の友人に出会って、そこにいる理由にが「亡命」とか「ミサイル」とか「家族を守る」とかリアルに言っている。その時点で、彼らと一緒に一定期間人生を過ごさないとだめだと勝手に思いました。1年夏に滞在している間に、どうしたら留学できるかとか何が必要かを予め聞きました。もしあの台湾人とフランスで出会っていればフランスへ、ラオスで出会っていればラオスへ行ったと思います。私は国というより、彼らともっと一緒に居たかった。そして帰国して親に「大学辞めたい。アメリカに行きたい」と伝え、「何故アメリカなんだ」と聞かれました。正直にアメリカだからとか勉強をしたいからという訳でなく、こういう出会いがあって彼らと一緒に過ごしたいと言いました。親としては僕が本気かどうか見極めたかったようでした。本気かどうかしめす指標としてTOEFLが500点以上あれば語学学校を飛ばせて本学に入れる。だからTOEFL500点以上を取りなさいと。最初のTOELFは500点でした。しかしそれ以降、勉強を続けていたのですが、留学するまで一度も500点を超えませんでした。何で最初が500点かわかならないんです(笑)。台湾の友達や親とも相談し、留学のことを全部調べました。英語が伸びないと時間もかかる。成績はシビアで、転学するのであればGPAをきっちり取らなければならない。留学生こそ成績が厳しい。日本で取った英語のクラスや日本史のクラスは単位にならないが、世界中の人が学ぶ哲学・倫理のような教科は単位の移行ができる。そのとき日本での成績は単位以降時に、単位部分しか移行されない、などです。日本で単位を取れば、現地で同じ科目を取得するよりお金も時間も節約できる。結局準備も含めて2年間大学に残って、一般教養と語学のクラス第2言語の単位を取ることをした方がいいと判断しました。1年の夏に2年終わりで辞めると決めました。そして2年間は進学コミュニティカレッジに通い、3年に編入することにしました。
Q:ベルビュー・コミュニティー・カレッジでしたね。アメリカには、どれくらいの期間いたのですか?
ベルビューに2年半ぐらいいました。ビジネス学部で会計学を専攻しました。これでもかというくらい勉強しました。そして編入試験を受けて、ワシントン州立大学に合格したので3年生になるはずだった。ただ、さまざまな出会いなどがあり、進学せずに帰国して起業しました。
Q:カレッジでは、どんな出会いがあったのですか?
ベルビューではビジネス学部でした。世界中からビジネスが好きな人が集まっている。進学カレッジだったので、四年生大学に転学をする予定の学生が多かったです。そこでは、キャリアとして永久就職を志すような話はありませんでした一方、日本の友人とはメールのやりとり、就職氷河期で就職活動してもなかなか決まらない話。アメリカの友人は起業の話しかしないんです。それも夢を語る。「俺はすばらしい珈琲のアイデアがあって、これを作ったらバカ売れだ」とか。有名企業に就職するという友人も、起業するにはコンサル的ノウハウが必要だから、あくまでも手段としてそこに行きたいという具合。そんな中、ヨーロッパの友人から、金融規制緩和でシニア層を中心に日本でリストラの嵐が起こる。「勉強なんかしてないで、日本に帰って若い人たちを支援する会社を創れ」という示唆を受けた。先進国で企業の多くがガクッとくると、今働いている人たちがリストラで切られる。この人たちを何とかしなくてはならないと政府や企業の目がそちらに向くよ、と。その間に新卒採用が減り、若者の失業率はあがり、ただでさえ脆弱な若い層がより苦しい状況になるのは歴史の流れだという説明でした。自分たちの国もそうで、日本はまさにそうなる。言い方は悪いかもしれないが、若者支援というマーケットができるはずだと。それで、とりあえずドイツとイギリスを見に行きました。友人のツテと自分でアポイントを取っていきました。欧州では"社会投資"ということばに出会いました。若者に何で支援するかといえば社会的な投資だと。投資というのは100円で市場に入れて1000円返ってくる。またはなくなる。社会投資というのは自分の人生を使って社会的によくなること、それがリターンだという考え方を聞いて感銘を受けました。一方で若い人にどんな支援しているか聞いてみて、施設もいろいろ見てみたんです。大したことをやっていないと思った。何でそう思ったかというと自分の実家でやっていることと変わらなかった。規模が大きくなっただけで、職業訓練もみんなとやるとか企業さんと連携してやる。いろんな説明受けたんですけど、どっかでみたことがある。社会的な制度になっていたり、企業の応援があったりがあるだけで、やっていることの目新しさはない。そうか、実家がやっていることの意味は社会投資であるとわかりました。
Q:社会投資ということばに巡り合って、お父様の仕事がすんなり落ちたんですね。
日本に帰って、取りあえずやってみよう。日本でやって上手くいかない場合もあれば、そもそも若者を支援するという市場があるかどうかすらわからなかったのですが、親に留学を辞め、帰国して若者支援しますと伝えました。親として違う組織で、独立してやりたかった。父親は、自らがやっていることと全く同じことをやっても意味がないので、お前らしいやり方でやれと。まずは3年間やってみよう。そしてダメだったらアメリカに戻ろうと思い、父親と交渉していざというときには再度アメリカに行かせてもらえる約束を取り付けました。当時23の時。だから3年やっても26歳、ダメでまたアメリカに行っても29歳までに卒業できる。親に言われていた30までに自立しなさいという約束は守れると計算して、この仕事をやりたいと思いました。
Q:卒業後、すぐ立ち上げられたのですか?
2001年6月に大学を卒業していて、当初ワシントンの大学には9月から入るはずでした。ヨーロッパに行ったのは2000年9月。大学の編入は早めに決まるので、あとは残りの単位を取っていく。やろうかなと思って、2001年の1月に任意団体で名前だけ立ち上げて、卒業はしないといけないので6月まで学校に行っていました。当初は自分ひとりで調査というか日本でどうか調べていただけです。単位だけ取りにアメリカに行って卒業しました。
Q:卒業されてからは日本に戻って任意団体で始められて、2004年の5月にNPO法人になったのですね。
最初は日本でどうかなぁと調べていました。日本で関心があるのか?困っている人がホントにいるのか?手伝ってくれる人はいるのか?全国7か所ぐらいでシンポジウムやって、先生やメディアに声かけて、これはニーズがあるなと。当初は任意団体なので自分で決めただけ、社会的に何もない。
やりたいけど、"若者支援"の時代がホントに来るのか確信が持てなかったので、最初の一年半は、シンポジウムを開催したり、国内の子どもや若者の支援をされている団体を訪ねたりしていたのですが、そうこうしていたら厚生労働省から呼ばれました。国としてフリーター対策をやりたいということでした。国の作った施設のフリーター支援の横浜の所長やれと言われてやっていました。8か月ぐらいやった時に、国の仕事は面白いところもたくさんありますが、自由度が高くない。自分の事業として若い人を充分に支援したい。それで、腹を決めてNPO法人を設立して、立川に根を張ったのが2004年5月です。
Q:NPO法人キズキの安田代表と知り合って、すぐ"育て上げネット"ということばを聞いて、いい語感だなあと思いました。どこからきたことばですか?
明確にこれってないのですが、両親の仕事をみていたこと。そしてドイツでマイスター制度をみて、イギリスでニューディール政策をみた時に、結局のところ人の成長というのは突き詰めると上司と部下の関係も含めて限りなく徒弟制度だと。英語にするとMasterとPupilだと。うちのロゴはM&Pになっているんです。じゃあ徒弟制度っていうのがホントに上司部下だけの関係で育つかと周りの環境もあります。若い人が自己責任で育ってなくて、いろんな人にお世話になって、社会全体で育ちを応援していくものだと思います。どうしても和語を使いたかった。アメリカにいて感じたのが意味のわからないカタカナの氾濫とか英語で使われていない意味で使っている。かっこいい名前はいっぱいある。保護者世代にも支援をしなければいけない。誰しもがカタカナについていけるのか。言葉の意味がストレートにわからないと自分たち世代しかわからないことばでは通用しない。だから和語がいいと思いました。社会全体で育てるという意味です。
Q:ジョブトレも簡潔でわかりやすいですね。
正式名称は若年者就労基礎訓練プログラム。見れば何かだいたいわかる。通称がジョブトレ。このプログラムでは、これまでジョブトレは250人ほど参加していて、1年から2年で9割が仕事についています。
Q:夜型の生活が朝型になるとか、体系作りに時間がかかったと思いますが、ご自分で構築されたのですか?
自分で作ったと言いたいのですが、これも育った実家の環境がプログラムだった(笑)。実家は24時間共同生活で、自分としては通所型を選択しました。24時間の生活支援というよりは、就労支援がしたかった。
Q:工藤さんが書かれている若者が人間関係が苦手だとか不安とか希望が持てないという切り口は実家を見ていたからなんですね。若者のニート・引きこもり問題に取り組む「K2インターナショナル」の岩本真実さんはご存じですよね?
真実さんとは仲良しですよ。僕と真実さんは経済とか経営的感覚を大事にしていて、事業を創るときの感覚が似ているように思います。この分野で企業とコラボレーションしたり、新しい領域広げていたりする人は少ない。ビジネスマインドを持っていることですね。真実さんのところよりも、うちのほうが社会への押しが強いような気もします。
Q:工藤さんにとって大きな目標は何ですか?
東北の震災が復旧から復興に少しずつ変わってきて、雇用の問題までくれば、被災地への貢献ができます。大きな柱としては東北の支援に対して、今まで組織でやってきたつながりを使って被災地に入るのが大きいです。
Q:今年は震災復興支援が柱になるということですか?
復旧はマンパワーの世界なので人が動きます。復興のなかでも雇用となると、企業のリソースが復旧期とは別のカタチで被災地の貢献になるんです。いろんな企業さんやNPOを巻き込んでやっていきたい。もうひとつは今までは寄付とか国内からいただいているという連携だった。この2,3年いろんな国から視察がくるようになりました。韓国や、学びに行ったヨーロッパの国々から視察が来るんです。うちが先進というよりはどうもヨーロッパでいう困った若者を、保護者は抱えず自立という名で自宅から独立させていたが、それが難しくなってきている。一方、日本は若者が困った場合は保護者が抱えることが多くあります。日本の世界観がアメリカとヨーロッパで広がり始めている。親が家から蹴りだしても、経済があまりに悪いので、シェアハウスにいてもアルバイトでは食べられなくなってしまっている。経済が連動しているのですが、そうすれば家にいる形になってしまう。引きこもり状態になる若者がいるようです。アメリカ、ヨーロッパからも家から出てこない人をどうするの?っていうことで視察に来ます。つまり、ひきこもりは辞書にも現れ始め、Hikikomoriという英語になりました。それだけ英語のなかに同義の単語がないのでしょう。
Q:親は子供を外に出す欧米でも、経済状況考えると家にいる。欧米でも引きこもりが出てきたんですね。
親としては、慣習・文化として自立を強要して外に出していた。それでも働かないのであればホームレスでもしかたがないぐらいの考え方ですが、今はちゃんとした学生でも学費や家賃などの生活費が払えるほどの給料が貰えない。そもそも仕事がないという話なんです。家で抱えるというよりはそうせざるを得なくなってきた。お隣の韓国は日本と同じ状況、受験過熱からバーンアウトがいて、雇用環境の悪化は日本以上です。ほとんど中小企業が少なく、一部の大企業に入るために強烈な競争があります。青年問題は大きくなってきている。年間10団体ぐらい、学生から政府の方まで視察に来ます。自分たちがやっていることが少しでも世界で役に立つのであれば、世界に支店をだすというよりも自分やっていることを他言語化して使ってもらう。社会課題解決手法をソフトコンテンツとして輸出できないかと思っています。
Q:工藤さんが培ってきたノウハウ、知見を他言語化すること自体が使ってもらえる、世界で応用できるというのは夢がありますね。
電子書籍、アプリがあるので、そんなにお金をかけなくてもグローバルのインフラに載せることもやりたい。アメリカに行っていろんな出会いがあって、助けてもらってばかりだった。直接ではないにせよ、支えれ貰った方々への恩返しとして何か日本から貢献できるものがあればと思っています。
東北支援で寄付を集めて行かないといけない時に、マレーシアに行ってわかったことは、「もう終わったことである」と忘れ去られていたことでした。全然終わってないよという話をしたのですけど。結局海外の人達みんなが見るブルームバーグとかニューズウィークニュースみたいな媒体に掲載されなくなり、日本にある情報は国内向け、または、国内向けの情報を翻訳したものです。海外の媒体が書かないと海外の人達には情報が入らない。被災地、応援する人達の言葉や行動もなかなか海外には届かない。でも応援したい人たちは海外にもたくさんいる。ある財団は被災地向けに寄付集めたものの日本から申請が来ないとおっしゃっているそうです。日本のNPOだって海外から資金を集めていいわけです。国内調達も大切ですが、私たちもせめて英語で日本の状況をちゃんと外に伝える。日本で培ったものを売れるかは別にして外に発信する。世界に目を向けてもいいと思います。
Q:アショカ財団のビル・ドレイトン代表が東工大に講演に来られた時に、日本のソーシャル・イノベーションの状況が全くわからなく、英語で書いてくれるように言っていました。
もともと海外を支援するNGO的NPOは海外発信基本だと思うのですが、国内問題をやっている人が海外に発信する例がほとんどないので、できることからやっていきたい。
Q:「ひきこもり」は今や英語だと?
一昨年7月にオックスフォード辞書に"HIKIKOMORI"で登録されました。英語の概念にないので、"SUSHI""などと同じです。オックスフォード英語辞書は世界基準。そこに入ったということは日本独特の現象でありながら、世界でも同様のことがということだと思うんです。成熟した先進国で子どもを外に蹴りだす、自立を強要する力が親にも経済的にも厳しくなった場合に似たような状況が起こるだろうと。僕が留学した時、先進国でこうなったら若者支援のマーケットができるのと一緒で、先進国でこうなるとひきこもりは増えるという話ができて、先進国のスタンダードで本質的な部分で通じるものがあるのかなと思います。
Q:"HIKIKOMORI" は育て上げネットのキーワードになりますね。
海外で「育て上げ」がどんな意味合いを持つのかまだわからないのですが、海外でも日本でも支援は"Support" なんですよね。「育て上げる」というのは"raise" "bring up" なのか、それともサポートにあたるのかなと考えます。地域環境や社会全体で若い人の育ちを創るみたいな概念化ができればと思います。いつか"SODATEAGE"が辞書に入るかもしれません(笑)。
Q:若い人に仕事がないとはどんどん機会が奪われることです。そうなると「育て上げる」という概念を持ってもらって、共有することは重要ですね。
言葉としては育て上げや引きこもりよりも、若者支援がいろんな人の協力を得やすい。でも日本は若い人の支援は歴史が全然ない。ヨーロッパは100年とか歴史があります。日本では2003年頃からやっと始まったので、そもそも若い人を育てるっていう風土はあっても、社会的なコンセンサスが当然のものとして共有されていない。会社が育てるというのがあるかもしれない。会社と家庭に任せすぎていて、社会の役割として小中学生じゃない次世代を育てるというのがなかったと思います。まだ日本で7年しか経ってないので、深みはまだないんですけど・・。やもすると教育の責任か家庭の責任か自己責任になってしまって、社会責任にならない。その部分をお話させていただく際に、社会投資という言葉を入れることによって理解していただけるようになりました。
Q:私も一昨年9月に朝日新聞を辞めて気づいたのは、それまで社会人でなく"会社人"だったと。社会人っていう感覚を多くの人が持たないといびつになってしまう。家庭と学校と地域を統合した上位概念に社会がある。社会で育てる、社会でサポートし合う感覚がいるのかと感じています。
私は、人生のテーマに職住近接を置いています。働くことと家庭が近い、距離的にも精神的にも近いこと。昔の日本の在り方がいいなぁと思っています。うちのスタッフも多くがこの辺に住んでいる。もちろん遠くから来る人もいますが。職住近接だといろんな地域のお手伝いもできる。○○町に住んでいる工藤といいます、こういうNPOやっていますというと"市民という前提"が共有できます。同じ市民の工藤で、工藤は育て上げネットやっていますと言う。まず町民、地域、コミュニティーがある。町民までいくとどの辺?と聞かれる。例えば、高校の近くですと応え、話が弾む。
Q:若い世代が生き方、働き方を悩むことがあると思うのですが、何をアドバイスを?
ギャップイヤーという言葉に関連して考えると、生き方・働き方に悩む人は物事をゼロとイチかで考える人が多いと思う。職住近接で子どもを会社に連れてきたり、妻も同じ会社なのでうちで会議したりする。ギャップイヤーで学校を辞めるか辞めないかみたいな考え方とかある会社とそれ以外とか。ゼロとイチの間にすごく多様な0.1とか0.2とか数字があるはずなのに何でもかんでもゼロとイチで考えてしまう。のりしろやバッファー、重なりみたいなのが見えなくなってしまう。人ってあやふやな存在。基本的にあやふやな人間の生き方を考える時、あまりはっきりとした形で物事を考えすぎると余裕がなくなるのではないかと思います。「白・黒」で考えず、白黒の間に灰色があることを認識し、許容する。例えば青色は黄色と赤色を混ぜてみた人がみつけたんだと思う。会社と家だけじゃなくて、会社と家のものを混ぜてみる。ひとつひとつを点で考えず、2つを関連づけて考える。新しい何かが生まれると思います。色は原色でできてない。多様性っていろんな色を混ぜてみたら面白いことが起こる。結局どれにするのという物言いが多すぎますね。若者が将来に希望を持てる社会を創りたいですね。
"物心ついたときから「社会」を感じていた人"
工藤啓さんの話は、整然としてわかりやすい。自分ができる領域のポジション把握や目的意識が明確なのだ。それは、工藤さんが生まれ育った家庭環境から自然と出てくる実感が大きいと感じた。両親が若者の自立支援をしていたため、不登校や少年鑑別所から出てきた青年達と同居をしていた。それは、一般家庭で育った多くの人からみれば非日常であるが、工藤さんにとっては、30人規模の"大家族"は日常である稀有な経験だ。だから、今でもその皮膚感覚が残っているからか、判断に躊躇や迷いがない。日本は「社会的課題先進国」であり、日本が解決するであろうプロセスや手法、そして知見は、今後は海外に輸出・移転することも多くなる。HIKIKOMORIは、今や英語になったという。就労支援はドメスティックに見えて、実はユニバーサルであることを確認したい。(砂)
(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
]]>Q:高校時代は"井の中の蛙"だったと後に書かれていますが、高校時代に考えた「自分力」とはどのようなものだったのですか?
高校1年生までは、国立大学の受験を目指していろいろまんべんなく勉強してました。でもなんか"違うな"と思っていました。それで、カナダに漠然とした気持ちをもって旅立ったわけですが、そこでずっと問い続けられたのが、「あなたは何者なの?あなたは何ができるの?」でした。それまで自分自身にそのような問いかけをしたことがなかったことに気づきました。日本ではそんなこと聞かれたことなかったなと思って・・・。
私が留学した学校(United World College)は、各国から奨学金をもらって集まってくる優秀な生徒が多く、勉強はできて当たり前、その上で「あなたは何ができるの?」と問われることに初めは戸惑いました。政治のことを知り尽して、いろんなことを考えている人がいれば、アドリブでジャズピアノが弾ける子もいる・・・そういう中にいると、何かひとつ突き抜けてないといけない、人間としてこのままだと私はなんとも形容できない人になっていってしまうと思い、すごく悩んだんですよね。自分の居場所とかアイデンティティとか、すごくもやもやしていて、2年間実はずっと悩んでいました。勉強はどれやってもそこそこという感じで何か得意科目があるわけでもなかったですし・・・。
Q:中学・高校は私立だったのですか?
中学から受験して国立大学の附属中学に入り、高校入試で同じ系列の高校を受験しました。受験・受験でゲームみたいな感覚で、そこは楽しく受けたまではよかったんですけど(笑)。
Q:高校を1年生のときに退学し、カナダに留学したということですが、これはどこで見つけてそういうことになったのですか?
A4の1枚の紙が"ぺたっ"と教室に貼ってあったんです(笑)。高1の夏頃、日本の大学の受験戦争って何なんだろうと悩み始めていました。夏が終わったときに英語科の先生に相談に行ったところ、AFSなどは募集が全て締め切られていたんですよね。それで唯一冬に試験があるのがこれですよと見せて頂いたのが、そのA4 1枚の貼り紙だった。それをよく見たら、全額奨学金だし、丸2年行けて向こうで卒業して帰ってこられる。ぜひこれに応募したいという話になって、親に相談し、賛成してもらったわけです。
Q:カナダですごい経験をされたということですね。向こうの2年間では、学業以外のことで何かされた思い出とかはありますか?
私はバンクーバーの片田舎の学校で、ロッククライミング部に所属し、週に何回も山に行っていました。そのときはそれかダイビングのどちらかを選ばなくてはならなかった(笑)。あまりにも山岳地帯だったので、いわゆる校庭がありませんでした。陸上とかサッカーとかがないんです。だから山か海か選べと言われ、山を選んだのです。
文武両道も心がけていましたが、社会的な貢献にも重きを置いていたので、私はクイーンエリザベスホスピタルという重度の小児麻痺のお子さんがいらっしゃる施設のボランティアに週に2回行っていました。
Q:それは卒業までの2年間?
普通は1年間なのですが、私は母親がソーシャルワーカーだったこともあって、少しでも体が不自由な方の役に立てるならと思って2年間務めさせて頂きました。放課後の活動としてはすごく大きかったですね。あと今の学校設立の原体験になっているのは、夏休みにメキシコに行ったときの思い出です。
Q:それは1人で行かれたんですか?
ええ、学校のクラスメートがメキシコ人でメキシコ実家だったので。
Q:ちなみに、留学生の比率ってそのカレッジはどうでした?
そこは1カ国1人でした。1人とか2人とか。100人で、約85カ国前後。
Q:カナダ人も何人かいるんですか?
2割ぐらいはカナダ人で、残りの生徒は全て異なる国の出身でした。日本では、正直まだあまり認知度が高くないんですが、すごく素晴らしい奨学金の制度だと思うので、もっと広めていきたいと思っています。
メキシコ人の友達がいて、その彼女の実家を訪ねたのですが、それが私の中でとても衝撃的な経験でした。発展途上国に行くのが初めてで、25年ぐらい前のメキシコですから、スラムも本当にスラム。貧困と混沌のメキシコに初めて行きました。そのときはスペイン語を習いたいぐらいの軽い気持ちで行ったんですよ。彼女の実家は、小部屋に6-7人で住んでいて・・・。
Q:彼女が裕福な家庭だったというわけではなかったということですね?
そうです、奨学金をもらって学校に来たことがわかりました。たとえば彼女のお兄さんは、中学校を卒業して自動車の整備工をしていました。その中でも彼女だけ奨学金をもらえるという幸運に恵まれて、カナダに来て全然違う人生を歩んでいるわけです。そういうのを見て、自分が当たり前だと思ってきた教育とか、あるいは親がいて、当たり前のように大学になんとなく行くと思っていたということが、どれだけ幸運なことか、その社会の中においては当たり前でないのかということをはじめて思い知りました。それで、カナダの学校の中では自分の無力さとか才能の無さを思い知り、その一方で外に出て自分の幸運を思い知った。自分に与えられた能力や運、縁とかが、たぶん自分だけのためのものじゃないんじゃないかっていうのをすごく強く感じ始めたのが高校時代だったですね。でも、じゃ、どこが私の売りなんだろうって悩み続けた2年間でもあったんです。
Q:ちなみにメキシコに行かれた期間は1週間ぐらいですか?
1ヶ月単位ですね、1ヶ月を何回か行きました。
Q:それでカナダって秋入学で卒業は夏ですよね。そこに2年間いて帰国して、その後どうなったのですか?
私は6月に帰ってくるんですけども、そこから実は9月には慶応のSFCに仮面浪人という形で毎日通っていたんです。SFCの総合政策学部で、今でも仲がいい人がたくさんいるんですけど、9月から3月まではSFCに通いながら受験勉強をしていたんですよね。私は、1993年の9月から1994年の3月まで半年在籍していました。SFCの4期生です。
Q:ということは大学に通いながら東大への受験勉強ですよね?秋に入学されて受験は1月ですよね?
そうです、センター試験は1月ですね。
Q:すごい集中力ですよね。
まぁ、そう言われれば、夏休みもありましたので(笑)。大学に入る前の夏は勉強していました。慶応に入っちゃったらものすごく忙しい大学なんです。すごく出席を厳しくとる学校でほとんど何もできず、さらに泊りがけでプレゼンとかをやるという体育会系の学校なので、ずっと(受験勉強が)止まっていました。それで冬休みにもう1回勉強し直してセンター試験を迎えるという感じだったんです。
Q:なぜ慶応から東大に行こうと思われたのですか?
もともと東大受験というのは視野には入っていました。京大は実は帰国子女枠で受けていて、東大の一般入試も受けていて、うまいこと2次試験が同じ日だったんです。そのため両方とも受けられなくて、いろいろ悩んだ結果、東大の方だけを受験することに決めました。
Q:それで、国際関係を勉強されていたのですか?
はい、開発経済という、経済学部の中でも途上国経済を中心にやっていたんです。
Q:それで卒業時、当時としてはまだ早すぎて"注目を集める領域じゃない"途上国経済ということだったのですが、そのあたりはどういう判断があったのでしょうか?
私は先ほど質問にあった「なぜ東大に行ったのか」というと、もともと就職先として国家公務員とか外務省とかそういうイメージを持っていたんです。そのためには、国公立の大学がいいんじゃないかと。入学していろいろOG・OB訪問とかしていると、当時私は就職活動としては、外交官試験の勉強とか、あるいは当時のOECF(海外経済教育基金)を視野に入れて勉強していたんです。でも先輩たちからは「君は向かないんじゃないか」とか「公務員っていうのは、キャラクター的にちょっと違うんじゃない」とすごく言われました(笑)。「特に日本の公務員ってどうかなぁ?りんちゃんは大丈夫かなぁ」と仲のよい先輩に結構心配してもらいました、それで他も見た方がいいと。「国際協力っていうのは国際機関っていう道もある。例えば新卒では入れないので、何年か民間に行って大学院に行って、そこから国際機関っていう道もあるよ」なんてことをささやかれたんですよね。今JICAさんにいる先輩なんですけど。民間って何にも考えたことがなかったので、そういう選択肢もあるのかと思って外資系の金融とかを見ることにしたんです。
じゃあ、キャラに合うってどういうことなんだろうって。数年間でいずれそういう道に入る、あるいは大学院に行ってからそういう道に入るということであれば、若い時代に自分のキャリアにあったことをのびのびやったほうがいいんじゃないかっていう先輩のお言葉をいただきました。それってどういうことなのかと思って悩みました。だけど、外資系とかまわっていたら「こういうのをキャラに合うっていうんだろうな」って実感しました。面接がすごく楽しいし、話していて同じ"匂い"がする人がわさわさ出てきたんです。
今思えばすごく非常識だったと思うんですが、私は本が大好きなので面接の待ち時間とかを惜しんで本を読んでいたんですね。そしたら外資系投資銀行の面接官に「普通君ね、面接のときの待ち時間に本とか読まないんだよ」って言われて(笑)。まぁ雑誌とかいっぱい持って読んでいたんですよ。「でもそういうの僕は面白いと思う。僕はそういうのはすごく好きだ。でもそれ日本の会社だったら君はNGだよ」って言われて、「そうなんですか」って(笑)。
Q:その方は日本人だったのですか?
日本人です。その方が採ってくださって、私のことすごくかわいがってくださいました。今でも面接のときに本読んでいたって言われるんですけど(笑)。
Q:外資系投資銀行のあと、ベンチャーの経営者になられたというのは、これはどのようなきっかけなんですか?
そのとき私はモルガン・スタンレーの投資銀行部という部署で、2年目にIPO (株式上場) 業務担当で、いろんなIPO企業のお手伝いをやらせもらう部署に配属でした。投資銀行の人間っていうのは、いわば会社を世の中に一緒に"売っていく"仕事なのです。その経営者の方々と一緒に、ロードショーと呼ばれるもので、世界中の機関投資家さんに「この企業はこういう企業ですから投資してください」とか「最初の上場のときに株を買ってくれませんか」って機関投資家さんに話をするんです。それは私たちがするのではなく経営者がやるんですけれども、そのストーリー作りとかロードショー、その機関投資家を集めるのは証券会社がやるんです。そのお手伝いをしていた部署だったんです。
それで何が起きるかっていうと、2週間とか3週間とか世界中をその経営者の方と泊まりながら周るわけですね。当然いろんな話を聞きます。「IPOも面白いし華やかだけど、その前が面白いんだよ」って言われました。そのほんとに何もないところから立ち上げて、「今、君が見ているところは起業というもののほんの一瞬の断面であって、その前とかその後が本当はすごいビジネスの醍醐味なんだよ」っていう話をされて・・。私の場合、いつか大学院に戻って、開発あるいは社会貢献の道にと思ってずっといました。だから若い間の勉強期間っていう意味では、自分はどういうところを伸ばしていけばいいのかなって思った時に、もっと勉強できるところ、もっと自分を活かせるところっていうのを考えていたんですね。
先ほどの「自分力」って話に戻ると、実は先ほどのモルガンの採っていただいた方以外に、もう一人インド系のアメリカ人で今でもすごく尊敬している上司がいたんですけれども、彼が私の「自分力」を初めに見出してくれました。1年目が終わった時のレビューというか評価のときに、彼が「君は人間のコミュニケーション能力とか場の空気を読む嗅覚が非常に研ぎ澄まされている」と。「それは今アナリストとして一生懸命モデルを作ったり、数字をかちゃかちゃやったり、プレゼンしたりっていうのには活かされないかもしれないけど、将来5年後とか10年後とか、君がいろんな人にセールスというかディールを持って来るときに絶対に活きてくる。そして人をマネージする立場になったときにあなたのその性質は必ず活きてくる」と。
けれども実際には小数点間違えたり、計算間違えたりとかいろいろするわけですよ。「今のこういうのはちょっと向いていない。まあ頑張っているけど、君の良さはもっと将来的に活かされてくるから頑張ってね」ってすごく言ってくれました。「あぁそうか!」と思って。それまでそれが自分の能力だとして、私は全く自覚したことがなかったんですね。ただ私はおしゃべりが大好きだし、人が大好きなんです。それがあなたの能力なんだよって言ったのが彼だったんですよね。
そこから2年目のそのIPOの部署に行った時も、例えば私がお酌の席をとるというか、大きな案件の営業の席とか接待の席とかに行くと、ウケがよかったみたいなんです。よく飲んでよくしゃべるから(笑)。普通はそんなレベルでは営業に行かせてもらえないんですけど、いやなんていうか、「いいんじゃないの」みたいな話で連れてっていただけるっていうシチュエーションがぱらぱら出てきました。
でも数字はほんとに苦手で、今でも苦手なんです。一方で「こういうところが私の能力だ」と言ってくださる方が複数いらっしゃる。これはもしかして、ビジネスの現場では能力なのかなと思い始めました。「じゃそれを伸ばしていくってどういうこと何だろう」って。ずっとその数字をなおすってことをやるよりは、もっともっと自分で営業というか、自分で外に出ていろんな人と話しをしていく、自分の商品や会社を売っていく、あるいは自分の方から攻めてやっていく、人を束ねてやっていくっていう方がたぶん私にとっては「自分力」を伸ばしていくってことじゃないかなって思いました。
そこでたまたまベンチャーの社長さんとの出会いがありました。こういう道っていうのは、私がもし30歳手前までやるんだとすると、すごく勉強させてもらうにはいい舞台なんじゃないかなとベンチャーに転職しました、模索していた時代だったんですね。
Q:小林さんの話を聞いていて思ったのは、やはり上司の役割って、部下や一緒に働いている人の能力をしっかり量ってあげて、ちゃんと伝えてあげることがものすごく重要だということです。私はシンガポール駐在として3年半いて、"bright side of the coin"っていう言葉を実感しました。つまりできるだけポジティブな表面を見ること。でも日本ってどちらかといえば故意にネガティブな欠点だとか裏面を見てしまって、表面を客観的に見ようとすることが少ない。だから今聞いていてとても羨ましいし、良い方にめぐり会われたのだなと思いました。
私は本当に上司とのめぐり会いには恵まれていて、どの時代もそうなんですけど、それこそ本当にいい面だけを見てくれる上司に恵まれて、今に至るんです。
Q:それで誘われてベンチャーに行かれるということなんですが、これはどういう業種だったのですか?
ITというか、ITはITなんですけど、アパレルとか雑貨のバックヤード、在庫管理とかをやる会社だったんですね。そのころに業界そのものに興味があったわけではないんですけど、その経営者の方がすごく魅力的な方で、問屋さんをやっていたおじちゃんがいきなり起業したみたいな感じで、そこから問屋をやりながら日本の流通業界の非効率性、それを変えたいと。私はその勉強させてもらうって意味では、業種というよりは自分がどういうロールで入るかってところが一番大きかったので、この経営者の方であれば、是非私も微力ながら一緒にやらせてもらいたいなと思える方に、たまたまめぐり会えたのです。
Q:ベンチャーにおられたのは、いつ頃なのですか?
私1998年に卒業して、1998年から2000年までモルガンさんで、2000年から2003年までラクーンという会社にいました。その後2006年にマザーズに上場しているんですよ。
Q:その後、転出されて2004年からスタンフォード大の大学院に入学ですよね、そこはどんな心境の変化があったのでしょうか?
直接的なきっかけとしては、10年に1回のカナダの高校の同窓会です。27歳のときにカナダに1回帰るんですね。でそこで1週間の合宿というか、世界中から生徒たちが集まりました。なので同窓会も国際線でみんな来るんです。1日とかじゃなくて、1週間昔の寮に泊まって昔の仲間と今だからこそ、本当に腹を割っていろいろ話せるというか、その当時はいろいろ悩んでいたことも吐露して、お互いに向こうも実は悩んでいたとか、全然私から見たらこの人華やかでいいな、悩みなさそうだなと思っていた人も実はすごく悩んでいたとか・・。いろんなことを経て自分の内面を内省する期間があったんですね。
Q:それは、本格的なホームカミングデーのようなものですか?
そうですね、それがきっかけでやっぱり初心というか、10代で考えていたことって何なんだろう。そしてこの20代に民間で勉強させていただいたことが、どういう意味を持つと思ってやってきたのかを立ち返ってみたときに、やはり30歳手前にして大学院に行きなおすという選択をするわけなんです。
Q:ホームカミングデーに行かれたときは、まだベンチャーにいたんですね。
そうですね、いました。
Q:それでベンチャーを辞められて、今度はスタンフォードに?
実はスタンフォードに行く前に、1年間だけJBICでもお世話になりました。そもそもカナダに行って帰ってきたすぐの東大の開発経済のゼミの先輩の結婚式 で、隣に座った先輩がJBICで穴埋めを探していると聞き、応募してみたら採用していただけたんです。ただそれは専門調査員という有期なのでいつかは出なきゃいけない。ミニマム1年ごとの契約がマックス3年という契約だったので、その次を考えようってことでした。仕事をしながら大学院の準備をし始めて、3年ぐらいで受かればいいかなとか思っていたのですが、幸い1年で受かったので、お世話になったJBICを辞して次のステップに行くという感じだったんです。
そしてスタンフォードで2004、05年と過ごしました。その後、06年から08年までユニセフでした。
Q:ユニセフではいきなりマニラ勤務でしたよね。これはそのときはまだ独身だったのですか?
結婚していました。私はモルガンの2年目に結婚していますので、大学院もマニラもずっと単身赴任です。
Q:それはご主人のものすごい理解があったということですね(笑)。
いやもう、今もそうです。本当に私の人生の中での1番の成功は、主人に出会ったことですね(笑)。
Q:支えてくれる人が身近にいるということはすごい力になる。それで、マニラからどうして今の学校を創ろうという計画につながるのですか?
