三澤 拳人
(日本でファームステイタウンを実現する男、グローバル人材育成NPO法人エレフィ所属))
人生の中で、もっとも縛りがなく自由な時間ってどれだけあるでしょう?
学校に行けば基本は授業、会社やバイト先に行けば仕事。
赤ん坊の頃は右も左も分からず、されるがまま。
家族を持てば、子育てで頭がいっぱい。
定年過ぎれば、自由だけども身体や気持ちがついていかない。
私たちには、いつも自由な時間がありません。
大きな話になりますが、
人類は効率化を極め、100時間かかる仕事が1分でできるコンピューターを開発しました。
では残りの99時間は自由時間になりましたか?
いいえ、もっと効率よくなるように働いて働いて時間がなくなります。
なぜでしょう?
そんな不思議な時間のカラクリ世界の中で、
ギャップイヤーは、人間が人間らしくいられる数少ない時間。
私はギャップイヤーをそう捉えています。
「さて、今日は何をしよう?」
21歳、オーストラリアに渡った私の毎朝はこの言葉からスタートします。
私に与えられたルールはただ1つ。
「あなたはこの1年間、何をしてもいいですよ、自由です。」
忙しい大学生活を過ごしていた自分にとっては天国のような時間でした。
だけど天国も甘くはありませんでした。
毎日が自分との闘いでした。
この1年間は、想像を絶するほど沢山のドラマがありましたが最も強く感じたことは、
「自分ってこういう人なんだ。」
ということです。
自分のことをわかったようで実は何も知らなかったことを思い知らされました。
言語も概念も全く違う環境に渡って、何をしてもいい。
、、、正直、何をしていいか全くわかりません。
広大な環境で大冒険をして想像もつかず、生死の狭間も感じるような波乱万丈の日々。
まるでファインディング・ニモの世界にいるようでした。
やりたいことを叶えに渡航した人たちも中にはいたし、
行く前にそれを渡航した先輩たちにオススメされました。
ただ、自分にとってはただただ自由な時間が欲しかったのです。
英語が聞き取れないし話せないし伝わらない自分の無力さ。
日本にいたら、想像のつく場所にいって想像通りのことができるかもしれないけど、
そこには想像していた場所とは違う景色があって想像通りのことすらできません。
辛くなって日本人グループに入って安心しにいったり、
やりたいことを叶えて留学がうまくいってる人と比べて落ち込む日々でした。
時間が経つにつれ、あることをだんだん思うようになりました。
「この1年間は、無駄になるんじゃないか。」
その悔しさがまた自分を何かやらなきゃと焦らせて負のスパイラルに落とし込めました。
だけど自分の弱い部分も強い部分もはっきり分かるようになって、
何をやりたいかというより、どんな人になりたいかへシフトしました。
そして自分だけではなく、なりたい自分を想像するためにヒントとして周りを見ました。
どんな人たちがいてどんな風に考えて生きているのか。
仕事仲間や友達などの身近な人から、世界で活躍する人たちや、歴史上の人物など。
全てが自分にとってのヒントになりました。
日本に帰ってきて
就職活動のための自己分析に頭を悩ませる学生たちの多さに納得しました。
・あなたの長所はなんですか?
・あなたの短所はなんですか?
・あなたは学生時代に何をしましたか?
そりゃ分からないよね、、、。
というか酷だよね、、、。
みんなと同じ道を進んで、同じ環境にいなさいって教育をしながら、
他の人との違いを教えてください。
私はそのとき、みんなギャップイヤーを取ったらいんじゃないか?と思いました。
就職活動で答えるためにというわけではないですが、
長所も短所もわからず自分らしくやりたいことも分からない中で、
マッチしてるかどうかも分からない環境で人間関係で揉めてストレスだけが溜まっていく。
それなら一旦縛りから開放されて自由な時間を取って自分を見つめたらいい。
ギャップイヤーは究極の自己分析期間だと思います。
英語には「Think out of the box」という言葉がありますが、
個人的には「Go out of the box」の方がしっくりきます。
別にギャップイヤーで海外に出なくたっていい、
ただ自分らしく自由にいられる人生の貴重な時間が
当たり前のようにとれるギャップイヤーが日本にもできたら、
日本自体が日本を見つめ直して新しい日本になっていくんじゃないかなと思っています。
インスタグラム:@misawa_kent
大西駿貴
(学習院大学文学部心理学科4年休学中、NPO法人CATiCカンボジア駐在)
自己紹介と活動経緯
私は今、大学を休学して、カンボジアの子どもたちに映画を届けるという活動をしています。
この活動を始めるまでは、国際協力やボランティアには全く興味がありませんでした。では、なぜこのような活動をしているのかと問われると、正直はっきりと答えることは出来ないような気がします。しかし、この活動に関わり始めたきっかけは、2年半前にこの団体の代表に出会ったということです。
とはいっても、この人がめちゃくちゃエネルギーがあったり、人に喝を入れるような、人を突き動かす力があるような人であったわけではなく、そのときは、ただただ普通の日常会話をしただけなのですが、なんとなくその人にカリスマ性のようなものを感じ、その空間になんだか不思議な感覚のようなものを感じて、その感覚に従うべきなのではないかとそのときに感じました。という経緯から、途上国の子どもたちに映画を届けるWorld Theater Project(ワールドシアタープロジェクト)を推進するNPO法人CATiCの活動に参加することになりました。
ただ、こんな風に、なんとなくの感覚で参加することになったいきさつと、当時この団体の活動があまり活発でなかったこともあって、果たして日本で何をしているのか、映画を届けているというのは、いつどのようなプロセスで行われているのかなど、把握できていませんでした。なので、とりあえず、主要なイベントとかミーティングに出席したり、その団体のメンバーの方々に会ったりしていました。そこでは、「なんでこの活動をやっているの?」とよく聞かれました。「んー」と思いながらも映画が好きで、とか言っていたかと思います。
関わり始めて1か月か2か月くらい経ったころ、私と同学年の大学生が大学を休学してカンボジアに駐在し、この活動を本格的にカンボジアで広げることになりました。彼は、自分の熱い想いをはっきりと持っていて、その結果、カンボジアに行くという決断をしました。そうして自分の想いとか考えとかをもって行動に移しているのはすごいなと思っていました。それと同時に日本では、そのカンボジアでの活動資金を集めるための映画関連のイベントを定期的に開催する動きが出てきました。私は、その企画や運営をしていました。その間は、カンボジアからの成果が定期的に報告され、すごいなと思っていました。そうしてしばらく経って、駐在員の後任を探していたが、見つからないということになって、代表から「大西、カンボジアに行ってみない?」という打診が来ました。そして、私は大学を休学してカンボジアに行くことにしました。
心が動いたこと
私は、心が動くことはあまりなく、はっきりとは言えないのですが、おそらく大抵のことは「そういうもんなんだな」と自分の中で納得してしまうのではないかと思っています。そのため、今回カンボジアに到着してもそんなに驚くことはなかったように思います。カンボジアに到着して、現地スタッフたちと挨拶して、この人たちとこれから一緒に仕事をするんだな、どうやって関係を作っていこうかなと思って、英語で会話が出来なくて、勉強しないとやばいなと思って......と、こうやって書き連ねてみると、心が動くことがないというより、小さく動くことはあるけど、大きく動くことはないのかもしれないです。
なので、心が動いたという実感がなく、日頃「大変だったことはなんですか?」とか「感動したことはなんですか?」と聞かれても、そんなに大したことだと思っていなかったりするんだと思います。でも、強いて言えば、一番心を動かすことになったのは、この団体のことについて、じっくり考えたことだと思います。はたしてこの活動は本当に正しいことなのか、意味があることなのか、あるいは、目的を果たすために他にいい方法があるのではないかなどです。特に映画である必要はあるのか、そもそもそれを現地の人は受け入れているのか、映画を見せて本当に効果があるのか、などをよく考えました。
その結果、今まで"ふわふわ"していた自分のことを改めて知ることができたような気がします。自分はどんな考えをもっているのか、すべての考え方の中に共通する考え方は何なのかや、何を思ってこれまで生きているのか、何に価値があると思って暮らしてきたかなどを、前よりも明確にすることが出来たのかなと思います。
そもそも、私が大学で心理学を専攻したのは、単におもしろそうという理由もあったのですが、自分の心を知りたい思いがありました。だから大学に入った目的というものに関しては、学問とは違う形のカンボジア駐在で、ある程度達成してしまったことになります。とはいっても、今まで一生懸命ではないものの、多少勉強をしてきたものが土台としてあり、このような経験を経たことで、達成されたのかもしれないとも思います。こうやって書いてみると、よく言う"自分探しの旅"に関して、「そんなの見つかるわけねーよ」とかこれまで思っていたわけですが、考える時間は大量にあり、色んな環境に身をおける、"自分探しの旅"は、たしかに自分を見つけることができそうな気もします。
これからどうしていきたいのか
現実的な話をすれば、この活動をするまでは、映画が好きだったことから、映画に関連した職に就こうとか思っていました。ところが、今はそうでなくてもいいかなと思うようになりました。おそらくこれまで、「好き=楽しい」という価値観だったからだと思います。今はそうではなくなりました。楽しく生きたい、やりたいことは全部やりたいというのは昔から変わっていないので、多分、「楽しい=何か」に変わったのだと思います。その何かはまだわからないです。
これからどうしていきたいかというと、というよりどうするつもりなのかというと、この活動を続けていくつもりです。今のところ、この活動が楽しいと思っているようで、続けたいと自分は思っているようです。
来年度カンボジアから帰国したら復学し、就活、卒論と色々ありますが、それもやるつもりです。あとは、1年遅れになるので、一つ下の学科の友達を作らないといけません。それとバイトもしないといけません。やらないといけないと思っていることはたくさんあります。
卒業後にどのように生きていきたいかというのは、この経験があって出来上がったものではありませんが、少なくともそれを形成する一つになっています。「楽しく楽(らく)して」、でも退屈ではない人生を送りたいと思っています。退屈ではないというのが、私にとっては一番優先順位が高いものです。
この文は、留学に迷っている人や興味がある方に向けて書いてみています。行動するのには理由が必要なように思いますが、そうではなくて、行動してやっとそれに至った理由があったとわかるのかなと思います。至った理由というより、その行動のすべての要因の総和が正だったとわかるのではないかなと思います。
なので、何か大それたと、大きいと、思われる行動をするようなときは、外から何かしらの理由を求められたり、熱を測られたりして、もしそれがはっきりしていなかったり、熱が足りないと思われることがあるかもしれないですが、そんな時は、自分は、赤い炎のようにメラメラとごうごうと熱そうに燃えてはいるようには見えないけれども、それは、自分が青い炎を持っているからなのだと、青い炎は赤い炎のように激しく燃えることはないけれども、熱さは赤い炎よりも熱いのだと、自分を納得させておけばいいのではないかと思います。
まとめ
たしかに、この駐在によって色々な経験をさせてもらっていますが、特にそれが"自分を成す"大きなものになったわけではないとも思っています。小さい頃から、お母さんとお父さんに育てられ、小学校では友達と過ごして、中学では部活の先生とコーチに出会って、高校では部活の先輩たちにお世話になって、受験のために勉強し、大学では友達と遊んで彼女ができて別れて、毎日バイトして、店長と遊んで、この団体の代表と出会って、色んな人にお世話になって、カンボジアに行くことになって、異国の人と過ごすようになって、まあそんな感じで進んでいってしまうものなんじゃないかなと思っています。
それで、こうやって過ごして来た中で、たぶん人に出会って何か感じただけでなくて、映画とか漫画とかアニメとかテレビとか音楽とか本とか、そういうものに触れてきたから、その時その時の行動をとってきたのかもしれないなと思います。