私がマニラの時代は、ストリート・チルドレンの非公式教育ということをやっていたんですけど、それが高校時代に思っていたことに結構近いはずだったんですよね。能力とかやる気で人に差が出るのは仕方ない。だけど、教育の機会不均等ってすごくよくない、能力ややる気があるのに機会が与えられないっていうのが一番よくないんじゃないかなと思っていました。なので、特に貧困層の方たちに機会が与えられることが大切だと思っていたし、かつフィリピンでは貧困層が大多数です。その人たちの識字率を上げることによってその国が変わっていく、それがどういう方向性に変わっていくかは、国民の選択だと思います。けれども、その選択するための情報とか判断材料とかを理解する、ベーシック・リテラシーで、支援させていただくっていうのが近いんじゃないかなと信じていたんです。
学生時代にバックパックも一杯やってきたし、いろんな国も見てきたつもりだったんですけども、実際にフィリピンに住んでみて、ものすごい格差に初めて愕然としてしまいました。国連職員として色々な方とお付き合いさせていただく中で、将来的にいろんな意味で社会的なインパクトを持ちうる立場にいる階層、あるいは高い能力を持っている人たちの教育とか価値観とかに、もし自分が影響を与えられるような教育をすることができたら、それは貧困層に対する教育と同じぐらいインパクトがあるんじゃないかなと思い始めていました。
国連が支援している子たちはものすごい格差の中で生きていて、自分が社会的に影響を与えられるような立場に上がってくることはなかなか難しいという現実があります。この人たちが上に上がっていける支援か、またはすでにいけそうな人たちのための教育みたいなものって何かできないかなと漠然と思い始めたのが4年ぐらい前の2006年か7年ぐらい。そこでたまたま今一緒にやっている谷家という彼に、日本に帰っていた週末に食事会で会うんですね。それが、学校設立事業の始まりでした。
Q:マニラ=東京間は、近いといえば近いですもんね。
はい、それもあって私はフィリピンを希望したんですけれども。そんな中で、帰国した際、たまたま彼と食事会をしていて、ライフネット生命の岩瀬大輔くんっていう今すごく時の人だと思うんですけど、彼が大学の同級生で私がこういうことで悩んでいたら、「すごく才能のある若い人たちを応援することをやっている人がいるから会ってみますか?」って勧めてくれてお会いしました。彼の方から「僕は実は学校を創りたい」って言われて。私のアイデアじゃないんです、そういう意味では(笑)。それで彼が「学校を創るってことどう思う?」って言われて、「あ、そうかー!」と気づかされました。
Q:ないんだったら創ろう、みたいな話ですよね(笑)。
私にとって自分の価値を一番出せるのが、何かを一から立ち上げることであり、やりたいことっていうのは、教育とか社会貢献だった。社会貢献の中でも特に開発経済、その中の教育、特にリーダーシップをとれる人を育てる学校というアイデアが出てきた。自分のやりたいことと望む働き方の両方がピタっと合ったんです。先ほどご指摘があったように、主人とずっと離れ離れだった中で、日本に軸足を置きながらアジアに貢献していけるという意味でも、すごく全部が満たされるプロジェクトだなと思ったんです。
Q:今どんな学校にしたいと描いていますか。ロールモデルはどこかにありますか?
ひとつあるとすると、アフリカにアフリカン・リーダーシップ・アカデミー(ALA)という学校が3年ぐらい前に立ち上がっているんです。これは同じくスタンフォードの大学院生たちが卒業して立ち上げた学校なんですね。大陸の指導者層を育てるという使命を持っている学校なんです。アフリカ大陸のアントレプレナーシップを持ったリーダーを創るという学校なんですけど、「リーダーを創る学校」という点でロールモデルかもしれないですね。非常にすごい学校だなと思って拝見しています。
Q:インターナショナルスクールをなぜ軽井沢なのかということと、学費や学校の特徴は?
学校のミッションとしては「日本、それからアジア太平洋側地域、かつグローバル社会に向けて新しいフロンティアを創れる人を輩出する」ということを掲げています。
リーダーといったときに、いろんな解釈があると思っていて、私たちが解釈するリーダーというのが、「新しい時代の新しい価値観をリードできる人」というふうに定義しています。日本ではリーダーというと官僚とか政治家とかそういうイメージがあると思うんですけど、それでもいいんです。どんな立場であっても、新しい価値観というかフロンティアを創ってなかったらとリーダーじゃないと思っています。日本の場合、ポジションとリーダーシップがごっちゃになって考えられていると思うんです。
Q:チェンジメーカーという言葉がパンフにありましたが、それはやはりアショカ財団のビル・ドレイトンさんの言葉なのでしょうか?
似たような意味だと思います。今、申し上げたことをどういうふうにワーディングするかっていうすごく自分たちの中で悩んでいて、リーダーというのもなかなか誤解があります。あるいはチェンジメーカーの意味がなんか輸入品っぽいなという中で、私たちはそのリーダーという言葉を自分たちで定義をしていこうと。それで新しくフロンティアを創り出すリーダーという形に落ち着いたんです、3年かけて。どうやってワーディングしていったら、一番伝わるんだろうねって話をしました。
Q:学費であるとか、カリキュラムは?
学校自体は高校1年生から3年生、いわゆる日本の高校の文部科学省の教育法第一条項といわれるものなんです。日本の高等学校としての資格も取っていくという学校で、日本で初めて、インターナショナルスクールでありながら全寮制、かつ文科省の認可を受けるというのもたぶん初めての学校になっていきます。かなり日本の中ではユニークなポジションになってくると思うんです。学年50人で3学年150人の非常に小さな学校です。
全ての生徒さんの感じていることとか、あるいは悩んでいることとかを感じられる距離感が必要だと思っているのです。だんだん大きくなってくのかもしれませんけれども、私たちにとっては何百人と通り過ぎていく生徒たちでも、生徒たちにとっては一回しかない高校生活を私たち新設校に託していただくということで、一人でもアンハッピーな人が出ちゃいけないと思っています。
そうすると、やっぱりマックス150人。私のカナダの学校って200人ぐらいだったんですけど、年間に1人や2人ぐらいドロップアウトが出るわけですよ、全校の中では。それでも目が行き届かないんですね。200人の全寮制でものすごいプレッシャーの中で、すごく学力の高い人たちの中で切磋琢磨して、すごくディマンディング(要求が高い)でプレッシャーもありますし、1年に1人か2人ぐらい帰っちゃう生徒がいるんですね。そういうのを見ていたので、どのぐらいの規模なら全校生徒に目が行き届くかなと考えたときに、学年50人、学校で150人ぐらいだったらサイズ感としてベストであると。とはいえ財政的に赤字になってしまってもいけません。ぎりぎりのラインっていうことなんだろうと思ったときに、たぶん150、160人ぐらいからスタートすることがいいんじゃないかとなったわけです。
Q:費用は?
年間の費用が実費の場合250万円。プラス寮費100万円で350万円です。これが都内のインターナショナルスクールと同じぐらいで、海外のボーディングスクール、全寮制よりもちょっと安い、今超円高なので今のレートでたぶん同じぐらいだと思います。ただこれだと本当に富裕層の方しか来られなくなってしまうので、5人に1人は奨学金を出したいと思っています。
Q:価格競争力っていう意味では他の学校と変わらないし、しかも奨学金も用意しましょっていうことですね。
そうですね。
Q:日本人と非日本人の比率はどうなんですか?
昨年のサマーススクールですと、3分の1が海外からの留学生で、3分の1が国内のインターナショナルスクールに通っている多国籍の方たち、3分の1が日本の学校に入る日本のお子さんたちですね。
今年はインターナショナルスクールに行ってらっしゃる方たちが3・11の影響でほとんど参加いただけず、両脇がきゅっと広がったような感じで、2分の1が海外から、2分の1が国内からで、そのうちインターナショナルスクールのお子さんは4-5人ぐらいでした。10人ぐらいが日本の学校で、3分の1に相当します。10人が日本の学校、5人がインターのお子さん、15人が海外からという感じだったんですよね。だからこう線を引いて何人以上って決めるわけじゃないんですけど、普通にリクルーティングして、生徒募集をしてこういう比率になったので、これが一つの目安になるんじゃないかと思います。
Q:2013年の9月に開校として、今の進捗状況ってのは相当うまく回っている。学校建設もそろそろですね。
そうですね。今の段階としては、2011年の6月に学校の土地の確保をしました。7月にサマースクールをして、8月に文科省の特例校として申請し、12月に指定を受けることができました。つまり日本の学習指導要領にぴったりそっていないけれども、特例校として認めて頂くことができた。一方9月には公益法人認定を取得、今年1月には長野県より学校設置計画を承認されました。
Q:一般財団から公益法人になった?
はい。
Q:それはおめでとうございます。大変ですもんね、審査の条件とか?
でも本当に内閣府のご担当者の方がものすごく頑張ってくださって、いろんな調整を各省庁さんとしてくださったんです。しかも実績が全くない財団でやっていただくのは本当に特例だと思うので、ご担当者の方にはものすごく感謝をしています。
Q:立地についてですが、軽井沢っていうのははじめに軽井沢があったのか、それとも、いろいろ探したけど軽井沢だったのか?
もともと探す条件として3つだけどうしても譲れないと思っていたのが、自然の中にあることと、それから海外から多くの留学生を受け入れる予定なので、国際空港からある程度の近いところにあることですね、それから公共交通機関があること、ということで探していて、そうすると、もう1つありますね、海外の方からみて圧倒的に差別化できる立地、例えば、富士山が"どーん"とあるとかですね(笑)。
軽井沢の場合は雪が降るとか。特にアジアの方ですね、アジアのシンガポールとか香港に比べて圧倒的に違う立地、雪が降る森がある温泉があるみたいな、そういうところはたぶんアジアの方にとってはすごくインパクトがあると思ったので・・。富士山の麓とかも、うち父が富士市出身なので富士もいいなと思っていたんですけども、新宿から高速バスってそれは海外の方はちょっと厳しい。新富士の新幹線の駅からも相当ありますので、ちょっと難しいかなと思って富士は断念したんです。
いろいろ東北新幹線沿いとか那須とかですね、いろいろなところを見ていった中で、いろんな地域の方とお話したんですけど、軽井沢最後の決め手はやっぱり人でした。人がものすごく違うなと思って。もともとショー牧師という方が開いた別荘地だと言われています。国際的なものに対して非常に寛容力のある土地だと思うんです。なので別荘とか持っている方はもとより、町の役場の方とか農家の方とか建設のおじちゃんとかに言っても、みんな「いいね、この話!」って言うわけですよ。特殊な地域だなと思って。この学校をすごく心から「いいね!いいね!」って言ってくれる人がいっぱいいる、これは特殊な地域だなと思いました(笑)。
Q:長野は「教育県」ともよく言われますね。また、軽井沢といえばジョン・レノンが避暑地として・・
あっ、そうですね、オノ・ヨーコさんがいらしたというのもありましたし。やっぱりもともとショー牧師を初めとする海外の方たちが、東京の暑さを逃れてくる避暑地だったので、かなり国際的なところでした。そのせいか、私この前初めて知ったんですけども、ショー牧師などが海外からいらっしゃったので、パンとかジャムとかって長野県で初めて作られたのが軽井沢だったと。今でも軽井沢ってパン屋とかジャム屋とかイタリアンとかそういう洋モノがすっごく多いんですけど、それはそういう方たちに端を発している。という意味で、こういうインターナショナルスクールというのは、特に東京を出て地方に創るとなると、地域に溶け込んでいくのが難しいと思うんです。「本当にこういう学校ができることを誇りに思う」っていう風に言ってくださって。すごくそこに、この方たちと一緒に創らせていただきたいなというのをすごく感じたっていうのが最後の決め手です。
Q:軽井沢は一つのブランドですし、お決めになったのはいつですか?
「軽井沢は・・・」とは言いつつ、土地がなかなか決まらなかった(笑)。軽井沢地域と思ったのは、3年ぐらい前なんですけども、その中でやっぱり軽井沢町内ってなるとかなり地価が高くてですね。不動産市況が下がってきてて、軽井沢町内でも意外と手が届く土地が出てくるんじゃないかとこの2年ほど言われてきた。やっぱり軽井沢町内が一番理想的。でもなかなか高くて手が届かなかった。ところがだんだん手が届くように、いろいろなご縁があって、いい土地にめぐり合えたのが昨年の1月31日でした。
Q:それは何坪ぐらいなんですか?
7400坪ですね、全部で25000坪ぐらいあるところを地主さんとは、「将来的にこの25000坪に学校のキャンパスができたらいいね」と言っているんですけど。
まずはその3分の1の7400坪を購入させていただいて、そこに校舎と寮を建てます。
Q:今、準備事務局として一番お困りになっているとか、一番欲しているとか、そのあたりはいかがですか?
やっぱり奨学金ファンドですかね。幸いなことに、地代とかその建設費とかは集まってきているので、ずっと奨学金を出し続けていくためには、やはりかなり潤沢な資金がないとやっていけませんので。かつどれだけ奨学金を出せるかが学校の根幹でもあります。全員自費にすればまわっていくんですけど、きちんと奨学金を出すっていうことが私たちの一番の大きなミッションなので、そういう意味ではそこの奨学金の部分をご協力いただけるような方が一番ですね。
Q:いわゆるファンドレイジングというのはどうなんですかね、ファウンダーとは別の話ですか?
ファンドレイジングの中でも、ほんとにかなり大口で入っていただく人をファウンダーと呼んでいるんですが、ファウンダーって英語でもちろん創設者という意味です。なので、誰か一人が創設者というよりは、今回はみんなで創っていっているという学校。別に私がすごい大資産家とかではないので私のお金ではないですし、一緒にやっている谷家は本当に一生懸命支えてくれていて、彼のもつあらゆる人脈を駆使して共感の輪を広めてくれていますが、私財をどーんと投じているわけではないので、みんなで同じぐらいの費用を持ち寄っています。
Q:いわゆるコ・ファウンダーというか、みんなで創っていきましょうという感じですね。
もちろんその核となる理事のメンバーでかなりの金額は用意しているんですけども、その人たち以外にもいろんな方に大口入っていただいています。みんなで創っていく学校にしたいという風に考えていますね。
Q:話伺っていて、小林りんさんという人は、IPOがらみで社長さんと一緒に動かれたことを今されているのかなと思いました。
振り返ってみると、どこも無駄じゃなかったな。実は途中途中で結構いろいろ悩みながらの人生、キャリア形成だったと思うんです。やっぱり一番の近道を通ってきたかというとそうではないと思うんですよね。例えば2、3年モルガンにいてすぐ大学院とかすぐ国連とかの方が、たぶんきれいだったと思うんです、履歴書という意味では。でも社会人の基礎というのはモルガンで本当にいろいろ教えてもらいました。
先ほどのベンチャーでは、全部一から創っていくということがどれだけ苦労することなのか、すごく思い知りました。そこで自分で名刺を脱ぐというか、誰も知らないこと、例えば大きな会社の名刺とか学歴とかを背負ってではなく、やってることと自分っていうものだけを売りにしていくってことがどれだけ辛いことなのか、今までいかに学歴とか会社の名刺にお世話になっていたのかを思い知りました。そういう意味でも、それを脱ぐっていうことが、どれだけリスクがあって大変なことなのかということを思い知った上でやっています。
今やっと少しずつ知名度が上がってきていますが、今でももちろん私のことをまったく知らない方に名刺をお渡しして、ゼロからご説明することもある。そういう中でもやっていくというのはどういうことなのか、でもそこでもきちんと誠実に実直にやっていけば、見てくださる方は見てくださるというのをすごく実感しています。
そういう意味では「石の上にも3年」、今ちょうど3年でもう3年座っていますけど、石の上にずっと(笑)。そういうことによって「皆さん見てくださる」とか「きっといつかわかってくださるんじゃないかな」っていう忍耐力をすごくその時代に学ばせていただいたのだと思います。どこもたぶん無駄になってなかったんですよね、本当に。
Q:そうですね本当に。何かトータルな形で今生かされているし、今生きておられるような感じがやっぱりします。転機がそれぞれつながってますね。まるで竹の節目のようにその都度成長されているというか、上に伸びている感じです(笑)。
竹のようにまっすぐじゃないですけどね、さるすべりみたいですけど(笑)。
Q:でも幹みたいなものは動じていないというか、全然ぶれてない。
いやぁ、でもほんとに悩んできましたけどね。特に「自分のやりたいこと」と「一緒に働きたい方や方法」が一致してこなかったのが、ずっと悩みだったと思うんです。モルガンとかベンチャーですごくクイックなファストペースな現場でバンバンやってくのって楽しい。でもやりたいことは教育とか社会貢献とかであって、そこがなかなか一致しなかった。ここはここで面白かったけども精神的にハッピーではなかったというか、やったこれが嬉しい楽しいって感じではなんというか最終的にはなかったんですよね。
逆に国連とかJBICも面白かった、やっていることはすごく楽しかったんです。でもやっぱりもっともっと自分で一から創っていくようなことっていう方が向いているなぁと思った。何かこう初めて私はこういうことをずっとやりたかったんだなっていうことにめぐり会えたって感じですかね。
Q:おそらく小林さんが注目される一つの理由っていうのが、学校を創るとなれば、学校経営を今までずっとやっていたとか、プロの教育者として長らくやっていたという人が、主流じゃないですか。もともと、どこかで校長やってたとか・・。そういうことじゃなくて、今まで歩いてきたところは教育の世界でなく、ビジネスの世界や国際貢献だった。ところが、今、新たなコンセプトで学校という形でチャレンジされるっていうのが、ある意味今までとは違うプロセスで非常に興味深いし、期待を示す人が多い。そうか、学校を創るのは教育者出身者や大金持ちでなくてもいいんだと気づかされる、その可能性を見せていただいたのが、大きいと思いました。
いや、まだまだですよ。長い長い長い道のりに少し怖くなりますけど(笑)。
Q:もともと学校を創るのにアジアの格差やアンフェアなところを感じて、それが情熱になったと感じましたが、視野に入っているのはアジアですよね。日本でインターナショナスクール設立となると、日本の視点を意識していますか?
いくつかあります。日本はアジアのスイスになれるんじゃないかと思っています。経済大国でなくなっていく中で、日本の新しいポジショニングは何かを考えることはありました。学校というのは、治安・環境はもの凄く大事。アジア人がどこにでも行けるといえばどこを選ぶんだろう。日本ならばアジア中の人が来てくれる学校になれるだろうなというのがひとつ。
20数年前から海外を見てきた中で、当時日本は絶頂期で輝いていた。20年経って、ハッと気がついた。谷家にも言われました「海外のリーダーシップだけじゃなくて、日本も含めてアジア全体のリーダーを育てよう」と。
実は大学の仲いい友人で同期に三重県知事の鈴木英敬さんがいる。「日本を何とかしろよ」と言われ、ずっとそんなことも頭にありました。日本にどうやって貢献できるのかな?と。日本人として今の学校はベストな選択肢、学校としても意味があるし、自分も日本で貢献していく形としては意味があるなぁと。
Q:高校生になる子たちを集めるわけですが、小学校や中学校の若い世代に向けてはやっていきたいことはありますか?
今のところはプランとしては考えていません。将来的に中学校併設をやることがあるかもしれませんが、あえて高校をやっている理由がいくつかあります。
ひとつは能動性っていうのがあって、自分で選択して、判断して来てほしいと思っています。誰かに行かされるのでなくて。もの凄くチャレンジングな場になる。学業もみっちりやらないといけないし、いきなり英語だし、全寮制でし、山奥にある。山奥といっては失礼ですが。自分はここを選んできたという自負がなければと到底乗り越えられないハードルがいっぱい待ち受けているんですね。
私はカナダの学校は行かされていたら逃げていましたね。こんな辛いところに行かされてと親を恨んだかもしれませんね。自分が選んでいったからこそ、乗り越えなきゃいけないと思ったし、しっぽ巻いて帰れないと思っていました。自分で能動的に来てもらうことがもの凄く大事です。それが何歳なら判断できるか?中三はぎりぎりかなと思います。小6でも選ぶことができる子が、中にはいるかもしれません。今後高校の半分くらいの人数を中学から入るのはあるかもしれない。自分の発展のステージにあわせて早い子は早いので。そういう方のための中学はあるかもしれません。
もうひとつは多様性。小学校の時からずっと同じ釜の飯を食っていたらそれが多様なのか?というのがあります。社会の中で直面する多様はホントに多様ですから、ある程度自国の中で、文化の中でアイデンティティが築かれた人たちが、がちゃっと集まるから多様だと思うんです。ある程度アイデンティティが出来る段階はどこなのかなぁと。中学校3年がぎりぎり。大学でいいんじゃないかという人もいる。私たちの考えでは高校ぐらいがベストではないか?と思っています。いつがベストか答えはないし、お子さんによって違う。学校はお見合いみたいなもの。こういう場を提供させていただきますので、精神的にも学力的にも、かつ理念に共感して下さった方が来ていただく形になると思います。
Q:最後に、将来お子さんをその学校に入れたいですか?
もうじき2歳ですが、彼の判断でしょうね。やっぱり私は能動的に人生を歩むことが一番重要だと思っているので、彼が能動的にそれを選びたいと思えるような学校を創りたいとは思いますけども、あくまで彼の判断だと思います(笑)。
(編集:青学・土田友里)
"会うと引き込まれるポジティブなエネルギーを感じる人"
とにかく、話のテンポがよく、明るく爽やかさを地でいく人だ。経歴は一見華やかに見えるが、小さな"寄り道"や迷い、挫折も経験されている。それが今の人間"小林りん"という人の魅力を一層倍加させているのではないか。マイナスのことをプラスに転化できる達人のような人に思える。何事もいったん受け止め、そこから大局観を持って、次なる行動に移せる人だ。りんさんのギャップイヤーは日本の高校を辞めた時に始まり、カナダで鼻っ柱を折られ、自分を見つめ直したところにある。私の楽しみは、ズバリ、インターナショナルスクール・オブ・アジアでの生徒を前にした開校式でのりんさんのスピーチだ。2013年9月は、日本の中等教育に大きなインパクトと新しい価値を与える月になることだろう。(砂)
]]>(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
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Q:大学卒業するタイミングというのは、・・・何年入学になるんですか?
大学は、昭和56年(1981年)4月入学で、昭和60年3月卒業です。
Q:昭和60年3月に卒業される慶応の同期の皆さんは・・・、その頃の経済状況、就職状況はどんな感じだったのですか?
その頃は、バブルのまだちょっと前ですから、まだ、証券会社の人気が高まりつつあるころで、野村さんとかが、それまでは証券とかはそうでもなかったのが、バブルがはじまる頃で、上位にきていたと思います。ほかに、普通にいつもの東京海上さんとか、メーカーも人気がありましたね。そんな時代じゃなかったかと思います。
Q:そういう時代に、みんなと一緒に大企業に"入社"するんじゃない道を歩まれた。言いにくいですが、世の中的に一種のドロップアウトと見なされますよね。当時どんな気持ちだったんでしょうか?
単純に、高校3年間と大学4年までは音楽をほんとにやっていたつもりなんですけど、今振り返ってみると、甘ちゃんなんです。 バンドもちゃんと組めなかったし、曲が作れたわけでもない。ステージに1回も立てなかった。ですけど、本人的にはミュージシャンをやりたくて、ぎりぎりまでがんばっちゃって。当時は、9月1日が就活解禁で、その辺まで行っちゃって、出遅れた頃に駄目だみたいな、就職しなきゃだめかなみたいな状況に追い込まれて、ミュージシャンは断念したんですけど。
かといって、半年後にネクタイしめてサラリーマンやれるような気持ちの切換えもできなかったし、大学4年の終わりの頃は、半分今でいうひきこもりのような状態で、焦りかストレスか、体重は10キロぐらい減っちゃって・・・。
今考えてみると、あのままどっちにころんでもおかしくなかったなと思います。
Q:みんなと違うことを選ぶというのは、重圧だとかきびしいものがありますよね?
でも、慶応に付属校から行って大学のネームバリューもあるんで、今と違って入ろうと思えば、上場企業のそこそこのところには選り好みしなければ、入れたんですね。学友は学生時代に好きなことをやって、そのあと安定した会社に入ればそれでいいんじゃないの?というのが10人に聞けば、9人が、そうでした。でも、単純にそれはおかしいんだと思ったんです。残りの数年間だけやりたいことをやって、何で、その後やりたくないことを安定と引き換えに取るんだと・・・。そういう人生を送るために産まれてきたのかと・・・
その時に、自分には音楽しかなかった。がんばったんですけどミュージシャンにはなれなくて、ということです。
クラス50人中、卒業名簿の就職先欄にひとりかふたり空欄・空白がある、それが私なわけです。そういう状況でした。友人などから色々言われましたが、特に親には、勘当されると思いましたよ。なにしろ中学から付属校に通わせてもらっているんですから(笑)。そんなこんなの状況で、自分の部屋で悶々と悩んでいる時、そんな私でも慰めてくれるものがあったんですね。それが、音楽だったんですよ。やっぱり音楽っていいな、このよさを皆に知ってもらいたいと思ったときに、ばか者だったんですけど、ばかなりに気がついたんですね。別に自分が主役でなくたって、いいじゃないかと・・・。 作る現場に行きたかったんで、作る現場で裏方でいい音楽を作るって言う仕事だってあるじゃないかと・・・。遅かりし、その時点で気がついて、ミキサーになろうと思ったんです。ミキサーって、コンサートとか録音スタジオで、機械を調整して音をつくる仕事なんです。
慶応を出てから、ミキサーの専門スクールに行こうと思ったんです。 それがそもそも普通じゃないと思う。 学費はさすがに出してもらえない。なので、残り半年ぐらい、アルバイトをやりまくって学費を用意して、4、50万したと思うんですけど、レコーデイングスクールと呼ばれていた学校に行って、そこで高卒の連中と一緒にミキサーの勉強をして、ミキサーとして2年通って仕事していこうっていうふうにして、卒業の時点で考えたんです。
Q:それでは、"ミキサー養成学校"には2年間行かれたんですか?
とりあえず、勘当されずに、家には置いてもらえたんですけど、父親とはもうほとんど絶縁状態でしたね。でも自分的には "よし"と4月から通い始めたんですけど、ありがちな"とんでも学校"だったんですね(笑)。こんなところ2年通っても、ミキサーの実力なんか身につかないとすぐわかっちゃったんです。3ヶ月でやめました。そのあと、その学校はすぐつぶれました。
Q:たしかに、法整備が遅れていたせいか、浮かれたような学校って結構ありましたよね(笑)。
若輩者ゆえ、コマーシャルとかパンフレットとか立派だと、ここに行けば何とかなるって思っちゃったんです(笑)。広告なんて派手にやっていたので、回らなくなっちゃったんでしょうね。
Q:その後、プロデユーサーの養成学校に通ったんですね。そこが、一番重要なのでは?
親、親戚、友達には、「ほれ、みたことか」とばかり、散々言われました。おまえはもう一生立ちなおれないぞと・・・。
確かに当時は今みたいじゃなくて、デユーダとかやっと出たか出ないかぐらいで、中卒でも高卒でも大卒でも、新卒で就職できなければ、セカンドチャンスはなかった。そのときは、言われたとおりだったんですけど、その状況で、言われても、もうどうしようもない(笑)。親とそういう悪い関係になって、とりあえず部屋はありますけど、今でいうフリーターですね。食っていかなくちゃならないからいろいろバイトをやっていたんです。そうしたら、バイト先にオーディション受け続けながら俳優めざして頑張っている奴とか、ダンサーになるためにバイト先でレッスン料を稼いでいずれダンスで舞台にたつことを夢見ている連中とか、司法試験のために生活費をバイトで稼いで勉強している人とかいて、自然とそういう人間が吹きだまっていたんですけど、励ましてくれたんですね。「久保田の音楽の素晴らしさを知ってもらいたいっていう気持ちが本物だったら、絶対チャンスがあるからあきらめるなよ」と・・・。確かに諦めたらそれっきりだなと・・・。それにまだ自分的にも不完全燃焼じゃないですか。がんばろうと思ったのに、いきなり足元すくわれたみたいな感じだったので。そこで音楽の雑誌のうしろのほうの広告から、今度は大きくないこじんまりとしたプロデユーサーの専門スクールを見つけて、あやしいことこの上ないんですけど、もうすがるところがないんで(笑)・・・。
行ったら、学長さんが元日本ビクターの重役さんだった人で、その人がそういう境遇におかれながらも、まだ音楽やりたいなんて言ってる私はおバカさんなんですけど、おもしろがってくれました。「変わってるね、そこまでして音楽やりたいのか、いい目してるね」と気に入ってもらったみたいなんです。いい出会いがあったんですね。夜間だったんですけど入学させてくれたんです。そして、大学出ているし、この業界は経験がないとなかなかチャンスをもらえないから、プロダクションが人を探しているからその面接に行ってごらんよと。「やりたい音楽の制作の現場じゃないけど、経験を積んでいると何かのチャンスがあるかもしれないよ」と言ってくれて、それで行ってたまたま採用されて、プロダクションとつながったんです。昼はプロダクションで働いて、夜はそのプロデユーサーの学校に行っていたんです。
Q:そのプロダクションは、非正規の社員ですか?
いわゆる契約社員ですね。社会保険とかまったくなかったと思います。時給制でしたしね。
Q:好きな音楽のジャンルというのは何であり、どんなプロダクションだったのですか?
洋楽、ロックですね。そのプロダクションは、当時けっこう勢いがあって、大きなプロダクションで、アリスのメンバーとか、渡辺美里さんとかがデビューして、当時は勢いがあった。100人入りたくてもひとりしか入れないようなそういう倍率でたまたま入れちゃって、ファンクラブの運営をやっていました。
Q:そこで、経営に近いというか運営を身につけられたということですね。
プロダクションの社長が変わった人で、製鉄所の工員さんからプロダクションの社長にまでなった人なんです。だから、私みたいな人間をおもしろがってくれたんです。マネージメントっていうか経営のイロハを手ほどきしてくれたんですよ。ほかに社員もいたんですけど、自分だけ特に目をかけてくれたんです。マネージメントとの出会いは、そこだったんです。
Q:プロダクションには、何年いらしたんですか?
籍がちゃんとあったのは、実は2、3ヶ月だったんです。
Q:その後は、何をしていたんですか?
そのあとは、プロデユーサー養成スクールに通いながら、ソニー・ミュージック・エンターテインメント(SME)への入社に挑戦していました。当時名のあるところで公募していたレコード会社は、SMEしかなかったんです。オフィシャルに門戸を開いていたのは、ソニーさんだけで私は、2回入社試験を受けました。
1回目は、素手でいって、最終の直前で落されたのかな。そのあと、次の年、これはプロダクションのコネで、いきなり役員面接につないでもらえて。そこでOKがでれば、やっと念願の音楽の制作の現場にたてるチャンスだったんですけど、でも落ちて、卒業してから2年ぐらいたっていたんですね。そのときに、ある意味やりきった感もあって、ここまでやって採用されないのは、縁がないのかなと言う気持ちと、もうひとつはわずかの期間だったんですけど、プロダクションにお世話になってマネージメントの仕事のおもしろさを少し感じ始めていたんです。ちょうどその頃、大手ハンバーガーショップでアルバイトをしていて、そんな話をしたら、店長がマネージメントだったらうちの仕事で経験できるぞ、働かないかと言われて、それでその会社に入社したんです。昭和63年ですね。そのショップでは、アルバイトをやめたり続けたりで4年ほど経験がありました。店長になったのは、社員として入社後3年半たってからですね。当時、社内では新しいキャリア・ディベロップメントのプログラムができて、入社後店長になるまでは10年というモデルだったんですよ。無理矢理3年半で引きあげていただいたという感じですね。
Q:成績が抜群だったからでしょうね。
ほんとに、上司によくしていただいたんですね。多分今だとできないと思うんですけど、当時はリスクをとって人を評価してくれるって言う方がいたじゃないですか。「責任は俺が取るから」的な方がいて下さって、その方に買っていただいて、実は独立したあともクライアントさんなんですけど・・・。日本でやっている会社とはいえ外資系で、その辺の競争は激しくて、明らかに上のタイトル、役職を狙っている人間は多いんです。だけど私はそういうのは全然なくて、マネジメントをほんとに勉強したい気持ちと視点を忘れず持っていたのが、逆によかったのかなと思います。
Q:そうすると、ハンバーガーショップでマネジメントに当たっていたのは何年間ですか?
アルバイト期間を含めて、5年位です。
Q:そこから、今度は金融保険のコンサルタントになったんですか?
外資系生保会社で、保険の外交員です。理由はハンバーガーショップは大きい会社だったので、経理や会計は当然本社がほとんど全部やるんですね。予算管理など、店長クラスもつくったりするんですけど、基本は本社がやるので、経験できないんですよ。お恥ずかしながら、学生時代は勉強していないので、簿記とかとっておけばよかったんですけど、遅まきながらその頃、簿記の通信とか始めたんです。
Q:ハンバーガーショップ勤務時代の後期から、簿記を勉強なさったんですね。
そこでは、確かに総務的なこと人事的なこと、営業的なもの、経営のなかのいろいろなフィールドは経験できるんですけど、唯一会計財務だけは、本社がやってしまい経験できていなくて。マネジメントやりたいのにそこだけできないのは、中途半端な気がして、それでとりあえず、簿記の通信を3級から始めました。そうやっていたんですけど、忙しくて勉強がすすまないし、勉強はしたい、やらなくては、そう思ってやめて保険の外交員になったんです。仕事の内容自体は、会計財務に若干関係があって、企業向けの節税保険とか売っていましたけど、それよりも時間が自由に使えることがよかったです(笑)。
外資系の外交だったので、営業の成績をちゃんとコンスタントにあげていると、日中は何をやっていても自由だったんです(笑)。朝、会社に行って、あとは何もいわないので、喫茶店とか資格試験の予備校とかで勉強していたんです。
Q:公認会計士試験に合格されたのは、何年ですか?
2次試験に受かったのは、平成4年で、31歳になったばかりでした。
Q:それ自体すごいですよね。
会計士の試験って会計の分野は当然あるんですけど、経営学とか、自分が思いっきり経験したことを、あとで、アカデミックに確認するという作業だったんで、ほんとに手に取るようにわかるわけなんです。これが、理屈なんだとあとで、確認するというようなことだったんです。
そういう意味では、実態を詳しく知っているわけではないのですが、欧米では、社会に出てからまた学校にもどって、また学んでから、また社会に出てキャリアが認められるという "ギャップイヤー"の概念があると聞きますが、結果的にそうなりました。
慶応で勉強したことは、ほとんどなくて、社会で経験を積んだものが、あとで資格学校とかで勉強したときに、ものすごく腑に落ちたというわけです。だから、万が一、大学在学中に会計士をめざしても、間違いなく受かっていないと思います。そこは、実経験を踏まえた上での勉強とか学習は、意味合いが違うというか、中身の濃さに差があるなと思います。
Q:公認会計士だけじゃなくて、プラス税理士もダブルでとられているんですね。
会計士は、税理士もできるので、受験で資格を取ったのは公認会計士の方だけです。会計の勉強をしていたら、思いのほか自分の中で会計の勉強がすすんじゃったんです。産まれてこのかた、こんなに手ごたえがある勉強っていうのは、はじめてでした。一緒に学んでいる連中が苦労しているのに、こっちはすごくわかっちゃうんです。どうせなら、ただ勉強するのではなく、資格をめざそうと。会計士と税理士と資格試験として二つ選択肢があったんですけど、経営学とか経済学とかあったんで、会計士を目指しました。当時会計士は、7科目一辺に受けなくちゃいけなかったんですけど、税理士は5科目を順番に受ければよかったんです。だから、社会人は基本的に税理士を目指すことが多いのですが、最後は仕事を休職して、会計士の資格を目指したんです。30歳で結婚していたんですけどね(笑)・・・・。
Q:31歳で、いろんな経験をされて合格されるのは、珍しくないですか?
たしかに珍しいと思います。特異な経歴ですね(笑)。今、振り返えってみても、私は専門学校中退なんですね、最終学歴は。慶応卒なんですけれど、最終学歴は、専門学校中退で、20代のうちに年収1000万のときもありましたし、100万のときもありました。
「20代で年収1000万円」も私のことですし、「専門学校中退の年収100万円」も私のことです。逆にいえば、そういうことにこだわるなって若い人に言えるんですよね。
Q:"多様性の権化"みたいですね(笑)。
ある意味、時代を先取りしていたのかもしれないですね。
Q:ところで、"経営のフォートライザー"っていうのは、どういう意味ですか?
これは、造語ですけど"土地を肥沃にする"っていう意味です。どうも、コンサルって言葉が嫌いなんです。
若い人たちが、基本的にのびのびと、こちらが想像するようなところを超えて、自分の姿、自分の思うとおりに成長していってほしいなあと・・・。こっちに行くなとか、形を作るのにはこうしたほうがいいとかじゃなくて、自分の仕事は、のびのびとするために土台となる大地作り、地面を土地を肥沃にしたい、会社の経営でもそうですけど、会社がやることを"あーだこーだ"いうよりは、成長していく上での基本的な部分をしっかり肥沃にしてあげる、そういう仕事をしたい。そういう思いがあります。
Q:土地が肥えていれば、いい根が出きて、綺麗な花が咲いて、いい木になるっていう話なんですね。
Sustainabilityも当然あるでしょうし・・・。
Q:枯れないですものね。確かにずっと続いていきますからね。久保田さんがツイッターでつぶやかれている"天職"は、何を指していますか?今のお仕事なのか、NPOカタリバですか?天職を見つけたって書かれていますが・・・。
イメージは、今まさにお話したような、フォートライズするような具体的な作業がここにあったという感じだと思います。
Q:ご自分の仕事もそうだし、カタリバもそうですね。
仕事もそうなんですけど、カタリバは特に。両方です。
Q:取引先もそんなふうになってもらったらいいと・・・。カタリバとの出会いは、いつごろだったのですか?
2年前ですね。ラジオを聴いていたら、カタリバが紹介されたんです。仕事をして、ラジオを聴いていたら、J-waveで金曜日ジョン・カビラさんが担当していて、朝7時台にNPOとかを紹介する枠があって、今でもやっていると思いますが、そこでカタリバが紹介されたんです。理事の方が出て、紹介されていて、そのときは仕事しながらで、聞き流していたんですけど、2、3週たってから、そういえばなんかやっていたなと、。それでJ-waveのページからアーカイブに入ったらあって、それからネットサーフィンでカタリバのホームページにいって、それから説明会に行ったんです。当時は、学生向けと社会人向けがあって、学生向けのは、キャスト(高校に行って話をするボランティア)を募集するものですが、社会人向けは寄付会員としてバックアップしてくれる人が対象です。でも、日程が合わなくてキャストの説明会という学生向けのほうに行ったんです。
行ったら大学生に混じってやることになったんですが、わりと自然に馴染めて、その中で土曜日の企画というのが年何回かあって、それに来ませんかと言われて行きました。私自身のキャリアもそうなんですけど、基本的にその組織のことを知ろうとしたら、「行ってみなきゃわからないだろう」というのがあって、やりもしないで"あーだこーだ"言うなっ、ていうのが、自分のなかにあるので、お金の面でバックアップするにしても、1回やってみれば、良さも悪さもわかるだろうと・・・。謳っているような、ちゃんとしたものか、いい加減なものじゃないか見極められるだろうと参加したのが、始まりなんです。この間も最年長キャストとして行ってきましたけど(笑)。
Q:そこで、高校生や大学生に対して感じられることには、どんなことがありますか?
いろいろありますよね。一番思ったのは、ほんとに"リスクテイク"しないなと。それで、これはおとなの責任だと思いました。大人が許容しないから。見事にそこをリスクを避けよう避けようと、自分がやりたいからじゃなくて、こっちは危ないからこっちみたいな。でもそれは、可哀想だなと思いましたよね。それがまず一番なんですね。リスクを取らしてあげられないっていうことですね。
Q:親御さんもそうだし、社会の目がそうなんですね。安全なところばっかりで、本質的なところが抜けちゃっているんでしょうね。社会の縮図がそこにある。
失敗をしないように、失敗をしないようにということですね。私の本にも書いたんですけど、こういう本をだしたのも、ちょうどカタリバにコミットした頃、去年3月ですけど、序章にも書いているんですけど、今お話した大人の責任の部分で、今の若者は覇気がないとか、内向きだとかいうけど、それはないだろうと、おとなのお前が言うなと私は思うわけです。挑戦できるような環境や、度量を用意しないで、挑戦しろなんていうのはどうかっていうのがあって・・・。
自立と言う意味をはき違えていると思うんです。誰にも助けられないで、一人でやっていけることを自立というふうに刷り込まれちゃっているんですけど、私からすれば、誰からも喜んで助けてもらうようになることが、それが自立。というのは、社会に出ていけば、社会っていうのは、助けて助けられてという人とのつながりが社会というわけで、その中でいい仕事をし生きていくっていうもの。誰の助けも借りないで生きていこうとしたら、どこかで限界があるわけです。そうじゃなくて、誰からも助けてもらわなくちゃいけなくて、喜んで助けてもらえるようになることが自立なんだよって教えてあげたいんです。そんなことを、本に書いたり、カタリバで話したりしているんですが、そういう話は大学生に響くんです。大学生は、ちょうど就活でそこを悩んじゃっているんです。親の期待に応えて親からみて失敗じゃない会社にはいらなくちゃいけない、自分がやりたいじゃなくて、自分はこっちかなと思っても、親はこっちにしなさいと、それで、いいのかと。
でも、そもそも自分で主体的に考えたり、親を説得するのも、私からすれば一つの助けてもらう意味合いに入っていると思うんですけど、助けてもらう、自分から発信して、周りに働きかけて、今は一旦譲ってもらっても将来返せばいいんだよと、そこまで思い至らないと、考えもつかないし行動にも落とせない。根は深いなと、この2年ぐらいやらせてもらって思います。ただ、思いのほか、学生は素直という意味では、素直なんですね。感性は、私達よりすごくセンシティブで、感性はいわゆる物欲偏重じゃない、もっと世の中には大切な価値観があるということに対する感性はある。ただ、そこにたどり着き方を知らない。たどり着くためのいろんな意味での素養、気持ちを育ててもらっていない。そういう意味では、JGAPが環境を用意してあげようという運動は、すごく意味があるのかなと思います。
Q:久保田さんは、ブログの中で、「(学生が)前向きになれと言われても」って書かれていて、その中で"人生の流れ"のことを書いてあると思うのですが、それはどういう意味ですか?
私も最初は、若い人たちに対し、"元気出せよ"的なコミットの仕方だったんです。それでも、酷だなって思い始めて、そもそもベースとなる素養を備えさせられていないのに、できないことをやれって言われても、それは無理だよって気付いたんです。自分のことを思いかえしてみれば、決して明るい未来じゃなくて、常に365日24時間前向きだったわけじゃなく、どっちかっていうと、"こんなんで大丈夫かな"って考えていたときの方が多かったぐらいで、結果オーライでしかなくて、それをなんか"したり顔"でやればできるぞなんて、よくよく振り返ってみれば、そんなこと言えた柄じゃないなというのを書かしていただいたんです。あとは、ほかのブログにも書いていますが、練習試合ばっかりやっていても所詮練習試合なんですよ。なので、自分の足で歩いて欲しいと。引っぱられて、歩かされて歩いていたってしょうがない、車の運転でも助手席に乗ってると道を覚えないけど、自分で運転すると道を覚えるみたいな。車じゃなくても、どっか行くときに自分で行く道を確認して行けば覚えるけど、連れて行ってもらったら、どこ?みたいな。同じことだと思うんですよ。若いうちの失敗は必ず明日の糧になる。できるうちに色々失敗して、経験してっていうことですよね。
Q:「人生の流れに身を任せず、自分の足で歩こう」と書かれていますが、そういう感覚をもてるかどうかは、重要ですよね。
ある意味、私がくそみそに言っているように聞こえる一流大学を出て一流企業に行くのを否定しているわけじゃなくて、自分の意思で自分の足で、足取りを確かめながら進んでいらっしゃる方はすばらしいと思います。でも、何となくネームバリューがあるからとか皆が行くからとかそういうふうに歩んでいるのはどうでしょうね。今、49歳になって同窓の奴らも苦労しているじゃないですか。タイミング的にも今さら転職でもみたいな、もう5年頑張れば早期退職でみたいな話で、その先が長いですからね。まだまだ、その気さえあれば世の中にバリューを残していけるんですけど、ざっくりみてもそういう気概のある人間はなかなかいなくて、それで、人生いいのかなって思ったりします。
Q:今カタリバ大学っていうのが、ありますね。そこで教えらているんですか?
カタリバ大学では、私は一生徒で、寺脇研さんが中心となって、不定期ですけど、セミナーみたいな形式でやっています。わりと社会人向けで、高校生向けも会によってはあるんですけど、一般に門戸を開いている座学で、グループワークでお話をする場なんです。私がやっているのは、「くぼやんゼミ」で、また別です。
キャストといって大学生が高校に行って、お兄さんお姉さんとして話をするんですけど、その中からだんだんリーダーが自然発生的に出てくるんですね。その人たちが、ホントの意味のリーダーというか、いろいろなチームワークとか、マネジメントをやるようになんですけど、そのリーダー層に対する職員研修を今年から月1ペースでやらせていただいています。
Q:その「くぼやんゼミ」に、宿題がでるそうですね(笑)。ツイッター見てて、いい宿題だと思ったんですが、「生きた証と生きている証の違い」の解を教えていただけないですか(笑)?問い自体がすばらしいと思うんですが・・・。
今はやりのクエスチョンを投げかけて、答えさせるという"白熱教室"みたいな感じです(笑)。
これは、なにしろ第7回目の話なので、今、端的にお話するのは、難しいところもあるんですけど(笑)・・・。
要するに、社会の中で生きていくという行為には、時間軸に沿った未来に対する働きかけと、空間軸に沿った他者に対する働きかけが必要なんですね。時間軸に沿った働きかけの例でいうと、将来の自分に対する投資ってありますね。自己投資です。勉強とかが一番分かりやすいかもしれません。未来の自分自身に対するある意味"種まき"、働きかけですよね。もう一つ、空間軸に沿った働きかけの例として、今の人たちは、あまり得意じゃないんですけど、他者に対する働きかけをすることによって、何か形や満足を得るという働きかけ。楽しくわいわいもいいですし、そこに社会的に価値があるかどうかは別です。
このどちらにも働きかけないのは、刹那的で排他的な状態で、これは「生きている」とはなかなか言えないと思います。自分自身に時間軸上働きかけること、頑張ること、空間軸上、他者に働きかけて今現在の形や満足を得るために頑張ること、は"生きている証"にはなるんです。でもどちらか片方では"生きた証"にならないんですね。社会的価値として残らない、明日への希望を紡げられないんです。時間的にも空間的にも、その両方に働きかけること、他者の未来に対して種をまき花を咲かせ実を結ばせるように頑張ること。社会の中で自らの役割と責任を知り、自覚し、責任を果たすべく努めること。この両軸での働きかけが兼ね備わってくると"生きた証"になるんです。
今の自分とは、結果でもあり原因でもある。実でもあり種でもある。時間的にも、空間的にも・・・。「社会性」「使命感」を腑に落ちる形で確認してもらうのがこの講の目的です。聞いている大学生も第7講ぐらいになると難しいとは思いますが(笑)・・・。
Q:久保田さんが残していっている「くぼやんゼミ」のメッセージは、"何だろう?"と考えさせるプロセスがいいですよね。
あと、カタリバの現場という"実学"があるのがいいんです。私の仕事としては、最初に言ったとおり、アカデミックな部分だけでは血肉にならないので、それを実務と結びつけて、ここがこうじゃないかとそれを結び付ける、その道案内が必要な時期なんですね。大学生ぐらいや、若い社会人ぐらいだと。
昔は、職場でもそういうことをやってくれる上司がいたんですね。上の人に余裕があって、時間的にも気持ち的にもそういうことが出来たのが、今は余裕なくできない。さっきもお話したように、今の子たちはセンスもいいし、能力はもっているんだけど、経験もできるんだけど、そこをリンクさせられない。なので、私はカタリバの企画に参加しながら、そこでの様子を見ながら、学問と実際とをつなげて、彼らの血肉となるよう案内できればいいかなと思っているんです。
Q:カタリバ゙の中を牽引する、リーダーたちのコーチングを、今やっていらっしゃるわけですよね。
カタリバでは、リーダーはすごくいい経験ができるはずなんです。学校とも交渉するし、在学中にほかの大人の人との交流もあるし。
Q:ビジネスに近い話ができるんですね。
そうなんです。中では、何十人何百人単位の企画をコーデイネーションしなくちゃいけないし、なかなかしたくてもできる経験じゃないです。でも、私からみるとそういうチャンス・経験をしているはずなのに、学べるはずなのに、うまく血肉にできていない。そこのところが、JGAPがギャップイヤーというかたちを日本社会に働きかけているのは私も賛同していますし、それができた暁に私がお手伝いできることは、今お話したこと、得た体験・経験をうまく学問とリンクさせて、ほんとの意味で血肉にして、あげるところ。JGAPが環境をご用意なさるとしたら、私がお手伝いするとしたら、そういうところなのかなと・・・。
Q:今の会計事務所を構えられていて、これまでの経験が端的に生きていると感じられることはありますか?
仕事の中では、端的に、直接的にという意味では正直言ってあまりないかもしれません。
Q:それは、プロフェッショナルとしての公認会計士の仕事に傾注できるということでもあるわけですね。
偉そうで申し訳ないんですけど、開業して15年目になるんですけど、営業したことは1回もなくて、そこに時間やエネルギーをもっていかれる、ということはないです(笑)。私ともう一人でやっているんですけど、昔、お世話になった方たちが、久保田が開業したんだったら、みたいな形で繋がってくださるので、営業をしたことがないんです。ご迷惑かけないようがんばらしていただいているおかげもあって、口コミとかでクライアントになっていただいています。ありがたいことです。
Q:それ自体すごいですね(笑)。今までの経験が、全部生きているっていうことですね。
よくしていただいているんです。私的にお客様を選んでいるわけでもないのですが、自ずとそういう形になりました。よいクライアントさんに恵まれた、という点では本当に自分のユニークなキャリアがあってこそ、と思います。ただ、自分が今日お話しているキャリアのなかで培って、ある形にすれば、皆さんのお役に立てるはずと思っていた部分があるのですが、それを十二分に発揮できるような、そういうチャンスがなかなか業務の中に見出せない状況がありました。単に努力不足なのかもしれませんが、フィールド的にもなかなかそこにたどりつけていなくて。さっきカタリバの件がなんとなく頭に残ったというのは、自分の潜在的な問題意識があって、そこだったら今のクライアントさんのなかで生かせていない部分をいかせるのかな、というのがあったのかもしれないです。
実は、この本の中にご案内しているようなことを、クライアントさんの中間管理職研修でやっていた時期があるんです。そのときに、簡単にいうと限界があるなと思ったのは、鉄は熱いうちに打てということです。多感で吸収力、柔軟性があり、リカバリー可能な若いうちにこそ多くの経験、出会いを重ねることが本当に大切だと痛感しました。
Q:助けてもらうことが大事だといわれましたが、どうしたらそうなれるのか、どのように教えたらいいですか?
これ、カタリバで紙芝居をやったりするんですけど、今まさにお話されたことが出ています。「くぼやんの人生」を話したあとで、くぼやんが皆が知っていたほうがいいと思うことがあるんだ。そのうちのひとつが、"助けてもらおう"。助けてもらわないと、特に困ったときはやっていけないよ。お金を出してもらうとかだけじゃなくて、いろんな意味で助けてもらわなくちゃいけなくて。
私は一杯助けてもらったんですよ、助けてもらうしかないじゃないかと。助けてもらえる秘訣があるんだよって。これを覚えていってねと話すんです。
進路を考えるときに、やりたいことをまず見つけて、それがやれるように頑張れと言われるよね。
実はもう一つこっちのほうが、大事なんだけど何だろうと。実は、喜んでもらえること。やりたいことで喜んでもらえるように頑張りナと。なぜかと言うと人間は、皆に喜んでもらおうと思いっきりやマジな奴を応援するのが大好きなんだと。たとえばサッカーでもバスケットでも、すごく旨い奴がいて確かにそいつにボールをまわせば決めてくれる。勝てちゃうんだけど、そいつが早く俺にまわせよ、何でもいいから俺にカッコよく決めさせろよって言う奴だったら応援したくないじゃない。だけど、あんまりうまくないんだけど、チームのために一生懸命努力している奴は、一緒にやりたいじゃない、応援したいじゃない。"くぼやん"もそうだったって言うんです。高校生や大学生の頃、ヒット曲出して、売れて金稼いで皆に"スゲーっ"て言われたいと思ってがんばっていたら、全然だれも力を貸してくれませんでした。だけど、音楽のよさを知ってもらいたいんだとか、お客さんとか従業員の人たちにどうやったら喜んでもらえるのかと頑張っていたら、結局音楽の世界では仕事できなかったんだけど、フィールドが変わっても、そこでそんなふうに一生懸命やったら、そんな姿をみていた人が今でもいろいろ助けてくれる。
だから、皆もやりたいことがあったら、それをやれるように頑張るだけじゃなくて、喜んでもらえるようにがんばってみな、なんて話をするんです。
高校生に話していて、残念なのは、"くぼやん、スゲーっ"て思われて終わりになることなんです。それは本意じゃなくて、しょうもないひきこもり野郎だったんだ。けど、喜んでもらおうと一生懸命がんばっていたら、自然とみんな協力してくれて応援してくれたんだよ、というところに共感して欲しいんですね。
でも、そういうのは考えているだけじゃわからなくて、JGAPの主張されているとおり、自分から勇気を持って一歩踏み出して探しにいかなくちゃいけないって思うんです。そうやって人と接している中で、励ましたり励まされたりって言う中で、いちばん喜んでもらえること、私の場合は会計、マネジメントの分野だと思うんですけど、それって皆さんそれぞれおありで、ほんとにその人の一番いいところって考えていてもわからないんじゃないかと思うんです。いろいろやってみて、みんなから久保田ってこうじゃないって言われて、考えて、そうかなって思うんですね。
Q:久保田さんのこれからの夢というか、どういうふうにしたいですか?仕事のこともそうですし、カタリバとの関係性とか、こうしたいとかありますか?
具体的に数字であげられないんですけど、今「くぼやんゼミ」でやっているようなことを、引き続き小さな積み重ねかもしれないですけど、私のゼミで育った子たちが、次の若い世代に伝えていけるようなsustainable な流れを作りたいなというところでしょうか。
私も経験の中で気がついたことではありますけれど、多分育てられた中で、親、先輩、上司から、どこかで学んだ大切なことを伝えていくべきだと。私が発見したとかじゃなくて、そういう普遍的に社会というものがある限り、ベースにすべき大切な考え方をできるだけ多くの若い子に伝えて、でも時代によって花の咲かせ方、育ち方って違うのですけど、ただ主体的で自由で、創造的で若者たちが希望を持てるような社会につなげたいなと。それが今できなくても、10年後でも100年後でも、1000年後でもいいので、と思いますね。
Q:やられていることは、種まきという感じがものすごくしました。種まきって土壌がいいと発芽していい花にも木にもなるという、それを繰り返しているんですね。
もうすぐ50歳になるんですけど、年齢的にも自分がリーダーシップをとって表にでていくということじゃなくて、これからは耕して種まきというような感覚になっています。
"学生たちが自信を持って歩めるよう"ナナメ後ろ"からコーチングできる人"
久保田さんは、ある意味、現在の大学生の意識を先取りしていたのではと思う。大学卒業の1985年頃は、1990年とされるバブル崩壊前であり、「明日は、今日よりきっといい暮らし」「一億総中流意識」が蔓延していた明るい時代だ。スイスのIMDが毎年発表している世界競争力ランキングを見ると、世界で4位と高位であった。ちなみに今年は59カ国中調査で26位。49歳の久保田さんは、四半世紀も前に、今の大学生が疑問に感じつつある就活の無用なほどの「息苦しさ」やステレオタイプな狭いキャリアのあり方に違和感を感じていたことになる。大学卒業後、多くの挫折と失敗の連続のギャップイヤー期を経て、経営やマネージメントの重要性に気付いた。それが、今の生業である公認会計士・税理士という職業選択につながる。だから現在の若者に「人生の流れに身を任せず、自分の足で歩こう」「社会っていうのは、助けて助けられてという人とのつながりが社会」「失敗は若いうちに」と自らの経験と見識に裏打ちされたアドバイスは説得力を持つ。
高校生と大学生の"ナナメの関係"に着目したキャリア教育支援のNPOカタリバとの出会いが面白い。ラジオでたまたま存在を知ったが直ぐにではなく、心に滲み込んだ数週間後にコンタクトを取ったという。つまり、数週間の時間は忘却ではなく、久保田さんに"記憶の醸成と覚醒"をもたらせた。若者たちが自由で主体的で、そして創造的な日本社会になるまで、「くぼやんゼミ」の"白熱教室"は、きっと熱を持ったまま続くことだろう。(砂)
(編集:高見ひづる)
(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
]]> バイトも試験勉強も遊びもピースボート参加も・・・若かったから何でも"勢い"でチャレンジできたQ:1994年に東大に現役で入学されていますが、法学部を選択したいきさつは?
本当は国際関係の方面に進みたかったので、教養学部に行きたかったのですが、親の大反対にあいました(笑)。国際関係に進んでも職がない、女性だから資格が取れる学部でないとだめだと言われ、随分喧嘩をしました。しかし、親の意志が固く、しかたなく司法試験に近いということで、法学部を受験したんです。
Q:大学2年の終わり頃に妹さんと家出され、二人でアパートを借りられたとか。その後、3年(21歳)のときに、司法試験に最年少合格(当時)されていますね。司法試験の受験勉強で大変だったと思いますが、どうやって乗り越えられたのですか?
私は、もし「1日勉強できるよ」という環境にあると、間が持てないというか、「1日、長いなー」と嫌になってしまうんです。家を出て、塾の講師や家庭教師など、アルバイトもたくさんしないと暮らしていけなくて、時間が足りない。そういう中で時間を捻出して、隙間時間で勉強しなければ、という状況のほうが燃えるタイプなんです(笑)。
Q:それにしても、アパートの家賃や生活費のこともありますし、そうとう負荷がかかったのでは?
家賃が約10万円、そのほかに生活費もかかる。でも、若くて元気だったし、移動はマウンテンバイク。家を出て自由になり、すごく嬉しくて、「何ごともチャレンジ!」という気持ちでしたね。バイトをしながら遊びにも行って、司法試験にもチャレンジして、その勢いでピースボートにも乗り、エリトリアにも行きました。
Q:ピースボートに乗ったのは、どういうきっかけだったのでしょう。
司法試験の勉強をしている最中に、試験が終わったらやりたいことの"WISHリスト"を作っていたんです。そのリストの一つにピースボートに乗るというのがあった。世界一周できるのは面白そうだったので。司法試験は合格するとは思っていませんでしたが(笑)、ありがたいことに合格できたので、晴れ晴れとした気持ちで行けました。
Q:どのくらいの期間行ってこられたのですか? その後、アフリカのエリトリアに行かれたきっかけは?
Q:すごいスピード感(笑)ですが、エリトリアでは何をされたのですか?
当時、エリトリアが新しく刑法を作っていて、アメリカ、フランス、イギリス、日本など各国の刑法を調べ、比較調査を行っていました。それを手伝っていました。
Q:法律作りに関与・寄与したと・・・。そういう経験は得がたい経験ですね。
寄与というほどではありませんが(笑)・・・。国を造るということですから、この仕事をいただいたとき、「よし、やるぞ!」と思いましたね。
Q:帰国後はどうされたのですか?
帰国したのが6月で、4月スタートの司法研修所には間に合わず、1年間無職になりました。大学卒業後、直接すぐに司法研修所に入りたいとは思っていなかったので、「まあ、いいや」と・・・。今で言う"私のギャップイヤー"の1年は、好きなことをしていました(笑)。
Q:そうですね、90年代初頭に英国でもギャップイヤー(非日常化での社会体験・就業体験)という言葉が定着した時期なので、日本ではその概念は知られてなかった。ところで、その時期どんなことをされたのですか?
やはり、バイトをガンガンやっていました(笑)。学習塾や伊藤塾(司法試験等が専門の塾)が主なバイト先でしたね。
そのほか、国際的な人権保護機関の研究者の仲間に入れてもらって、調査の仕事をお手伝いしました。若手の研究者15人が集まって、一人1カ国を調査し、国際比較しました。私はスウェーデンの担当になり、スウェーデンに2~3週間程度行き、実態調査をして論文を書きました。
また、TBSに3カ月くらい研修に行かせてもらいました。TBSの顧問弁護士さんが、私を見て、「社会問題の最前線に行かないとだめだよ、ジャーナリストは最前線に行くので、ついて行って勉強しなさい」と。冬、ホームレスの取材で隅田川沿いに通ったりもしていました。すべて、今の私に役に立っています。
Q:まさに、それは社会体験中心のギャップイヤーですね(笑)。その後、2000年に弁護士登録をされ、5年間弁護士として経験を積まれました。2006年にはNYのロースクールに留学されていますね。それはご自分の選択ですか?
いつか留学したいとは弁護士になる前から思っていました。司法研修所に通っているときに、大手のローファームからお誘いを受けました。大手ロ―ファームは、3~4年仕事をすると、1~2年、事務所のお金で海外留学させてくれたりする。それで一瞬、行こうかなと考えたのですが、よく考えると本当にやりたいのは人権問題。留学のために魂を売り渡してどうするかと思ってやめました(笑)。
それで、人権問題をやりながら自費でちゃんと留学はしようと思っていた。それで、5年間は弁護士として人権問題もやりながら、お金も貯めて初志貫徹したというわけです。
Q:留学先にNYを選んだのはなぜですか?
NYは国連やNGOなど、人権のムーブメントの最前線だったので、もともと行きたかった。NY大学は、先生も実務家の方が多く、国際舞台で現役で活躍している方が多いのも魅力的でもありました。
Q:留学後はどうされたのですか?
留学のあと、そのまま弁護士にもどるのはいやだなと思っていました。弁護士でも人権の仕事はできるのですが、基本的には儲からない分野なので、儲かる仕事と半々でやらざるを得ない。そうではなくて、ちゃんと人権活動することで給料がもらえる仕事、つまりNGOの仕事に就きたいという気持ちがあった。ただ日本には、弁護士を雇ってくれるNGOがなかった。それでロースクールに1年通いながらどうするか考えていました。
ロースクール修了後、1年間はNYに滞在できるビザが出たので、NGOを回って研究しました。日本に戻って新しいNGOをつくろうとも考えましたが・・・。
HRW(ヒューマン・ライツ・ウォッチ)の本部がたまたまNYにあり、とても興味があったのですが、新卒は採用しないし、当時の私にとっては非常に壁が高かった。
NYU( ニューヨーク大学)などの学生に向けて、1年だけのフェローシップ(研究奨学金)が出ていましたが、すごい数の学生が応募に殺到していて、とても私のようなアジアからの一留学生が太刀打ちできるものではないなと悟りました。
それで、学術研究対象としてHRWを選んだんです。一種の知恵、戦術ですね。首尾よく、国際交流基金から1年間のフェローシップをもらい、HRWに1年間置いてくださいとお願いしました。
それがブレイクスルーになり、全然期待していなかったのですが雇ってくれることになりました。
Q:ということは、留学前からHRW(http://www.hrw.org/ja)を狙っていたということではなく、偶然本部がNYにあったというセレンディピティだったのですね。ところで、このHRWは非営利の国際人権組織ですが、どのような規模なのでしょうか?
世界各国に、約300人のスタッフを抱えています。日本にオフィスができたのは3年前で、まだあまり知られていません。私は、弁護士として5年間仕事していたときに、難民の弁護を多数したのですが、そのときに裁判所に出す資料として、よくHRWの資料を使いました。アフガニスタンやイランなどの状況を説明するためにいいレポートがたくさんあったのです。それでHRWの存在は知っていました。
Q:人権って、経済や文化以上に非常にファンダメンタルなものなので、なかなか実感がわかないですよね。そういう日本の状況をどうしたらよいと考えていますか?
日本人で人権にあまり関心を持っていないことを気にされる方もいますが、基本的にはいいことだと思います。きちんと人権があるから、人権を意識しないですんでいるのですから。
仮に日本が、人権が侵害される国になったなら、その重要性にすぐに気づくでしょう。
私は、中学時代に、犬養道子さんが書いた『人間の大地』を読んで、難民の問題や人権問題に関心を持ちました。難民ってかわいそう、というだけでなく、その背後にある紛争、大国のエゴや政治的な思惑といったハードな面にもズバっと切りこんだ本でした。世界に虐げられた人々がいるなら、将来、私にだって何かできることがあるのではないか。それで、いつかはアジアかアフリカに行って、そういう問題を解決したいとずっと考えるようになりました。
世界中には、人権が日常的に侵害されていて、どうにかしてほしいと考えている人がたくさんいます。
日本人は認識していないかもしれませんが、日本は国際的な大国なので、とくにアジアの国々に対して大変影響力があります。そのパワーを、人権問題の解決のために発揮してほしい。これからは「日本は人権の大国だね」と言ってもらえるような国にしていきたいと思いますね。
Q:人権も、国家間の相互扶助・互恵という側面があるのではないかと思ったのですが・・・。
つまり、現代の日本ではほとんど人権を蹂躙(じゅうりん)されることはないけれど、そうなることはありうるわけで・・・。その際、国家同士で相互チェックという見方をすると、他人事ではなくなる・・・。
人権保護は施しではないですね。人権活動は、お金をあげるという話ではありません。基本的には各国が、「人権守る」という義務を持っている。自分の国の人たちの表現の自由は守るとか理由なく拘束はしませんとか、野党だからといって弾圧しないとか、女性だからといって差別しないとか。それは国家の義務なのです。
国家が義務違反をしているときに、「やめなさい」と求めるのが人権保護運動であって、何かをあげるというのではない。現地の人が、「私の人権を奪うな」と要求しているので、それをサポートするのが仕事です。
しかし日本には、海外の困っている人を助けるというと、ものやお金あげるという発想しかない。エリトリアに行った当時の私も、難民問題に興味はありましたが、解決法というと、難民にものをあげるという発想だった。
エリトリアに行った理由の一つは、自分は弁護士の資格をもらえたけど、そのまま弁護士になっていいのかなと・・・。もともと国際協力とか国際関係に興味があって、そっちの方面に行きたかったわけですし。発想が乏しく、国際協力というと、ものをあげることかなと思っていたので、せっかくだから、エリトリアにいって、現場を見てみようという気持ちもあった。すると、エリトリアでは、ものをもらう活動を政府は心よく思っていなかったんですね。そのようなことがあって、思っていたほど援助するという活動が魅力的に思えなくなった。
日本はお金持ちの国なので、モノやお金をあげるということで、国際貢献をしてきたけれど、それだけでいいのかなと思うようになりました。
「金の切れ目が縁の切れ目」だったら悲しいじゃないですか。
日本の価値観というか、理想の姿というのが重要ではないかと。その理想のために日本も汗をかきますよとか、日本もそのために立ち上がりますよという、日本のソフトパワーを見せてほしい。
ただ、今、日本のソフトパワーというと、マンガなどの文化だと思うんです。それも重要ですが、文化だけじゃなくて、政治的なリーダーシップもとれるようになっていくべきだと思っています。その中で、お金だけじゃない、次のステップを日本は確立していくべきです。
そのひとつが人権であり、人間を守る思想ではないかと思います。環境を守るという姿勢もそうだと思います。
日本は今まで、平和主義国家ということを世界に打ち出してきたわけですし、他にもいろいろ日本が打ち出していくべきソフトパワーはあると思います。
簡単なことだけじゃなくて、難しいことにもチャレンジしていかないといけないのではないかと思いますね。
人権って、紛争とか独裁とか、ハードコアなイシューなんです。私は知らない、難しい問題は他国に任せたと言うほうが楽だけど、カッコよくはないですよね。尊敬される国にはならない。
次の日本は、そういう難しい問題にも挑戦していける国になってほしいなと・・・。
Q:若い人に、人権意識を高めもらうために、どんなことを訴えたいですか?
"素朴な正義感"を持つことではないでしょうか。日本人はもともと持っているものだとは思いますが・・・。
日本は平和なので、それを発揮しなければならない場面がたくさんあるわけではないですが、不当に扱われている人とか、不当なことがあれば、それはおかしい、と思って、勇気を出して声をあげられる人であってほしい。
理不尽なことを見てみぬふりしないことが人権を守るということの基本なのです。
正義感をもって生きるのはカッコイイことではないかなと私は思います。
Q:カンボジアの児童売春問題に取り組んでいる「かものはしプロジェクト(http://www.kamonohashi-project.net/)」の村田早耶香さんは、売られる子どもの問題の実態を知ってしまって、これを見ないふりはもうできない。知った以上人権問題に関わらざるを得ない、ということでプロジェクト立ち上げた。そういう正義感の強い人は確かにいますね。
若い人に限らず、多くの日本人が正義感を持っていると思いますね。だから、今以上に何かしろと言っているわけではないんです。ただ自覚することはいいことではないかと思います。自分のパワーとかメッセージというのは、自覚しないと生まれてこない。いいものをもっている人でもそれに気づかなければ、他人に影響を与えることはないと思う。
日本人は、日本人が思っているよりもいいものを持っています。それを自覚して、せっかくだからそれを他人ともシェアする。日本の中の他人ともシェアし、世界中の人ともシェアする。そうなっていくと、日本の魅力がすごく増すと思います。
おいしい食べ物があるとか、ファッションが面白いとか、マンガが面白いとか、それにプラスした、パワーになっていくんじゃないかなと思います。
Q:土井さんが、将来こういう人になりたいというモデルはあるのですか?
難しいですね。海外ではいろいろな人がいるのですが、人権のエリアで巨匠と言われるような人は、残念ながら日本にはいないです。最も近い人では、JICA理事長の緒方貞子さんですが、人道のエリアですので、人権活動とは違う。ですからモデルというのは私の中ではないです。
単純に、その日その日、やりたいことをブレずにやってきました。岐路に立つことがあったら、世界の人権のためにどっちがいいかということで選択してきたので、今後もそういうふうにやっていきたいですね。
日本人としては、将来日本が「人権大国だね」と言われて尊敬されるような国になったら、本望です。
Q:土井さんの活動は、日本にとって必要不可欠な"警鐘"でもありますよね。つまり、今、日本は人権侵害されていると感じる人は少ないかもしれないけれど、今後日本もそうならないとは限らない。小さな蹂躙だったら、今でもあるわけですし・・・。
そうですね、お隣の国といえるフィリピンだって、「超法規的処刑」みたいなものが存在する。60年前にさかのぼれば日本だって、軍事大国で表現の自由がなかったわけで、新聞も自由にものが言えなかった時代でした。多くの人が、表現の自由を行使しただけでつかまったり、獄中で亡くなった人もたくさんいらした。日本も過去はそうだったので、これは重要だと意識して、不断の努力で守っていかないと。
人権って蹂躙したほうが権力側にとってはラクなんですね。自分の納得いかないものは新聞だって閉鎖しちゃえと。権力保持のためには楽なんです。ですから市民の力でしっかり監視して、健全な社会にしていくという努力しなければならない。あまり自覚せずに努力しているんだと思いますね。そういう問題があれば、メディアも書きますし、そういうシステムが機能していると思います。
Q:今までのキャリアから、若い人にメッセージやヒント提示はありますか?