『メジャー』を見て吾郎かっこいいと思い、グローブをはめながら『メジャー』を見て、『ライヤーゲーム』を見て、「秋山さん、かっけー!」と思って心理学を専攻しようと思ったり、『福本伸行名言集』を読んで、「よし、こうやって生きよう!」と思ったり、『ティファニーで朝食を』を観て、作中では指輪だけれど、私の彼女にはティファニーのネックレスをあげようと思ったり、そんな感じで自分たちが届けている映画も、なんらかの影響を与えてくれたらと個人的には思っていて、かつそれが、効果的で効率的であると思っています。イメージとしては、映画とかアニメでいう、過去にタイムスリップしたときに、過去を少しでも変えてしまうと未来がものすごく変わってしまうみたいなものです。この活動でよく言われる批判は、「映画を上映して何が変わるの?」、「人ってそんな簡単に変わらないよね?」というものがありますが、結局のところ、そうではないような気がしています。
何が言いたいかというと、仮に2時間の映画を上映することで、その中のわずか数人、もしくはひとりに影響を与えたとするならば、わずか2時間で十分な効果があったと言えるかもしれなくて、そして、もし、人はそんな簡単には変わらないとするならば、そもそもいくらどんな労力と時間をかけたとしても、ほとんど人は変わらないんじゃないかとも思います。つまり、そうであるならば、その労力と時間を多くの人々に接触するために使った方が効率的ではないかと思います。そう思って私はこの活動を続けていきます。代表は、本気で世界を変えようとしているので、それについていこうと思います。そう最初に決めてしまったので、そうするしかないと思っています。
読み返してみると、ほんとに何が言いたいのか、何を言っているのかわけのわからない文章になっている気がしますが、ここまで読んでいただき幸いです。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
プロフィール:
大西駿貴
(学習院大学文学部心理学科4年休学中、NPO法人CATiCカンボジア駐在)
FB:https://www.facebook.com/toshiki.ohnishi.5
(参考)途上国の子どもたちに映画を届けるWorld Theater Project(ワールドシアタープロジェクト)を推進するNPO法人CATiC :https://worldtheater-pj.net/
(関連記事)
2016年2月1日付
No.232:「映画を通して未来のカンボジアを創る!~だから今、休学して1年のギャップイヤー」山下龍彦さん(大学生、NPO法人CATiC副代表)-エッセイ集 フロンティア・フォーラム: http://japangap.jp/essay/2016/02/npocatic.html
鈴木孝浩
地域おこし協力隊
ギャップイヤーとは価値のあるものなのだろうか?私の人生においては明確にイエスと答えることができる。人生をレール上を歩くことに例えるならば、ギャップイヤーによって今まで考えもしなかったレールに乗り換えることとなり、想像もし得なかった場所へ到達したからである。そこはわくわくで彩られている。私の周りのギャップイヤー経験者は似たような想いを持っている人が多い。
私の人生では二度のギャップイヤーがあった。一度目は高校生のときのオーストラリア留学。二度目は社会人経験を経たあとの自転車世界一周である。
16歳のときにオーストラリアの南に位置するメルボルンに1年間留学し、現地の高校に通った。1つの転機となった問いがあり、それは人生を変えた。
「タカは大学に行くの?何を学びたいの?」
日本で進学校に通っていた私は、当然のように大学へ行くものだと思っていた。親も周りの友人も大学へ行くことが当たり前のような感じだったからだ。しかし改めて問われると、学業が好きとは言えない私が大学で何を学びたいのだろうか。学びたいことがないのであれば、働く選択肢を真剣に検討したほうが良いのではないか。
最終的にはオーストラリアで選択したビジネスという授業が面白く、それを大学でも学びたいと経済や経営の学部を受験することにした。数学や物理が好きで得意だった私は理系の学部に進むものだと思っていたが、学びたい学問を見つけたので文転して経済学部を目指すことにした。そして大学生活では本を書いたり会社を立ち上げたりとビジネスに関わるような活動をしていくこととなる。私のオーストラリア留学というギャップイヤーにおいて間違いなく人生のレールを乗り換えたのだ。
オーストラリア留学でもう1つの転機となった出来事がある。私のホームステイ先には私を含めて6人の留学生がいた。みな年上で、年齢は20歳から28歳の5人だった。スウェーデン人、タイ人、台湾人、香港人、韓国人。夜な夜な話をしている中で兵役の話となった。台湾と韓国では男子全員に兵役があり、タイではくじ引きで兵役があるという。たどたどしい英語での会話だったが、兵役の最中に友人が死ぬという生々しい話を聞き、「死」というものに触れた。
幸か不幸かそれまでの人生で死を考えさせられる機会はなかった。人はいつ死ぬか分からないということを意識し始めた瞬間だった。それによって生き方がすぐに変わったわけではなかったが、数年の年月を経て、死の意識が身体の隅々まで巡り、行動に昇華されるようになった。いつ死んでも悔いのないように生きる。そのように生きられるようになったとき、人生は変わった。正確には段々と変わっていったのだが、そのきっかけはギャップイヤーのオーストラリアで留学であった。
その意識の変化の結果が二回目のギャップイヤーに繋がる。大学を卒業し不動産会社で働いていた私は、充実した社会人生活を送っていた。定年後には自転車世界一周と田舎暮らしをしたいと考えていた。しかしふと思う。65歳から自転車世界一周は自分が持っているイメージと違うものではないかと。
20歳に自転車で日本一周をしてからの夢が自転車世界一周であった。そのイメージは未知の中での挑戦的な旅であり、65歳の自分の姿はそこになかった。いろいろと思い悩み、相談し、結局は会社を辞めて飛び立つことにした。それはいつ死んでも悔いのないように生きるという、一度目のギャップイヤーでの学びが影響を与えている。
世界一周旅で得たものは様々であるが、この場では旅をして知ったギャップイヤーの話をしたい。海外では多くのギャップイヤー経験者と出会う。日本人や欧米人などの場合には人生の中にギャップイヤーを取ることを自ら選ぶが、社会に組み込まれている国がイスラエルである。イスラエルでは兵役を終えたあとの約一年をギャップイヤーとして過ごし、そのあとに就職など自分の人生を歩みはじめる。視野や見聞を広めるための期間を社会として設けているのだ。それはギャップイヤーに価値があると国が認めていることに他ならない。
昔と比べて平均寿命が延びた。長い人生のなかでギャップイヤーを持つことは有益である。それによって、よりよい人生を歩むことができるだろう。ギャップイヤーを持つ人が増えて生き方に多様性がうまれることで、よりギャップイヤーというものの価値が分かる人が増えてそれに対する寛容さが生まれるに違いない。1人でもギャップイヤーについての理解を持つ人が増えることを願う。
最後に私の今をお伝えして終える。自転車世界一周を終えた私は定年後のもう1つの夢である田舎暮らしを35年前倒しで始めた。想像以上に刺激的な日々を送っている。自転車世界一周のときからブログ(http://takahirosuzuki.com/)を書いているので、良かったら見てほしい。それではまたブログでお会いしましょう。
プロフィール:
鈴木孝浩
1984年生まれ。
高校生のときにオーストラリアに1年間留学をする。
20歳のときに自転車日本一周をし、25歳から自転車世界一周に旅立つ。
28歳に旅を終え、愛知県新城市で田舎暮らしを始めた。
日々の生活のことを今もブログに書き綴っている。
参考URL
世界一周帰国後のチャリダーがよく聞かれること
http://takahirosuzuki.com/2014/0218105515
ブログ:http://takahirosuzuki.com/
ツイッター:https://twitter.com/viatortaka
フェイスブック:https://www.facebook.com/viatortaka
竹内 頌(Sho Takeuchi)
(北里大学4年次中退)
あなたの存在は素晴らしい
大学を卒業するまであと4カ月という2016年10月31日、僕は大学に退学願を提出した。
この時期の中退というのは見方によってはドロップアウトした人生に見えるかもしれない。大学4年生という時期の中退が正しい選択だったかどうかは正直言って自分にもわからない。普段、何事にもポジティブな考え方をしているし自己肯定感にも溢れている方だと思うが、さすがに大学を本気で辞めたいと思ってから決断するまでの間は時期が時期なだけに、自分に自信がもてなくなったり自己嫌悪に陥ったりもした。さらに言うと、全てのことに無気力になってしまうという今までに体験したことのないような状態になったりもした。
そんな時、僕を救ってくれたのは「あなたの存在は素晴らしい」ということを伝えてくれる人の存在だった。僕の選択が正しいだとか間違っているだとかではなく、竹内頌という人間を肯定してくれる人の存在は100人の否定的な意見にも勝る強力な味方だった。そういう人がそばにいてくれるだけで、また前向きになることができたし改めて自分のことを好きになることができた。きっと悩んだり落ち込んだりしている人に必要なのは、経験則によるアドバイスなどではなくその人の存在を包摂するような言葉なのだと思う。
僕は一人では生きていけない
中退をするにあたって、改めて真剣に自分の人生と向き合うことになった。その中で、僕の人生は本当に人に恵まれているのだということを強く感じることができた。19歳の頃から始めた旅では出逢う人の数だけ価値観が広がり続け、ユースとして活動をした国際NGOオックスファムでは出逢う人の数だけ多様性がもつ力と美しさを知り、僕の選択を温かく見守り続けてくれた家族からは愛を知ることができた。僕は今まで出逢ってきた"あなた"がいるからこそ自分の人生を愛することができるし、生きていくことができるのだと心の底から感謝することが出来るようになった。
描いていく世界
「正しい行いと間違った行いを超えたところに野原があります。そこで逢いましょう。」
これは、ジャラール・ウッディーン・ルーミーという詩人の詩であり、僕が描く理想の世界だ。旅をしていく中で、自然農法を行っている畑に行く機会がよくあった。そこでは多種多様な生物が息づいていて、正しい行いも間違った行いも存在せずにそれぞれが個としての命を全うしていて、その上で共生関係を築きひとつの生態系を作り出していた。人の生き方にも答えなんてないのだから、それぞれの人が自分のど真ん中を生き抜くことがより豊かな世界を創っていくことに繋がっていくのではないかと考えるようになった。。
しかし世界には自分の権利を行使することができない人や、社会的不公正に苦しんでいる人がたくさんいるのも事実。僕はそういった人のためにも生きていきたいし、そう思っているからこそ自分の思い描く世界を表現していきたい。きっと"あなた"と"わたし"を超えたところにも野原は存在していて、誰かを救うことは自分を救うことに繋がるし、自分を救うことは誰かを救うことに繋がっているのだと思う。
エコビレッジというひとつの答え
自分の理想とする世界を表現していく手段のひとつとして、エコビレッジというものに辿り着いた。去年の夏、熊本県にある三角エコビレッジサイハテというところに行き衝撃を受けた。そこでは「お好きにどうぞ」を合言葉にそれぞれの思いをそれぞれの人が協力し合いながら色々な形で表現していた。生命の輝く生き方という言葉がぴったりなほどにそれぞれの人が本当に輝いていたし、生きる力に溢れていた。
僕は11月末から、もう一度1ヶ月間三角エコビレッジサイハテに行きエコビレッジというものを学び感じてくる。そこからまた新しい何かが生まれるかもしれないし、全く別の道を選ぶことになるかもしれない。
ひとつだけ確かなことは、今とてもワクワクしているということだ。
最後に
この先中退という選択を後悔するようなことがあるかもしれない。失敗もたくさんするかもしれない。それでも僕は、自分らしく生きている限り、"あなた"が存在してくれている限り自分の人生を愛し続けていくことができると思う。
Love the life you live. Live the life you love.
プロフィール:
竹内 頌(Sho Takeuchi)
Twitter:@osho_t8
Facebook:http://m.facebook.com/sho.takeuchi.0817
☑「世界の社会問題を解決する」
「俺マサイ族の家にホームステイしてヤギの生血飲んだよ(笑)」
「えっ!どんな味がするの?」
居酒屋で友達といるときにまぁまぁ盛り上がる話。休学して海外の様々な国を訪問しました。アメリカ、スリランカ、インド、ネパール、ブータン、ケニア、デンマーク、アイスランド、ペルー、ボリビア、などなど。
でも居酒屋でそんな話題をするために行ったわけではなく、旅立つ前は強い心意気がありました。
「世界の社会問題を解決する。」
そんな意気込みで休学をし、ボランティアをしながら世界をまわりました。
アメリカの世界遺産の山の中で道を建設、ネパールで震災復興、スリランカで美術の映像授業、インドで文化理解、ケニアで手洗い装置の作製、アイスランドの高齢者施設での支援、ペルーの日本語学校での教師。
でも結局大きく変えられたわけではありませんでした。変えられたとしてもたった1%だけであったかもしれません。
それでもこの1%がなにかにつながるかもしれないと思っています。そして自分と同じく、「海外でなにか人のために立ちたい!」と強く思い、休学する人がいると信じて、そんな人に向けて今回は寄稿します。
☑世界を100%から101%にするということ
ケニアの孤児院と聞いてどんな場所をイメージしますか?
電気・ガス・水道がない。食べ物も少ない、美味しくない。建物は汚い。服はボロボロ。
そんなイメージを抱くのではないでしょうか。ほぼそのイメージ通りでした。唯一の救いはソーラーパネルがあり、その電気を使って井戸の水がくめること。でも、雨の日、曇りの日は井戸が使えない状況でした。
そこには日本の日常では考えられない世界が広がっていて、お昼ご飯はみかん一かけらのみ、手は洗わない、皿は洗わない、調理のための薪は毎日拾わないといけない、トイレはどこでもする、そんな孤児院に日本人一人でふらっとたどり着き、一緒に生活していました。
そこにいる子供たちに何かしてあげたい、そう思い始めたのは滞在してから2週間たったころでした。手洗いしようと言っても始めない、お皿を洗おうと言っても洗わない、掃除をしようと言ってもする気も起きない。初めはなにもかもうまくいきませんでしたが、ちょっとずつ試行錯誤して、最終的には手洗いに焦点を当て、簡単な手洗い装置を作製しました。
透明なバケツに穴をあけて蛇口を挿しただけの簡易的なものですが、子供たちの生活がみるみる変わっていきました。手を洗うようになり、その装置を自分たちでカスタマイズして皿を洗い始め、掃除も積極的になりました。
たまたまやって来た日本人が作った手洗い装置をきっかけに、自分たちで生活を向上させていきました。
まさに世界が100%から101%に変わった瞬間でした。
☑昨日まで世界になかったものを
ボランティアっていう名前で、物やお金を提供することは度々批判されます。ですが、世界をまわるとボランティアのおかげで助けられている人々も多く見られました。この孤児院も外国からの支援で建設され、この施設がなかったら子供たちはどこかへ売られていたかもしれないといいます。なので、私は強くボランティアを肯定します。
そして私は、ボランティアをやるうえでコツに思っていることがあります。
・当たり前を創る
・勇気をもって踏み出す
ということです。ケニアの場合も手を洗うこと、手を洗える環境にいることは当たり前で、面倒に思ったり、逃げたくなったりしても勇気をもって踏み出したおかげで、手洗いの装置を作ることができました。
この2つのコツを意識すれば、世界を100%から101%に、昨日まで世界になかったものを創ることが出来ます。
今後、休学して海外ボランティアをする人に向けて、この寄稿がなにかのヒントになれば幸いです。
私は今後も、ネオジム磁石(NdFeB)の磁力のような強い気持ちで、少しでも社会に貢献できるような活動をしていきたいと思います。
良ければブログもチェックしてみてください。
http://sekayume.com/
最後までお読みいただきありがとうございます。
(関連記事)
2015年5月1日付
No.216:「ボランティアで世界を変える」(荒井昭則さん、東京工業大学金属工学科 4年次休学中)-エッセイ集 フロンティア・フォーラム
http://japangap.jp/essay/2015/05/-4-4.html
高木昭博
株式会社セームページ及びSamePage Ltd.(バングラデシュ法人)代表取締役社長
こんにちは!
今回は、我々が自社サービスを構想して、失敗して、神戸市のベンチャー支援プログラムに受かって学んだことを記事に書きます。
最初に簡単に私高木の紹介ですが、広島県で育ち、地元で3分の1は退学になる高校を卒業後、空手選手を経験した後、2012年より経産省/HIDAインターンプログラムでバングラデシュへ6ヶ月派遣されました。
その期間に、現地で社会課題を間近で感じ「世界中の情報格差を無くして、優秀な人々に公平な機会を与える社会を作る」をミッションに2013年にバングラデシュで法人設立、帰国後日本で法人設立を行いました。
当初考えていたソーシャルビジネスは、個人投資家さんがいたのですが、病気で離れてしまい、Webやスマホアプリの受託開発を日本企業から受けてなんとか事業を続けてきました。
そんな中2015年11月より我々のミッションに近づける自社サービスを開始しようと、12月に多言語WordPress(ホームページ)テンプレートのマーケットプレイス「ソーシャルニンジャ」を開始しました。
リーンスタートアップの手法に基づいて、ターゲットを絞って、士業(サムライとニンジャで相性ばっちり?)をターゲットにするも、士業のターゲットにWebでの集客ニーズがないことで、休止。
未だβです。士業マーケティング用のワードプレステンプレート販売:ソーシャルニンジャβ: https://jp.socialninja.market/home/
2016年1月より我々の強み、英語、開発スキルを活かして世界にないサービスを作るにはと、飲食店、映画館、ホテルなどをインタビューしてヒアリングした結果、インバウンド旅行者向け荷物預かりをサービスとしてすれば面白いかもと市場調査を開始。
2月より、各主要駅の出口調査や銀座数寄屋橋での出口調査、国交省へのヒアリングなどを行って自社としてこのサービスを行うことを決定。
ニンジャが高速ビラ配りしてます。↓
https://www.youtube.com/watch?v=MPeakq5QQo8
7月より開発開始して、7月15日にプレリリースを行い、今は全国のロッカー、荷物預け場所を英語、日本語で表示するよう開発中です。
ホーム : Tebura https://tebura.ninja/ja/home-jp/
学んだことは、沢山あって忘れてるものもあるんですが、特に下記になります。
まずは、現場。外へ出て行動する!
Future Institute というシリコンバレーのアクセラレータプログラムの東京説明会で言われてたのですが、プログラム中いきなり明日までにターゲット顧客5人インタビューして来いて言われるそうです。そして退学率60%(僕の高校の倍!)