簡単なことではないのですが、自分の信じる道を行くということですね。人生1回しかないので、納得できる人生を歩むべきではないかと思います。
例えば、私も弁護士になるときに、大手ローファームに入ろうかって一瞬思うわけです(笑)。それのほうが楽ですし、社会的にもみんなに「すごいね!」と言われるわけですし、誘惑はありますよね。自分の人生が2回、3回あるのなら、1回くらい大手ローファームに入ってみたいという気持ちは今でもあるのですが(笑)、1回しかないのなら違うんじゃないかなと・・・。
ですから、大きな選択のときには、人生は1回しかないんだということを考えて選択してほしい。保守的になるのも、一つの正しい判断だと思うので非難するつもりはありませんが、チャレンジすることも一定程度の人は選択していく社会というのが、社会を元気にしていくのではないでしょうか。新しいことに挑戦していく人が、社会に必要だと思いますね。
"経歴・肩書きの強烈さを忘れさえせてしまう優しさを持ちながら、筋をちゃんと通す人"
「東大法学部に現役入学、3年秋に司法試験に最年少合格(当時)、人権派弁護士から、世界の人権問題の総本山である国際NGO ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)の日本代表」――もし土井さんと面識なかったり、雰囲気や著書を知らない人だったら、この"形容詞だ"けで、まずは"おっかない"、間違ったことを言ったら大変だと気構えるに違いない。あるいは、何か"とんがり過ぎ"て怖いと思われるかもしれない。しかしながら、実際お会いしてお話した途端、多くの方はそのイメージの違いに、拍子抜けというか、ジェットコースターの高低のように意識の落差を感じるだろう。大学受験時頃からご両親の不和があり、行きたかった教養学部ではなく、親の言うことを聞いて素直に法学部を選んだのは、言葉にはなかったが、娘として従順になることでの両親の関係修復への期待か配慮からではなかったか。その証拠に、東大入学後、家庭が崩壊した途端に妹さんと家出し、家賃10万円のアパートに覚悟を決め、移り住んでいる。困難な自立生活を送りながら、当時史上最年少で司法試験に合格してしまう集中力と心に秘めた闘志、何よりその努力は、筆舌ににつくし難い。ただ、ご本人の名誉のため書くが、涼しい顔をして、「それほど、性も根も尽きるほど勉強した覚えはない」と笑っている。
ギャップイヤー期にあたるエリトリアで考えた「自分は弁護士の資格をもらえたけど、そのまま弁護士になっていいのかなと」という感慨は、土井さんのその後のキャリアにとって極めて重要なファクターになっている。やはり、非日常下で自分を見つめなおす時間は、決して無駄でも空白でもなく、いわば「真実の時」だ。
「人権」という"生死と尊厳"に係るテーマは、重く大きい。しかし、土井さんはそれを必要以上に声高にアジテートするでもなく、日本人みんながわかりやすいように、取っ付きやすいように伝承する"語り部"のような実務の人だ。そして、中学生の頃描いた少女の「人権」への想いは、大学学部時、卒業後の無職のギャップイヤー時代、人権を扱う弁護士になってからも、そして現在のHRW日本代表になってからもブレることなく一貫性があり、筋が通っている。
土井さんの"巻き込む力"は、匕首(あいくち)で強引に"従属させる力"や相手を論破して"屈服させる力"ではなく、それは、まるでスポンジのようにソフトで、周りはいつの間にか吸収されてしまう"引き寄せる力"だと強く感じた。(砂)
編集・写真: 石井栄子
(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
]]> 高校時代に価値観の深みや多様性みたいなものは身に着いたし、広がったQ:どんな高校生だったか?内進で理工学部に行かれたわけですが、そのいきさつもお聞かせ下さい。
付属高校なので、自由な校風、そうですね自由ですが、悪く言えば勉強しない高校でした。その代わり文化活動と称した課外活動に熱心でした。留学をしたりする生徒もいれば、映画・音楽に熱中したり、クラブ活動を思いっきりしたり・・・。授業を教える先生たちも大学の教授や講師を兼務されている方が多かった。なので一般のカリキュラムから外れたことを教える。例えば、当時の歴史の先生は縄文時代が専門で縄文時代しか1年間かけて教えない。古文の先生は、株のトレードについてずっと授業中話している(笑)。後は教科書を読んでおけというふうに。非常に個性的な先生が多くて、一般教養ではダメですが、若い時代のインパクトという点で、強い刺激を受けました。生徒も変わった生徒が多くて、お互い刺激をし合う。若いので、自我を確立したいと、もがきつつ、いろんな多種多様な友人がいました。何が役に立ったかは説明できないのですが、価値観の深みや多様性みたいなものは高校時代に身に着いたし、広がったなと感じます。僕自身は部活をやって、その仲間たちと楽しい時間を過ごして、まっ悪いこともしましたし。ただ小さい頃から英語は興味があったので、英語の勉強はきちんとして、いずれは海外に出たいと思っていたので、空き時間に時間さえあれば図書室でいいアメリカの映画を何度も何度も擦り切れるほど見て、ことばを覚えるようにしていました。
Q:図書室で映画が見られたのですか?
そこも変わった学校で、レンタルビデオ屋並みに豊富なセレクションがありました。
Q:今風に言うと"オーディオ・ビジュアル教育"ですか?
まぁそうですね、見ない人にとってはまったく関係ないので、教育にはなってないのですが。あと高校生は安いので映画館によく行きました。
Q:自由度の高い学校で過ごされたのですね。通常よいわけ方かどうかわかりませんが、文系と理系でわけられて、ある意味束縛されることが多いですよね。
僕はあまりいい例じゃなくて、僕は決めれなかった。もう消去法で文系行ってもあまりいい学部にいけなかったので、どっちかというと算数が好きなので理系に行こうかと・・・。一番つぶしがきくといわれていた機械工学を選びました。
Q:そういえば前の白井総長(第15代早稲田大学総長02年-10年)が理工学部機械工学出身でしたね。今振り返って、学部選びは正解だったですか?
間違いなく正解です。勉強した科目がということでなくて、梅津先生、恩師に出会えたことが大きく自分を変えたので、直感を信じてよかった。
Q:梅津先生の出会いのきっかけと先生の魅力はどう表現されますか?
僕は隣の研究室で研究始めようとして立ち話していると、梅津先生が通るんです。工学部の先生には珍しく、インターパーソナルスキル(対人能力)が高いんです。もの凄く疲れていると思うのですが、いつも笑顔で必ず挨拶される。
Q:自分の"島"じゃない人なのに?
全然関係ないんです(笑)。本来話す必要もないです。ただ人が好きな人なので、興味持って"どうだぁ?"ってずけずけ入りこんでくる。学生も戸惑うほど、常に人のことを気にかける先生。単に研究するために彼の研究室に入るのでなく、人格形成から何から何まですべてを背負いこむというか。ホント面白い先生なんです。「彼女、元気か」とか「ケンカしたのか」とか聞いてくる。そんな先生がなかなかいなくて・・・。僕は"人と人"ということが大好きで、今の仕事にも繋がっています。どちらかというと工学部というとその真逆です。そんな中でヒューマンな先生がいらして、それに研究テーマが人工心臓ということで非常に面白いなと思いました。この先生の下で修業したいなと思いました。そう思い出してすぐに行動に出ていました。自分の担当の教授がどう思うかとかは考えない。先生のところで何かやらせてくださいと。
Q:わだかまりとか当時の先生と関係がぎくしゃくとかしませんでしたか?
しましたね。今だったら、やっぱり大人になったので気にしますが、当時はやりたいと思ったら、人がどう思おうといいやと・・・。それよりも担当教授に嫌われるとかよりも、梅津先生と研究やりたいという気持ちが強かったんです。
Q:私もそうでしたが、高校の時に大学の姿(実像)が見えにくいですね。大学に行くことの選択の悩みに対して、何かアドバイスをお願いします。大学選びに対しての判断のよりどころというか・・・
人の生き方といっても何百万種類、1億人いたら、1億種類ですよね。アドバイスとは言えませんが、人と違うことを恐れる必要はない。好きなことがわからない人もいると思うんですよ。僕みたいに30半ばにならないとわからない人もいる。焦るなということも含めて、人と違うことを恐れなくていいということじゃないですかね。
Q:毎日新聞の小暮さんの連載読んで、びっくりしたのですが、学部時代モヒカンでアメリカインディアンのようにされていた(笑)。自分の表現として意識してやったことか、それともあまり考えずに?
ホリエモンみたいのじゃなくて、長髪でした(笑)。何かもう閉そく感というか10代の怒りというか・・・。何を怒っているわけじゃないんですが、何かイライラしているというか。何か違うことしたい。大学のキャンパスの中に、機械工学やっていても、爆発感とか"ウォー"という心揺さぶられることがあまり起きなかった。外見からでも、人と違うことがしたかったんです。
Q:当時モヒカンにしてたりすると、ご両親が心配されたりとか、ご兄弟の関係はどうだったですか?
僕と両親は高校に入ってから、あんまりいろんなことを言うことはなくなりました。家が遠かったので、友達の家にころがりこんで、平日でも帰らないのはしょっちゅうだったんです。大学で、もがきながら探してるんだろうなという程度で気にしていなかったと思います。
Q:干渉もなかったのですね。大学2年生の時、1か月ほどアメリカ・メキシコに旅行されたのはツアーだったんですか?
高校時代の4人で貧乏旅行、バックパッカーです。
Q:日本を離れて、印象として、覚えておられることは?
海外に出て、もがいて探していた興奮するものがあって、面白いなと感じました。人も生活も価値観も全然違う。英語が通じなかったのは大きかった。もっといろんな国を見て回りたいという衝撃として感じました。
Q:小暮さんも息が詰まるという表現をされていますが、清水康之さん(NPOライフリンク代表)も日本にいると、息苦しさ、窮屈さを感じたという。若い頃のキーワードといえますが、この正体、何だと思われますか?
私の場合、機械工学は4年間で、就職にむけて"同質化"させようとする。みんながそうなっていく。どういう就職先だからこういう研究をするとか。憧れの就職先も3~5社しかない。みんなが同じようになっていくことに対して、僕みたいな人は窒息しそうになるくらいの息苦しさを感じたんだと思います。
Q:今の若い人たちも続いているかもしれませんね。
そうですねぇ
Q:アルバイトの資金をもとに、いろんな国をバックパックして周ったんですね。夏休みを使ってですか?
そうですね。アジアも行ったし、オーストラリア、ヨーローパも行きました。
Q:数々のいろんな国に行かれて一番学んだことは?どんなことが印象的でしたか?
やっぱり長く滞在したスロバキアで、いろんな国の学生と寮生活をして、お互いやっている活動やテーマは違うけれど、寝食をともにして、語り合っていろんなことを学びました。日本学生研修技術研修協会の国際インターンシップ・プログラムでの2か月は貴重な体験でした。
Q:大学4年になられて、卒論自体が人工心臓の研究で、きっかけは隣の研究室の梅津先生の影響ですね。早稲田卒業されて、オーストラリアの大学院に進んで、最新の研究を続けられたんですか?
オーストラリアは国をあげて、政府レベルで研究を推進していたので・・・。梅津先生が、かつてそこでナショナルプロジェクトのリーダーをされていた関係でした。
Q:1年半~2年くらいですか?
当初はそのくらいでしたが、最終的には4年近くいました。
Q:研究以外にもオーストラリアの生活で印象に残っていることはありますか?
結構遊んでばかりいたので、結果としてはそれがよかったと思っています。その後いろんな仕事や日本で一番忙しい会社に入っても、心に余裕が持てるというか。それはオーストラリアの4年間があったからだろうなと思います。日本人以外の人と、何かやるということに対しての経験やビビらなくなったというか、海外に住む経験は大きかった。あとは西欧の価値観、考え方は4年暮らしたことでよくわかって、いいところ・嫌なところがはっきりしました。自分の軸が定まりました。好きなこと嫌いなことが凄くはっきりしたし、人から干渉されてもぶれなくなったこと。4年間で自分の軸作りが出来ました。
Q:今おっしゃった自分の軸作りのための"空白期間"はまさにギャップイヤーですね。節目の時に、人は強くなる。研究自体、修士課程はオーストラリアので取得されたんですね。
そうです。
Q:ただ、人工心臓と次のマッキンゼーがどう繋がるのでしょうか?
もうオーストラリアに4年もいて、あれだけ遊びたかったり、仕事がしたくなかったのに、急に仕事がしたいと思い始めました。もともと興味あった国際的な仕事がしたいと思いました。国連みたいなところも考えましたが、職業経験がないので厳しい。一方、人工心臓の研究の延長で医療機器系企業も見て回った。でも自分の居場所じゃないなと感じました。違う立場の人同士がいろいろ物を言い合ってなかなかまとまらない学会の様子をみていて、自分っていうのはそういう人たちのワンプレーヤーというよりは、何か束ねる仕事がいいなと。そのためにはもっとビジネスの勉強がしたいと思いました。そんな時に友達からマッキンゼーを紹介してもらいました。医療機器メーカーのコンサルもマッキンゼーはやってましたし、いろんな関連性もあり、いい会社だなと思って決めました。
Q:4年かけて修士を取得されて、マッキンゼーに入られた。日本の企業だとどうだったでしょう?空白の期間をどうみたでしょうか。マッキンゼーだから小暮さんの人柄、志向性、能力を着目して認められた。多様性をきっちり観ているところが凄いなと思います。日本の企業や官庁の姿勢に対してでしょうか、現在の若者はちょっとでも、誰かと離れる・違うことにおびえている。ところで、マッキンゼーの居心地はどうでしたか?
日々学びがある。チャレンジングな仕事だったので、充実した時間でした。
Q:その後、日本で松竹に入られて、その後マッキンゼーの先輩からTFTの話を聞かれた。小暮さんの今の一番のテーマはなんですか?
自分のほとんどがTFTなので、そこに重なってくる。TFTが日本でもいろんなところで認知されるようになってきたので、もっともっと全国レベルで参加してもらえる社会貢献にすることとグローバルな活動にすることです。
Q:TFT以外に何か関連する事業や全く違うことをやる選択肢はありますか?
ないです。
Q:今一番ほしいものは?
子どもが生まれたばっかりなので、まとまった睡眠時間ほしいです(笑)。
Q:TFTは、小暮さんにとって何ですか?
自分の好きなもの、想いを実現させてくれる"場"です。
Q:進路に迷う学生や会社入って3年以内に辞める人が3割もいるんですが、キャリアに悩んでいる人に対してアドバイスはありますか?
学生と仕事を辞める人に対しては違うかなと気がします。一度きりしかない人生なので、好きなことをやってみる、チャレンジしてみる。でっかいことじゃなくてもよくて、小さいことでもやりたいなと思ったことをどんどんやってみる。失敗とかが許されるのも若いうちです。好きなことが分からない人は焦らずに、年とってから出てくることもあります。なかなか僕たちの時代とは違うし、今の学生たちがそうなるのはよくわかります。経済的にも伸びていた、恵まれていた環境だったのが僕たちの20年前で、その時と比べると環境はかなり違う。同じようにふるまえとか余裕持てと言われても、若い人たちから見ればそういう時代を作ったのはあなたたちでしょうと・・・。そう言われれば僕らの責任でもある。だから、あまり当時のことから、今の若者に対して言えないなというのがあります。ただやっぱり若い時にしかできないことがある。僕らも親たちから言われたけど、親の世代になってみて、好きなことはどんどんやったらいいと思います。
Q:確かに時代は違い、今の20歳の人たちは、例えば1980年後期のバブル期を知らない。日本の経済は低迷、ずっとどんよりした曇り空のような状態ですね。小暮さんにとって、TFTは"本業"だと思うのですが、本業探しは大変なことでしょうか?本業探しのコツは何かありますか?
やぁ難しいですね。生き方で違います。僕の場合、趣味も多いわけではないので、仕事で自己実現したいとずっと思っていました。ベクトルを一致させる自分がやりたいことを仕事にするのが僕の生き方です。そうじゃない人もいるし、いていいわけで。仕事は仕事で稼いで、趣味が豊富な人もいる。友人は仕事でお金は稼ぐけど、アートを楽しむ生き方。アートを仕事にしたいと思わないと。僕たちよりも上の世代は仕事イコール人生。面白い仕事がないイコール生きる価値ないというような世代だった。リタイアしてからやりたいことをやられている。今はそういう時代でもないので、仕事が別に好きなものでなくてもいい、好きなことがあればいいという生き方があっていいかなという気がします。
Q:イントラプレナー(社内起業家)という言葉もあり、社内で起業する、世の中変えていくという手法も注目されていますね。公私のけじめをつけて、これは本業として稼ぐため、あっちの事業は社会に貢献するためとか・・・。単純化しないで、選択肢をできるだけ広く持つことが重要かもしれませんね。
仕事だけが人生ではない。ある調査ではできることなら仕事なんてしないで子育て、専業主夫をしたい30代の男性が、4割くらいいる。実際やっている人はアメリカにもヨーロッパにもたくさんいる。そういう生き方がいいと思う人は家庭もその方が幸せになる。そう思ったらそうすればいい。ただ上の年代の人達からみると、"なよなよ"した生き方で、どうするんだよ、仕事もしないでとって言われてしまう。そこにギャップというか価値感の乖離がある。若い人たちから見れば、仕事ばかりした世代は、家庭よく見てみたら崩壊しているという見方を若い人たちはする。その乖離がバブル前後からありますね。
Q:ところで、TFTにサポートする学生さんが1000人規模ですか?
登録されている学生が700人で、登録せずに活動している人達も含めて1000人~2000人でしょうか。
Q:TFTに集まる学生たちに特徴はありますか?
すごく熱心です。こういう場で仲間とのつながりや刺激を楽しんでいると感じます。
Q:小暮さんをとらえたドキュメンタリーで、TFTを立ち上げるにあたり、模造紙にマインドマップを描かれているのを拝見したのですが、どんなキーワードが出てきていたのですか?
いわゆる世のため人のためみたいなこと、新しいことを気の合う仲間とチャレンジすることが好きだった。既存のものを踏襲するのが苦手で、凄く変えたいというのが多かった。そういうのを見ていったら、その時自分がやってることが真逆だったと気づいたんです。子どもの頃の個性って、本来の自分に近い。大人になると変な社会性が身についてくる。子どもの頃遊んでて楽しかったのは嫌いなことはしなかったから。不謹慎ですが、仕事をそういう目で見てみようと。全然本来の自分と違うことをやっているなと気づきました。だったら子どもの頃と同じように好きなことをやることにしました。
Q:小さい頃、どんなお子さんでしたか?
普通の子です。新しい遊びを考えて、人をまきこむのが好きだった。親に迷惑をかけたりするんですけど。変な正義感が強くて、いじめられっ子をほおっておくのが好きじゃなくて、自然にみんなと付き合えるようになる。
Q:今につながるものがありますね。アフリカの子どもたちを日本で想えるという・・・。
仕事の環境の中で、人の摩擦とかあるじゃないですか?面倒くさいと思いますよ。摩擦を解くのも嫌いじゃないですが・・・。
Q:人との出会いで魅力に感じるものは何でしょうか?
新しい人との出会いで、すごく楽しいとか心から面白いなと思うのは、何か新しいものが一緒にいると生まれるなと感じる時ですね。
Q:新しいものを創りだしていきたいという意欲がわいてくるかどうかなんですね。
月並みなことをいうと、小さい立ち上げの団体は創りだしていかないと、止まっちゃうんです。人も飽きちゃう。人が飽きちゃうのは僕たちだけならいいですが、僕たち超えて子供たちに影響が出ると困る。楽しいことを生み出して、人を惹きつけておくこと。新しいものを創り続けていくこと。現状維持していくことは重要なんですが、誰でも出来る。誰でも出来る組織は人が寄ってこないんです。面白いですねって寄ってくるのは、いろんなものを打ち出しているからです。
Q:何か"動いてる"っていうことですね。
また、こんなことやってる!面白い!って。アップルがソニーを超えたのは毎年いろんな新しいものが出てくるじゃないですか。こういう会社かなと思ったら、その期待を裏切るようなものを出す。いつの間にか、そのブランドに愛着を感じる。TFTも同じで、何か自分たちが想像する社会事業だなって、止まった時点でみんな興味を持たなくなる。NPOに期待を裏切るような、悪いことじゃダメですよ(笑)。想像しなかったようなものが出てくると、面白いし関わりたくなる。気になることが重要。みんな忙しいし、楽しいことがたくさんあるから。気になることが大切です。
Q:小暮さんがお書きになってる"思いが組織の壁を超える"。その後、仕組みを創る。さて、仕組みを創る時に大切なものは?社会的な課題を解決する時に、仕組みを創る方法論は?
仕組み自体は簡単なものがいい。複雑なものは誰も望まない。
Q:モデルは日本で食事したら、20円がアフリカの子どもたちにいくということが、思い描けるシンプルさでしょうか?
そうです。
Q:"喜ばしい"と感じるのは、どんな瞬間ですか?
「これ生まれたな」という時です。どこかとコラボレーションしたとか、全く違う業種の人が関わり始めたとか。アフリカでも給食からいろんなものが生まれて、アフリカに進出したことで、現地で新しい活動が起こったりしたら、楽しいですよね(笑)。
Q:最近、嬉しかったことは?
現地で給食に薪を使っていたのですが、森林伐採の環境保護の問題があった。廃棄されているもの、段ボールとか木のかすで燃料を作って使うというのが回り始めました。現地でそれが発想されたのを見た時は、ほんと嬉しかったです。
"やわらかさとしなやかさ、そして個の強さを感じさせる人"
社会起業やソーシャル・イノベーション(社会変革)が多くの若者の関心になっている。その中で、代表的な人のひとりは、まちがいなくTABLE FOR TWOの小暮代表だろう。
対象となる定食や食品を購入すると、1食につき20円の寄付金が、TABLE FOR TWOを通じて開発途上国の子どもの学校給食になる。20円というのは、開発途上国の給食1食分の金額であり、先進国で1食とるごとに開発途上国に1食が贈られるという仕組みは何よりわかりやすい。メタボで高カロリーの先進国と、学校で昼食すら取れない貧困国が毎日の食事を通じ、ウィンウィンの"一石二鳥の関係"になるこのモデルは、国内で完結することの多い現在のソーシャル・イノベーションの状況からみれば、一歩先を行く事例といえるだろう。
小暮さんは自由闊達で満足いく高校時代を過ごしたが、大学では理工学部をたまたま選んだおかげで、授業やゼミ、実験などルーティンが多く、そこでは自分を完全燃焼できるものがなかなか見つけられなかったように映る。そのもやもやしたものが、気の置けない高校時代の友人達と米国・メキシコをバックパックする中で、高校時代の"心の自由さ"を取り戻すようなリフレッシュにつながったように思えた。それは、「海外に出て、探していた興奮するものがあって、面白いなと感じた」という発言や、「機械工学やっていても・・・」、「4年間で、就職にむけて"同質化"させようとする」という言葉に表れる。そして、欧州において2ヶ月という長めのインターンシップしたことで自信が生まれ、豪州での大学院生活(修士課程)につながる。
小暮さんにとって、豪州での修士課程での4年は学術研究期間だけでなく、旅や思考、そして内省の"ギャップイヤー期間"でもあり、醸成されて「西洋の価値観や考え方の習得と自分の軸作り」になり、今日の自己を形成する大切な期間になったことがわかる。
人との出会いで魅力に感じるものは、「何か新しいものが生まれるなと感じる時」と明確に答える小暮さん。"日本発"のソーシャル・イノベーションをさらに進めていただき、私たちが海外でTFTプログラムのランチを楽しむ機会を増やして欲しい。それは、ともすれば失いかけそうな日本人としての誇りの回復にもつながるに違いない。
(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)
]]>Q:大学は付属高校(慶応)から、内進で決まったのですね。何故、法律学科でなく、政治学科を選ばれたのですか?
選んだというより、そこしか行けなかったという事情で政治学科になりました。内部進学の場合、大学での学部は高校の成績上位者から行きたい順に決まります。私の代は文系では法学部法律学科が人気で、まだできたばかりの頃の慶応SFC(湘南藤沢キャンパス)の総合政策・環境情報学部も人気がありました。高校時代はアメリカン・フットボール部での部活に一生懸命になっていて、気づいたらひどい成績。そこから商学部、文学部、政治学科からどれか選んでいいよと言われたものの、商学部は数字は苦手なのでパス、そして文学部で勉強するというのは自分には全く想像できない。残すは法学部政治学科ということで、そういう消極的な理由で政治学科になったんです。
Q:本来、法律を勉強したかったのですか?
はっきりしたものでもなく、してもいいかなという程度です。高校では部活でいっぱいいっぱいで将来のことなどは特に考えていませんでした。やりたいことも特になくて、良く分からないけど政治学科でよいか、と・・・。
Q:大学入学で、決め込んでこれっていうことではなかったわけですね。選べる中で選んだのが政治学科だったということでしょうか?
はい、そこしかいけないし・・・(苦笑)。
Q:司法試験に大学4年生(1998年)の10月に合格されていますが、どんな学生生活だったのですか?
大学1年時は高校のアメフトで部活が一緒だった友人とダイビングのライセンスを取りに行ったり、旅行やバイトをしたりという生活。大学2年の4月から徐々に司法試験用の勉強を始めまして、当時1日5~6時間くらい勉強していました。あとは普通の大学生活を送る、ただ3・4年生になると司法試験の勉強が相当忙しくなるとわかっていましたので、大学1・2年生のうちにほぼ卒業単位を取り終えました。これも政治学科の特殊なところですが、履修は何単位取ってもよくて、月曜日朝9時台から土曜日の2時頃の最後のコマまで、全コマ履修することができました。実際授業に出てみて興味が持てたり、ノートがあったりすれば全部試験を受ける。逆に、試験を受けなければ何故か最初から授業を履修していないことになるという変わったシステムでした。確か144単位で卒業だったのですが、2年生修了時点で140単位を取りました。あまりいい成績ではなかったのですが・・・。なので大学3年の前半に三田キャンパスに数回行ったくらい。それ以降何やっていたかというと朝7時半から夜11時くらいまで取り憑かれたように司法試験の勉強をしていました。
Q:1、2年のうちに詰めて単位を取られたのですね。
今のロースクールはちゃんと授業を受けて議論してっていう、法曹教育として非常にまっとうな教育だという気がしているのですが、昔は覚えて考え方を身につけて、試験を受けて受かればいい。大学の成績も関係ないですし。だから大学は大学でさっさと卒業し、後は司法試験に受かればいいという感じで勉強していました。最近は就職活動の時に大学やロースクールの成績の提出を求められることも多いようですが、当時言われなかった。言われていたらまともに就職できなかったかもしれませんね。
Q:司法試験を受けようと思ったのはいつですか?
大学1年の時です。旅行やバイト生活も飽きてきて、そろそろ本気で何かに取り組もうかなと思い始めていた頃でした。夏休みに、時間があったので車で九州以外の全県を回ったりしたのですが、途中で飽きちゃいまして、これは何かもう少し具体的な目的があることをやらねばと。周りを見ると、高校時代のチームメイトは朝から晩までアメフトをやっている。自分もそれくらいの時間を費やして、気合を入れて何かに取り組もうかと思いました。
Q:お父さんは弁護士と伺いました。当時のご自身のキャリアイメージはお父さんでしたか?
それもひとつあります。他方で小さい頃、父親には反発があって弁護士にはなるものかと育ったところもあって、複雑なところもありました。ただ、小さい頃から周りの大人から「大きくなったらお父さんの事務所を継げば良いんじゃないか」みたいなことを言われて育ちましたので、弁護士という職業はやはり気にはなりました。気になってしまった以上は必ず30歳とか40歳とか人生どこかのタイミングで「あの時司法試験やっとけばよかった」と後悔は必ずするだろうと。だったら今受かって、そんなこと考えなくてもいいように好きなことをやろうと思ったのが、スタートなんです。また、当時はこれから就職難になると言われていた時代。ならば司法試験受かりましたと言えば、就職も何とかなるだろう、そんな感じでした。ホントに後ろ向きな話ばかりで恐縮なんですが・・・。例えば、当時映画が好きで毎日のように映画を見ていたのですが、映画の配給会社の買い付けは楽しそうだなとか、でも私自身、何のバックグラウンドもないんですね。大学で勉強したことも何か役に立つわけではないですし、英語やフランス語が話せるわけではない。でもそういう時に法律が分かります、契約交渉できますとか言えば面白そうな会社に就職できるんじゃないかなとか考えてました。また、勉強しているうちにこれが楽しいと思うかもしれない。プランとしては25から20代後半くらいに受かれば、人生60年から80年もあるので、そこからスタートでもいいだろうと。父はもともと会社で働いた後に辞めて、30過ぎに弁護士になっているのですが、それを見ていて、人生生き急がなくても大丈夫だろうという安心感もありました。
Q:それで、大学4年の10月に、1回目のチャレンジで合格した?
はい。自分自身、予定より早く受験生活が終わってびっくりしたのを覚えています。模試を受けているとこれは合格してもおかしくない成績だろうとかいうのは出てくるんですが、合格率を考えると、なかなか合格することのイメージを具体的に持つのは難しい。もちろん、落ちたくないとか、自分は絶対に落ちないとか日々考えて勉強をやっていたものの、受かったらもう司法試験の勉強をしなくてよくて、そこから先は研修が待っていて、2年後くらいは弁護士になっていて、というそんな具体的なことまで考えられなかった。落ちないイコール受かるは当たり前なんですが、それが自分の生活にどう影響して、自分の将来についてどういう決断をしなきゃいけないのかは全く考えていなかった。
Q:当時の試験制度はどのようなもので、合格率は何パーセントくらいだったのでしょうか。
昔は1年に3階層の試験がありました。今は試験制度が変わってしまいましたが・・・。5月の第2週「母の日」の日曜日にマークシートの択一で、最初が短答式、全国でだいたい5分の1くらいに絞られます。論文が7月20日頃「海の日」あたり、これでさらに4分の1から5分の1になります。9月末にだいたい800人~900人くらいが残って、最後の口述試験で10%くらいが落ちる。最終の発表は確か10月末くらい。私の時で受験者は3万人くらいで、最終的に800人くらい合格だったと思います。合格率にすると2.7%程度でしょうか。
Q:98年当時、学部生で合格した人、あるいは1回で合格した人はいたのでしょうか?
結構いますよ。合格するまで大学を卒業しない人もたくさんいるので、数字の解釈は色々ありそうですが、当時大学生で合格するのは全体の3割くらいだったと思います。また、1回で合格するのは合格者の1割くらいなのではないでしょうか(注:法務省によると平成10年度は67人で8.3%)。
Q:根を詰めて、集中的にやる試験なんでしょうね(笑)。
当時、私や私の周りにいた大学生としては多分それが多数派だと思います。ただ、ひとたび研修所に入ると意外とそうでもなかった。例えばクラスで私の隣に座っていた方は元日銀の65歳近くの方でしたし、会社で働きながら司法試験に合格しましたとか、主婦やりながら勉強して受かりましたとか、色々な方がいました。私は世の中を何も知らず、「大学からそのまま来ました」というのが恥ずかしいような、そんな気持ちになりました。
Q:当時、法律以外の学問をやっていた人で、司法試験に合格した人数はどれくらいだったのでしょうか?
私の大学の同じ学年でどれくらいいたかどうか記憶にありませんが、政治学科の先輩で受かった人が数人いたと思います。ちなみに、私の大学では、政治学科というところに入った後、法律の授業が好きな人が法律学科に転科するという方法もありました。ただ、それやると、1年生の法律学科の授業を取り直さなくてはいけない。私は学校はあんまり好きじゃなかったので、そこまでこだわって、転科はやりたくないなと思いました。
Q:転科はかえって、司法試験にはロスになってしまうという感じでしょうか?
当然学ぶものはあると思うのですが、少なくとも私にとっては学問的に法律が好きというスタートではなかった。まず司法試験に受かってみて考えようと考えて、受かる最短コースをということで、受験予備校に行って受けました。当時資格ブームが始まった頃だったので、よくあるパターンなんです。かなりの人が予備校に通っていました。
Q:1999年に大学を卒業されて、司法修習生に直接ならず、"ギャップイヤー"を1年取られるわけですが、どういう選択肢の中で、なぜアメリカだったのですか?
とにかく、今後のことをゆっくり考えたいというのがありました。せっかく早く合格したのだからより専門性を高めるために大学院でこういうのを勉強した方がいいとか、これからは知的財産だから慶應・藤沢で学んだらどうかとか、いろいろ友人の話を聞いて面白そうだとは思ったのですが、勉強は正直しばらくもういいやと思ったんです。それと、合格した後に、若くして受かると裁判官になりやすいとか、検察官になりやすいとか、大手事務所に入れるとか言われましたが、それは自分にとって何なんだろうと。このままいって一番になるためには、こういうところに行った方がいいんだみたいな道筋も懇々と諭されもしましたが・・・。私は大学4年でまだ22歳になったばかりの時です。そんなこと言われても、よくわからず、不安になって、ちょっと待って考えさせてっていう思いでした。そもそも弁護士になろうと強く思っていたわけでもなかったため、1年くらい休みをとって、立ち止まってじっくり考えたいと思いました。周りにいろいろ話を聞いていたら、たまたま知り合いの中に、ニューヨークのソーホーの大きな壁に全面猫の絵を描くという画家がいて、その方の家が結構広いので、部屋に入れるよってことで、そこで気軽な気持ちでいきなり渡米し、"国際的居候"をすることになりました。たまたまその方が日本に帰る時だったので、その方の家でキャット・シッターをしながら、一人暮らしを2か月くらいしていました。それからしばらくして、クイーンズの安いマンションに引っ越しました。同じくギャップイヤーをとっていた大学の友人がニューヨークにいたんです。当時は彼とは大して仲よくもなかったので面倒臭いなという思いもありましたが、お金もなかったので、100㎡近くの広さのマンションを月10万円程度で一緒に借りました。恐らく最初で最後のルームメイトです(笑)。
Q:NYでは何をしていたのですか?
最初は、なかなか友達もできないので、週2回ほど空手道場にも通いました。英語で習う空手は新鮮でしたし、意外と日本人は少なく、いろいろな友達ができました。結果的に、楽しいニューヨーク生活になりました(笑)。私は2年生以降、大学生活がほとんど司法試験で消えてしまっていたので、自由な刺激のあるひとときでした。ルームメイトとも6、7か月くらいの共同生活でしたが、今では大親友です。彼はほとんどブラジルだのマチュピチュだのと旅行ばかりしていました。私もフロリダや東海岸に行ったり、コロラドにスノードボードに行ったりしていましたので、実質的には共同生活というような感じではないですが、一緒にNYにいるときは色々と将来について語ったり、共通の友人とともにマンハッタンで飲み歩いたりしていました。今でも一緒に飲むと当時の話しになります。
Q:アメリカでは旅行が多かったですか?また、アルバイトや学校には行かれなかったのでしょうか?
半々ぐらいでした。みんな行くような10人くらい生徒がいるクラスの語学学校に行ったり、企業から派遣されるようなビジネス英語用の語学学校にも行ったりしました。ただ、どうせやるならもう少し実務的なスキルを身につけたくて専門学校にも行きました。ちょっとしたパソコンのクラスとか、経営の基礎とか、興味のあるものをとってみました。また、米国では"パラリーガル"と呼ばれる法律事務所でセクレタリーよりもやや専門的な仕事をするスタッフがいるのですが、その2,3カ月の入門クラスを受けました。たまたま選んだ学校がそうだったのかもしれませんが、何故か生徒は黒人の方が圧倒的に多かったです。普通に生活していると白人の友人や日本人の友人しかできなかったので、私にとってはまさに非日常の世界というか、様々な知り合いができて、そこでの出会いはとても面白かったです。
Q:パラリーガル(Paralegal)って、そういうコースを経験された弁護士さんは少ないですね(笑)。
クラスは20人くらい生徒がいるコースだったのですが、最初は何をやるか全くわかってなかったんです。「リーガル」っていう名前がついていたから取ってみようかな、みたいな。でも、「パラ」ってなんだろう、とか思いながら。クラスに入ってみると、圧倒的に女性が多く、先生と私以外は全員女性で、ほとんどが黒人という構成でした。つまり、私だけ男性でアジア人ですね(笑)。それでいて、私は日本の司法試験通ったはずなのに、議論に全くついていけないというか、自分の存在が示せない。頭では言いたいことは浮かぶのにタイミングを逸してしまって気づいたら次の議論が始まっている。もどかしいというか、自分の無力感じると同時に、俺は今まで何をやってきたんだと思いました。ですから、私の"ギャップイヤー"は、見事に鼻っ柱折られ、落ち込みの連続でした。なので何とも辛かったというか、悶々としていたというか・・・。最後には眼が覚めました(笑)。
Q:パラリーガルという制度は日本ではないのですか?
日本の事務所でも大手の企業法務の事務所であればそのようなシステムはあります。私の事務所も一応アメリカの事務所なので、パラリーガルという方がいて、議事録を作ったりとか登記関係の処理をしたり、一部翻訳をしたり、実務的に弁護士を補助する仕事をしています。ただ、多くの日本の事務所の場合、秘書さんがかなり踏み込んだお仕事までやってくださるので、パラリーガルと秘書の区別もかなり曖昧な印象があります。
Q:その専門学校の修了書はあったのですか?
実はドロップアウトしました(笑)。凄く面白かったし、友達も出来ましたけど、帰国まであと1,2カ月しかないが、どうするとなった時に、やっぱり遊んでおきたいと。学歴になるというような感じでもなかったので、内容もわかってきたなというところで、完全に観光客に戻りました。ミュージカル、コンサート、アメフトを見に行くとか・・・。
Q:帰国後、司法研修生になられるわけですが、2000年の4月から1年半ぐらいの期間ですか?
はい、そうです。当時は1年半でしたが、今は1年2カ月に短縮されたらしいです。私の弁護士登録は2001年の10月でした。
Q:最初は刑事弁護をやりたいと思っていたのですか?