それを聞いて、僕は今まで真剣に前へ進もうとインタビューしてなかったと感じました。VCから出資が入って、あとで何でもするようになるというのはよく聞く話なんですが、出資を入れる前に何でも出来る状態になっておくというのは、非常に重要だと学びました。
おかげで今はどこでもニンジャの格好で伺えるようになりました。
英語でのリサーチ
日本語でのマーケットプレイスの記事や情報はあまりないのですが、英語だと下記のように沢山あります。
Airbnbが初期に競合のcraigslistに掲載することでホストを増やしていたり、Uberが収入保証をしてドライバーを増やしていたりといった情報が探せたので、まずは英語で調べてみるというのは良いかと思います。
今神戸で行っている500startupsは、Webでも参考になる記事があるのでおすすめです。
リンク: All | 500 Startups :http://500.co/blog/
シリコンバレースタートアップと日本スタートアップの定義の違い
日本、シリコンバレーでスタートアップの定義は、変わってくると思うのですが、メンターの奥田さんに、本気で世界出ようと思ったら、崖を飛び降りながら飛行機の模型を作ることをしないといけないと言われました。
こちらはシリコンバレー式のスタートアップの考え方だと思うのですが、とにかく大変、犠牲も大きいです。一方日本のシードラウンドの考え方は、もう少し安定よりに感じます。色々な方から話を伺うと、シリコンバレーのVCは、犠牲が長期に及んでも事業がスケールするなら投資する意欲が日本に比べて高いように感じました。日本にいたら日本の環境に合わせて、それが合わなければシリコンバレーへ行くのが良いと思います。
スタートアップに向くビジネスかどうか!?
僕らが行なっている手ぶら観光というビジネスモデルは、マーケットプレイスというモデルで、消費者、サービス提供者、運営者セームページがいるモデルなので、消費者が少ないと、提供者は集まらないし、提供者がいないと、消費者も集まらなく運営者は儲からないビジネスモデルなんです。
Idonethisというtodoツールを作った方で、今はエンジェル投資家の方にもマーケットプレイスするなら、既存のサービスを値段を下げて勝負する時だと言われました。
どういうビジネスが少ないリソースで最初の損益分岐点を超えれるかは、日本のスタートアップ業界だと重要に感じました。
何がしたいのか?
そんな厳しいアドバイスを受けながら、それでも事業を続けたい思いがあるか?僕らは、Teburaだと旅行してる時に地元のお店へよって、荷物を預けてネットに出てない美味しいラーメン屋さん聞いて、手ぶらで旅行を楽しんでもらう。最後に少し社会貢献して、満たされた気持ちで旅行を記憶に残してもらいたいと思って、事業を続けてます。
最後には、今自分を一番幸せにするものはなんなのか?これを突き詰めていくことで、効率も上がるのだと思います。
つらつらと書いてみましたが、参考になりましたでしょうか?
文章として分かりづらかったら気軽にコメント下さい。
ここで少し宣伝をさせて下さい。
現在Teburaでふるさと納税クラウドファンディングを行なってます。ふるさと納税とは、住民税の2割程度は寄付金額がほぼ全額返ってくる仕組みで、御興味ある方は、応援お願い致します。シェアのみも大歓迎です。
プレスリリース:神戸市が日本初のふるさと納税クラウドファンディングで震災支援のシェアリングエコノミー型ソーシャルビジネスTebura(手ぶら)をサポート。
Tebura :http://goo.gl/jN6cyn
上記事業でスタッフ募集もしております。営業、SE、プログラマでインターンご希望の方は、上記リンクのチャットボックスよりお問い合わせ下さい。
最後に今まで広島から東京へ出てきてなんとか事業をやってこれたのは周りの皆様のお陰です。ぱっと思いつく限り感謝のメッセージを書かせてもらいます。
奥さん
いつも仕事や家事、週一休みで有難う。お陰様で毎日幸せです。
プレシードメンター/コワーキングスペースMONO マネージャー石川さん
とりあえず現場行けと後押ししてくれて、なんとなく行動を避けてた自分に気づきました。これからもお互いがんばりましょー。
起業家シェアハウス運営 うっちーさん
お仕事振ってくれたり、セミナーやイベントの機会を頂き有難うございます。東京に友だちが全くいなかった状態から、色んなご縁を頂きました。
パラパラ漫画制作 村上さん
いつも話し聞いてもらったり、手伝えることないかとか協力有難うございます。
神戸ベンチャー支援プログラム メンター山下さん、尾下さん
Teburaを荷物預かりからもっと大きな構想にできたのは、お二人のメンタリングのお陰です。尾下さんから言ってもらった何か質問があった時に議論ではなく、同じ方向を向いて解決する三角形を作れというのは、とても役立ってます。
神戸ベンチャー支援プログラム メンター関さん
ニンジャ押してもらって有難うございます!お陰様でどこでもニンジャで行くようになりました。
神戸ベンチャー支援プログラム 多名部さん、林さん
事業が上手くいくよう色んな人をご紹介有り難うございます!
神戸ベンチャー支援プログラム きづきさん
融資のポイントやテクニックがどの金融機関よりも参考になりました。有難うございます!
神戸ベンチャー支援プログラム メンター イノーバ 宗像さん
お忙しい中、いつもアドバイス有難うございます!パタパタとドミノのように倒れる最初の一手を見つけるというのは、ぐさっと刺さりました。戦略が甘いとリソースが無駄になることを痛感してます。引き続きどうぞ宜しくお願い致します!
神戸ベンチャー支援プログラム メンター 徳山さん
リスティング広告の裏ワザや、モニター利用有難うございます!お陰様で事業へのモチベーションが上がりました。
神戸ベンチャー支援プログラム メンター 西本さん
まだ事業がしっかり固まってない中アドバイス有難うございます!引き続きどうぞ宜しくお願い致します!
井田行政書士事務所 井田さん夫妻
いつも資料作成など、要件がまとまってないのにお手伝いいただき助かってます。引き続きどうぞ宜しくお願い致します!
新日本監査法人 岡田さん
トラベルブックさん紹介などいつもアドバイス有難うございます!
ホライズン 尾熨斗さん
案件も発注頂き、六本木の物件の運用まで任してもらえて有難うございます!
最後に、The Hardest Working Man in Show Business ジェームス・ブラウン※最近見た映画が良くてファンになりました。
I made a difference. 今あなたが聞いてる全ての音楽に俺の音楽が入ってる。てジェームスの言葉にしびれました。ソーシャルビジネス界一の働き者になれるよう頑張ります!
https://youtu.be/gJgkuyJ8NLo
(関連記事)
2015年10月3日付
N0.228:「人と違うやりたいことをやる時の少し"しんどいこと"とその対策」(高木昭博さん、セームページリミテッド社長)
エッセイ集 フロンティア・フォーラム: http://japangap.jp/essay/2015/10/post-111.html
上原未知加
(東京大学法学部3年)
服が好き
小学校3年生、私は初めてファッション雑誌を手に入れました。そのティーン向け雑誌では、見たことのないようなキラキラしたモデルさんたちが、キラキラしたお洋服に身を包み、都会的な景色を背景にとにかく輝いていました。「お洋服は人を輝かせる」、そんなことを初めて思いました。
以来、私の服への愛着、もはや執着のような気持ちは今日にいたるまでモクモクと大きくなっています。どうしたら私もキラキラしたモデルさんみたいになれるのか、毎日着ていく服を真剣に選びました。決してオシャレではなかったし、モデルさんとはほど遠いけれど、そこには常に何かの意味を込めた選択がありました。自分で意味を込めた服を着ていると、ガラスに映る自分の姿を見て、自分が着ている服がいかに自分を輝かせてくれているか、そんなことを感じて嬉しくなりました。これは今でも変わらない、私にとってのファッションの一番大切な価値です。
ファッションってキラキラじゃなかったの?
「服が好き」「ファッションの持つパワーが好き」、そんな強い気持ちを胸に、大学進学と同時に上京して、アパレル販売員のアルバイトを始めました。憧れのキラキラした業界、お店にいられるだけで幸せ。そんな毎日でしたが、もちろん辛いこともたくさん。とにかく人件費を抑えて、商品価格を抑える。その構造は私たち販売員の負担になっていただけでなく、そのもっと前の段階、素材が布になって、布が服になるその過程でもたくさんの犠牲を払っていたのでした。
いわゆるファストファッションが、なぜこんなにも早いスピードで、こんなにも低価格な商品を提供してくれるのか。ファッションは、実はキラキラした表とは裏腹に、その供給過程においてとても目を向けられないような構造があるのではないか、そんなことを思っていたちょうどそのころ、あるドキュメンタリー映画が公開されました。バングラデシュの縫製工場が倒壊し、1000人を超える犠牲者を出した事件をうけて、その周辺にある悲惨な事実が映し出されていました。
私がこれまで「キラキラ」だと思って着ていた服、自分を輝かせてくれるとても素敵なモノだと思っていた服が、こんなにたくさんの犠牲の上で成り立っていたなんて。私たちが何も知らず、安ければ安いほど喜んで、たくさんの服を買っていたことで、なくなるはずのない命が1000という想像もつかない数で失われてしまったなんて。あまりに衝撃的で、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
エシカルファッションとの出会い
それから考えるようになった「では私には何ができるのか」ということ。調べていくうちに、エシカルファッションという考え方を知りました。環境に配慮した素材を使った服だったり、作っている人の労働環境に気を配ってできた服だったり。今持っている服を大切に長く使うという考え方もエシカルファッションです。
それを知って私が思ったのは、「お気に入りの服って、そんなこと言われなくても長く着ちゃうよね」ということ。本当に自分をキラキラ輝かせてくれる服は、「安いから」買った服、「流行ってるから」買った服ではなくて、「どうしてもかわいい、どうしてもコレが欲しい」と思って選んで買った服。そしてそういう服は意識せずとも長く着てしまう。つまりエシカルファッションとキラキラしたファッションは、本来矛盾しない考え方なんだ、そう思いました。
エシカルファッションの捉え方を変えてみる
エシカルファッションは高い、高いものは余裕のある層しか買わない、その層向けに商品を作る。現在のエシカルファッションに関しては、こんなイメージがあります。私たち若年層は、確かにそんなにお金を持っていないけど、「かわいい」「すてき」と思ったものにかける熱意はとても強い。だから、そこに訴えかける見せ方にしたら、もっと身近に感じるのではないか。
そんな仮説を検証すべく、今は2つの活動に取り組んでいます。1つ目は、エシカルファッションスナップ。今あるエシカルファッションブランドさんから衣装をお借りして、18歳から23歳までの若者に、普段着ている私服と混ぜて着てもらい、スナップ写真を発信しています。エシカルファッションは、若者のリアルクローズになりうるのか。これからも続けてみようと思っています。
2つ目は、エシカルファッションブランドの立ち上げです。無いのならば作ればいい。若い子が、思わず「かわいい!」と言ってしまうような、例えばshibuya109にお店があっても浮かないような、そんなエシカルファッションブランドを作りたいと思っています。今現在は、ラオスの手織りシルクを素材に、長く使えるジャケットを製作中です。
服を愛する者の使命
もっと多くの人が、気づいてくれたら、そして少しでもエシカルファッションを実践してくれたら、私たちにキラキラしたファッションのパワーを提供してくれる人たちも、もっとハッピーになれるんじゃないかな。少なくとも、無意識のうちに命まで犠牲にしてしまうことは、もう二度と起こさないよう、私たちが努力しなきゃいけない。自分ができる限られたことであっても、全力でその役に立てることをしていきたいなと思っています。
プロフィール:
ブログ:http://ameblo.jp/jessica05/
Facebook:https://www.facebook.com/michika.uehara
Mithical fashion snap : https://twitter.com/shopnista2
林 万理(はやし ばんり)
命館アジア太平洋大学(APU)国際経営学部4年生、ペンハーゲン大学経済学科に交換留学中
あなたは何をしている人ですか?