そうですね、それが親のやっていた仕事なのでイメージを持ちやすかった。父がやっていたのは刑事弁護とか子どもの人権とか、中小企業の法務が多かったと思います。私が家で父から話を聞くのは刑事弁護で、こういう子どもが捕まって無罪になったとか、子どもの人権で大変なことがあったとか。弁護士になるかどうかも分からず司法試験をやっている時に色々と父と法律について話すようになり、今学んでいることはこうやって役に立つのだと、意外と面白そうじゃないかと思うようになりました。あ、これなら別に司法試験に合格したあとに企業に就職とかしないで、弁護士になるのが良いんじゃないか、と。
その後、1年ギャップイヤーで米国にいる間は、具体的に考えられるほど情報があったわけではありませんが、海外でいろんな友人が出来て、いろんなものをみて、日本以外にも楽しい世界はあるなというのがわかりました。弁護士になって、違う場所で働くのも悪くはないなという感じになりました。それから、どういう弁護士の道があるのか調べ始めました。その頃、友人は司法研修所に入り、就職を決めたりしていました。行き先は様々で、裁判官になったり、検察官になったり、大手法律事務所に行く人もいれば、1・2人の弁護士がいる事務所に行く人もいる。
Q:通常、司法研修に入る時に、だいたい"就活"というか、どういう事務所に属していくのか決められるのですか?
当時は研修所に入った直後の数か月くらいで決めるケースが多かったと思います。特に弁護士になる人は、大まかどのような事務所に入りたいのか、方向性を決めます。企業法務を扱う法律事務所への就職活動は早かった。4月に研修が始まり、7月から9月位には就職先が決まるという感じでした。なお、今はもっと早くて、司法試験の結果が出る前から、大学の成績、履歴書を持って、"就活"がスタートします。
Q:現在は弁護士も"買い手市場"になったから、"就活"が早くなっているイメージですか?
ロースクール制度になって、タイミングが大きく変わってしまいました。我々の時は"売り手市場"で、行きたいところにほぼ行ける。当時最後まで就職が出来なくて困る人などいなかった。今は、確かにに買い手市場になりましたね。
Q:司法修習生の研修当時、ハンセン氏病の国家賠償請求訴訟を取り扱う事務所に所属されていたとか?
研修は1年半で、最初の3か月と最後の3か月は研修所で、学校みたいに集まって、座学、勉強をします。真ん中の1年は各地ばらばらに飛ぶ。私の場合、福岡に配属されました。そこで法律事務所、刑事裁判、民事裁判、検察それぞれ3か月回っていきました。その中の最初に配属された法律事務所でハンセン氏病の案件を中心でやっていた先生につきました。元ハンセン氏病の患者さんの療養所にみんなで行って、訴訟の準備をする。一緒にお酒を飲んだり、いろいろな世間話をしたりしつつ、徐々に信頼関係を作り、言いにくいことも話をしていただいて、陳述書にし、裁判所に提出しました。私のような修習生は戦力外なので、お酒を飲んだり、いろいろとお話を聞くのが中心でした。ただ、そこで見た弁護士の活動は素晴らしかった。弁護士になろうと思った時に描いていた人権活動の本物の現場を見せてもらいました。人の心や命を救うことのできる仕事だと。
Q:ハンセン氏病の国家賠償訴訟と企業法務とは、木下さんの頭の中で、どう連関するのでしょうか?
やっぱり企業を守るイコール人権の対極にあるようなイメージを持つ人はたくさんいると思うんです。しかし、ほんとにそういう二分法なのかなと。企業は経済活動を支える重要なことをやっている。雇用を生み出すことが社会の基礎を支えている。それをバックアップしていくのが企業法務でもあります。また、規模の小さい会社を救うこともあるかもしれないし、日本が大きくなる、強くなる上で必要な技術を持っている会社を守るとか、企業法務イコール金儲けという単純な図式ではないでしょうと。当時、世の中の人のためになりたい人と強く思っている人は、企業法務を避けているようなイメージでした。一方、企業法務に行く人は、あまり人権に興味がないみたいな割り切り方で、両サイドからいろいろ言われるわけです。「人権活動とかやっていても飽きちゃうよ、企業法務は法律の最先端のことをやるから、ダイナミックで、エキサイティングだ」とか、「企業法務なんて誰でもできる。人の命や尊厳にかかわる活動こそやりがいがある仕事だぞ」、と。どちらも言っていることはそのとおりですが、今自分にあるのはどちらかだけの選択肢なのかなぁと。ハンセン氏病の案件は、まさに画期的で素晴らしかった。弁護士は何年も見返りなど気にせずに働いて、勝訴した時には依頼人と一緒に号泣している。こんなにやりがいのある仕事ってあるかなとつくづく思いました。自分の生活を賭けて、自分でお金も払って、自分にしか助けられない人が目の前にいて、やらなきゃいけないと思って何年も頑張る。それって企業法務にあるのかなと思いましたね。今、目の前で起きていることと同じレベルの社会的なインパクトを企業法務を通じて出せるのだろうかと。私は高校の部活などで、チームスポーツをやってきました。何年も一つのゴールに向かって頑張って、辛さも喜びをみんなで分かち合うようなことをやってみたい。それは企業法務だとあるのかなと考えてました。でも、話を聞いているうちに、企業法務にも、人が必要だったりします。ずっと一緒にお客さんと会社の生死を賭けてやるプロジェクトもたくさんあります。そこから自分ならではの価値が出せると思って、絶対つまらないと言われながらも、結局、企業法務を扱う法律事務所でキャリアをスタートすることを選びました。ハンセン氏病の訴訟の準備のための弁護団合宿というのがあったのですが、その合宿先から、当時内定をもらっていた前の勤務先の法律事務所に電話し、研修所卒業後、一緒にお仕事をさせて下さいという電話をしました。何であの場所から電話をしたのかはっきり覚えていませんが、自分の中で、今見ている素晴らしい人権活動に決して劣らない企業法務の活動をするんだという思いがあったのかもしれません。
Q:ハンセン氏病の国家賠償訴訟が勝訴したことは画期的だったわけですが、いつでしたか?
2001年の5月に熊本地裁で原告が勝訴しました。その後国が控訴するかどうかが社会問題になりました。当時の福田官房長官と小泉首相が政治的な判断として控訴しないと確定して、和解しました。全国で訴訟が起きていまして、主に西日本と東京だったんですが、それも和解で進みました。
Q:2001年当時、外資系の法律事務所に就職される弁護士は、まだ少なく、"先駆的"なベンチャーに入社するような感じでしょうか?
まだ少なかったですね。ちょうど98年くらいに法律が変わりまして、日本の法律事務所と外資系の法律事務所が一緒に仕事が出来るようになり始めた頃だったんです。形は、合弁とかジョイントベンチャーに近いです。日本の弁護士が外資系の法律事務所に直接雇用されることはできなかったんですが、日本の法律事務所と協同で事業を行う、同じオフィスを使うことは可能になりました。日本の弁護士たるものという矜持(きょうじ)のようなものが存在していて、外資系にいっても金の亡者しかいなく、そんなところに行くのは日本の弁護士として自殺行為だとも言われることもありました。あとはハゲタカの代理ばっかりで直ぐに嫌になって辞めるだけだぞとかですね。私が弁護士になった2001年は海外のファンドが不良債権や不動産への投資を加速していました。でも、どうせやるなら、今までの日本の弁護士とは違うことをやりたい。日本企業が海外に進出するときや、海外から日本に進出してきて一緒に仕事をしましょうという時に、海外の文化とか海外の弁護士の戦い方がわかった弁護士じゃないと、これからの日本企業が世界を相手にやっていく際のお手伝いはできないだろうと思うに至りました。だったらそういうところに身をおいて、自分たちがこれから相手にしなくてはならない彼らがどんな人たちかわからないとダメだなと。入った事務所はまだ日本人はたった4人と小さかったので、一緒に歴史を創ろうという気概を持ちました。
Q:その後、外資系法律事務所に入った後、実際に刑事弁護はできたのでしょうか。
弁護士になり、数件やりました。今でもその時の被告の少年から時折連絡があります。私は、就職先の内定を受ける前に、内定をくれた事務所の弁護士に、「企業法務をやったら、刑事弁護ができなくなるのではないでしょうか」と質問したんです。他の事務所でも同じ質問をしていて、答えはほぼ「まあできないね」という回答だった。でも、その時だけは、「それは択一の話ではない。刑事弁護だろうが人権だろうが、一般民事訴訟だろうが、やりたかったらやりなさい」という答えが返ってきました。刑事弁護も、うちの事務所でやればいいと言われました。毎日忙しいが、企業法務をやったら刑事弁護ができないというのは自分で作ったハードルに過ぎない。日常業務に追われてやれないのであれば、お前がその程度の弁護士なんだと、そう言われて「あっそうか」と思ってその事務所に入りました。しかし、入ってからやっぱりそこまでできなかったですね(苦笑)。一年目に数件担当した後は、徐々に刑事弁護活動から遠ざかって行ってしまった。やっぱり刑事弁護についてはその程度の熱意だったかもしれないです。企業法務が楽しかったですし、お客さんと一緒になってやってくのが、これまで本当に楽しかった。事務所の中でも外資系事務所なので、同僚がどんどん変わっていく。仕事もなんとか認めてもらいたいですし、お客さんにも喜んでもらいたいですし、とにかく必死で働く3年でした。ただ、途中でこれだけでよいのか、と思う気持ちは少しずつ強くなっていたことも事実でした。
Q:ほとんど寝てないのでは?仕事は、朝9時から夜中3時?ですか
途中少し仮眠を取ったりすることもあります。ぶっ通しで働くわけでなくて、新人弁護士の採用活動でご飯食べてたり、軽く飲みに行ったりもします。
Q:2001年10月に弁護士登録をされて、アメリカ、ロサンゼルスの研修にも参加された。また、2004年の7月にデューク大学大学院に入学される?
ノースカロライナ州にあるデューク大学の修士課程に入学して、その後05年9月にニューヨークに移りました。Master of Lowは、よくある海外留学生向けの1年のコースなんです。
Q:そこで、クラスの代表や卒業式での総代をつとめたのですか?
学生団体の代表は立候補でやる人がいなかった。友人から一緒にやらないかと言われ、気づいたら巻き込まれていた。卒業式のスピーカーもやりましたが、たまたまです。成績が一番だったと勘違いしてもらえることがあるのですが、実はそういうわけでもないんですね。でも1000人を超える人の前で原稿を見ないで長いこと話をするのは良い経験になりました。
Q:語学で専門用語とかたくさんあるわけで、いつのまにか、英語の力をつけられた(笑)?
前の事務所に入ってからが大きかったかもしれません。あと最初にアメリカに行った時に、語学学校は役には立ちませんでしたが、そこで会った友人にアクター(役者)志望の人がいた。そういう人たちは話せる英語、舞台とかでお客さんに理解してもらえる英語を話さなきゃいけないので、発音を矯正するような英語のレッスンを受けていた。私も紹介してもらって、元アクターの先生の英会話のレッスンを受けて、実践的な、会話をして理解できる英語を習いました。徐々に言いたいことを伝えられるようになり、話すのが楽しくなって、書いたり読んだりは得意じゃなかったんですが、話すのは少し得意になりました。
Q:デューク大学への留学は、事務所から行くようにと勧められたのですか?
半分半分ですね、事務所のプログラムで、4、5年勤めたら留学するのがあるんです。ただ私の場合、タイミングとかもあって、2年半でどうかと打診されて、行きました。
Q:大学院留学後のニューヨーク勤務時代に、ブルックリンで、NPOを起こして、空手教室をされたのですか?
私自身がやったわけでなく、そのプロボノ(時間でなく、スキルのボランティア)の案件が事務所に周ってきました。話を聞いてみると、ブルックリンの、とある地域の子ども達が、何かあると暴力や薬に手を出すので困っている。空手をやらせればself-discipline(修養)を覚えて、いい子に育つんじゃないかというミッションを掲げて、3、4人くらいの人が投資銀行を辞めて、空手道場とみんなが集まれるようなコミュニティーを創るための会社を立ち上げようとしていました。空手だし、もしかしてみんな日本語を話すかもしれないから、これをサポートできるのは私しかいないだろうと思い込んで、「やります」と手を挙げてしまいました。ただ、実際に会ってみると、そもそも一部の人には英語も通じにくい、「スペイン語は話せるか」とか言われて、全然ダメだったんですけど・・・(笑)。日本語は全然必要なくて。この案件では、会社をNPOとして設立し、連邦とニューヨーク州で寄付金が課税控除になるような申請をしました。案件としては極めて簡単なアメリカではよくあるプロボノ活動です。NYでは、毎日のようにプロボノ案件の情報がいろいろな団体から回ってきていました。事務所にもプロボノ担当の弁護士がいて、そのコーディネイトをやっている。非常にシステマチックで、やりたい人はすぐに手を出せる環境は凄いなと思ったのを覚えています。企業法務でも社会貢献やっぱりできるじゃないか、と嬉しくなりました。日本でも、今後、進展するかもしれません。
Q:当時はアメリカの弁護士は、"プロボノ"が年間50時間も要求されるとか?
やらないと罰金とかいうことはないですが、あくまで目処としてそれぐらいはやるようにと言われていました。
Q:最初のプロボノ経験は、このニューヨークが初めてだったんですか?
はい、日本でも前の事務所で若干ありましたが、積極的に関与している形ではなかったので、初めてといえます。
Q: 2006年に帰国されて、2006年以降は、年間200時間をプロボノに充てるというのをご自身に課したとか?
それくらいはやりたいなと思ってました。積極的に社会貢献活動をやっていた弁護士の友人がいまして、彼が毎年一定の時間を割くように意識しているという話をしていたのを聞いて、当時考えたのはだいたい年間3,000時間は働くかなと思ったので、その何%っていう割合で考えました。10%はきついかなと、でも5%以上の時間はやってみようと。それは200時間くらいかなというのが根拠です。企業のために、社会のためにというのはありましたが、そういう大きな話はまずは置いておいて、もっと身近なところで手助けしたいという思いで。ただ、当初は弁護士でプロボノでやりますので一緒にどうですかと日本のNPOに話しかけても、不気味がられたり、相手も何を頼めばよいか分からないみたいで、プロボノ案件は少なかったですね(笑)。
Q:つまり、木下さんは、日本における弁護士分野のプロボノの先駆者ですね。今、木下さんのお仕事としては毎年3,000~4,000時間働いておられるわけですが、それって弁護士さんとしては普通なんですか(笑)?
私は、かなりワーカホリックです。ブラックベリー(RIM社からでている携帯,スマートフォン)を横に置いて、寝たりとか。基本24時間スタンバイできるようにとしてしまう(笑)。
Q:そんな中、長女が授かって育児休暇を取られ、ワークアンドバランスもされたのですね。
さすが外資系事務所なので、男性でも当たり前のように育児休暇を取ります。今のところ子どもが生まれた男性弁護士は、6・7人連続して取ってますし、取るなとかは言われたことも聞いたこともがありません。また、育児休暇後も、例えば一旦5時くらいに家に戻って、子どもとご飯を食べて風呂に入れて、また事務所に戻るという生活もできます。夜8時に再出社とか、そんな生活をやりたいかどうかはまた別の問題ですけど。
Q:仕事の面白さとプロボノの面白さ、そのバランスをどう表現されますか?
私にとっては、どちらも結構同じ。弁護士としてやらなければいけないことだと思っています。企業法務は私じゃなくてもやる人はたくさんいる。だから私じゃなきゃ出来ないように頑張っています。プロボノをやっている時間は、そういうことをやってる人が余りいないので、一緒にやりたいとか一緒にやって世の中変えちゃおうという仲間もできるかもしれないと思っているんです。上から目線の発言に聞こえるかもしれませんが、僕がやらなくて誰がやるという気概は、きっと伝わると思うんです。ソーシャルベンチャー(社会起業家)、ソーシャルファイナンスにしてもこれから伸びていくと思いますし、法律も変わっていくと思います。何よりそこでやっている人たちが凄く面白い。私自身も面白い経験をさせてもらっています。今後、企業法務の弁護士もソーシャルセクターにきっとどんどん入っていくようになる日がくる。弁護士がコミットする土台が出来るといいかなと思ってやっています。
Q:年間200時間もプロボノにかけている弁護士さんは、どう考えてもあまりいないですよね(笑)?
どうですかねぇ、プロボノの定義によると思います。刑事弁護はもともとかなりプロボノで、当たり前のようにやっている人は日本の弁護士で山のようにいる。法律扶助とかは全然お金が入らない中、手弁当でやってる人はたくさんいます。人権問題もまさにそうです。「プロボノ」やっていますという人はあまりいないかもしれませんが、「社会貢献活動」「公益活動」という風に呼べば、実は弁護士業界全体で見ると結構いるんじゃないかと思います。皆さんあまり自分では言わないですけど・・。一方、企業法務をやっている弁護士はというと、まだまだ少ないかもしれませんね。
Q:ギャップイヤーと近い概念で、サバティカル(長期間勤続者に対して付与される長期休暇)があると思うのですが、弁護士さんもあってもいいですね?
日本の弁護士にとっては、1年間のロースクールへの留学とかが、一番多いサバティカルみたいな感じかもしれませんね。ただ、それ以外にももっとあってもよいと思います。例えば、アメリカのリファーラル・オーガニゼーション(referral organization)と呼ばれるプロボノ紹介したりする機関があるのですが、そこにいる弁護士は、トップ・ローファームの若手弁護士です。ニューヨークの優秀な弁護士が何人も来ています。NPOとかの仕事ばかり1,2年やって戻る。そのまま、その道に入っていく人もたくさんいるようです。
Q:"竹の節目"のように、10年に1回くらいアクセントを入れた方が、成長すると確信する人も多いですね。学生の時に、すごく素敵だなと思ったのは、故・糸川英夫さんなんです。あの小惑星「イトカワ」の由来の方です。ロケット作ってるし、踊りのバレーやったり、10年ごとに節目つけたんですね。根っこのところは想像力。想像力を世の中に示し続けていた。本気でその都度傾注してきた。10年経つと煮詰まっちゃうこともあります。次のステップアップのために必要かもですね。例えば、40歳代で、住宅ローンや子どもがいたりでギャップイヤー取るのは難しいかもですが・・、英国では、「オーバー・フォーティー・ギャップイヤー」という言葉がある。10年単位で、人生を見直してみることが必要かもしれません。
ちょうど私も今弁護士10年目が終わりそうな時でして、次の10年どうしようか悩んでいるところでもあるのです。この10年とても楽しかったので、次の10年も同じくらい楽しくしたい。でも、次の10年はもっと世の中がよくなるように、日本の文化を海外にもっと発信できるように、違った角度から物事を考えてみたいなあと思います。
Q:アメリカと日本とでは司法制度のみならず、日常的に議論をするなど文化がまったく違うと思いますが、ギャップイヤーをアメリカで取ったことで、身に付けたことは何ですか?
大学卒業後すぐに、ギャップイヤーとしてアメリカに行った時と、事務所からの派遣としてロースクールに留学した時とでは感じが違っていました。ロースクールに留学したときは日本の弁護士としてそれなりに実務を知っていることもありましたので、あまり不安はない。ふつうに学校に通って朝から晩まで勉強した。ただ、最初にアメリカに行った時は言うことも伝わらなかったですし、必死だった。ロースクールでみんな弁護士ですという状況とは全く違って、どこに顔出しても「お前、誰?」って感じでした。一から友達を作って、一から生活して、自己主張してという経験は、その後の人生にとても役に立ちました。バックグラウンドがないところで、肩書きがないところで、"もがく"素の自分に出会って、向き合えたからです。
日常的な議論という意味では、ロースクールで学んだことは大きかった。ロースクールでの学生や教授の議論を聞いているとすべて、「これあなたどう思いますか?」って聞くと"I think ~, because・・・"と、全部because、って言う。Becauseっていう形で理由を言わずに結論だけ言っても、日本だと「わかってるよね」という感じで進むことも多いし、逆にそこまでいうとかえって無粋となる場合もあります。アメリカ人は結論だけ言うと、そこから先を"Because~"と促してくる。逆にBecauseって言ってると、なんかちゃんとした理屈があるような雰囲気になり、それっぽい議論になってくる。でも、よくよく聞いてみると全然大した理由を言っているわけでもない。こんなんでいいのかとびっくりした。ただ、考え方によっては、ちょっと言い回しや文章の組み立て方画が違うだけで、比較的簡単に理解しあえる。それまでは、何でわかってもらえないのかとか思うこともありましたが、それからはとにかく話さなきゃと思うようになりました。
Q:文化人類学で言うと、"ロー・コンテクスト"と"ハイ・コンテクスト"の違いってことでしょうか?日本人は1を聞いて10を知るハイ・コンテキスト文化。一方、アメリカは全部言わないとおさまりつかない"ロー・コンテキスト"。その差があるかもしれませんね。
カリフォルニア州の司法試験でも予備校の先生には、「論文試験ではとにかく書けと。たくさん書け。どんな議論でも、どんなばかげた議論だと思われることでも主張・反論になるのであれば書け」と言われました。思考過程がみえないと合格しない。間違っていても、それなりの理屈を作ってクライアントを弁護しなければいけないのがおまえたちの仕事だと。できるかどうかが勝負の分かれ目なんだと。ここまで無理スジというか、こんなに低いレベルの議論まで答案に書買いちゃうのかと、その発想は私にはなかったです。日本の司法試験はこの学説があって、この判例があって、こっちの方が妥当と。理論的にもよりメイクセンスするからこっちですと。極端な例を言えば、最高裁がこうだからこうという。アメリカの方がより判例の社会なのに、司法試験の場合は、ああ言えばこう言うみたいな感じでやればいいんだと、そんなことを聞いて、なるほどと思った覚えがあります。
Q:やはりこうしてお聞きしてみると、"人権派"のお父さんからの影響はかなり大きいのでは?
余り感じてなかったんですけど、今思うと大きいんでしょうね、悔しいですけど(笑)。なんだかんだ言っても、背中を見て育ってきているのでしょう。小学校の頃、宿題をやっているとあんまり勉強するなと言われたことを覚えています。もうちょっとやりたいことがあるだろうという感じで。ただ、気づけば自分から受験勉強をしたいといい始めて学習塾に通い始めた、ゆっくり休むはずのギャップイヤー中も何だかんだいって勉強したりしている。弁護士も面白くなさそうな仕事だなぁと思いつつ、どこかで興味があって司法試験を受けようと思ったわけです。仕事の事はあまり本人からは聞いたことはなかったですが、どこかで感じ取る部分はあったのでしょうね。そして今思うのは、自分の子どもに、私が楽しそうに仕事をやってる姿をみせたい。何やってるかわからないと思うのですが、お父さんは楽しく仕事をしていて、人のために頑張って働いているっていううしろ姿ですね。一番やってまずいなと思うのは、やりたくないという辛い表情を子供にみせること。せめて誇りを持ってるなというふうには見てほしいと思ってます。
Q:「この仕事嫌だな」と思う仕事は、どうしているんですか?
やりますね。これまでの経験では、あとで絶対やってよかったと思うからです。胃が痛くなる仕事の方が成長します。次から胃が痛くならなくなってよかったとも思います。クライアントの投資スタイルや事業戦略は様々です。それらを見ていて、特に弁護士になって最初の数年は、このクライアントをサポートすることで世の中のために何か役に立っているのだろうかとかふと思うこともありました。大量の契約書を作り、何百億円のお金が動くけれども、自分はそのペーパーワークだけやっていていいのだろうかとか。でも、投資や、お金が回ることは日本の社会に必要だと。たまに辛かったですけど、中で働いている人達の考え方や苦悩もわかりましたし、企業が再生する姿もみました。投資の最大化をとことん追及するやり方は全てダメみたいな見方もしなくなりました。やりたくないと最初に思う仕事というか胃が痛くなる仕事であればあるほど、終わった時の喜びも大きいです。だからワーカホリックみたいなことも言われます。
Q:気分転換、大事にしてることは?
家族との時間やスポーツをする時間、そしてプロボノや個人でやっている社会起業家支援の時間です。プロボノや社会起業家の支援はやらなきゃと言ってやってますけど、自分の中でバランスを取ってるんだと思います。
Q:ワーカホリックということですが、土日はどう過ごされていますか?
早朝と夜は仕事しています。それ以外は、家族と過ごすことが多いですね。
Q:ギャップイヤーを取るにあたり、躊躇することはありましたか?
気づいたら決めていたという感じでした。後になって「何で司法試験受かって休んだの?」とか、「弁護士やりたかったんでしょ、何ですぐやろうとしなかったの?」とか言われることもありました。そこで始めてそういう見方もあったか、と。理解してもらおうとしたわけではないので、気にしていなかったですが。
Q:1年塩漬けするのは珍しいですよね。高揚感があると思うんです。えらい難しい試験に合格したから、普通すぐにでも、次のステップである司法修習生にと。一旦止めるというか違う場所に行くのは勇気がいりますよね。
資格がある安心感があって、比較的ハードルは低いかもしれません。実際にギャップイヤーを取ってる人は余りいないのかもしれませんが、私の友人の弁護士には何人かいました。司法試験は5年くらいかかることも多いですし、弁護士の場合いろいろなバックグラウンドの方がいるから1・2年くらいビハインドでもなんでもないと思います。でも、一般企業の中で1年休むと勇気がいるなと思います。
Q:筋肉の話ですが、スポーツでレミニッセンスということばがありますね。空手ずっとやっていた。1か月間練習止めて違う場におく。その後、また空手をやると、違う回路が働き、スキルが伸びている。レミニッセンスは筋肉の世界ですが、脳でもいえるかも。ずっと同じことをやるのでなく、一旦スイッチ抜いて、違うことをやる。
そういう意味で日本も学部で法学部があってロースクールって行くよりは、違う頭を使う違う学部から行った方が面白いですね。私もそうなのであまり人のことは言えませんが、理工学部出身からとか羨ましいですね。
Q:最後に、もし将来、愛するご子息がギャップイヤーを取りたいと言ったら?
もうぜひです。私がやっていた1年というより、「それするのか!」というリアクションするほどの凄い経験をしてほしい。それこそ、マグロ漁船に乗るとかそれくらいやってもらいたい(笑)。私は小心者なので、息子には、自分より遥かに勇気のいることをやってほしい。私がアメリカにいた1年、一緒に司法試験に合格した友人たちは弁護士になるためのまっとうな研修をしていて、とっても充実しているように見えた。一方、私は地球の裏側で、悶々とした日々を過ごしていました。当時、私は何がホッとしたかといえば、英語で疲れて夜ぼーっとひたすらネットサーフィンをする空虚な時間、それは決して言えないなと思って(笑)。ただ、どんな小さなことでも、これをやりたいと思えることに出会えたり、そう思ってやり始めたことが実際やれるようになった時、嬉しくてしかたがなかった。振り返ってみると、ギャップイヤーは、次の目標を探すプロセスの始まりだったと思うんです。だから、実は遠周りでも何でもなかった。
"並外れた集中力で、法曹界の常識を変えてくれそうな法律のプロフェッショナル"
木下弁護士のように、大学4年生で文字通りストレートに難関の司法試験に合格してしまうと、何の迷いもなく脇目も降らず、司法修習生になるのが通常だろう。ギャップイヤーの要件は、決まった大学に入学しないでdeferral(入学延期)し、非日常性の中に自分を置く中、「国内外留学(正規外)、インターンやボランティア等を行なう」ことである。この意味で、大学を司法修習所に置き換えれば、すべて該当する木下さんのケースは、遅れてきたギャップイヤーと言える。欧米では、概念が既に拡張し、就職後でもギャップイヤーは適用されるようになってきている。例えば、米国の非営利のTFA(ティーチ・フォー・アメリカ)で、大学卒業後2年、貧困区で教師をやり、問題解決力やリーダーシップ能力を高めている。その後の就職が引く手あまたというのは、知られている。日本でも今後、このような"ギャップイヤー・モデル"は増えてくるだろう。
木下さんへの驚きは、大学入学前の学力は相対的に高くなかったのに、ひとたび明確な目標・目的ができ、スイッチが入ると、超人的な力を発揮するところだ。それは、大学4年の秋に1回で司法試験合格、米国大学院で英語をマスターし、卒業式で総代スピーチ、国内大手ファームを振りきり、日本人4人しかいないニッチな弁護士事務所でのベンチャー的出発、現在の「年間3000時間労働で、別途200時間プロボノ」などが見事にそれを物語っている。
プロボノといえば、2006年に帰国して、日本のNPOに問いかけたら不気味がられたということからして、木下さんが、日本における弁護士としてのプロボノのフロントランナーであるといえるだろう。
そんな木下さんが、軽い気持ちで踏み入れた米国でのギャップイヤー時代に、法律スタッフ(Paralegal)入門セミナーで、ぎゃふんと言わされた。「俺は法律が実質何もわかってない」と感じる。空っぽの空虚な時間もある中、素になり自分を見つめ、向き合った。そして、いつの間にか、ギャップイヤー後、日本と違う場所で働くのも悪くはないなという感じにまで高めている。この一連の所作こそが、今日の敏腕弁護士を形成する礎になっているように思える。文面からは伝わらないが、例えば大学進学前の成績不振による"小さな挫折"や米国での失敗談を話す木下さんは目を細め、優しく淡々と語る。口調が終始強くない人なのだ。先述とおり、とにかく目標・目的が定まれば、驚異的なパワーを発揮する。現在自らに課しているタスクは、「年3,000時間勤務の中でのプロボノ200時間実現」に違いない。さて、次なる孤高で難攻不落の目標は、何だろう。それは、ひょっとしたら、法曹界で二分法で語られることが多い「企業法務畑と人権擁護畑」の統合化や"昇華"かもしれない。究極の「ノブレス・オブリージュ(「社会的地位の保持には責任が伴う」という概念)」ともいえる。既に日本でのソーシャル・セクターの成長曲線までイメージできる木下弁護士は、まさに従来の弁護士像を変える、型破りで"ハード・マインドとソフト・ハート"を併せ持つ、スケールの大きな法曹人だ。困難をチャレンジとして楽しめる人は強い。だから、組織基盤が弱く低迷する日本の各セクターをぐいぐい引っ張っていってほしい。最後になったが、次の10年、またどのように人を驚かしてくれるかとても楽しみな人である。
Q:まず、清水さんにとって、ひとつの大きな転機は、1988年の高校1年修了時に中退されたということだと思うのですが、その時の心情は? 特進クラスに行けるような成績であったのに辞めてしまったのは、どういう背景があったのですか?
ひとつは、自分自身が納得して高校生活を送れていない。なんで勉強しなければならないのか。何故貴重な10代半ばから後半にさしかかる極めて多感な、おそらく人間形成においても重要な時期に、理由がわからないのに勉強漬けにならなければならないのか。理由がわからないのに、より点数をあげろあげろと半ば強要される。それに疑問を感じながら、反発をしながらも、それをやれてしまうようになると自分の人生は一体なんだろうと思ったんですね。これから先も納得がずっといかないことも、大人に強いられてやり続けるような人生がこの先出来てきてしまうのではないかいう漠然と疑問を感じていました。私は団塊ジュニア世代ですが、「勉強しろ、より名の知れた大学に入って、安定した企業に入れとそうすれば幸せが待っている」というような、そう言う大人や、そういう社会が魅力的なものかどうか。私には全然魅力的に映らなかった。今を我慢して、自分の納得いかないことをやり続けられるような大人になっちゃった、その先に待っている人生も決して魅力あるものではない。むしろこういう大人になりたくないなと・・。疲れて酔っぱらって電車で人に怒鳴り散らしたり、楽しそうに見えない大人たちになってしまうくらいだったら、今の時間をもっと自分の納得のいく形で過ごしたいと思った。我慢した先に輝けるというかこのような大人になりたいと思えたら、我慢したと思う。我慢した先に待っているだろう人生も大人の姿も魅力的には思えなかった。だから、我慢する理由がない。だったら自分で今やりたいことをやった方がいいのではないか、それで高校を1年で辞めました。当時は、まだ不登校という言葉もなく、高校中退です。でも、リセットしにくい社会ですが、あとで結果を出せばいいとも思ってました。
Q:やりたいことはすぐに見つかったのですか?
いや、すぐに見つかったわけではないですね。私も結果的にアメリカに行ったんですけど、最初からアメリカに行こうと思って辞めたわけでなく、とにかく自分が生活しているいろんな強要されている空間から抜け出すというか逃げ出すというかそういう必要があると直感したんです。単純に「アメリカは自由そうだ」とも思っていました。今だからこそ、当時のことを振り返って、理由があるように話ができますが、当時の感覚としてはとにかくこの場(高校)にいて3年間我慢し続けて、理不尽なことに対しても何も言えなくなるような、我慢できちゃうような、受け入れられてしまうようなそういう大人になりたくないなというのが先にありました。ほんとにそこから抜けだすことができるようになるのかと・・。というのはわからずに、そこに居続けると自分の大切なものがどんどんそぎ落とされていくという感覚があったので、それで辞めました。私の場合は、ほんとに運がいいことに父親が大学院時代にアメリカに行っていた経験があったので、それで知りあいの方が、「アメリカに来たらどうか」と言ってくださっているというのがあった。アメリカだったら当時としては自由そうだし、英語が得意だったわけではないですが、何かを予感させる。日本の場合は見通しが全部立ってしまって、こうしたら1+1=2、2+2=4というような自分の人生が単純に見通しが立ってしまって、しかもその見通しの先にあるのが決して魅力的でない。アメリカの場合は1+1=2になるかどうかもわからない。むしろ何か当時としては湾岸戦争前でしたから、アメリカに対しては幻想というものがあって、憧れを抱いて、アメリカなら何かあるかもしれないなという思いで行きました。
Q:私も高1のときに、普通科が中学の焼き直しにしか見えなくて、つまらなくて、3学期はほとんど行かなかったのですが、母に「高校だけは卒業して」と泣かれて、従ってしまったことを想い出しました(笑)。
私は末っ子なので、姉がいて兄がいて、私。姉も兄もまっとうな、まわりも文句も言わないような道を選び、進学もしてました。末っ子はまぁしかたないかと割とあきらめてもらいやすい状況だったですかね。「自分で判断しなさい」という環境でした(笑)。
Q:なんとなくご自身がもやもやとして悩みがあったときに、家族の軋轢というか親御さんの対応はいかがでしたか?
もともと小学校時代からやんちゃだったので、そのまま中学、高校に進んで、そろそろ言い出したかという感じだったと思います。何か豹変して辞めると言ったわけでなく、中学の時も何で勉強しなければいけないのとか疑問を言ってましたから。とはいえ高校は何となく行っておかないと思い、入学していたんです。家族には、それまでに免疫があったのかもしれません(笑)。
Q:一応、家族に理解があったという感じでしょうか(笑)?
ただ、やっぱり今でも覚えているのは母親を説得しました、自分なりに。何故高校を辞めようと思っているのかと・・。先生が理不尽なこと、これはおかしいだろうと思うことを学校で言った時、やった時に、私が「それは違うんじゃないか」と指摘をすると、そのまま職員室に連れていかれて、先生達から「お前はそんなこと言える立場か」とか、「この成績、その制服はなんだ」みたいなことを言われるわけです。なんていうか、自分が間違いかもしれないけれど、先生が言ってることやってることが間違っていると思うのに、指摘したとたんに自分が封じ込められちゃうような・・。3年間いたら、いろんなことに鈍感になるというか、黙っていた方が得だと思って口を閉ざして生きるようになるのではと、そんな感覚はあったので、それは母親に繰り返し言いましたね。
Q:もの凄く重要なポイントですね。向き合う力、自分の置かれた立場をちゃんと説明する姿勢と力、清水さんには両方あると思うんです。普通、「どうせ俺のことなんかわかんないだろう」と向き合わず、逃げてしまう(笑)。自分自身もそうでしたね。高1で、ちゃんと親と向き合われたのが凄いですね。
そんな、なんかちゃんと理路整然と説明して理解を得たというような、きれいな形じゃないんです(笑)。押しきったというか、父親にも言われました「石の上にも3年」、嫌だからと言って、ころころ変わっているようでは社会からも信用されないと。私の場合は、社会から信用されないぞとか社会に出て困るぞというようなことが、いや別にこんな社会から信頼されなくなっていいし、信頼されない結果として困るなら困ってもいいし、そもそもこんな社会に信用してもらおうと思わない。自分にとっては魅力のある社会に映ってなかったので、社会の中で「あーなるぞ、こーなるぞ」と驚かされても、自分の中で反発にしかならなかったですね。こんな社会に生きていたくない、嫌だから辞めるって言っているわけであって、「我慢できなければ社会から認められないぞ」と言われても認められようと思ってない。
Q:正当性があるんじゃないかということでしょうか。もし、仮に高校の先生の言葉のままに、「特進クラス」に行って、大学受験していたら、どうなっていたと思いますか?
どうですかねぇ。正直想像したことがないですね。少なくとも今の人生はなかったです(笑)。
Q:米国の高校に高校2年生として転入されたのは、その年の88年の9月でしたね。90年に卒業されて、そしてアメリカの大学にそのまま入学されたということでしょうか?
90年6月に高校を卒業して、すぐには大学に行く気にもなってなかったので、ひとまず日本に帰国しました。それから2年間は日本を拠点にしながら、旧ソ連や東欧にバックパック背負って旅行に行ってました。まさに、私がアメリカで高校3年生の時にベルリンの壁が崩壊し、東欧は激動の時代でした。ゴルバチョフが出てきて東西冷戦構造が終わっていく、その先明るいものが予感されるような時代だったので、現場をじかで見てみたいというのが理由でした。アメリカにいた時は、日本人であることを強く意識しました。日本人として、国の壁だったり、国の壁を越えることだったりを意識せざるをえない状況でした。日米貿易摩擦が深刻な問題で、東芝のラジカセがホワイトハウスの前でハンマーでたたき壊されたり、日本はアンフェアだというのでジャパンバッシングの時でしたから、「日本人としてどう思うか?」と授業で聞かれたりする。日本が嫌いで飛び出したんですけど、いざアメリカに行ってみると日本のことをいろいろアンフェアだと言われると腹が立つというか反発がある(笑)。本当にアンフェアなのかどうかと、自分で調べるようになる。盛田昭夫さんと石原慎太郎さんが書いた「NOと言える日本」を日本から送ってもらって、それをもとにアメリカの政治のクラスでプレゼンをしたり、結果として日本人であることを強く意識させられるようになりました。だからと言って日本が大好きになったわけではないけれども、好きとか嫌いとかではなくて、自分が生まれて自分の家族も友人もいて、故郷としての日本を意識するようになりました。同様に、他の国々でも、そこには人の暮らしがあるわけです。そういうことを感じていてた時に、まさに東欧、当時ソ連で自由を勝ち取るために若い人たちの戦いがあった。天安門事件もその時期、自分で見てみたいと思いましたね。
Q:バックパッカーの期間は?
行って帰ってきて、行って帰ってきてって感じでした。1ヶ月間行って帰ってきて、また家庭教師のアルバイトして、また行ってというような・・・期間もでこぼこで、3回くらい行きましたね。
Q:まさにギャップ(寄り道)ですよね。ということは90年の春以降、半年間くらいですか?
90年6月に卒業して帰ってきて、91年初頭から92年の春くらいまで、行ったり来たりで、2年弱という期間になります。
Q:国内にいるときはアルバイトでつないで、そしてついに米国で大学入学ですか?
家庭教師などでつなぎながら、92年の9月に米国の大学入学です。2年は長いと感じられるかもしれませんが、勉強したい気持ちがないのに行ってもしょうがない。国際政治には関心があったので、もう2年経つ頃には勉強して知りたいと。何で東西冷戦構造ができて、何故それが崩壊し、あるいは生活は貧しいはずなのに、ルーマニアとかユーゴスラビアは内戦が勃発する直前、子どもと犬が楽しそうにしている。目がきらきらしている。日本に帰ってきて成田から自宅に帰る途中、塾の帰りか子どもが暗い顔してて・・。これは日本だけの問題かと思ったけど、国際的にみて日本はどうなのかということも関心がありました。それが明確になってきたので、自分の中で学びたいというモチベーションが高まってきたので、そうしたこともあって92年9月に、またアメリカの大学に留学しました。
Q:それはカンザスシティにある大学ですか?
いえ、それは最初の高校がローレンスというカンザス大学がある大学街にあって、1年間いました。高校3年はシアトルの郊外にあるレイクワシントン高校に行っていて、大学はオルバニーにあるニューヨーク州立大学で、国際関係を勉強しました。国際政治について勉強して、他大学の博士課程まで行って、研究者になろうと思っていました。
Q:ところで、清水さんがバックパックをやられた経験があることを知ってる人は少ないかもしれませんね(笑)。
隠すとかじゃなくて、だいたい経歴は、NHKを辞めるところから始まることが多いですから(笑)。
Q:先日、社会起業家支援NPOのETIC.でメンターをやったのですが、経歴見ると、起業家の卵の7割近くがバックパッカーか留学・遊学経験者のギャッパーだったんです。日本社会は「寄り道」を異常に嫌い、ストレートに入り、ストレートに卒業する単線型の"無菌な"履歴書に価値を与えている。いろんな社会経験をした人こそ、イノベーションを起こせると思うのですが・・。
私が思うのは海外を経験したということよりも、日本を離れたということの意味が大きいのではと。日本で生まれて暮らしていると、この価値観しかない、この社会しかないと思いこんでしまう。「この世」と言ったときに、この世は現世、日本の場合は日本社会になってしまう。海外は非日常に感じられてしまう。実際は非日常と言われてる海外で、多くの人が暮らしている。人は生まれて育って死んでいる。日本を離れて初めて日本社会を客観視出来て、私の場合。決して日本だけで生きなきゃいけないわけではない。日本が合わなければアメリカで生きればいいし、ルーマニアでもいいわけで・・。暮らしていく場所は日本に戻らなければならないわけでない。そういうふうに感じた時にもの凄く自由に、そこで初めて日本社会とある意味対等というか、妙な先入観や敵意もなく向き合えるようになった感じがあるんです。日本で生きていかなきゃいけない、当然ここでなんとか生き抜かなければならないと思ったときは、生き苦しい。必ずしもそうじゃないとわかり、体感できた瞬間、日本に帰ってきても息苦しくなく生きていけるようになっていった。もちろん海外に出て生活したということなんですが、その手前で日本を離れて、客観視できるようになったのが、自分にとって大きかったかなと・・。
Q:アメリカで国際政治を学ばれた時、満足度は高かったですか?
やっぱりもう全然大学の授業が違いますからね。もの凄く授業が魅力的でした。当時から授業自体が学生に評価される。教授を学生たちが評価するというのがありました。何しろ現場で実務を踏んでいる人たちが教授陣になって教えていたので、国連の授業なんかでいうと国連で長年勤め、バリバリ交渉やっていたような、インド人だったんですけど、授業をするんです。日本でいう教科書は授業の前提条件ですね、前提の基礎知識として当然のように読んでこないと言ってることがわからない。でも教科書を学び始めた途端つまんないです。生のことを知るためには、教科書を当然の基礎知識として読んでないといけない。あるいは文献を読むんですけど、カントの「永遠平和のために」とか、マキャベリの「君主論」とか、読むことが目的でなく、まず事前に読んで、それから議論するんです。大学1年の時から、そんな具合で、それが大学での教育だろうと思いました。読んで書くだけなら、大学に行かなくても自分でできるわけです。大学でやる意味、それだけ実践を踏んできている教授からリアルな話を聞ける。あるいは同じ道を志している仲間と議論ができるところが存在意義です。それは、日本の友人が言ってた大学の中身と全然違う。そりゃあ、大変でしたけどね(笑)。授業もものすごく、大変でした。今思い出しても、ホント大変だった。
Q:海外の学校で他に日本人がいないと、"日本代表"になりますよね。「トヨタは・・、日産は・・」、なんて、一国を代表したようなことを言わざるを得ないような・・・
私は、高校時代に精神的に鍛えられました。大学時代は物事を批判的に見る目とか情報の捉え方というか、情報は加工の仕方によって、どういうふうにでもとらえられてしまうことがわかった。情報との距離の取り方を授業を通して学び、大きかったです。
Q:アメリカで魅力的な居場所がみつかった。だけどICUの3年生に編入された?それはどういういきさつだったのでしょうか?
実は大学も、大学院も博士課程までアメリカに行こうと思っていたんですよ。大学院も行きたいところも決めていました。アメリカの場合は本格的な専門教育は大学院で、学部があまり差が出るわけでない。授業料の問題もあってニューヨーク州立大学を選びました。大学院は行きたいところがあって、そこに行くことさえできれば学部はどこでもいいなと・・。そんな中、アメリカにいる最中、祖父が亡くなった。祖母も高齢になっていたので、ずっと大学院に行っていれば、祖母も亡くなってしまうだろうという危惧がありました。3,4年の学部のうちならば戻ってきて、日本で過ごしながら、大学院でまたアメリカに戻れればいいかなと考えたんです。とはいえ、ただ大学卒業するということではないので、日本の大学を夏休みにまわって、ICUはアメリカの大学に似てて、いいかなと、それでICUに編入しました。
Q:その要因は、当時ICUの準教授だった姜 尚中先生(現・東大大学院教授)の影響も大きかった?
大きかったです。大学の雰囲気もディスカッション中心の授業を展開しているし、姜先生のもとで勉強出来るならという思いもありました。
Q:ICUに入られる前に、姜先生と面識は?
日本のビデオをたまに親に送ってもらって見てたんですが、その中に「朝まで生テレビ」があって先生が出演していました。姜先生は在日で日本にいて、私は日本人でアメリカにいました。"中間性"と先生は言っていたかと思いますが、狭間で物事を判断し、両者の間をつないで理解の断絶を少しでも弱めて緩めていく姿勢に共感するところがあったんです。
手紙を書いて、つまり自分はこういう状況で日本の大学に編入しようか迷っている、もし先生のゼミに入れるんだったらICUに決めようと思っていると書きました。その時、卒論で書こうと思っていたことは「国家という枠組みの限界性と絶対性」でした。当時は国際人という言葉がはやりで、国際化の中で国のボーダーが溶解しているようなイメージが少なくなかった。国家という枠組みは限界はあるけれども、国際企業とか国際機関が出来て、相対的には枠組みは自由度が低くなってきている。国家という枠組みに限界はあるんだけれど、でも必ず残る絶対性あると。両面から見ていった時にあり方として何が残るかという研究をしたいと手紙に書きました。
Q:大学3年時に、明確に卒論の構成の骨子ができて、それを表現できるところがすごいです。
でも、結果的には卒論は「日本脱出マニュアル」と、ガラッと変えて卒論詐欺みたいな形になりました(笑)。姜先生は結果的には喜んでくれたんですが・・。日本を脱出する理由と具体的な手段とを卒論にまとめて、評価はAをもらいました(笑)。
Q:「日本脱出マニュアル」は、簡単に言うと、どんな論旨なんでしょう?
自分の経験をふまえて、当時「完全自殺マニュアル」という本が売れている時期で、またオウム真理教の事件が起きて若い人たちがオウムに入っていく時期で。私の場合、日本社会や学校社会が嫌で飛び出す先が、たまたまアメリカだった、じゃ、アメリカに行けない人は、アメリカよりもオウムに魅力を感じた人がオウムにいって、あるいは死を選んでいる。つまり日本から逃げ出すためにオウムだったり、自殺だったりということを選ばざるをえないという同世代が多くいるということを強く感じたんです。自分だけではなかったという感覚なんです。日本が生き苦しくて、こんなところで生きていたくないと思ったのは私だけじゃなかった。同じ同世代がたくさん思っていたということに気づいて、ただ不幸にも彼らはオウムや死を選んでしまった。私はたまたま選択肢としてアメリカに行くっていうのがあったから、アメリカを選んだ。根っこの部分で社会に対する不信感だったり、憎悪というかは共通のものだという感覚がありました。だったら、死でもオウムでもなく、生きていくための具体的な手段として日本を脱出するということを、実際に自分が体験してそういうことがあるというのがわかったので、それをもとにして、なんで今日本脱出なのかということを理論編と極めて具体的にテクニカルなことに分けて書きました。「マニュアル社会における最後のマニュアル」というサブタイトルだったんですが・・(笑)。
Q:日本だけでなく、海外にも道がある? ギャップイヤーの本質的なとこと近いですね。
日本だけじゃないよという選択肢。序章でこの世っていうと日本ではこの社会を意味するけど、決してこの社会だけじゃなく当然どこだって生きていける。それをことばだけじゃなくて論文にしたかったんです。
Q:「至るところに青山あり」の感覚ですね。
自分の転機となったのはオウムの事件です。信者だった井上嘉浩氏が書いた日記が朝日新聞に載ったのですが、それが自分が高校時代に書いた日記にそっくりだったんです。自分のじゃないかと、驚いたくらいです。「大人たちは満員電車に揺られながら、どこに連れて行かれるかも分からないままこれで良いのか」という社会への嫌悪感の内容でした。それって、自分の文章かと思ったくらい似た感覚です。彼の日記を読んだ時、「もしかしたら自分がオウムに入っていたかもしれない」と、はっとさせられました。そして、自分が社会に対して抱いている漠然とした苦しさというのは、個人的な感覚ではなく世代が共有していることを知りました。だったら国際政治よりそれに関わっていった方が面白いんじゃないかと思っていました。同世代の人と対話をしながら考えていければいいなと思い、NHKを目指しました。
Q:ICUを卒業されて、97年に25歳でNHKに入局されるわけですが、高校中退したり、編入学されたり、日本の人事部の視点からにいうと、通常"ややこしい"あるいは"傷だらけ"の履歴書ですよね(笑)。採用者側に偏見がなかったというか、寛容なのか、やはり見る目があったと言わざるを得ないのですが、当時の採用面接官から何か感じましたか?
入局した同期を見まわすと、ストレートというよりも留学経験があったり、大学院に行っていたり、何かやっていた者が多かったですね。さすがに何も目的もなく"ふらふら"はいないですが(笑)。その年によって採用のねらいがあるっていうようなことも聞いてますが・・。その年は普通ではない人たちを集めようとしたのかもしれません(笑)。
Q:高校中退のこととか、日本の大学に編入したこととか聞かれましたか?
聞かれたと思いますね。それこそ高校と大学で日米5つ行ってますから(笑)。細かく言うと、高校3つ、大学2つです。確か聞かれたと思います。
Q:さっきの話だと高校中退する時、お母さんを説得されたように、自分はこの時点ではこう、あの時点はこうときちんとNHKの面接官に説明しきったということなんでしょうね。
それぞれ自分なりに理由はあっての行動だったので説明しました。カンザスからシアトルの高校に転校したのもカンザスはESLという英語を第2言語とする留学生向けのクラスがあって、海外から来ている学生は英語の授業をとらなければならない。1年目(高2)は3時間くらいとりました。2年目(高3)も2時間取らないといけないと言われた。2時間取っちゃうと他の単位を取りきれずに、もうその年に卒業出来ないとわかった。とにかく日本が嫌で飛び出したのにアメリカで3年かけて卒業したなんて、周りの同級生たちと1年遅れるわけで、嫌で逃げ出して、自分で選んでアメリカの高校に移ったので、アメリカの高校も2年でちゃんと卒業しなければという思いがありました。ただカンザスの高校にいると2年で卒業できない。そこでESLのない、かつ自分のことを受け入れてくれる高校を探した。カンザスから1年終わって、その夏休みに電話しまくって、シアトル郊外にある高校が受け入れてくれることになりました。インターネットがなかった時代でしたから、それは大変でした(笑)。向こうにいって一生懸命勉強したので、日本の中学・高校の成績とは全然比べものにならない、オールAに近い。自分の好きなことだし、自分がやらなきゃいけない、何より自分で選んだことです。どこの高校に行くかを選んだとかじゃなくて、「何をするのか」が基準でした。日本の高校に行くかアメリカに行くかも自分が選んだこと。熱の入り方というか、自分がやらなきゃいけない、やりたいという想いは日本にいた時と全く違うものがあった。一生懸命勉強して、そういう成績があったのでTOEFLもそれなりの点取ってたので、高校が受け入れてくれて卒業できたわけです。
Q:NHKを選んだ理由に「懸命に生きる人」をドキュメンタリーに撮りたかったとのことですが、どんな人を見ると"懸命に生きている"と感じますか?
私は運よく、たまたまアメリカの高校に行ったり、海外を放浪したり、大学に行くこともできた。ただ自分と同じように息苦しさ、生きづらさを感じてても逃げ出せないような人たちがいて、それぞれの人生の中で、理不尽さにつぶされないようにつらい苦しい状況の中でも、自分らしく生きようともがいて葛藤している人たちはたくさんいる。高齢者とか子どものドキュメンタリーを創りたいというのでなく、自分と同世代でこの社会のあり方とか同調圧力とか価値観とかに押しつぶされそうになりながらも、でも自分なりに懸命に生きている人たちですね。こういう風に生きている人もいるんだよ、あぁいうふうに生きている人もいるんだよという、それが、"懸命に生きている"イメージです。
Q:"懸命に生きる"というテーマは、人生の選択肢の提示っていうことですか?
どういうふうに生きていけばいいのか会話のきっかけを提供できればと思いました。自分自身もどう生きていいかわからないと思って悩んでいたこともあった。伝える手段はメディアだろうと、そして若い人たちに伝えるにはテレビかなと・・。バラエティーでなく、クイズでなく、ドキュメンタリーはNHKじゃないかなと思って、単純なんです(笑)。
Q:ドキュメンタリー監督の龍村仁さん(元NHKディレクター)はご存知ですか?ドキュメンタリーを作るという意思が強い人で、清水さんと同じ強いものを感じていました。
いいえ、NHK辞めてから、ガイアシンフィニーで。
Q:影響を受けられたオーストリアの精神科医・心理学者であるヴィクトール・フランクルさんが亡くなったのは1997年9月でしたが、そのときは何をしていて、何を感じましたか?
知ったのは姜先生からで、その後はそんなにフォローはしてなかったです。ただ、仕事したり、いろんな課題と向き合っていく中で、より大きな存在となっていきました。
Q:話題になった01年の「クローズアップ現代」のドキュメンタリー「お父さん死なないで~親の自殺 遺された子どもたち~」の制作作りのきっかけはどういうものだったのですか?
若い人たちがこれからどう生きていけばいいのか、我々の世代(団塊ジュニア)は幸せになるための方程式を持ってないというか、ちょっと上の世代は「一流の大学、一流の会社、やさしいお嫁さんもらって幸せな家庭」みたいなことを勉強サボっているとなれないよと言われ、聞かされてきた。我々はそれが幸せかということ、幻想だと感じ、どうやって生きればいいのかわからないという世代なんです。だからこそ、これからどう生きればいいのか葛藤しながらも生きていく姿を社会に伝えたいと思いました。番組作っていくうちに、最初は若者っていうテーマを課して、番組にくっつけていた。そうじゃないこともやってるうちにドキュメンタリーは面白いと思いました。人の人生にある種、土足で踏み込みつつ、でも番組も終わって感謝されたり、自分では体験し得ないような他人の人生をお借りし、追体験しつつ社会に伝えていく。それをやってるうちに若者の話がどっかいってしまっていて、親を自殺で亡くした子どもたちの冊子をみて、「あぁ、自分がやろうと思ったのはこういうテーマだった」とハッとさせられて、「如何に生きるか」ということ、社会から押しつけられていく誤解や偏見だったり、価値観だったりと個人がどう折り合いをつけながら生きていくのかということ、「これだ!」と思って取材しました。
Q:04年にNHKを辞められるわけですが、その取材時に決めたのでしょうか?
いえ、その時は全く考えてなかったです。私が辞めようと思うようになったのは自殺対策が動いていないっていうことがわかった時です。自殺で亡くなった方の遺書の取材してたんです。亡くなった方の最後に残した言葉っていうのはどういうことだったのかと・・。それを取材していくと決して死にたくて死んだわけではないことがわかってきて、借金だったり、過労だったり、介護疲れだったり、複合的なんです。対策どうなっているかというと全然対策は行われていない。社会的な取り組みとして行われていない。国も自治体も個人の問題として、対策がうたれていないということがわかってきた。番組を通じて対策が動いていくだろうと思っていた。番組を放送してから遺児の子たちが当時総理大臣の小泉さんのところに申入れにいった。あしなが育英会のつながりのある議員が仲介して。それで動くかなと思っていたら、難しいからねと動かなかった。いつまでたっても対策が動かないと、亡くなっていく人は高止まりを続けている。取材は継続をしていたので、いろんな分野でいろんな知合い、専門家や民間団体の方々と知合うようになって、それで誰かの尻をたたいているうちに自分がやった方が早いと気づいてしまった。他の番組をやりながら、常に気になってしまって・・。気になって、気になって、ここまで気になるんだったら、現場に入って期間区切って活動したらと・・。最初3年間と決めていました。給料はでなくても最低限の生活は出来る状況。長い人生の中の3年間くらいは自分がこれやるべきだと思うことに誰の指示も受けずに、自分が思うがままにやる期間があってもいいんじゃないか。まぁ、NHK辞めて、NPO立ち上げて、もう6年半になっちゃたわけです。
Q:NPOとしては、04年10月に立ち上げられるわけですが、辞めようと思いたって、実際に辞めたのはいつだったのでしょうか?NHKを辞める決意は、半年前くらいですか?
いえ、もっと長い期間でした。辞めるのを最終的に決めたのは03年の9月10日のことがあってでした。この日はWHOが決めた「世界自殺予防デー」、こんな取り組みが行われましたという日本の現状とその対策の遅れの番組を作ろうと思っていたんです。ところが、9月10日に誰も啓発のイベントもシンポジウムもやらない。WHOが定める世界自殺予防デーは1年に1度世界的に啓発をやっていきましょうという日に、誰もやらないってことで、待っていてもしょうがない。その時に自分がやるしかない、具体的に辞めることを考え始めました。ですから、1年近くかかりました。
Q:外から見ると、安定して魅力あるNHKを辞めるにあたり、葛藤や迷いはありませんでしたか?
NHKを積極的にやめたいと思っていたわけじゃないですし、自分の感じる社会の問題点に自分なりに精一杯取組める状況があれば、辞めることはなかったと思います。ただ、NHKにいても自分の思うことはこれ以上出来ないだろうと思うようになったんです。もちろん会社に社会保障がくっついている日本では、会社を辞めることは社会保障がなくなるということなので、非常に悩みました。NHKにずっといたら安泰だろうとも思いましたし・・。
ただ、自分の個性をそぎ落とされる環境にはいたくないと単身でアメリカに行って、英語も話せない中、這い上がってきた16歳の自分に対して、30歳を超えた自分が「生活があるから」といって自分を制御してしまうと、それは、自分が16歳のころに嫌だと思っていた大人になってしまうのではないか、と思ったんです。それは出来ないなと。今の自分は色んな人に支えられてあるわけなので、10代の頃の自分がなりたいと思っていた大人でありたい。迷いはしましたが、やはり現場に入らないとできないことがたくさんあると思いましたし、やろうと思えばできるはずだと信じて選択しました。
Q:ひとりでやっていくことに不安は? 不安があったなら、どうして乗り越えられたんでしょう?
不安もありました。将来のこと、収入がたたれること。あと番組が作れなくなるのは、後ろ髪ひかれる思いでした。NHKに7年いて、番組作りは大好きだったので・・。ただ、不安とか後ろ髪をひかれる想いよりも、やっぱり自殺の問題は人の生き死に関わる大きなテーマであるし、それも毎日80人、90人が亡くなり続けている。そのことと自分が日本社会に対して抱いていた息苦しさ、生きづらさが根っこで繋がっているという感じがあったので、根っこの部分にあるものがいったい何なのか、みんな幸せになりたいと思って生きているはずなのに・・。多くの人が生きづらいと感じている、その正体をディレクターとして突き止めたいというのがありました。ディレクターとしてよりも現場に入った方がその正体にせまれるなと思って、だから辞めることが正しいのか間違ってるのかなんていうのは選択した時にその結論が出るんじゃなくて、辞めた後の行動によって、結論は出していくものだというのが強くありました。それは高校辞めた時に、「高校辞めた」というのを取り上げればそれはとんでもない、大変なこと。でもその後頑張って切り拓いてきたから、あの時辞めてよかったと思えるようになったわけです。何か自分の決断の評価というものは、その後の決断の後の行動によって出していくものという考えがありました。高校を辞める時の苦労と辞めた後の苦労を考えれば、社会人になってそれなりにやれるということがわかってきた中で、それで、もどかしくて将来の安定、収入が断たれることにおびえて辞めずにいるのは、自分の中で若かりし頃の自分に申し訳ない。繰り返しになりますが、何もできない無力な10代の高校生が自分なりに納得した人生を生きたいと思っていたわけですから・・。自分なりに責任を持って選択をしていこうと持っていたにもかかわらず、大人になって社会的な存在になった自分が、立場的なことや収入のことを気にして、自分のやりたいことをやらないとなると、まさに自分が"あんな大人になりたくない"と思っていた、避けたい思っていた大人になっていくんじゃないか。大変だというのは、大人だから、容易に想像はできました。それで選択して後頑張れば、あの時やっぱり辞めてよかったと思えるようになるはずだ。そういう確信はありました。あとはそういうふうに行動できるかどうか、自分への自信というよりはこれで行動できないくらいなら小さく生きるしかない。"そんなでかいこと言わずに生きろ"という思い。やれるかやれないか試すしかないでしょう。
Q:聞きにくいことなんですが、清水さんご自身、死のうと思ったことは?
ないです。生きるのをやめたいと思うことはありましたけど、積極的に具体的に死のうと思ったことはないです。
Q:スローガンになっている「生き心地の良い社会」を定義すると?
「誰もが自分自身であることに納得、満足しながら生きられる社会」。誰の人生生きているんだかわからないとか、自分の人生なのに自分の人生だと思えないとか、面倒くさいと思ちゃうとか、じゃなくて、その人がそれぞれが自分の人生に納得して満足して生きられる社会です。
Q「生き心地の良い社会」は、"幸せな社会"と置き換えてもいいのでしょうか?
幸せは、苦労があったり、瞬間瞬間楽しいとかよりも振り返った時にあの時頑張ったなとか、しんどかったけど人に支えられていろんな人のありがたみがわかったなとか、しみじみ亡くなる前にかみしめるようなものかなと・・。いつもニコニコハッピーな暮らしは必ずしも私にとって幸せといえるのだろうか。また結果的には人生の納得感が大事ですよね。「生き心地の良い社会」は幸せということと必ずしも直結しているとは考えていない。自分で納得しているか、満足しているかが重要だと思います。
Q:ライフリンクでは'つながり'をテーマにされていますが、つながりを実感するのはどんな時ですか?
取材した遺児の子たちが、高校生・大学生に育って、当時おびえながら孤立していたのが、その後同じ体験をしている仲間たちと出会って、支えてくれる大人たちと出会って、人に支えならが自分の痛みと向き合って回復していって、その人、その人なりの人生を紡ぎだして、歩きだして、今度は支える側に回っていることを実感したときです。時間をかけて経験してきているので、人間というのは弱い部分、情けない部分もある。けれども、どれだけつらい状況に追いやられてもそこから回復していける力がある。決して一人で回復していくのでなくて、人と人との関係性の中で回復していく。そして回復した人がまた別の人を手助けする。人間が回復していく、これは遺児だけでなく、遺族、未遂体験の人も、その後人の支えになり、関係性の中で回復していく姿をみていると人は一人で生きているわけでないし、つながりの中でこそ、人間が本来持っている力も発揮できるし、その力が発揮されるとその人の人生もそこから見出していくし・・。我々自殺対策っていうことでありますが、生きる支援、そのつながりの中で誰もが生きていけるような社会、回復していく人たちをみていると、つながりの大切さ、つながりの中で人は生きているんだなと実感します。
Q:神戸の震災時の「あしなが育英会」の子たちが、東日本の震災にかけつけ、力になっていますね。
人の痛みがわかりますからね。さっきの幸せ感もそうですが、例えば親を自殺で亡くしたという一点だけをとれば不幸かもしれないですけど、そういう経験をしたからこそ、人の痛みがわかったり、自分に支えられるありがたみがわかったり、自分が誰かを支えられるという自信になったり、人間のつながりが生まれてきたりということだと思います。何かひとつのライフイベントによってその人の人生が決定づけられるものでなく、どうにもならないと思われるライフイベントであっても、それを受容していくプロセスの中で、その人なりの人生を紡ぎだしていくものだと思う。あの時はこうだった、ああだったとか常に経験を受容の仕方を変えてというか自分なりの納得のいく物語を創りだしていく、ひとつの重要な要素がライフイベントだったりする。それは捉え方によってはどうにもならないことが起きてしまったと思っても、そのことが人生の土台っていうか経験に、その人らしい人生を築いていくための不可欠の経験になったりする。ライフイベントに決定づけられることなく、自分なりに人生物語を紡ぎだしていく、それを繰り返し、物語を自分の納得のいくものに創りかえていく力が人間にはあると思う。そんな意味で人にはたくましさはある。ただ日本の教育は物語を創る力よりも物語を押しつけてくる。物語は押しつけられるものだっていうその中で生きなきゃならないんだ、押しつけてくる物語の方が正しんだ――そういう教育になってしまっている。それはもっといろんな経験をしたとしてもその中で物語を紡いでいく、自分なりに解釈をしていく訓練を、そういう力をもっともっとつけさせてあげないと子どもたちが大人になった時に、なかなかその物語を紡げなくて、社会がおしつけてくる物語に呑まれてしまい、結局自分の人生を生きている感じを持てない、周りからの評価に脅されて踊らされて生きている。自分じゃなくてもいいんじゃないか?となってしまう。教育のあり方も今の日本社会の閉塞感をつくっている大きな要因になっている。
先ほどおっしゃられたETIC.の社会起業家の卵たちもそうですけど、自分なりに経験を紡いでいけるというか物語を開拓していける人はもっともっと必要です。どうせダメだよねというどうせ変わんないよねという、だからどうせ自分の人生物語も変わらないという。理不尽を受け入れられてしまう、「おかしいよね」という感覚を変えられないと思ってしまっている人が多いから閉塞感があると思う。おかしかったら変えればいいじゃないか、ものごとは変わるんだという前提に立つ人が増えてくれば、全然雰囲気が変わる。
ギャップイヤーってことで言えば、私は中学か高校ぐらいの年代の時に希望者は国のお金で1年間海外に行かせてあげるくらいのことがあっていい。1週間、2週間でなく1年間。サッカーやりたい人はブラジルに行けばいいし、福祉やりたい人はスウェーデンに行けばいい。日本の将来を担っていく若い世代が日本を離れて世界のいろんないいもの見てきて、人脈も創って、それで日本に帰ってくるもの凄い社会とっての財産、ひとりひとりの人生にとっても豊かな土壌を築いていく経験にもなるはずです。
Q:この震災で活動範囲も広がったと思いますが、今、ここ数年の目標を聞かせてください。
我々の目標はひとつしかなくて、ライフリンクがなくても自殺対策が自立的な軌道に乗るようにすること。頑張んなきゃ対策が動かないということじゃなくて、我々がいなくても機能していく状況を創る。解散できるだけの社会状況を創るというのが我々の目的です。
Q:いわば、プロジェクトチームの感覚ですね。
そうです。時限的なことをやっている。常にそれは意識しながら、今年度末で解散できるものなら解散もする。
Q:ご自身のモットーである「自分で限界を決めない」という言葉がありますが、実際正直な気持ちを言って、限界を感じることはありませんか?
自分の限界は自分で決めるべきではないですね。ただし、社会はそんなに甘くないのも確かなので、慎重さと大胆さを持ち合わせていることが大事かと思います。慎重かつ大胆にというのは表裏の関係だと思っていて、慎重さがあるからこそ、大胆なことが出来ると思います。過信しすぎると何も出来ないので、色んな人生経験を積みながら慎重に物事を積み重ね、いざという勝負時にちゃんと行動できるだけの力を培っておく。そうすれば自分が「これだ!」と思ったタイミングで自分なりの決断ができると思うんです。つまり、「限界を決めるな、でも社会は甘くないので、チャンスがきた時に大胆に行動できるように備えろ」ってことですかね・・・えらそうなことを言ってますけど(笑)。
最近聞いた話で、働き蟻の2割は働かないらしいです。怠け蟻です。でもそれにもちゃんとした理由があって、8割の蟻の一部が疲弊すると、その埋め合わせの役割を怠け蟻がもつんだそうです。それを聞いて自分は怠け蟻かなと思いました。僕はもともと本当に怠け者なんです。隙あらば怠けようかなとも思ってます(笑)。ただ、世の中が今の戦い方ではどうにもならなくて、みんな疲弊しているという中で、怠け者の自分としては今が頑張る時なのかなって思っています。
Q:今の若い世代は、特に限界を設定しがちではないかとの見方がありますが、どう思われますか?
やっぱりそういうおまえたちはもうダメなんだと社会から押しつけられているので、そう思うのはある種しかたがないと思います。ただ実際はそんなことはないので、どうせダメだなんて高校生が思っているのは間違いなので、変えようと思えば変えられることはたくさんある。人間が作ったものだから人間の力で変えていける。それは私も大人として若い世代に見せていかなければならない。やれば変わる、変えられる。
Q:2010年に就職を苦に自殺した大学生が46名(男性40名・女性6名)と、前年比倍増していますが、今後の展望含め、どう観ていけばよいでしょうか?
就職活動している学生と話をして、なるほどなと思ったこと。私も高校時代同じでしたけど。社会からはこういうふうにあらねばならぬというメッセージが強く押しつけられている。いわゆる"同調圧力"です。小さい頃からそういうものがある。明るく元気で朗らかで、そうあらねばならぬというのが強くある。自分がその期待に添えているのかどうか、周りからの評価で自分を見る癖が出来てしまっている。だから行動する規範も物事を選択する基準も、「これやったら周りからよくみられるかな」、「先生に褒められるか、成績伸びるか」、「受験に有利か、就職に有利か」みたいな、自分が何をやりたいかということよりも周りからの評価をうるために得になるか損になるか、周りの評価の中で選択を迫られて生きている。それでも何とか無理して作り笑いをして、受け入れてもらえるんだったら我慢してやりくりできると思うんですけど・・。そこまで作り笑いしてそこまで無理をしてそこまで自分の感情を押し殺してきたにもかかわらず、社会からいらないよって言われてしまったら、そりゃ絶望しますよね。何も残るものがない。周りから受け入れてもらおうと思って我慢していたのに、無理に作り笑いしてきたのに、そんなあなたいらないよって言われたらどうしたらいいかわからない。男の子なんだからという同調圧力は強いものがある。面接に行って、面接官はどういうふうにして答えれば受け入れてくれるのかなぁと思いながら、自分の言いたいことよりも、面接官の顔色を伺う。それでもことごとく不採用・不採用になったらどうでもよくなっちゃう。人生もここまで苦労して生きる理由はないなと思っても不思議じゃない。むしろそうだよねっていう。死にたいというより、生きるのを辞めたいという状況だと思う、若者たちは。こんなばかばかしい日本社会での人生を辞めたい。だからこそ、日本じゃなくて海外に行けばいいじゃないかって、私は思います。
それと、あと満員電車と学校のいじめです。これが無力感を押しつけているんだと思う。どうせ動いても電車は止まらない。日々あなたは無力ですよ。こんな窮屈でばかばかしいと思いながらも、乗らざるをえないですね。いじめなんていうのは今の学校制度の中で当然生まれてくる。閉ざされた空間の中で、ストレスのたまった子どもたちがいれば当然。当事者だけの問題でなく、環境の問題にしないと。いじめられててもかわいそうだなと口に出せない助けられない。今度は自分がいじめられるんじゃないかという子どもたちが無力感をそこで押しつけられて、どうせ言っても今度は自分が・・となる。どうせダメだと思うことを再生産している。生きる魅力を感じなくなると思う。苦労してでもとか死ぬ気になれば何でもできるとかいうじゃないですか、それは生きることが大前提で、生きていれば幸せなこともあるよという果実があれば、死に物狂いでやります。死に物狂いでやるくらいなら死にますみたいな。その人の人生、命に魅力を感じないのでなくて、この社会に魅力を感じられていない。若い人の自殺は、日本社会に対する"三下り半"だと思っている。大人たち、私たちがこういう社会をつくっているので変えていかないといけない。
Q:通常自殺で亡くなった人については、複合的なプロセスを抱えて死に至るケースが多いそうですね。
調査では、例えば失業者でいうと、(1)失業し、収入が絶たれる (2)生活苦に陥る (3)借金から、多重債務 (4)うつ病になる。しかし、就職失敗による自殺は、(4)以外該当しない難しさがあるように思います。
Q:今、ここに自殺をまさにしようとしている青年に出くわしたら、何を語りますか?
「死にたくなるのは当然だよね。当然だと思うよ、ただ変えていけることもある」と言います。自分のことを言える大人でありたい。
Q:結果をみて、「自分で決めたことをよかった」とはっきりいえる原体験は?
大きなことは、高校辞めて正しかったと思えるように努力出来たこと。もしかしたら小さいことの積み重ねで、言ったこと、やったことを正しいと思えるように、小さな行動が積み重なって、高校も辞められたのかな。自分で何かいろいろやらせてもらった。自分で判断して物事決めさせてやらせてもらったというのが大きかった。自分で決めたからこそ、それに対して自分で責任をとれるし、自分が決めたことが正しかったと思えるように頑張れる。自分で自分の人生を生きているという実感が持てる。全部押しつけられて、「あれやれ、これやれ」って言われていたら、自分で決める力も育たなかったと思う。責任もいい意味で負わされてきた。
Q:プロジェクトチームであるライフリンクが、一定の成果を得て解散になったら、どうしたいですか?