初めて出会うデンマーク人に必ずと言って良いほど聞かれる質問だ。その次の質問で、『なぜそれをするの?』と聞かれるのである。留学を開始した昨年の夏には、この2つの問いに自信を持って答えることができない私がいた。なぜならば、自分が勉強していることについて、自信をもって語ることができなかったからである。
コペンハーゲンという都市で育む幸福感と自分だけの軸
2015年の8月下旬より、私はコペンハーゲン大学の経済学部で交換留学している。コペンハーゲンはデンマークの首都であるが、人口は74万人と東京の5%程である。小さいながらも、街には音楽や芸術、様々な国から来た人々で溢れている。キャンパスで、デンマーク人のみならず、様々な国から留学に来ている友人との交流から、知的好奇心を掻き立てられ、彼らの多様なライフスタイルに触れることができる。それを観察することで、改めて自分自身のライフスタイルを様々な角度から見つめ直すようになった。
日本にいた時、「非日常的で大きな出来事」で幸せを感じようとしていた。しかしながら、今は「日々の生活」の中で、小さなピースのように散りばめられた幸福を感じている。例えば、私はカメラを持ち写真を撮りに街に出ることや、ジムで汗を流すこと、素敵なカフェでコーヒーを飲んでいる時に、自分の感性が研ぎ澄まされ、たくさんの小さな幸せを感じるのである。このように、コペンハーゲンという都市で、心身共にリラックスし、自分のライフスタイルだけではなく、専門分野や将来のキャリアについての「自分だけの軸」を見つめ直すための環境をデザインすることができるようになった。
北欧研究所でのインターン
コペンハーゲン大学以外に、デンマークでの私の活動拠点はもう1つある。それは、北欧研究所(Japanordic)である。コペンハーゲンに拠点を置き、北欧諸国に関する研究・コンサルティング機関で、私は昨年の9月から現在にかけて、ここで学生インターンをしている。
北欧研究所の主な業務内容として、クライアントである日本企業から頂いた委託調査、視察支援、通訳・翻訳、レポート執筆、個人的な調査活動等であるが、そこでのインターン活動の一つの個人調査として、私はデンマーク人の幸福観について研究している。例えば、 デンマーク人の幸福観について、インタビュー活動を行い、記事を執筆した。インタビューという「対話」を通して、彼らの幸福観やキャリアについて考え方について話せたことは、それらに関する私の価値観に見つめ直す良い機会となった。
デンマーク人のギャップイヤー
デンマークでは、高校卒業と大学進学の間に1~2年間のギャップイヤーを取ることが一般的である。例えば、彼らは、その期間、国内でアルバイトをした後、旅行や海外ボランティア等をする。私のデンマーク人の友人の中には、日本でワーキングホリデーをした者もいれば、語学学校で日本語を学んだ者もいた。
デンマーク人は、特に明確な目標を持って、ギャップイヤーを取るわけではない。リラックスして、その期間の旅行やインターンシップを通して、自分が本当に学びたい学問や進みたいキャリアを見つけていく。そして、その中で彼らは、自身の思考や言動の源となる「自分だけの軸」を創り上げていくのである。
デンマーク人から学んだこと
冒頭の質問に戻ろう。 『本当に勉強したいことは何?』、『なぜ、それを勉強するの?』、留学を開始してから、これら2つの質問を自問自答するプロセスにおいて、私は、いかに「自分だけの軸」を持つことが重要であるかに気づいた。
それは、他者との無意味な比較から生まれるものではなく、自身の好きな物事に対する内発的・実存的動機によって生まれるものである。例えば、私の場合、幸福に関する自分なりの新たなアイデアを生み出した時に最も自分が生き生きとしている瞬間だと感じる。
そして、自分が調査していることが自分の幸福観だけではなく、私の北欧研究所で執筆する記事を読んだ周囲の人々の幸福観にプラスの影響を及ぼすことに大きな喜びを感じる。自分と他人を比較し、劣等感や虚無感で暗い気分になるのではない。他者を気にせず、自分が本当に没頭できることを通して、人は大きな喜びやエネルギー生み出すことができるのである。だからこそ、「自分だけの軸を創る」、それが「幸福」へのステップだと、デンマーク人は私に教えてくれた。
プロフィール:
林 万理(はやし ばんり)
1993年生まれ。山口県出身。立命館アジア太平洋大学(APU)国際経営学部4年生。2015年8月下旬より、コペンハーゲン大学経済学科に交換留学中。興味のある分野は、デンマーク人の幸福観、デンマークの社会福祉モデル。趣味は、フィットネスとカフェ巡り。
個人ブログHP(L!FE IS CRAZY): http://banrihayashi.com/
Twitter:@banrihayashi
北欧研究所HP:http://www.japanordic.com/
矢部寿明
慶應義塾大学商学部4年
2016年4月27日。大学生5年目、卒業まで10か月。私は内定をもらっていた企業に断りの電話を入れた。別にどこか他会社から声が掛かったからでもなく、かといって自暴自棄に陥ったわけでもない。ただ夢を追うのに、それが最善ではないと判断しただけだった。
<国際開発の舞台へ>
大学1年生の時、ユニセフの講演を聴いて途上国開発を知った。どうすればいいかわからず、悩み悩んで「この舞台で活躍するには最低限英語が必要」という真っ当な結論に辿り着いた。英語はできなかった。親戚家族に海外に関わりのある人間などもいなかったので、死に物狂いで1日10時間、1年勉強を続けてニューヨークの大学に編入合格した。学費が払えないと言われ交換留学に落ち着いたのだが、、
アメリカでは国際開発の第一線にいる様々な人に話をきき、自分の進むべき道を見定めていった。特に、ユニセフの畠山さん。23歳から世界銀行、ユニセフでキャリアを積んできたこの人の話を聞いたときに、素直にかっこいいと思った。"国際開発に携わる上での夢は仕事がなくなること"。この時、どのアクターかわからないが国際開発の舞台で一生踊り狂っていきたいと強く感じたのだった。
〈アフリカでの決意 ~若年層の失業問題解決~〉
留学から帰り、就活や欧米の大学院受験準備を進めつつ、アフリカでの金融包摂プロジェクトを実施しているアライアンスフォーラム財団でインターンを始めた。
今年の2月から3月にかけて、そのプロジェクトで初めてアフリカを訪れ、兼ねてから強い関心のあったルワンダに赴いた。キガリを散策中、ある若い女性が偶然にも私に声をかけた。
「I WANT JOB、 NOT MONEY」
衝撃的だった。お金じゃない。仕事がほしい。色々な国や場所で物乞われたことはあるが、仕事を乞われたのは生まれて初めての経験だった。調べてみるとアフリカやルワンダにおける若年層の雇用問題は根深く大きな障害だと理解できた。
4月に入り、私は決心した。就職するのでもなく、欧米の大学院で学ぶわけでもない。二者択一に凝り固まっていた思考を少し自由にして、新たな選択をすることを。働く意欲があるにも関わらず仕事がない、大学までの教育を受けたにも関わらずまともな職につけない、そんな状況を変え彼/彼女らが輝くためのステージを創る。起業だ。
〈目指すべき世界〉
高校から慶應で8年間過ごす中で、世界に対するある理想が芽生えていた。
誰にでも選択の機会が等しくある世界
周りの友人に比べて我が家はなぜ、と狂言を吐くことも多々あったが、世の中的にみれば私はとても恵まれているのだ。翻ってアフリカ、途上国を見れば、選択の機会を得ていない人は五万といる。私よりも国際開発の舞台を目指すに相応しい人もたくさんいるだろう。ルワンダで物乞いをしてきた女性もその一人だ。ならば、そのような人々を支え、舞台へ飛び上がる手助けをできないだろうか。これからルワンダで創めるのは、そんなとてつもなく大きな理想への第一歩である。
私にできるのか。そんなことを問うこと自体に意味はないように思う。大事なのは誰がではなく、何が成されるのかである。それが真に必要であるなら、私ではなく、これに流れができる。そのため私ができることはいくらでもあるはずだ。友人には見切り発車と言われ、親には呆れられてしまったが、決して独りでできるなどと自惚れてはいない。声が小さいだけで、同じ問題意識を持っている同志はたくさんいる。彼/彼女らと力を合わせていけばいい。私なんかよりも輝く人は星の数ほどいる。そういった人たちのために、私は舞台を創っていきたい。
詳細な計画やルワンダ、アフリカに関心があるひと、一緒に考えてくれるひと、ご連絡いただければ嬉しい。
プロフィール:
矢部寿明
慶應義塾大学商学部4年。1993年生まれ、慶應義塾高等学校出身、大学3年時にアメリカのThe University of North Carolina at Chapel Hilへ交換留学。2017年3月の大学卒業後、ルワンダで起業するために準備をしている。
Twitter: @yabeeeee1207
Facebook; Toshiaki Yabe (https://www.facebook.com/toshiaki.yabe.77)
Blog: http://yabe.hatenablog.com/
CAMPFIRE: https://camp-fire.jp/projects/view/6519
田島大基
Corporate Catalyst India勤務(インド地場大手会計事務所)
「音楽のチカラ」は国籍も言語もあらゆるボーダーを超える、そう感じさせる夜だった。
4月23日の土曜日の夜、インド・チェンナイ有数の音楽会場施設であるMusic Academyの小ホールにて日本のプロピアニスト碓井俊樹氏をインドに招待した「チェンナイ・チャリティーコンサート "The Power of Music"」が開催された。お世話になったインドへの感謝を込めて、私自身が企画運営を実施したイベントだった。