がっつり休みたいです(笑)。アウトプットが多いので、自分のインプット、充電の時間を1年、2年は取りたいですね。
Q:17歳くらいから25歳の悩める若者に声をかけるとすれば、どんなメッセージを送りますか?
「ここにはこだわっている」「これだけは譲れない」といったものを、1つでも2つでもいいから自分の中に作ること。自分のことを丸ごと好きになれなくても、「自分自身のここは好きだ」「こういうことをしている自分は好きだ」というものを、1つでも2つでも作ることが大事だと思います。
人生は、「全教科平均80点以上」である必要なんてまったくありません。むしろ、"一点豪華主義"でいった方がよい。納得のいかないことが多くても、何か一つでも自分が大切に思って好きでいられるものがあれば、それが自分を支えてくれるからです。(小説家の平野啓一郎さんも「分人」という考え方を提唱しています)
そして、そうしたものを作るには、いろいろな体験をすること。自分の中に眠っている、自分がまだ気づいていない自分自身と出会うためには、自分の知らない世界や体験したことのない分野に飛び込んでみることです。
世界には、私たちがこの狭い日本にいては決して体験し得ないような驚きや感動で満ち溢れています。それに触れるための一歩は、みなさん自身で踏み出さなければならない。でも一歩踏み出した先には、二歩目三歩目を後押ししてくれる何かにきっと出会えるはずです。
「どうせ人生なんて・・」と諦めるのは簡単ですが、それだったら世界を体験してからにした方が良い。そうでないと、この豊かな世界に対して、そしてあなた自身の可能性に対して失礼です。かくいう私も、まだまだ諦めずに生きていこうと思います。
"どんな組織にあっても難局を打開してくれる"人間力と突破力を感じさせる人
清水さんの現在のテーマは、出会ってしまった「自殺防止」である。1年に3万人以上自殺がする日本に突きつけられたこの難題に立ち向かう生き方を選んだ。実は、このインタビューには"スクープ"があった。それは、清水さんが米国の高校を卒業後2年近く、日本と欧州を行き来するバックパッカーをやっていたということだ。「高校中退、渡米、米国高校入学」以外にもう一つのャップイヤーを経験されたことになる。このことは、多くの人はご存じなかったのではないか。それは、清水さん自身も認められているように、隠すうんぬんではなく、どうしてもフォーカスされることは、「NHK以後」だからである。しかし、清水さんの"今"の大きな構成要素は、高校時代の中退に始まっていることは、このインタビューであきらかになっている。
企業の採用担当者は、ワーキングホリデーやバックパッカーというと、「履歴書に穴が開いている」と、いとも簡単に切り捨てる傾向がある。しかし、外形的にはその表現しかないが、本人にそこから得たものを聞くと、実質的には「調査活動」や「研究」といってよいほどの得がたい深いレベルの社会体験になっていることがある。清水さんが、ベルリンの壁崩壊後の激動の90年代初頭、旧ソ連や東欧を数度訪問していたことはよい例だ。だから、一般的に否定的な「履歴」の評価を変えるのは、まず自分自身が納得し、外から求められた場合に、誠実に中身を語り、説明しきれるかどうかにあるように思う。
バックパッカー時代や米国留学時代のギャップイヤー時代の自分を語る清水さんは、懐かしむようなはにかむような二十歳の青年の表情に変わる。それは、テレビや討論会で発言される時に見せる真摯な厳しさとは明らかに違う。その豊かな表情は、その当時に得られた価値あるもの、大切なものを物語る。
「海外を経験したということよりも、日本を離れたということの意味が大きいのでは」と清水さんは語った。それは、海外だけでなく都会から限界集落でインターンやボランティアを親元離れて行う"国内留学"もギャップイヤーであるという視座と近いものを感じた。正規の修学を離れて、非日常性の中で違う価値観に出会えれば、この社会はここしかないという息苦しさはなくなるかもしれない。
内閣府参与として、政府の「自殺対策タスクフォース」などで多忙を極める中、若者に参考になればと、自然体に、なんでも語ってくれる清水さんの懐はどこまでも深い。「人間が作ったものだから、人間の力で変えていける」と言う清水さん。ライフリンクに限らず、どんな組織にあってもリーダーとなり、山積された日本の課題に挑戦し、難局を打破してくれる人だと期待してしまう。
Q:まず、なぜ上智大学外国語学部英語学科を受験されたのでしょうか?
とても昔なので古い記憶になりますが(笑い)、とにかく狭い日本でなく、外国に行きたい、世界で何かをしたいと思っていました。そうするとICUか上智。ソフィア祭に行って、上智が気に入りました。私は、中高がフェリスなのですが、上智への推薦制度があり、それを利用しました。
Q:大学3年時夏に留学を決意されたわけですが、なぜ行きたいと思われたのでしょうか?
また、当時の留学は、極めて難関で憧れだったと思いますが・・・。
全然難関ではありませんでした(笑い)。当時は学園紛争の時代で、大学構内が封鎖されて、授業もなく、交換留学試験への周りの関心が低かったのです。私もアルバイトばかりしていたぐらいですから・・・。
中学校の時から、外国に憧れていて、何しろ行きたいと思っていました。そこで、AFSやサンケイスカラシップの留学生試験も受けていましたが、受からず、大学に入学してから、夏の語学研修に行こうとお金を貯めていたのです。でも、先に研修に行って帰ってきた人を見ると、日本人だけかたまっていたせいか、英語もあまり進歩がない。これでは意味がないと思い、どうせお金を貯めていくなら留学したいと思うようになって、交換留学制度などを探していました。
Q:情報のアンテナを張っていたのですね。
大学でESSに入っていたのですが、上智大学はイエズス会ですから男性は行くチャンスがたくさんありました。しかし女子はなかなか枠がなく、たまたま米国のカトリックの大学(カンザス州のセントメアリ大学)への交換留学制度をみつけました。学内紛争で荒れていたため、留学制度には関心が高くなかったのか、どさくさまぎれに受かって、留学できました(笑い)。
Q:近著で「貧困の実態を一部垣間見た」との記述がありますが、具体的にはどのような光景でしょうか?
セントメアリ大学で社会学を教えていた先生(元シスター)が、カンザスシティのゲットー(黒人居住地)の一角を借りて、そこに住む人々のためのセンターをつくり、社会活動をしていました。1年間の留学が終わった夏、そこに数週間居候させてもらったのですが、これがボランティア活動に参加する初めての経験でした。夏はとても暑いのですが、ゲットーの家は、貧しいから狭く、室内は暑くて家にいられない。そこで近くに住む黒人の子供たちを無料の施設、たとえば公園やプールに連れていくプログラムをやっていました。子供たちが悪い仲間に誘われたり、犯罪にまきこまれたりするリスクを少なくしようという目的もありました。小規模でしたが一種のボランティア活動でした。アメリカ人の高校生と私と二人で、このプログラムを担当したのです。
Q:留学前に上智大学で、社会学の授業が興味深く、米国で「社会変革と少数民族」のコースを取られたとありますが、当時の社会変革の意味合いは?
Social Change and Minority Relationsというコースで、歴史を振り返り、世界各国でどんな社会変革があったか、その原動力は、などを学びました。ガンジーの話などももちろん出てきました。「少数民族」といっても意味がわからなかったのですが、米国では黒人やメキシコ人などを指していました。70年代ですから、まだ人種問題がかなり大きく、警察との衝突なども多かったのです。そのコースをとった学生は、少数民族の実態を調べるプロジェクトをしたのですが、私は元シスターの先生に教えていただいて、黒人の牧師さんにインタビューしにいきました。警察が黒人に対してどれほど差別するか、というような話も聞きました。それまで人種問題などあまり考えたことがなかったので、こうした経験はとても貴重でした。
Q:帰国されたのは1年後の4年生の夏だったわけですが、米国留学中の単位が認定されることは事前にご存じなかった?
知りませんでした。私はセントメアリ大学との交換留学プログラムの4人目くらいだったのですが、それまで留学した人はみな4年生の時に行っていました。私は3年生の時に行ったので、帰国後は3年生のまま、休学扱いで卒業までもう1年通学するものと思っていました。でも留学制度を担当されていた神父様(教授)が「学校のオフィシャルなプログラムなのだから単位認めるのは当たり前だ。」と言ってくださったので、帰国して半年で卒業してしまいました(笑い)。
Q:4年生の夏以降国内で、今でいう「就活」というか、会社訪問したり、入社試験は受けられた?
日本航空など数社は受験しましたが、全滅でした(笑い)。ただ、今みたいに誰もかれも就職しなくてはならない、という感じではありませんでした。就職しない人もかなりいました。70年代の就職活動ですから、会社訪問制度など確かなく、いきなり常識試験、面接だったと思います。女子大生が勤められる対象企業が少なく、いわゆるコネ入社が多く、お役所以外は門戸が狭かったと記憶しています。
Q:挫折感はなかった?大学4年当時もたれたキャリア・イメージは?
就職できませんでしたが、挫折感はありませんでした。私自身、キャリアや仕事のイメージもまったく持っていませんでした。高校の時から漠然と、大学を卒業して結婚しようと思っていたのです。高校の同期生の中には、就職すると言っていた人はいましたが、私はテニスばかりしていたし、社会的な意識は全くなかったといって良いと思います。
Q:卒業後は、今風にいうとフリーターであるかもしれませんが、フリーランスの通訳になる目算はあったのでしょうか?それとも「出たとこ勝負」でやるしかないという感じだったのですか?
「出たとこ勝負」でしたね。1年間米国に行っていて、英語力が飛躍的に伸びたと実感していました。当時、英語を使うアルバイトは料金が高かったので、留学する前から、かなり英語に関連するアルバイトをやっていました。留学して、英語力が飛躍的に進歩したと思いましたから、これを使わない手はないと思いました。
当時アポロの月面着陸などテレビで放映され、西山千さん、鳥飼久美子さんなど同時通訳が脚光を浴びていおり、同時通訳の仕事はとても華やかな感じでした。そこで、就職先はないけれど、英語を生かす道はないか、と探して、上智の近くにある日米会話学院を見つけました。そこで開講されていた同時通訳のコースに学び、同時通訳の技術を学ぶことにしたのです。
Q:1978年(昭和53年)、京都で開催されたハーバード・ビジネススクール(HBS)の教授を招いてのセミナーで通訳をされ、そこで米国のビジネス・スクールの存在を知ることになった?
そうです。ビジネス・スクールとは何か、全然知らなかったのですが、セミナーを通じて何をするところかを知ったのです。
Q:その時、HBSの教授に対し、「ビジネスで利益をあげること」に興味があるとかなり直裁的表現をされたわけですが、計算づくか、本心で思われた発言だったのでしょうか?
本当に思っていましたから、本心です。友人が「趣味で店をやりたい」と言っているのを聞いたことがありましたが、ビジネスをするなら利益が出ないと続けられない、赤字の事業をするほど辛いことはありませんから、「趣味で商売をする」のはナンセンスだと思っていました。表現が強すぎるかもしれませんが。商売をするからには儲けなくてはならない、と思っていました。
これはビジネスに限りません。私は、経済的に独立していなければ、自由はないと強く思っていました。自分で生活していけなければ、何を言っても誰も相手にしてくれない。だから留学したいと思った時も、自分で何とかいけるようにお金を貯めていました。
Q:2回目の留学になりますが、その頃通訳の限界を感じられていた?
通訳は、コミュニケーションの手段というか、ツールです。私は、コミュニケーションの手段よりもコミュニケーションする中身、コンテンツに興味があるらしいということが段々わかってきました。通訳の仕事をする中で、中身自体が面白い。「つなげる」仕事よりも、私は通訳すべき「コンテンツ」に興味があると感じるようになりました。
通訳は、専門家と専門家の間をつなげることに意味があり、価値があります。だから通訳という仕事は「どう伝えればお互いが理解しあえるか?」良いコミュニケーションを「どうやって確立するか?」が一番のミッションです。その責任を果たす仕事ですし、それがとても大事だからこそ高いフィーをいただきます。しかし、私は「つなぐ」役割でなく、話の中身そのものに興味があったのです。そうすると通訳としてはかなり問題なのです。
私が通訳すると、元のスピーカーがいった通りに忠実に訳すのではなく、意味やメッセージを伝えようとするため、意訳することなどが起こったのです。
なぜ私がコンテンツに興味を持ったかというと、いくつかの出来事に遭遇したからです。中でも、印象に残っているのがスイス人のディレクターと日本の写真家西宮正明さんがシンガーミシンのカレンダーを作った時のことです。その時たまたまスイス人のディレクターの通訳をしたのですが、両方ともがクリエーションとかディレクションの専門家で、間に入る私だけがその分野の素人。私が下手に訳そうとするより、二人が直接簡単な言葉で話した方がお互いに言いたいことがわかる、意味が通じる、私が間に入らない方がコミュニケーションできるという経験をしてしまいました。
通訳をしている人の中には、「伝える技術」に特化して、それを磨こうという道もありますが、私はそうではない、ということがわかったのです。
当時、同時通訳はそれぞれ政治学経済学など専門があって、それを使って通訳する人という方が多かったのですが、その中でも「伝える」方を重視して、元のスピーカーを前面に出し、自分は透明になればなるほど良いと考えている人も、そうでなく、誰の訳をしても、それは自分の訳になるといっている人もいました。
たとえば、当時同時通訳の第一人者であった西山千さんはどちらかというとちゃんと伝える、国広正雄さんはもとが誰だろうとこれは国広の訳だと自分を前に出しておられた。またその後、ニュースキャスターをされた浅野輔さんは多分コンテンツ側の方のようでした。
Q:7年の"フリーター生活"で学ばれたことを整理するとどうなるでしょうか?
何より、一流の人と直接触れて、知り合えた経験がとても貴重でした。一流の人は何らかの分野のプロフェッショナルですし、とても強いプロ意識を持っています。そうした人を身近にたくさん見たことで、「個」で勝負するためのプロ意識も学びました。
私自身、企業や組織に属すのではなく、"フリーター"として個人でやっていましたから。仕事それぞれ、その時に価値を出さないと料金をいただけない。病気をしたり、時間に遅れたりではプロとしてやっていけないことを知りました。同時に、一度仕事を一緒にした人と連絡を維持するネットワークの重要性も感じました。プロ意識を直に学んだのはその時だと思います。
Q:「一流の人と知り合った」と言われましたが、すべていい意味ですか(笑い)?それとも一流と言っていてもそうでもないこともあると解ったということでしょうか?
いろんな分野で本当に一流の方々にたくさんお会いできました。どんな分野でもホントに一流の人、世界級の人は素晴らしいということを直接の接触から知りました。本当に実力がある人は、自分が何を知らないかを知っているので、謙虚ですが、「偉そう」にする人は二流だなと感じました。これは貴重な経験だったと思います。
Q:敢えてひねくれた質問ですが、70年代当時の女性のキャリアの選択肢として、流れから考えると、通訳会社経営、結婚、コミュニケーションのスペシャリストがあったと思いますが、そのいずれでもなかったのはなぜでしょうか(笑い)?
私の場合はコミュニケーションの橋渡しとしての通訳よりも、伝えるコンテンツに興味があることがわかったこと。また、当時結婚相手もいなかった(笑い)こと。それから今まで体系的に学んでいないし、知識も能力も不足しているけれど、ビジネスは凄く面白そうだと思ったことがあります。それまで、ビジネスの訓練を全然受けてなかったのですが、たまたまビジネス・スクールの教授に出会って、ビジネス・スクールはどうか、と勧められ、行くことになったのです。
Q:当時女性としては結婚とか、親御さんからプレッシャーがありましたか?
それはあったでしょうね。いろいろお見合いとかもしましたが、どうしても結婚しなきゃならないというプレッシャーはありませんでした(笑い)。私の両親は、何をいっても決めたらやると思っていたのではないでしょうか。ビジネス・スクール留学も合格してから知らせました。それまでは相談していません。合格したので、後数週間で準備して行くと言いました。
Q:「えっ、また留学か?」と親御さんはびっくりされたでしょうね(笑い)。
両親がびっくりするようなことをするのは、これが初めてではなく、もっといろいろありましたから(笑)、そんなに驚いたわけではなかったと思います。いつもそうでしたから。
Q:海外大学院のMBA留学という決断は、当時としては斬新というか、日本の女性としてもユニークだったと思うのですが、ためらうことはなかったですか?
女性のMBAは一般的に少数派でしたが、日本の女性としてはごく少数で、その意味ではユニークでした。確か、初めての有名ビジネス・スクール卒業生は、ハーバードの小泉衛位子さん、スタンフォードの加藤道子さんといったところです。加藤さんは、マッキンゼーの先輩です。私が受験した頃は、女性に限らず応募者が少なく、GMAT (Graduate Management Admission Test)は数十人しか受けていなかったと記憶しています。
Q:MBA留学の決断に、「今が潮時」「潮目が変わった」という表現が著書にあったのですが、ピンと来る察知能力をつけるには、若者はどうしたらいんでしょうか?
「どうやって、つける」というハウツー話ではなく、時間、順序、スピードに対する感度だと思います。自分がこれだと思った時、ある程度「いい加減」でも良いとすることがコツです。すべてがそろってからやろう、と思わず、まあこのあたりで試してみよう、それでいいやと気楽に考えることです。
私は基本的に「今」が大事だと思っています。今耐えていれば、将来こんなに良いことがある、というのはあまり信用しません。これだけ変化が急速な時代、明日何が起こるかわからないからです。今回の東日本大震災がそのひとつですが、こんなことが起こるとは誰も予想していませんでした。ですから、「これだ!」と思ったらその時がチャンスであり、そこですぐ行動を起こすのが良いと思います。私自身、待っていたら好転する、もう少し様子を見ようとかあまり考えません。また、周りのことは気にしません。周りが言うからこうしよう、周りが反対するからやめようとか思っていると、自分の人生ではなくなってしまいますから。
Q:その根底にあるのは準備を怠っていないということでしょうか?
ある意味、そう考えられるかもしれません。自分ではそれほど「大計画」をたてて、論理的に周到に準備しているというわけでもないので、準備を怠っていないといわれると、少し違和感があります・・・
Q:30歳直前で修了されたバージニア・ビジネススクールでのご苦労は? また、ブレークスルーになった出来事は何かありますか?
クラスではケーススタディを毎日3つずつするので、1週間に100時間以上勉強が必要といわれるほど膨大な量をこなさなくてはなりませんでした。コースに合格するためには、クラスでの貢献が不可欠でした。私はあまり参加できず、このままではやっていけない、これではまずいと思った時に、その悩みを担当教授に話し、どうしたら良いか相談しました。
アメリカは「個人が自立することが基本」の社会なのです。自分が問題を見つけたら、自分が率先して解決しなくてはならない。その考え方が徹底しています。日本は周囲が状況を察して、遅れている人に何か助言してくれたり、助けてくれたりします。米国では「問題がある、その問題を解決しようと手を打たなければ、大変なことになる、と思ったら、自分でなんとかする」という社会なのです。
そこで教授に相談しにいって、アドバイスをいくつかいただきました。その通りに準備していったら、論理が通った発言をすることができました。苦労してこの方法を続ける中で、ケーススタディは「ひとつの正しい答え」があるのではなく、「結論へのロジックが大切」なのだ、それを学ぶ手段なのだということを知りました。
その後も、たまたま私がクラスで一番先に指名され、結論と分析結果を15分位説明しなくてはならないという出来事がありました。その時、幸運にも前の晩、自分なりの結論とその理由づけまで考えていたので、何とかロジカルに説明することができ、「これだ!」という実感がありました。その前の晩、もう準備をやめて寝ようかという誘惑に惑わされず、一応結論まで考えておいたという幸運以外の何ものでもないのですが、この経験が「ここでやっていける」というひとつの自信、そして私がビジネス・スクールで生き残る転回点になりました。あの時寝てしまって、指名された時にしどろもどろで自分の意見をいえなかったら、挫折していたと思います。そうしたら、今こんなことはしていないでしょう(笑い)。
Q:セレディピティ(偶然から幸運を掴み取る能力)があり、そのための準備をやっておられたから?
何とか効率的な準備のやり方を学んで、ビジネス・スクールで生き残ろうとは思っていましたが、ちょうど良いタイミングで指名されたという「幸運」が大きいと思います。私の分析は、一部間違った計算などをしていましたが、方向としては間違っていませんでした。「結論へのロジック」ということはほぼカバーしていたからです。
この幸運な経験から、ビジネス・スクールで生き残るためのコツ、勘どころがわかってきました。事業戦略やマーケティングは将来のことを考えるわけですから、どうなるかわからないのです。「私はこう考えます、それはxxxという理由から」とストーリーを創って、それを議論するわけです。ですから、みんな違うことを言うといろいろな見方ができ、議論が白熱するのです。そこがケーススタディの一番の魅力だったのです。
Q:「結論へのロジック」というのは、プロセスが大事ということですか?
自分なりの結論がないとダメですが、どうやってその結論に至ったのかというプロセスも大事です。「私の意見はこうです。どうしてかというと」というロジックがはっきりしていることが大事なのです。結論は自分の「判断」ですから、まず「自分の意見」を持っていないと全然相手にされません。自分の意見を持つことの重要性は、最初に交換留学でセントメアリ大学に行った時に痛感しました。どんなことでも、周囲が「あなたはどう思うか」と意見を聞いてくるのです。日本ではこうしたことはほとんどなかったので、最初はとても戸惑いましたが、「正しい答え」を求めていたり、そもそも「正しい意見」があるわけでない、相手は私がどう思っているか、を聞いているのだということがわかってきました。ですから、自分の思う所、極端にいえば何を言ってもいいわけです。この習慣は最初に留学した時に学びました。
Q:MBA卒業時の就職活動は葛藤があった?
葛藤はありませんでした。卒業して企業に勤めようと思って、面接も多数受けました。不合格の手紙も多数もらいましたし、内定ももらいました(笑い)。内定をいただいた企業の中には、多国籍企業の日本支社の仕事もありました。MBA取得後すぐつく仕事として良くある、Assistant to Presidentというような仕事です。これはMBAをとってすぐする仕事としてはとても恵まれているのですが、良く考えてみると、日本支社でこうした仕事について力が出せるか、にはかなり不安がありました。当時日本ではMBAはあまり知られていませんでしたし、日本人、それも女性、そしてMBA取得してすぐという立場で、業績をあげられるとは思えませんでした。本社と日本支社の間に挟まったり、外国人のトップと日本人社員の間にあって、かなり難しい立場になるという心配がありましたから。
また、ビジネス・スクールに行く前から、将来大学で教える仕事をしたいという希望も持っていました。そこで博士課程に行くことを考えたのですが、当時30歳近かったので、ドクターコースに行くなら今しかない。待っていたらこのオプションはなくなってしまう、将来また得られるものではない、と思いました。ビジネス・スクールの先生たちとはいろいろ相談して決めましたが、米国の状況を知らない両親にはそれほど説明もしなかったと思います。
Q:2年間の学費は?
MBAの2年間は貯めていた私のお金で賄えましたが、いろいろなスカラシップもいただきました。
Q:その後、帰国せず、ハーバードのPhDでなく、経営学博士(DBA)コースを選ばれた理由は?
ハーバード・ビジネス・スクールでは、当時、博士課程の学生のほとんどがDBA志望でした。実際、ビジネス・エコノミックスのPhDはあったのですが、私は、学部時代、経済学を専攻していたわけではないので、それは考えられませんでした。企業経営に関心がありましたし、最初はマーケティング専攻で始めました。
Q:30代半ばで DBAを取得され、その後経営コンサル、マッキンゼーに在籍のまま大学院講師兼任、療養中のご主人を看護しながらの、大学教授転進とキャリア転換されるわけですが、キャリア形成に関しての重要な要素・ポイントとは?
要するに自分はどういう人生を送りたいのか、何をしたいのか、を考え、それが実現するような能力をつけることです。また、仕事とプライベート、家族のバランスをどうするのか、どんな人生が理想か、仕事は、家庭はと考え、意思決定していきます。
仕事については、自分の能力でやっていけるのか、が鍵になります。経営コンサルティングはUp or Out(昇進するかやめるか)が徹底されている世界です。ある程度やって実績があげられないと、辞めた方が良いといわれます。自分の実力が常に評価されているわけです。プロジェクト毎に、終わった後、評価セッションがありますが、「このプロジェクトでの自分の仕事を評価すると、どの程度か」とリーダーに聞かれます。
私も最初のうちは自分の実力が全くわからず、「これくらい」と答えたら「その半分位しかやっていない」とリーダーに言われたことがあります(笑)。そうか、自分の実力はこの程度なのかと思いましたが、何とかそれでも自分の力を磨いて自分しかできないことを見つけようと苦労しました。実際、経営コンサルティングの会社では、お客様が必要としている新しいタイプのサービスを考え、それなりに居場所は見つけることができました。しかし、このままコンサルティンで力が発揮できる、パートナーになれるという将来像は持てませんでした。「このままいても将来はなさそうだ」と感じました。周囲には私よりもっとすごい人がいる、信じられないほど良く働く人もいる、仕事の要件と自分の力、家庭における役割などを比べてみて、キャリアを転換したのです。その見極めは自分でしました。
Q:直感的に「これはよさそう!」と思った時の行動の、「英断と無謀」を分けるポイントは ?
私は、新しい機会が開かれたときはそれほど深く考えずに試してきました。同時に、機会が来るかこないかは別として、手段(資金)や力(英語等基本的な力)をとりあえず身に着けよう、つまり、準備をしていたことになります。
準備をせず、事実に基づかずに、希望的観測で「こうなったらいい」といっていても実現しません。これは「無謀」といって良いかもしれません。実際、希望的観測だけからなる事業戦略や工程表をつくっている企業もありますが・・・。
高い志をもって、自分の到達したい目標を明確にすることは、とても大事です。夢がなければ、それに到達する第一歩が踏み出せませんから。その場合、目標や夢は少し背伸びするくらいが良いと思います。客観的に自分の能力を知って、それでできることだけを目指していたのでは、夢は実現しません。また目標に至る道をあまり固定的に考えて、それ以外は受け付けないのも問題だと思います。思いもかけない所から機会が登場したり、その機会をとらえたら、新しい世界が拓かれることもありますから。こちらは「英断」になるのでしょう。
アーティストやスポーツ選手の場合は、生まれつきの能力がある程度必要ですし、小さい時からやってないと世界で戦うのはなかなか難しいです。
キャリアを考える場合カギになるのは「自分はどういう人になりたいか?」ということだと思います。ある分野でそれなりに知られた人になりたい場合は、生まれつきの才能も必要ですし、かなりの時間もかかるし、膨大な努力を続ける必要があります。それだけの才能があるのか、努力をする準備があるのか、時間があるのかを考えてみると、自分で出来ること、出来ないこと、出来そうなことがわかります。
子供の時は非現実的な夢を持っています。それがすばらしいのです。その夢を追って実際にやっていくと、だんだん自分というものがわかってきます。好きなことであればいくらでも努力できますし、苦労とも感じません。好きでないこと、うまくできないことは努力を続けることができないこともわかってきます。
私自身は、常に後悔しない人生を歩みたいと思っています。だからもっとやりたいことがあると思って死にたい。時々、「私、ホントはこういう人になりたかった」とか「ホントは本が書きたかった」という人がいますが、こんなことをいう人生はいやです。「今」を大切にする。機会があったらやってみる。やってみると失敗することもある。やって失敗したら、これ以上時間無駄にしなくて良かった、と思う。エジソンの言葉にもありますが、失敗は何をやらなくていいかを知る貴重な体験だということです。
Q:先生が提唱される企業や事業の戦略シフトである「オープン化」「ユニークさ」「ORをANDにする」を個人のキャリアに適用できるという考え方の根拠は?
今の事業環境を見ると、世界は「オープン化」し、力のシフトが起こり、トレードオフがなくなりつつあります。このような環境では、ベストの正しい事業戦略があるのではなく、企業は自分の強みをいかした「ユニークな」戦い方ができます。個人も同じように、国境や業界がオープン化する中、自分しかない「ユニークな強み」を見出し、それを評価してくれるキャリアの「場」を広く求めることができます。私は誰でも「ユニークさ」を持っているという強い信念・確信を持っています。自分のユニークさをどう探すか、また、それを磨くかということです。そして、そのユニークさをいかすことができる、磨くことができる、それを「買ってくれる」場所を探すことです。
ユニークさを探すためには、「ORをAND」にする組み合わせを考えることも重要です。世界がオープン化しているのにもかかわらず、今までの業界で我々にはこういう強みがあったという固定観念にとらわれてしまっている会社もあります。個人も同じで、「優秀な人」とはこういう人だという今までの尺度にとらわれてしまうのです。しかし、今、世界は大きな変革の真っただ中にいます。境界がオープン化していますし、力のシフトが起こっていて、トレードオフがなくなりつつある。世界は多極化しつつあり、昔の秩序がなくなり、ある意味では混乱しています。
こうした時代に私たちは生きているのですから、もっと広い所に目をむければ、自分の強みを全く違う観点からみることができます。新しい分野に行ってみる、試してみる、自分自身をオープン化することによって、自分の新しいユニークさを見つけるのです。今までの考え方とは違うキャリア戦略の考え方、方向の大きなシフトが必要です。だから「戦略シフト」という言葉を使ったのです。
Q:ところで、先生ご自身の強み(ユニークさ)は何ですか?
私自身のユニークさは、何しろ常に新しいことをやりたい、新しもの好きということでしょう。新しい試み、興味をかきたてられることにチャレンジするということでしょう。今慶應に移ったばかりですが、今まで知らなかったテクノロジーやデザインなどの基礎コースを1年生と一緒のクラスに出て学んでいます。また、常に新しいことをやっているところに行きたいと思っています。
Q:価値観として大事にされてきたことは?
常に良い面を見よう、探そうとすること、常に前向きでいたい、YES(肯定)から始める、年齢や肩書などとは関係なく、誰でも同じように対応しようとしていることでしょうか。
Q:若者は内向きというか、保守的になっていませんか?
統計的には日本からの留学生や海外に長期研究に行く人が減っていることは事実ですし、企業では海外で働きたくないという若者が多いという話も聞きます。しかし、私の周囲にいる若者はそうでもなく、チャレンジ精神旺盛な人が多数います。
ただ、チャレンジする前にやめてしまうというケースを時々見ます。たとえば、ある学生が奨学金の申請のためにサインを求めてきたのですが、奨学金はもらえないかもしれないから申請を辞めようかと言ってきました。取れるか取れないかわからないうちに辞退するのではなく、申請だけはやった方がいいと強く押しました。
私自身も昔MBAの学生の時に同じようなことを考えたことがあります。就職活動で面接を多数していたのですが、内定が多数来たらどうしょうと悩んで、ビジネス・スクールの先生に相談したことがあります。「まず内定もらいなさい。」「内定もらってから考えろ!」と言われました。(笑)
Q:若者は、先生が背中を押すことを知ってやってくる(笑い)?
私の周囲にいる若者は、私が「転職や新しい分野を試すことが良い」と考えていることを知っているので、「新しいことをやろうかな」と思っている時に私の所に相談に来ることが良くあります。「自分では何がしたいのか、何が心配なのか」と聞いて、新しいチャレンジをする時の心配ごとを解決するようなアドバイスをすることが多いです。
転職や留学など、大きな意思決定をする時、私はオプションを並べて、プラスとマイナスを考えるという分析的な考え方はほとんどしません。自分に正直に、自分だけで本当にやりたいことはどれか、と考えたらどうなのか、を決めます。それから、その道をとった時のリスクや心配ごとをリストアップして、そのリスクを少なくするような方法を考えるわけです。
私にとっては、大学3年でアメリカに行ったことのインパクトがとても大きく、それ以降の自分の人生の原点になっています。米国のリベラルアーツの女子大に行ったのですが、学生は活発だし、リーダーシップもあるし、多数の才能あふれる人に直接触れました。その経験から、目標を持つ、それに向かって行動する、そうすれば、思いもかけないようなことができる、と確信を持つようになりました。外国でも一人で何とかやっていけるという自信もつきました。何しろ自分が体験することが大事です。自分の目で見て、耳で聞いて、現場に触れて、体感することです。行動してその結果を自分自身で知ると、大きな自信につながります。
今は、両親など大人が進むべき方向のレールを敷いてしまい、それ以外のことをやらせない。また危ないから、と子供や若者を守ってしまい、自分自身で体験する機会を奪ってしまっています。子供に質問しているのに、親が答えることが良くありますが、あれほどナンセンスなことはないと思います。
何でもやらせてみて、自分で経験させる。問題ない道をいかせようとするのではなく、ひどいけがなどをしないようにだけみている。その環境をつくればよいのです。失敗しても自分で立ち直れるような場を創る。よほど危険な時だけ助けるのです。自分で経験するとそれから学び、次の時は考えて行動するようになるのです。経験を積んでいくと力が磨かれます。
よく若者は自信がないという話をききますが、自信は他の人には与えられません。「自信」とは「自分を信頼する」ことですから、自分でやってみて、こういうことができると実感としてこそ持てるのです。
世界が変わりつつあるというのも、若者が自分で世界にいってみて自身で体感することが必要なのです。私や他の人から聞いた話ではダメなのです。「世界には、アジアにはこんなにエネルギーがあるのだ」と自分で体感する。それができるように周りは支援する。そのためのインフラや環境を作ればいいのです。
震災復興についても、これから20年、30年生きるのは若い人たちなのだから、彼らが主役になるべきで、20年後にいるかわからない60歳以上の人たちはその知識や経験を使ってサポートすべきだと思います。主役となって考えるのは若い人たち、自分たちで自分たちが生きる社会を創る。それに知識や経験が必要であり役に立つのであれば、それをサポートすれば良いと思います。なぜ新しい日本を創る議論を年寄りがするのか?もう一度問い直したら良いと思います。若い人には、経験がない、知識がないといわれますが、逆に考えればしがらみがないということでもあります。今のように、世界が大きく変わりつつある中で、今までの経験はほとんど役にたちません。若い人の方が経験もなく、しがらみがないので、自由に発想することができるのです。
Q:高等教育にいる、あるいは大学めざしている若者に、キャリアの視点から、アドバイスをいただければ?こうすれば、よかったという反すうかもしれませんが・・・
若者には、今までの枠にとらわれない、限りない可能性が拓かれています。生まれた国、今まで住んでいる場所、分野にとらわれず、広く考えることができます。そのためには視野を広く、多くの経験を積むことです。自分で経験することから学べることがたくさんあります。臆病にならないで、自分でやってみる。悩んでいてもしょうがない。新しい世界を求めて、どんどん行動に移す。そうすると、世界の一流に触れる機会も得られますし、自分の力やポテンシャルを知ることができます。自分では凄いと思っていても新しい分野にいってみたら、誰も相手にしてくれない場合もあるだろうし、逆に凄いとこかから声がかかる場合もある。何もしないといつまでもたっても始まらないし、自分の力もポテンシャルもわからない。失敗したくなければ何も新しいことをやらなければいいのですが、それでは人生おもしろくないと私は思います。
Q:最後に、慶応に移られたところですが、先生の最新のテーマは?
KMDは、テクノロジー、デザイン、マネジメント、ポリシーの融合を目指しています。そこで、私は、プロデユーサーとして、若者の力、日本の長所を世界に発信していきたいと思っています。
最新のテーマは、「世界の課題解決と共通価値の創造」です。
共通価値の創造(Shared Value Creation)とは、エネルギー、資源、環境、貧困、教育など世界の課題を、政府、企業、市民団体が協働して解決しようという最近の動きの一部なのですが、私自身は政府(官)より企業(民)、日本より世界、若い世代が中心という3つにフォーカスしています。
企業の立場から、どうすれば企業のユニークな強みや資産をいかして世界の課題解決に貢献できるか、そして、長期的には企業の利益に結び付くか、を研究しています。「戦略シフト」はその考え方を書いたものですが、それを実際企業で試したいというのが今の研究テーマです。
航空会社のフライトを活用して、非営利の組織やボランティアを助け、航空会社のブランド構築につなげるという若い人のプランを応援するプロジェクト、日本発のNPOであるTable for Twoをグローバルに個人に展開してスケールアップするプロジェクト、個で勝負できるグローバル人材を開発するリアルとバーチャルな「場」、オープン・プラットフォームを創るプロジェクトなどを企画しています。欧米を初めとして各種の教育のためのオープンなプラットフォームが開発されているので、日本でも同じように、世界の多くの人がともに学べるようなプラットフォームをつくりたいと思っています。
本日は、示唆に富むお話をありがとうございました。
Q:進学先の選定について何か考えていたことはありますか?いろんな学部がある中でなぜ水産だったのでしょうか?