碓井氏は既にデリー、グルガオン、ムンバイ、アーメダバードでピアノコンサートを実施していたが、私が住むチェンナイではまだ開催実績が無く、是非開催させていただきたいと碓井氏に相談させていただいたのが今年1月。単なるピアノコンサートではなく、自分の関心分野である国際協力と合わせ「チャリティー」コンサートとして企画した。入場は無料ながら会場には募金箱が設置され集まった寄付金は全額インドの障碍者支援に使用されるようにした。コンサートの熱気、興奮さめないうちに当日の様子をお伝えしたい。
まずは後援名義を付与くださった在チェンナイ日本国総領事館より、深尾氏から開会の挨拶を頂いた。チェンナイという場で領事館の主催で様々な日印文化交流イベントが開催されている中で今回のコンサートの位置付けを語っていただいた。
続いてチェンナイ大手の障碍者支援NGOであるタミルナドゥ障碍者協会(The Spastics Society of Tamilnadu/SPASTN)のJayashree校長より同NGOの活動とインド障碍者支援に関してスピーチいただいた。ちなみに同NGOはプロピアニスト碓井俊樹氏がコンサート前日に施設の現地にてミニコンサートを行ったところだ。
写真の通り、チェンナイ日本商工会CSR連絡会が寄贈したキーボードを使用しての演奏だった。鍵盤の数も足りない、タッチも軽い、指も滑るというキーボードでプロピアニストの方に演奏を依頼するのは大変な無礼のところ、障碍者の子どもたちのため快く引き受けてくださった碓井氏の心意気に感動。
Jayashree校長からも「普段はじっとできないことが多い子どもたちも熱心に聞き入っていた」との声を頂いた。初めて聴く本格クラシック音楽が子どもたちの耳にどう聞こえたのか、演奏を終えたあとの子どもたちの笑顔と拍手で感じることが出来た。
尚、このミニコンサートの様子をFacebookに投稿したところ、碓井氏の知り合いからピアノの寄贈を障碍者支援NGOにしたいとの連絡が入ったとのこと。この幸運をコンサート当日に会場の方々に伝えると会場がどっと沸いた。
話は逸れたが、その後、コンサートの寄付先団体であるチェンナイの障碍者支援NGOの代表Sunder医師よりスピーチいただいた。Sunder医師は本業のリハビリテーション医師として平日は働きながら週末の時間を利用してパートタイムで障碍者への診察、障碍者への車椅子、松葉杖、義足などの寄贈を行っている。スピーチと共に同NGOが寄贈した義足で尊厳を持って力強く歩く障碍者のムービーが流された。
「チャリティー」コンサートである以上、インド障碍者支援の活動紹介は企画して是非組み入れたいと当初から思っていた。音楽を楽しんでいただく以外に会場の方々へそうした活動の啓蒙となれば幸いだ。
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いよいよコンサート演目が始まった。まず初めにインド障碍者アーティスト(Special Child Artists)によるインド伝統音楽のパフォーマンスがなされた。目が不自由な子どもたちは、インド伝統音楽の著名な歌手でもあるSunder医師の音楽指導を受けて本番に臨み、日本人の観客の方々に生のインド伝統音楽の演奏を披露した。
ここで会場にサプライズ企画!インド障碍者アーティストのAkshayaさん、Srilekhaさんの2人により日本語の歌であるKiroroの「未来へ」が歌われた。私は僭越ながらピアノ伴奏を行った。
本当に感動的な時間だった。目が不自由ななか、難しい日本語の歌詞とメロディーを感情込めながら完璧に歌い上げていた。
Sunder医師より障碍者アーティストに日本語の歌を歌わせたいと相談を受けたとき、何の曲にするか悩んだ結果、「未来への希望と親への感謝」が込められたこの曲を選んだ。毎週末、Sunder医師の自宅にて集合して練習を重ねた。
お手本となる音源を送ってすぐの練習で完璧に仕上げてきて最初に聞いた時は涙が止まらなかった。自分は発音とタイミングを少し指導しただけ。目が不自由な2人は点字で書かれた歌詞を読みながら歌うが、その点字の紙がボロボロになるまで相当な努力をしたのはすぐに分かった。
本番は感極まって司会であることを一瞬忘れるほど。観客席では涙を流している方もいた。まさに「音楽のチカラ」を彼女らは身をもって感じさせてくれた。
続いて、チェンナイ合唱部による日本の歌の合唱の披露がなされた。チェンナイ合唱部は2016年2月にチェンナイ日本商工会CSR連絡会のリーダーでもある黒木氏により発足。私自身もメンバーの一人でこのコンサートは初の公演だった。曲目はJudy and Maryの「Over Drive」とDreams Come Trueの「何度でも」の2曲。「何度でも」はピアノ伴奏もさせていただいた。
終わったあとインド人の友人の多くから「Choirが素晴らしかった!」との感想を貰った。日本人からインド人へも「音楽のチカラ」が伝わったのだと思う。
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休憩を挟み、待ちに待ったプロピアニスト碓井俊樹氏によるピアノリサイタルの時間に。。。
最初の音から小さな会場全体を一気に碓井氏の音楽の世界へと包み込んだ。
一曲目は、クラシックの名曲であるベートーベンのピアノソナタ第14番『月光』。続いて激しく壮麗なベートーベン・ピアノソナタ第21番『ヴァルトシュタイン』。
そして、固めのクラシック曲に代わり、誰もが馴染みがある曲として、モーツァルトの『トルコ行進曲』と『きらきら星変奏曲』の披露。『きらきら星変奏曲』は『Twinkle, Twinkle, Little Star』としてインド人の方々の大半が知っている曲をもとに様々に変奏がなされるものでコンサート後にもインド人の友人から感想を頂いた。
そして坂本龍一氏の『ブリッジ』。作曲家の坂本氏による同曲は、もともと楽譜が無く、同曲に感銘を受けた碓井氏が楽譜におこし、坂本氏から使用許可を得たもの。つまり世界で唯一、碓井氏しか楽譜を持っていない曲だ。繰り返されるメロディーはまるで宇宙空間を漂うかのようなリラックスした気持ちにさせるとインド人からコンサート後に聞いた。
碓井氏単独のアンコール曲・ショパン『革命』ののち、熊本九州地震で被災された方々を想ってインド障碍者アーティストAkshayaさん、Srilekhaさんが歌を歌い、碓井氏がピアノ伴奏を行う、日本の童謡「ふるさと」のパフォーマンス。コンサート当日のプログラムに歌詞を掲載し、会場の方々にも歌っていただき、音楽を通じた一体感に包まれた感動のフィナーレだった。自分自身、地震に対して何もできないことがもどかしい気持ちがしていたが、だからこそ目の前のコンサートを全力で準備し、想いだけは被災者の方々に寄せたいと思っていた。
コンサート演目は全て終了し、チェンナイ最大の日本語学校であるABK-AOTS同窓会タミルナドゥ―センターのRanga会長より、碓井氏へインド伝統文化の首輪式のプレゼントがなされた。この日本語学校はコンサート当日の朝に碓井氏も訪問し、インド人の生徒達の日本語能力の高さに感銘を受けていた。
そしてゲストスピーカーへは、インド障碍者アーティストのSuvedhaさんが描いたヒンドゥー教の神様の絵がプレゼントされた。Suvedhaさんは耳が不自由であり、会場の方々は拍手ではなく手を振って賛辞を伝えた。
最後には主催団体CCIのチェンナイ代表Venkat氏より閉会の挨拶があり、チェンナイ・チャリティーコンサートは幕を閉じた。コンサート参加者は延べ164名。集まった寄付金は合計39,854ルピーで全額NGO Freedom Trustを通じてインド障碍者支援へ使用される。内訳は以下の通りである。
①耳の不自由な障碍者アーティストSuvedhaさんへの絵の作品料(6,000ルピー)
②目の不自由な障碍者アーティストの子どもたちへのコンサート出演料(8,000 ルピー)
③障碍者の方への1個の義足の寄贈(15,000ルピー)
④障碍者の方々への2個の車椅子の寄贈(11,000ルピー)
インド人、日本人、国籍や言語などあらゆるボーダーを越えて、ただただ心の繋がりを感じる夜だった。「音楽のチカラ」が温かな気持ちにさせ、素晴らしい感動を呼んだのだと強く思う。司会をした私自身は冒頭「音楽のチカラで世界はもっと良くなる」とのメッセージを発した。夢物語ではなく本気でそう思っている。
(関連記事)
2014年1月31日付
No.179:「銀行辞めて、インドで現地採用として働く理由」(田島 大基さん、インド地場大手会計事務所勤務)-エッセイ集 フロンティア・フォーラム: http://japangap.jp/essay/2014/08/post-82.html
プロフィール:
田島大基
東京大学経済学部卒。大学時代はモンゴル孤児支援NGOゆいまーるハミングバーズ(当時の名称)に参画し、子どもたち自身がモンゴル伝統音楽を披露するチャリティーコンサートを開催。開発経済学の澤田康幸教授のゼミを専攻。大学卒業後、三菱東京UFJ銀行に入行し国内の支社にて法人営業に従事。退職後、インド地場大手会計事務所Corporate Catalyst Indiaに現地採用として勤務し日系企業のインド進出、事業拡大に会計税務面から取り組んでいる。2015年9月米国公認会計士(USCPA)試験合格。2016年秋よりタフツ大学フレッチャースクール進学予定。
宮崎充正(青年海外協力隊@マラウイ共和国)
私は現在大学院に所属し、国際開発学という学問を修めている。同時に休学を利用し、青年海外協力隊員(理科教育)としてアフリカ南東部のマラウイ共和国に滞在している。高校・大学の同期らが続々と社会人としての生活をスタートする中、私がこういった人生の選択をするきっかけとなった経験についてお話ししたいと思う。
■自分が本当にやりたいこととは?
私は大学時代、日本で教員となることを目指していた。その半ば、大学3年生の夏に訪れたベトナムとカンボジアでの体験が自分の人生に大きな影響を与えた。そこで見たのはゴミ山で暮らす人々、エイズ患者、物乞いの人々など、日本とはかけ離れた生活をする人々であった。中でも教育学部生であった私に大きな衝撃であったのが、学校へ行かずに路上で生活をする子どもたちだった。帰国後もその子どもたちのことでずっともやもやした気持ちが残り、いつしか「私が力になりたいのは日本の子どもたちなのだろうか」と考えるようになっていた。
しかしながら2週間のベトナム・カンボジアの滞在だけではまだまだわからないことが多かったのも事実で、私は時間のあるうちにもっと途上国のことについて知りたいと考えた。そう思ってからは早いもので、その後フィリピンにて熱き思いを持つ仲間と学生団体を設立し活動したり、エジプトから南アフリカ共和国までのアフリカ大陸縦断を敢行したりもした。その中で発展途上国の抱える諸問題を目の当たりにした私は帰国後、確信を得ていた。
今はっきりと述べることができるのは、世界には一国のみならず多くの国々が協力し合って解決を目指さなくてはならない課題が存在するということ、その解決のために断続的な挑戦が必要であること、そしてその挑戦を「自分がやりたい」と思っているということである。現在は青年海外協力隊員であるとは言え、学生という身分でもありできることはそう多くはない。しかし私は協力隊の任期終了後、大学院修了後も国際開発の世界に身を置き、自分がやりたいと思ったことをやり抜きたいと考えている。
■リスクを取る必要性
人生の選択において、自分が本当にやりたいと思うことを選びにくくする『しがらみ』というものがいくつも存在する。世間体、恥じらい、プライド、将来の不安定性など人によって様々であるが、少なくとも幾分かのリスクが生じる可能性は高いと言える。私の場合日本で教員、つまり公務員として働くことをやめたことによる将来の不確定性、これだけのことを述べておきながら途中で挫折した際のプライドの失墜等、ある程度のリスクを負って現在アフリカの地にいることになる。
けれども私はこの場をお借りして、その『しがらみ』と戦い、リスクを取る人たちを後押ししたいと思う。壁はどのようなキャリアの選択をしようと、万人に訪れるものだと思っている。時にその壁はとてつもなく大きなものとなって目の前に現れる。その時、「自分はこれをやりたい」と思っていることから生まれる高いモチベーションや、「自分はこれを為し得たい」と望む使命感は、いつか自分自身を手助けしてくれる。そして壁を乗り越えた後で、それは行く道をさえぎるための壁ではなく、次へ進むための扉だったのだと気付かせてくれる。また何かにひたむきに取り組む際、躊躇いや周囲からの目線はいつしか自然と消えてなくなるようにも思う。
本当に人生をかけて向き合いたいことがあるのであれば、是非立ち向かっていってほしいと思う。それと同時に自分もそのような人物でありたいと願っている。その際、大多数は選ばない道を辿り、普通とは違う、ギャップのある道を進むこともよいのではないかと考えている。
プロフィール:
宮崎充正(みやざき あつまさ)
青年海外協力隊 平成27年度3次隊 マラウイ共和国派遣
詳しいプロフィールと青年海外協力隊に関する活動は下記にて
・個人ブログ:Hello, One World!(http://atsumasa-miyazaki.com/)
・Facebook :Atsumasa Miyazaki(https://www.facebook.com/atsumasa.miyazaki)
根本 晃(青年海外協力隊員 @ルワンダ)
■「将来は社長になる。」
これが私の10代の頃の目標でした。理由は「かっこいいから」。
28歳になった今、青年海外協力隊の任期が終わる年である2018年にルワンダで自分の会社を作り社長になることが目標です。理由は「かっこいいから」。
この2つの「かっこいい」は実は少し意味合いが異なります。
外国語に対するコンプレックスからか、初めは無意識のうちに「海外」というものを選択肢から除外していました。しかし今の世の中、テレビを見てもネットを見ても、海外で活躍する日本人の存在が頻繁に取り上げられています。さすがの私も海外で起業という選択肢は出てきましたが「英語が出来ない自分には関係のないこと」と半分諦めのような感情がありました。
■迷った時は自分で自分を「かっこいい」と思えるかで決める。
社会人2年目が終わろうとしている2014年1月、私は自分に問いかけました。
「日本で起業する自分と海外で起業する自分、どっちがかっこいいか?」
答えは明白でした。私はこのとき海外で起業することを決めました。決めてしまえばあとはやるだけです。スケジュールをこじ開けてカナダのバンクーバーに3週間の短期語学留学。ここで見つかった表現の引き出しが少ないという弱点を克服するために約1,000本の例文を丸暗記しました。さすがにペラペラとは言えませんが、今は海外で困らず生活ができるくらいには英語が出来るようになりました。
■本当に現地の人が喜んでくれるビジネスをしたい
その後ビジネスチャンスや自分がどれだけワクワクできるかなどを頼りに、起業する国をルワンダに決めました。しかし今は起業家としてではなく青年海外協力隊としてルワンダにいます。一見遠回りに見えるこの選択にも理由があります。
せっかちな自分が急にルワンダでビジネスを始めたらおそらく最も気にするのが会社の「利益」。そんなものを追求した先に関係者・現地の人々の幸せはあるのだろうか。それで世間から成功者と言われるようになれたとしても、自分のことを「かっこいい」と思えるのだろうか。
もちろん会社を経営する以上利益を度外視する訳には行きませんが、最初に利益があってはならないと思っています。ルワンダの問題を解決するため・ルワンダの発展に貢献するために何をすべきかを決め、ではそれをどう利益化するかと考えるのがあるべき順番だと信じています。そのためにまず自分がやるべきことは「ルワンダという国をよく知ること」。これが起業前にルワンダに青年海外協力隊として来ている理由です。
冒頭にあった10代の頃の「かっこいい」は周りの人にかっこいいと思われたいという意味の「かっこいい」。今の「かっこいい」は自分で自分のことを心からかっこいいと思えるかの「かっこいい」。
私はこれからも、「かっこいい」男であり続けたいと思っています。
プロフィール:
根本 晃(ねもと ひかる)
経歴:東京外国語大学ドイツ語専攻→会計士→青年海外協力隊(平成27年3次隊)
個人ブログ:『会計士、アフリカへ行く。~ルワンダ協力隊ブログ~』
http://hinemoto1231.com/
Facebook: Nemoto Hikaru(https://www.facebook.com/hikaru.nemoto.3)
Twitter:@dujtcr77
ブログFacebookページ:
https://www.facebook.com/%E4%BC%9A%E8%A8%88%E5%A3%AB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%B8%E8%A1%8C%E3%81%8F%E9%9D%92%E5%B9%B4%E6%B5%B7%E5%A4%96%E5%8D%94%E5%8A%9B%E9%9A%8A%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0-975122629246689/?ref=aymt_homepage_panel
山下龍彦(大学生、NPO法人CATiC副代表)
プロ野球選手を目指し高校野球の名門校に入学するも、たったの2ヶ月で中退。
行くあてもなく辿り着いた通信制高校を卒業。その後、一浪で私立文系大学入学。
現在、カンボジアに駐在し現地スタッフと国際協力活動を展開中です。
今、僕は2015年9月から大学3年生を1年間休学し、カンボジアのバッタンバン州という町にNPO法人の駐在員として駐在しています。バッタンバンという町はまだ観光地化しておらず、数年前まで地雷が多く残っていた地域です。この町を拠点にし、カンボジア人と一緒に学校や村を即席の映画館に変えるという活動をしています。
<子どもたちが自由な想像力を生かして創る世界を見たい>
現在副代表を務めるWorld Theater Project(NPO法人CATiC)は、設立から3年が経ちました。僕が駐在するまでは、日本在住の日本人メンバーが長期休みを使ってカンボジアに年に数度渡航し、年に数回カンボジアの学校に赴き上映をするだけでした。
この現状は、農村部に住む子どもたちには変えられない環境です。
でも、僕らが映画を通して子どもたちの可能性・世界を広げられたら。子どもたちが生きるこれからの時間、大人になった時の選択肢は、必ず違ったものになると考えます。
この思いは、自分が高校を中退し生きる目的を失っている時に、一本の映画に出会った経験から人生が大きく動いた経験からでした。プロ野球選手を目指し、高校に入るも挫折の末中退をし、俗に言う「引きこもり」の生活をしている時に偶然出会った、「ホテル・ルワンダ」という映画。この作品が、僕が世界を知ること、国際協力という分野に興味を持つきっかけになり、結果として大学に入り、今こうしてカンボジアで駐在する原体験になりました。
映画は、見る人それぞれが自由な感性で作者の思いや世界を感じることができる。そして、そこには自分と重なる世界もあれば、僕が「ホテル・ルワンダ」を見て視野が広がったように自分の知らない世界が描かれているときもある。どちらを取っても、この映画を通した原体験は将来どこかで生きるものだと思います。
しかし、カンボジアの農村部の電化率の低い地域に住む子どもたちは、こうした映画を通した原体験をする機会が圧倒的に少ないのが現状です。だからこそ、僕らがクメール語に吹き替えた日本の質の高い作品を上映し、少しでも多くの子どもたちに映画を通した原体験を届けたい。そして、彼らの創るカンボジアの将来を見てみたい。
そのためには、草の根でどれだけ多くの未知の可能性を持つカンボジアの子どもたちに、映画を届けられるかが鍵になる、そう確信しました。
ただ、自分が1年間の休学を終えたら活動が終わってしまう一過性の活動では意味がない。自分がいなくなった後も、何年も何十年も継続して映画を子どもたちに届けられる形を作りたい。