別に、水産にこだわったわけではありません。海に関係があるところへ行きたかったというのが正直なところです。海洋学部、海洋関係の商船大学とか・・・。農学部の水産専攻を受験したのですが、水産なら海に関係するだろうと思っていました。
Q:その後、大学3年生の時にマグロ漁船に乗ったわけですが、大学生活に不満があったのでしょうか?
思っていた大学生活と現実には、大きな「ズレ」がありました。大学の勉強に興味がなく、自分の居場所がないのです。同級生はみんな真面目で、どうも私と合いませんでした。水産に来る学生は、今もそれほど大きく変わらないと思うのですが、魚釣りが好き、生き物としての魚が大好きで熱心です。そういう学生がクラスの8割で、ほとんど「さかなクン」の世界です(笑)。あとの1割は家業が水産関係という学生、そして、最後の1割は何となく来ちゃった私のような学生(笑)。魚が特段好きなわけでもなく、実家が漁業でもなく、話が噛み合わない。クラスではいわば「マイノリティ」でしたね。
Q:マグロ船に乗船できたのは、水産試験場でのアルバイトがきっかけですか?
きっかけというよりも、乗船を待っている間に水産試験場で調査のアルバイトをしていたんです。当時いきなり希望する私を引き受けてくれる船がなかったので、時間待ちのイメージでした。当時は、職安(現ハローワーク)で探すというより、人の紹介で乗るのが漁船員への道だったんです。
大学の調査船の船長さんがもと漁師だったので、いい船を探してくれないかと頼んでいました。「半年待ちながら、つなぎでバイトするなら、他の仕事より水産試験場に行ったらどうだ」という話でした。その助言を受けて1日船に乗って戻ってきたり、船に乗らなくても海の近くで作業する半年間を送り、そこで随分慣れましたね、ロープワークとかですね。船に慣れ、結果的によい準備になりました。
Q:マグロ漁船に乗船し、漁師をした時のいきさつ、きっかけ、当時の想いってどんなものだったのでしょうか?なぜマグロ漁船に乗ろうと思ったのですか?
いくつか理由はあったのですが、私はクラスの少数派で、専門に興味もないので、同級生からは「低く」見られていると感じていました。何にもないんですよ、クラスでも話に参加できないし、2、3人そういう同級生はいるのですが、そうかと言って、お互い話すわけでもなく・・・。クラスの主流派の人たちは"生き物好き"だから授業や演習で生き生きしている。好きなところ(大学)に来て、好きなことを勉強しているんです。うらやましかったですね。しかしクラブ活動に打ち込むこともできず、他の特技も特徴もない学生で、それに反論もできなかったのが当時の私でした。不満はあっても大学を辞める勇気はなかったし、ただ悩んでいました。そのために当時は、生活自体も荒れていたというか、うまくいっていなかった。これといった目的が定まらないので、張り合いのない大学生活でした。
その時に、結局、自分に何も「誇るべき」特徴ややりたいことがないことに気がつきました。「ないこと」に気がつくというのはすごいことで、何とかしなければならないと焦ります、しかし、それを大学での勉強で何とかしようとは思いませんでした。むしろ、同級生が持っていないものを身につけようという気持ちがありました。自分にある種の「ハク」をつけなきゃいけないと思ったんです。それが乗船のきっかけのひとつでした。
Q:今の大学生と共通の部分がありますね・・・。
やぁ、今の学生の状況はよくわかりますよ。学校行っても共感できる友達はいないし、同じテーマで盛り上がって議論できることもない。日々は淡々と進んでいくし、自分が認められる「世界」はない。この日常がこの先も続いたらどうなるんだろうという「不安」の中にいました。華々しい学生生活ではなかったです。
今と違って当時は家でインターネットに没入したり、オタク化して狭い世界での安心を得にくく、引きこもれる環境はなかったのですが、今だったら私も同じようにしていたでしょう。しかし、大学の寮に住んでましたから、部屋にこもることも難しく、寮で痛飲したりの「高吟放歌」で、ほとんど勉強しなかったですね。前半の2年間は・・・。
Q:マグロ漁船への乗船には「居場所探し」という意味があったということでしょうか?
今冷静に考えると、居場所というより、自分が自信を持ってちゃんと自分を説明できる「基礎」がほしかったのだと思います。
Q:念願かなって乗せてあげようという船主さんが見つかったんですね。
大学3年の8月末に適当なマグロ漁船は見つかり、室戸(高知県)から出漁すると知らせがありました。
Q:「素人」の大学生が漁師として乗船することは、珍しいことでは?
10年ほど前に同じ専攻の先輩が乗ったことは知っていましたが、なかなかいないですね。世間一般では、マグロ漁船は厳しい労働で、つらい仕事が続くと思われていて、実際そうでしたが、乗る前から「人が好んで働く職場ではない」と聞かされていました。
しかし、マグロ船というのは当時はまだ高知の漁業において、シンボリックな存在でした。厳しい職場であるからこそ、挑戦しがいがあると思っていました。そこで務まるなら大丈夫だと。でも、見聞きしていることと現実は大きな違いがありました。
Q:大学生とはいっても、マグロ漁船の実際の漁師ですね、甲板員だった?
もちろん見習い船員です。
Q:乗船してからの具体的な仕事って、どんなものだったでしょうか?
マグロ漁船の基本的な漁労作業はひととおりやりました。見習いというのは形式的なもので、しばらく習った後に、ひととおりのことをやれるようになるので、一般の漁船員と同じことをやります。もちろん、航路を決めたり、漁場を決めたりなど、幹部船員のやる仕事はしませんが・・・。
Q:30年前に大学を休学して乗船したわけですが、当時の周りの目はどうでしたか?
学生アドバイザーの教授が、「休学してもいいよ、退学するのではないから」と比較的簡単に許してくれました。「さしたる理由のない休学などは、もってのほか」などとは言わずに認めてくれた。今でもあの先生はえらかったと思います、恩人です(笑)。しかし、両親にはちゃんと承諾をもらわず休学してしまいました。父も母も心配したと思いますが、息子の勝手な「反抗」を許してくれたので感謝しています。
Q:「退学」か「休学」、そこに大きな岐路があったんですね。
まず、いったん大学を休学して、「流れを変えたい」という気持ちがありました。マグロ漁船に乗りたいから大学を休学したのではなく、いったん「中断」したいから、休学したのです。そしてそれがマグロ漁船の乗船につながった。大きな目的がないと休学してはいけないのではなく、とりあえず休学し、本当にしたいことを探してもいいのではないでしょうか。ちょっと危ない考えかもしれませんが(笑)。
Q:船に乗ることが決まった時、友人、同じ学科の人達の目はどんな感じでしたか?
クラスに2-3人の友達はいましたが、実は友達はほとんどいなかったので、主流派の学生たちからは、「あいつ本当に行っちまった」という話にはなっていたそうです(笑)。
Q:マグロ漁船への乗船について、ご両親にはいつ報告されたのでしょうか?
乗船後に、寄港先のグアム島から電話で知らせました。なぜかわかりませんが、マグロ漁船への乗船には親の「許可」をもらっていくものではないと思っていました。
Q:それにしても、マグロ漁船とはすごい決断ですね(笑)・・・。
まぁ、今から考えるとすごいですけど、当時はあまりすごくはないと思いますよ。大学も何年も通っていた人もいたし、ブラブラしてる人もいたし、途中で消える人もいましたし、もっとゆるやかな社会でした(笑)。
Q:卒業して、石川県庁の水産課で仕事に就くことになりますが、なぜ県庁だったんでしょうか?
マグロ漁船に乗ると、「現場は過酷だから支援が必要だ」「漁業を何とかしなければいけない」という「使命感」に酔ってしまいます。そしてそれを実現するには、水産関係で勤めたいと思うようになりました。マグロ漁船に乗る前は、自分の興味や関心でなんとなく仕事が決まると思っていましたが、乗船後は、「何かしたい、社会貢献したい」という、積極的、逆に言えば「舞い上がった」気持ちになっていました。しかも、当時私は好きな彼女と結婚したかったので、手っ取り早く結婚するには就職が必要だと思っていて、案外すんなりと公務員を進路に選びました。
ところが、都道府県の水産試験場の職員は、当時は倍率が高く採用されにくい職種でした。その点では、石川県職員に水産の専門職員として採用された私は幸運でした。ただ、高知大での主流派学生たちに反抗して、当時の私は「(現場のことがわからない)役人(公務員)になるのは、水産を学んだ者としておかしい」とまで公言していたので、今でも主流派の同級生には「裏切り者」とか、「お前はひどい」と言われます(笑い)。
水産試験場でしっかり研究して、自分が見てきた現場の人のために働こうと思っていました。理想を追う、私は漁業者のために一生懸命やろうと、マグロ漁の体験で"志"が強固になっていました。ところが、水産課では研究や現場ではなく、因果なことに水産行政の仕事をする「お役人」の職場に配属されます。当時の課長がそう決めたからです。しかしそれでよかったのだと今は思っています。
Q:1983(昭和58)年から、石川県水産課に勤めて7年後の1990年にオーストラリアのジェイムスクック大学大学院に留学のために渡豪、これは石川県庁の仕事で行ったのでしょうか?
それもまた「ギャップイヤー」でした(笑)。水産課の仕事はそれなりに楽しかったし、よい職場仲間にも恵まれたのですが、何か物足りないと焦りを感じていました。その悶々とした中で、仕事で興味を持っていた海の管理、「沿岸域管理」というテーマにとても惹かれたのです。
そこでいろいろ考えた末、当時国内にはこの分野専攻はなかったので、海外で沿岸域管理を学ぼうと考えたのです。
そしてロータリー財団の奨学生制度にエントリーし、奨学金を得たので、仕事を1年間休んで派遣してもらいました。当時の石川県には、公的な留学制度というのは、県立病院の医師のケースぐらいしかなかったのですが、無理を聞いてもらえました。あの時代の地方公務員としては異例の措置でした。
Q:なぜ、オーストラリアだったのでしょうか?
ロータリー財団奨学生に選ばれてから、アメリカやカナダの大学を調べたのですが、最終的に、留学先はオーストラリアにしました。オーストラリアは学生時代に、マグロ漁船で得た資金で1カ月滞在して馴染みがあったことと、グレートバリアリーフが世界自然遺産になってからの沿岸域や海の管理での評価が高かったからです。より先端的な研究ができるアメリカに行く選択もありましたが、アメリカに行ったら、すごい人たちの中で埋もれていたでしょう(笑)。人の行かないところに花はあります。
結局、オーストラリアのジェイムスクック大学の大学院に留学し、グラデュエート・ディプロマという資格を目指して頑張りました。仕事を離れて1年2ヶ月滞在し、授業を受けながら、資料を集め、自分の研究テーマについて調査をしました。そして留学を終えて水産課に戻り、また水産行政の仕事に復帰したのです。
Q:その後も水産課に勤め続けられたのですか?
帰国してもとの職場に戻って、しばらくはおとなしくしていました(笑)。仕事もそれなりに充実していて、やる気もありました。留学したことで、再び「使命感」に燃えていたこともありました。ところが、やっぱり何か物足りないと感じ始めるのです。
ちょうどその時に開設された金沢大学の大学院博士課程に応募し、入学しました。それまで昼間しかなかったのですが、社会人学生を対象として新たに大学院がスタートしたのです。今度は留学ではなく、昼は県庁の水産課で仕事をしながら大学院に通いました。33歳の時のことです。
Q:決断力とともに、情報収集力もすごいですね。
そうですね、何かしたいという意識は持ちながら悶々としているので、その時に刺激があるとぱっと反応できるのです。意識があっても忙しすぎたり、現状に満足しすぎたりしているとだめです。迷ったり悩んだりしているからこそ、見える、気がつくのだと思います。
Q:1998(平成10)年に石川県を退職し金沢工業大学助教授に転出、そして2002年には教授に就任、この転身のきっかけは?
新聞記事へのリンク
社会人入学して3年後には、金沢大学で博士号をとることができました。公務員は安定した職場でしたし、さしたる不満もなかったので、県庁を辞める理由はありませんでした。そもそも専門分野に近い分野で、仕事がいやだったのではありません。
ただ、本当に今まで学んだことは生かせてはいない。それは自分のライフワークの場でしか生かせないのかなと思い始めていたことは事実です。つまり、公務員としての職場は「仕事」、自分を生かせるのは、「趣味」というか、自分の課外の活動で、つまり職場以外で沿岸域管理の研究を続けていくのかなと思っていました。そのため休日などに、学会活動や論文執筆をしていました。その時に金沢工業大学から教員として来ないかと話がありました。
Q: 金沢工業大学は、学生の満足度が高いことと、入学後学生が伸びることで有名ですが、そこで担当された教務部副部長は、どんな仕事だったのでしょうか?
教育分野の仕事には大学として熱心に力を入れていましたし、教務部副部長になってからは「教育の仕組み」を作ること、効果的な学びを実現するための仕組み作りを担当しました。先生方個人でも頑張るけれども、個人の頑張りがうまく組織的に活用・連携できる教育の仕組みを目指していました。昔の大学の授業は、先生が一方的に話して、最後に試験をするスタイルで、あまり効果的ではありませんでした。この授業形態を変えていく仕事でした。
もちろん、個人的にも学習理論や知識の活用に興味を持っていました。専門分野の沿岸域の管理ではないのですが、広い沿岸を管理するために支援を得たい地域活動やNPO活動が、組織的にどういうふうに向上していくか、どう実現していくかは「学習」のことをよく知らないと考えられない。個人が学ぶことに加え、チームや組織が学ぶ、組織学習の理論は重要なことだと思います。
Q:「総合力」評価のCLIP教育システムを開発されたのですね?
金沢工大CLIPHPへのリンク
金沢工業大学は、「努力する学校」なので、外部の評価が高まっていた時期でした。私がかかわってつくったのは、教員の努力をより具体的にする仕組み。強制ではなく自然に「授業をちゃんとやらなきゃいけない仕組み」です。一方的にしゃべっているとそれがわかっちゃうシラバスのモデルを作った。また、やみくもに「人間力の向上」などといって叱咤激励するのではなく、学生に必要な4つの力、①知識を取り入れる力、②それを結びつける力、③表現する力、④評価を得る力をどうやって伸ばすのかを考えました。この4つの力に限定して考えることで、あいまいな「人間力づくり」から逃れることができ、生きる力を具体的に実感しながら身につけていくことができます。
Q:人材育成分野だけでなく、大学教員の教育能力を高めるための実践的方法を意味するFD(ファカルティ・ディベロップメント)に近い考えですか?
それに近いです。FDを大学全体として運営しているよい例です。
Q:その後、2007年4月から北海道大学の教授に移られましたが、エコツーリズムと地域マネジメントという研究は、簡単にいうとどんなことでしょうか?
地域を豊かにする方法としてエコツーリズムの推進を研究しています。地域資源である自然環境を保全しながらエコツアーで利用し、そして地域が再生するために、どのような組織や政策が重要かを研究しています。
最初は、沿岸域の管理の研究だったので、今は違うことをやってきているように思えますが、資源を保全しながら持続可能なレベルで利用するという点、資源のマネジメントという点ではつながっています。実は、その前の水産も資源をどう使うかという分野です。そのため人から見ると「何でも屋」に見えますが、見た目ほど自分の中で矛盾はありません。それに水産業と観光業は、いずれも「水商売」、最初と最後がつながっているんです(笑)。
Q:30年前は「ギャップイヤー」という言葉は日本に広まっていませんでしたが、休学してマグロ漁船に乗船したのは、まさしくギャップイヤーですね。当時の経験が、その後の敷田先生の人生や研究にどんな影響を与えているとお考えでしょうか?
当時はまだギャップイヤーという言葉は普及していなかったのですが、JGAPのHPのとおりだと思います。悩んだり、迷ったりしている時に、無理に回答や解決策を見つけるのではなく、いったん今の状態から離脱してみるということです。こうした「視点位置の転換」ができたことは、その後の人生で役立ちました。ずっと続けることもいいが、いったん休むことで見えてくることもあると体感できるようになりました。なので私は、ギャップイヤー取得では先進的な存在でしょう。でも今日は、ギャップイヤーという団体もできていると聞いて驚きました・・・(笑)。
Q:休学してマグロ漁船に乗船した就労体験は役立ちましたか?
マグロ船の乗船体験も、やがて勤める分野での就労体験と考えると、今は普通になった「インターンシップ」と同じです。私はインターンシップでも先進的でした。マグロ漁船でインターンシップしたというと学生に笑われるんですけど(笑)。
地方都市で比較的恵まれて育った私は、大学に進学しても「蟹工船」のようなすさまじい労働現場のことは知らなかった。極限の状態を知らなかったんです。その点でも、マグロ漁船でぎりぎりの現場を体験できたことは貴重な体験でした。
しかし、「貴重と言うのなら、当時一緒だった漁師の人たちと同じ漁師になればよい」という人もいましたが、そうはなりませんでした。やはり船上の時間はギャップイヤーだったのです。ある意味ではそれが限界でもありましたが、漁師になるより、自分の場所に戻ってまた異なる生き方をすることを選んでよかったと思います。漁師をやっていける資質も意地もなかったからです。ギャップイヤーは進路変更ではなく、あくまでひと休みして視点を変える余裕を持つことに意味があるのです。それが一番大きかった。
Q:青い地球を見て、同じようなことを言う宇宙飛行士もいますね。
そうですね。月から見た地球、その感覚かもしれないですね・・・。先ほども言いましたが、「ギャップイヤー」は視点位置の転換です。それは途中で降りてみることのよさでもあります。あのまま鬱々として大学で学んでいても、また職場で同じことを続けていても、やっぱりだめだったと思います。もちろん、続けていればそれなりに成果は上がったのでしょうが、降りてみて別の体験をしてみると、相手の立場もわかります。降りることは中断ですから、一見、能率や効率を悪化させるように思えますが、実は、効率を超えたところに大きな意味があるのです。ですから悩んでいるときばかりではなく、順調すぎるときや調子のよいときにもギャップイヤーのようなことがあってもよいと思います。
Q:「ギャップイヤー」は、竹の節目と同じかもしれませんね。
私は物事を継続することに飽きるんですね。しかし、そこから離れて完全にどこか別の場所に行っちゃわなかったから、楽しかったのかなと思います。ギャップというのは前と後とをつなぐ。完全につながってはいないけれど、ちょっとずれてつながります。この体験で変節することができるのだと思います。ちょうど節があることで竹が強くなることと同じです。
Q:現在の悩める大学生は、誰も人間的な魅力と能力・スキル開発や向上を目指していると信じています。先生のご経験から、大学時代の過ごし方の提案や、彼らに対するアドバイスやメッセージは?
大学生でいることをもっと利用した方がよいと思います。企業に勤めるとそんな自由にはさせてくれない。企業にいて、ちょっと外に出てみることは厳しい。しかし、大学にいる間であれば、その安定を利用して、ちょっと外に出てみることはできます。その点大学は学生を導きますが管理はしないので、大学生であることを利用していろんな活動ができる。そしてまた大学に戻れます。大学から出てしまう退学はなく、休学してちょっと外れてまた大学に戻ることはおかしなことではなく、ちゃんと制度としても認められることを考えて、選択肢に加えて欲しいですね。
Q:大学内にギャップイヤー制度(インターン・ボランティア・国内外留学)を根付かせる手法で何かアドバイスはありますか?サービスラーニングやキャップストーンも含めた概念だと捉えていますが・・・。
今年就職した私の長女の親として、ひととおりの就活プロセスをみてきました。ゴールが決まってそこへたどり着くことが細かく設計されていて、企業にとっても最適な人材が選べるように、効率よくマッチングを考えていますね。しかし、このように効率よくシステマティックに選んでゆく方法がある一方で、「ギャップイヤー」のように、結果はわからないけど、とにかく「中断」してみる選択もあると思います。そこには連続して効率よくすることにブレーキをかける思想のようなものがあります。
そこで「ギャップイヤー」を大学側から単位認定してはどうかという提案もあるでしょう。これについては、単位化の前に、まずギャップイヤーの中断期間をハンディにしない、それを正当化する工夫が必要だと思います。単位化したりシステムに組み込んだりすることもよいのですが、一方で管理されやすくなります。例えば、就職過程に組み込まれやすくなる懸念もある。そうするとみんながギャップイヤーを義務的に取り始めるようになり、それでは正規の授業で得られない経験をするための本来の仕組みが生きず、面白くありません。
学生にとっても、効率がいいのは、まじめに集中して勉強して4年で卒業することでしょう。最短で就職すれば、生涯賃金からもみてもそうでしょうが、そうしないことで得られるものが、実は大きい。失うこととで得られることも大きいと思います。私は1年休んだので、当然失ったものもありますが、後で考えると失うことで得られたものが大きいのです。
Q:多様性があった方がいいということですね。
大学時代にギャップイヤーを経験しておけば、その後も同じようなことをしやすくなると思います。雇用の流動化から、いったん勤めてずっと同じ仕事ということは日本においても少なくなっていますが、いきなり仕事を変えてしまうのではなく、ちょっと休んでみて、もとの仕事で違う展開を考えることはあってもよいのではないでしょうか。
また、いずれはそういう経験をせざるをえないのなら、それを若くて柔軟性があるうちに体験して、何も連続して直線的に人生を登ってゆかなくてもよいと思えることは重要です。
Q:しかし、企業側は休学した人も価値をなかなか認めない。多様性がない選定方法が存在します。学生が休学で得たものを見てあげてほしいという意味での認証を考えたい。経済団体に理解して欲しいのですが、どうでしょうか。
社会の側が認めることは必要だと思います。しかしギャップイヤーをとった側も、得た体験を「消化」して他者に表現できなければいけません。自分の内向きな体験で終わってしまわずに、その体験を他者と共有できることも重要なのです。
その点で私の体験も参考になると思います。戻ってからマグロ漁船の乗船手記を高知新聞に書きました。それを書くことで、私は自分の体験の意味や社会的な重要性を表現できました。単なる結果報告ではなく、積極的で「自分の外にむけた内省」のようなことができたと思います。
そして、高知新聞に手記が連載されたことで、評価してもらえたし、休学していた間に何をしていたのかをわかってもらえました。そういう体験をしてきたと人に説明できることが、企業や社会が認めることになるんじゃないか。だから「体験しちゃった」だけではではおそらくそうはならないのです。
Q:ある意味で高知新聞が手記の価値を認めたということで、これもりっぱな認証ですね。今読んでも臨場感が伝わってきます。
高知新聞の当時の記事(PDFファイル)
繰り返しになりますが、手記という形で表現をしてよかったと思うのは、自分で体験してきたことを整理して人に説明できたことです。それが大きいと思います。「ギャップイヤー」を体験してよかったという意味に加えて、その体験がどういう意味を持つかを人に表現する機会があること、これが大切ですね。
それに、確かにその後もこの手記が色々な場面で役立ちました。ギャップイヤーの支援では、こうした表現の場の創設も重要だと思います。また現在は、企業もそれを評価してくれるでしょう。JGAPでこういう評価を支援することは重要だと思います。
最後になりますが、ギャップイヤーを体験して帰ってきた学生が、ギャップイヤーを満足してすごせることはもちろん、それがどういうことだったのか、社会的に意味がある体験をしたと、本人が胸をはって表現できれば、とてもすばらしいと思います。
本日は、示唆に富むお話をありがとうございました。
Q:欧州から見れば、極東(ファーイースト)であるし、当時、親御さんは日本行きを心配されませんでしたか?極限とか地の果てみたいなイメージとか(笑)?
A:それ程心配はしていなかったと思います(笑)。両親は既に、日本は治安がよい国だと知っていたと思います。日本のことはあまり詳しくはなかったのですが、他のアジアの国には行ったことがあり、そういう意味で少し馴染みがあったのではと思います。
もうひとつは、実は私は8歳からボーディングスクール(寄宿制学校)に入っていたので、両親と離れて住むことには慣れていました。ということは、両親も慣れていた(笑)。
今は毎日携帯やEメールなどいろいろ通信手段はありますが、私が寄宿舎に入っていた時代は、週一回両親に手紙を書くくらいで、あまりコンタクトを取る機会はなかったんです。実家は学校まで車で7時間もかかるようなところなので、在学中は会う機会が本当に少なかったのです。もちろん長期休暇が取れる時はできるだけ実家に帰りましたが・・・。日本ほど遠くないですけれど、離れたところに住むのは両者とも慣れていたと思います。
Q:英国では、そういう寄宿舎を利用する生徒は今でも結構多いですか?
A: 英国では、子供の7%がIndependent schoolに通うと聞いています。そのうちのほとんどの学校に寄宿舎があると思います。
Q:当時日本でどう過ごされていましたか?例えば、英語を教えるとか何か決まりごとはありましたか?
A: 私はある音楽大学の学長の助手をしていました。どちらかというと、インターンに近いですね。例えば、海外からの手紙が英文で来ると、英文で返事を書くとか。当時はタイプでしたから(笑)・・・。英語の先生として、学生一人一人とのレッスンもしていました。また、学長はご自身も学術研究をされていて、本を執筆した折、研究の一部に英語が必要でしたので、その翻訳のお手伝いもしました。それから、研究対象の人物の手紙が大英博物館に保存されていて、そのコピーを入手したのですが、手書きで読みにくかったので、私がそれをただタイプして読めるようにもしました。そんな具合に、雑用も含め、いろいろことを経験できました。
Q: 大変な経験になりますね。
A: 仕事も楽しかったですが、それより日本に住むことが非常に面白かったですね。
Q:ジェイムズさんがギャップイヤーで来日された時、滞在費用は必要でしたか?それは、日本側がもってくれていたのですか?
A: 基本の渡航費用は自腹で、多くはないですが、生活ができる程度のお給料のようなお金はいただいていました。そして普通のアパートを学校に借りてもらって一人で住んでいました。確か月3万円くらいのアパートでした。86年当時はそれくらいの家賃で住めたのです。ドアを開けると、上野動物園のキリンが見えるすごいロケーションでした。桜並木も素敵でした。もうだいぶ前の話ですが(笑)・・・。
Q:高校生の1割以上が経験するギャップイヤーの大学側の捉え方はどうなんでしょうか?
A: 基本的に個人がギャップイヤーを取りたいかどうかが重要であって、大学の方は入学が決まれば、かまわないという立場にあります。つまり、入学が決まった後、入学を1年遅らせて、その間にギャップイヤーを利用する場合、ほとんどの場合、大学が認めてくれます。逆に大学のほうが望ましいと思っているかもしれないですね。いろいろ体験をして、その学生はもっと自主的になり、独立した自己を形成し、大学に戻るという認識でしょうか。
Q:ケンブリッジ大学に入学されて、ギャップイヤーを経験した人としていない人では、学生の違いを感じられましたか?友達の中で。
A:誰がギャップイヤーをしていたかはわかりません。当時は、ケンブリッジの学生はみんなギャップイヤーを経験したのではないかと思います。これは、ギャップイヤーがイギリスで始まった背景とも関係すると思います。高校の最後の試験は6月、7月頃ですが、昔はケンブリッジとオックスフォードに入る場合、別の試験がありました。その試験が12月頃でしたので、2つの大学を目指している生徒は、秋まで1学期間を高校で過ごさなければならなかったわけです。そして、ケンブリッジとオックスフォードに入学する学生は、入学が決まって以降、つまり12月以降から大学の学年が始まる翌年10月初めくらいまで時間がありました。ですから、みんなギャップイヤーを取っていたのではないかと思います。
今は、ケンブリッジもオックスフォードも制度を変えて、入学が決まるのは他の大学と同じスケジュールになりました。そういう意味で、かつてのような必要性はなくなっていますが、ギャップイヤーを希望する生徒も多いですし、親も大学もどちらかというとメリットがあると思っているようです。
Q:ジェイムズさんの日本行きのお世話をした団体名を覚えておられますか?
A:私は個人で手続きしました。
Q:個人で、日本とどうやってコンタクトをとられたのでしょう?
A:私は13歳の時に、聖歌隊のメンバーとして来日していました。その演奏旅行の主催者が、私がギャップイヤーで勤めていた音楽大学でした。そういう意味でご縁があったわけです。
Q:当時17歳(1986年)で日本に来られて、一番記憶にあることは?楽しかったり、悲しかったりいろいろあったと思うのですが、どんなことを覚えていますか?
A:その質問は非常に難しい(笑)。小さなことですが、いろいろなことを思い出します。例えば、冬から春にかけて、日本の気候が少しずつよくなりますが、成田に到着した時、日本は冬で、私も若く不安で心細かったんです。その後、私も徐々に生活も慣れてきて、温暖な春が近づくにつれ、楽しくなってきました。そのうちに、一人の同僚と毎日ご飯を食べるようになりました。今でも印象に残っているのは「カツオ丼」です。初ガツオ、おいしかったです(笑)。そして日本語ももちろん勉強しなければなりません。基本的に学校のスタッフと日本語で話すことになりましたので、少しずつ日本語で会話ができるようになりました。先に紹介しましたが、私が住んでいたアパートはちょうど上野動物園の目の前でした。ですから、初めて調べた漢字は、アパートの窓から見えた "水族館"という文字だったのです(笑)。
Q:ギャップイヤーが終わって英国に帰国された時、大学や高校に「ギャップイヤー報告書」のようなものを提出されましたか? 例えば、定型の決まりの報告書や、何かの授業を受けたとみなすとか、履修単位にする評価する仕組みがあるとか・・・。
A:特にはありませんでした。何もする必要はありませんでした。
Q:1回目と2回目、そしてビジネスとして来日された3回目で、日本の印象は何か変わっていきましたか?
A:やっていたことはかなり違いました。どちらかというと、2回目が大変でした。日本語は2、3年勉強してきたので、その部分は前よりは楽でしたが・・・。
そして、3回目の来日では証券会社に勤務しました。研修生のような勤務体系で、会社の寮に住んでいました。通勤はだいぶつらかったです。通勤時間は埼玉県の蕨市から1時間20分くらいかかったと思います。それに日本のふつうの企業ですと、たとえば部長が帰るまでみんな帰らないという慣習がありますね(笑)。全部日本語でのコミュニケーションですので、日本語の書類をいっぱい読まなければならないし、翻訳も頼まれるなど最初の数カ月は常に疲れていたように思います。勤務先は日系の証券会社だったのですが、英語ができる人がいないところでやってみようと、そんな意気込みで選びました。
Q:現在の英国人は、ギャップイヤーをどう捉えていると思われますか?
A:ギャップイヤーを体験する生徒にとっては、楽しいことだと思います。しかも、自身の成長が実感できる。試験地獄というほどではありませんが、高校まで勉強してやっと大学に入学が決まり、少しゆっくりするという側面もあるのではないかと思います。
Q:「ギャップイヤー」の概念は大学入学前だけの期間だけではなく、大学在学中、就職前、あるいは就職してからも含むという広い概念で捉えてよいでしょうか?
A:どう考えるかは、その人の自由なんですね。システムは固定ではありません。大学側は1年ギャップイヤーを取って、1年遅れて入学することを容認しています。
卒業後にギャップイヤーを取る人は少ないと思います。就職が課題になるからです。しかし、大学卒業後にギャップイヤーをとっても、就職できないという訳ではありません。そうしたければ1年遅くして就職するのは可能です。それが日本との違いかもしれないですね。
高校卒業後のギャップイヤーは、大学を決めてから休むわけですね、大学での専攻はもう決まっている。大学を卒業した時には就職を決めたいというのが普通です。企業の方は1年待つというところは少ない。ある言語を勉強して、その国に行く人を除き、大学在学中に休学してギャップイヤーを取る人はそれ程多くないのではないでしょうか。
Q:英国の大学は、外国でのボランティアとかインターンを学生に直接あっせんしていますか?あるいは、専門業者が取り扱っているのでしょうか?
A: 発展途上国に行って、そこで学校を建てたり、井戸を掘ったり、そういうニーズに対して、あっせんがあります。学生は将来望んでいるキャリアに関係するインターンをすることもあります。
Q:海外でインターンしたい場合、ギャッパー(ギャップイヤーを経験する人)が料金を支払うわけですか?手数料、コミッションということでしょうか?
A:アメリカのシステムは違うかもしれませんが、インターンは基本的に給料をもらわないけれども、お金を払ってインターンをすることはあまりないでしょうね。多くの場合、企業は少しはお金を払う。例えば通勤代、給料には至らないが何がしか支払うというのが多い。
日本でもそうですが、就職市場が少しずつ厳しくなった中で、企業側はあまり支払わずにインターンをさせたがるので、支払う金額は下がる傾向にあるのではないでしょうか?
Q:ジェイムズさんはギャップイヤー発祥国のご出身で、ギャッパーとして来日されたわけですが、フォロワーの日本にどんなふうにしたら、ギャップ文化を植え付けられるか、そのアイデアやアドバイスを頂戴できないでしょうか?
A: 一番必要なのは大学の理解であり、英国のように入学前に1年間どこかに行ってもかまわないとすれば、導入しやすいのではないでしょうか? 現在、大学から見れば、ギャップイヤーで学費の入金が遅くなるわけで、そこが難しいのかもしれません。制度が定着すれば、ある生徒は1年入学が遅くなるわけですが、その前年の生徒が入学するので相殺されると考えられるとよいのですが・・・。
Q:日本の場合、ギャップイヤー導入の大きな課題として、大学の理解とその積極的な導入意思、それから、親御さんの安全志向とどう向き合うかの課題がありますね。
A:そうですね。イギリス人、アメリカ人もそうですが、躊躇なく海外に行く人が多い。イギリスはヨーロッパの大陸からそんなに離れていない。フランスが見える距離です。海外に行くのはそんなに大げさなことではない。日本でも、今や安い航空券が利用できる。ですからこれは私のギャップイヤー以後の話ですが、最近はローコストキャリアが利用できて、日帰りでドイツに行ったりするとか、リッチな人の中には、フランス、イタリアで別荘を買って、毎週末行くという人もいる。そういう意味で海外に行くことはそんな大した話ではありません。そしてアジアにも、香港やオーストラリアなど、イギリスとの縁の深い国・地域があります。家族の一部が他国に住んでいる人も多いので、そんなに心配はしないのではないかと思います。
Q:もう一度英国で17歳に戻って、ギャップイヤーができるとする。どこに、何をしに行きますか?
A:また日本に来ると思います(笑)。日本研究を選んだ理由は日本に非常に興味があったからですが、今でも非常に興味があって、もっともっと勉強したいと思っています。
Q:日本の魅力、どんなところに日本にモチベーションを感じられるのですか?
A:日本の文化は深いと思います。若いころ興味を持っていたのは、松尾芭蕉、俳句、浮世絵などです。後に平安時代に興味を持ちました、歌舞伎も好きです。他には日本人の働く習慣も面白いと思います。日本人は非常に完ぺき主義だと思います。自分も日本で働く場合は、期待されるのがプレッシャーかもしれませんが、そういう働き方が好きなんです。自分も周りの人もハイレベルの仕事をするということです。
Q:ジェイムズさんにとって、「ギャップイヤー」って何ですか?
A:まあ、冒険だったんでしょうね(笑)。先ほどお話したように、着いた時は怖かったです。言語が全然わからないですし・・・。成田空港に着いて雇い主である学長に電話をしなければならなかった。当時は携帯もありませんから、日本円はお札しか持っていなくて、10円をどうにか作って、公衆電話から電話をしなければなりませんでした。学長は英語ができましたが、「到着しました」と日本語で伝えました。非常に不安でしたね。でも、そういったいろいろなことを乗り越えて、日本に住むことで自信がつきました。そういう意味で自分が成長できたと思っています。
Q:英国で生まれた慣行であるギャップイヤーが、オーストラリアや、米国、カナダ、イスラエルとどんどん広まっています。日本でも大学生の国際競争力向上をめざして、ギャップイヤー文化を研究・啓発する一般社団が立ち上がりました。できたてのほやほや(fresh from the pen)ですが、何かメッセージをいただければ?
A:国際的な見方が大切だと思います。私は4人兄弟ですが、そのうち3人は海外に住んだことがある。そうすると、自分の見方が変わってきます。その国の見方を深く理解できることもありますが、自分の国を外からより客観的に見ることができ、面白い。そういう意味で、ぜひ日本人の方にもギャップイヤーを利用して、海外に住む体験をしていただければと思います。