その時思い出したのは、東北でボランティアをしていた時の経験でした。ボランティアの活動は、初期は外部の人が中心でいい。しかし、持続性を持たせるためには最終的にはしっかりと現地の人が中心として活動をまわせるようにならければならない。現に、震災から3年経った時期から外部からのボランティア団体や活動は減少の一途をたどり、今現在、残る団体の多くは現地の人が中心となって活動しているものです。
この東北の経験から映画を子どもたちに届ける僕らの活動も、何十年と続く活動にするためにはカンボジア人と一緒に活動することが最重要であり、彼らと現地に合う最善の形を模索しながら、作り上げることで持続可能な形にしようと考えました。
<カンボジアだからという考えは、間違いだった>
この活動を持続可能な形にするため、一年大学を休学し、カンボジア人スタッフの育成を行っている中で、現地の人と一緒にやることで見えてくる世界の流れや異国間での仕事の中での大切な事、そしてカンボジアという国をより深く感じることができています。
僕は今、バッタンバンという町で元映写技師で現在郵便配達員、東南アジアでよく見られるトゥクトゥクという乗り物のドライバーの家族と一緒に活動しています。彼らは、カンボジア国内では決して裕福な層ではないだけでなく、例えば郵便配達員、トゥクトゥクのドライバーといった社会的に地位の低い仕事に従事しています。このことは、彼らもよく理解していて、富裕層とそうでない人では生活の水準だけでなく観察したところ、生活様式も大きく異なる気がしています。
そんな僕らのスタッフですが、子どもたちに映画を届けるこの活動を一緒にやるようになって、早4ヶ月で目に見えて顔つきが変わってきました。この変化の理由は、仕事以上に子どもたちのために自分たちが貢献できている。社会との関わり方が自明になり、自分がその一端を担うことができているという自負からきていると思っています。
実際に、始めた当初から比べて打ち合わせの中で彼らが発する意見の中に映画を見る子どもたちの視点が加わるようになり、活動に必要なことを自分なりに考えて、実際に挑戦する動きが生まれてきています。有意義な打ち合わせ、質の高い活動を行うために必要なことは信頼関係とどれだけこちらが根気強く活動の意義、想いを伝えられるかだと思います。諦めずに伝えれば、時間はかかるけど僕のスタッフと同じように彼らも理解し、期待に応えてくれる時が訪れるはずです。
僕は、カンボジアに来る前に大きな間違いをしていたことに、この変化が気づかせてくれました。新興国のカンボジア人だから、このレベルまでしかできないんじゃないか。まだまだ、信頼関係を作っても裏切られることが多いだろう。これは、大きな間違いで確かに先進国の僕らより多くのものには触れてはいないかもしれない。僕らよりも勉強をした時間、経験をした数は少ないかもしれない。
しかし、カンボジア人は彼らなりに人生の中で多くを経験し、そこから学んでいて、ゼロから何かを生み出す時、先進国のアイディアと新興国の人々の持つその場の課題を解決する力を組み合わせると、自分では想像もできない化学反応が起きることがある。そして、何かを一緒にやるとき、異国間も新興国とかそういうレッテルは関係なくて、多少文化の違いもあるけれど、同じ人間であることを念頭に置いて自分の持つ偏見を取っ払うことで自らの幅を広げることができる。この幅が活動が支援する側の一方的なものではなく、される側を巻き込み最適化する重要な要素だと考えています。
僕らのような、社会貢献活動を異国の地でやるときにその地の人とともに活動の最大化をすることが、社会との接点が希薄な人と社会をつなげるきっかけ、活動の可能性を広げる可能性を秘めていると思います。
僕らの活動は、会社と違い事業の成功・失敗が正直わかりにくい活動です。そして、非営利組織の活動は多くの支援をしてくださる人や他の法人によって成り立っている活動です。応援してくださる方々の思いに応えるにはどうしたらいいか、そして成果がわかりにくい中でどのように団体内部のメンバーのモチベーションを高められるか。この問いへの、僕の答えは数字と結果にこだわり、さらにその過程のストーリーも大切にするということでした。
幸い映画を子どもたちに届けるこの活動には、何人の子どもたちに映画を届けられたか、何箇所でできたのか。といった目標値を立てやすい指標があり、この目標値が活動が成功しているのか否かの一つの指標となっています。この目標値は、僕が現地で悩み動けなくなったときに、いかにしてこの目標を達成するかをシンプルに考えられる環境を作ってくれて、僕が道を見失なわないように、数字がある意味で道標のようになってくれています。
正直、23歳で未熟者な自分にとって、活動への期待を背負って単身で、現地に乗り込み、現地スタッフを見つけ育成し完成させるまでを担うのは大きなプレッシャーでした。自分の今の行動が常に、映画を届けるということにつながっているのかを問い続け、何度もプレッシャーに潰されそうになりは、この数字という道標を再確認し、一度落ち着いてから計画を練り直したり、時には現地で活躍する日本人の先輩に相談したりしています。
数字と結果にこだわることで、支援してくれている方や団体のメンバーに対して、それぞれの想いや活動がしっかり現地で還元されていることを伝えられると同時に、自分自身の活動の道標に数字と結果がなってくれています。
昨年、100人にしか映画を届けられなかった僕らですが、今年度、5000人以上の子どもたちに映画を届けることが可能になりました。
そして、この成果は短期的なものではなく現地人スタッフの成長とともに量および質が向上してく数値だと思っています。
非営利活動というとどうしても、数字や結果のようなビジネス的な視点を見落としがちですが、僕は、非営利活動だからこそ数字と結果にこだわることで、活動の意義を高められると考えています。
<1年間のギャップイヤーでの目標>
自分のギャップイヤーも半年が経とうとしています。今、休学を決めたこの決断を後悔していません。大学生のうちに、自分の足を運んで、五感で感じて実際に自分で挑戦や失敗、成功を経験できたことに大きな意義を感じているからです。
僕が休学前に立てた目標は、現在の活動拠点である、バッタンバン。世界遺産アンコールワットのある、シェムリアップ。そして首都、プノンペン。この三箇所で、カンボジア人のスタッフが毎月定期的に映画を子どもたちに届けられるようにすることです。
現地スタッフの育成や活動の中心を現地に置くことの難しさは歴史が示していて、かなり背伸びをした目標でした。しかし、この目標の実現可能性を高めたのはAI(After Internet)という時代でした。
カンボジアも他の新興国とな同じように、都市部に住む人々は格安スマホを持つようになりFacebookが連絡、情報収取のキーデバイスとして働いています。格安スマホとFacebookは、現地スタッフとのコミュニケーションコストを格段に抑えるだけではなく、活動の報告もFacebookでできるため、現地スタッフの管理を数十年前より格段に容易にしています。
結果として、上映の際に自分がいなくてもカンボジア人だけでの上映、報告が可能になり、実際に今では新規拠点の開拓のために上映に参加できないときでも、スタッフの管理を行うことを可能にしています。しかしながら、信頼関係をより強固にするためには、対面で同じ釜のご飯を食べることが大切です。そのバランスを大切にしながら、1年間の目標である3拠点での安定稼働をなんとか達成したいものです。
(写真:リエンポン小学校での野外上映。この日は100人を超える老若男女の村人が集まった)
プロジェクトページ
カンボジアに映画を届けよう〜無鉄砲な大学生の挑戦〜
http://www.catic-fryingpan.com/
プロフィール:
「カンボジアに映画館をつくろう!プロジェクト」
特定非営利活動法人CATiC(Create A Theater in Cambodia)
副代表 山下 龍彦
Twitter:@5296tatsu / https://twitter.com/5296tatsu
FB :山下龍彦 / https://www.facebook.com/tatsuhiko.yamashita.9
廣瀬 百合子
米国・ローレンス大学3年
「きみには考えがあるのか。時間の無駄だからここに座っている必要はない。」
大学1年の1学期目の授業中。他の学生が居る前で、教授からこの言葉を浴びせられて、私の頭は真っ白になった。「アメリカの大学生活はどんなものなんだろう!」と期待に胸を膨らませて渡米した直後、まさかこんなことを言われるとは思ってもいなかった。
小学生の時、どんなに努力してもなかなか目に見える結果が出せなかったあの頃、担任の先生からはいつも、「そのままこつこつ努力すれば、いつか必ず成果が出ますよ。」と面接の度に言われた。「いつか必ずって、いつなの?そのいつかって今来たっていいでしょ。」と、当時は思っていた。
友人の多くは塾や家庭教師を利用していて、「塾に行けばいいじゃない。」「家庭教師だと家に来てくれるから時間節約でいいよ。」と言っていた。しかし、私にとって、それは逃げ道だった。「分からなければ、とりあえず塾に行けば何とかなる。」「学校の授業が分からなかったら塾に頼れば良い。」その考え方が嫌だった。
一生懸命働いてくれている親のお陰で学校に通えているのに、そこを「所属しているだけ」と割り切って、塾や家庭教師に頼る...「勉強ってそんなもんじゃないでしょ?」と、いつも思っていた。「成績を伸ばす為には塾が必要だ。」そんな法則みたいな考え方がとても嫌で、「塾に行かなくたって出来る。」ということを証明したくて、高校卒業までずっとその思いで勉強してきた。そして、15 年間、どんな日も1日も欠席せずに毎日登校した。毎日の約10kg の通学カバンのせいで、肩が疲労性骨膜炎になった時も、貧血気味だった時も休まず登校し、学内でも学外でも、今しか出来ない色々なことに精一杯挑戦した。
「ひたすら努力をすること」
それだけが私の取り柄だ。
「自分なりに何かしらの形で授業に貢献したい。」
その一心だった。
だから、あの時、あの場所で教授から言われた言葉から受けたショックはとても大きかった。授業後、質問事項を事前に書き込んだテキストを眺めながら思った。どうして人より何倍やっても、自分の思ったところに届かないのだろう...言われていること、求められていることは簡単な様でも、いざやろうとするとなかなか難しかった。生物学のクラスに至っては、教授に質問に行くと、「君は深く考えすぎだ。」
「その研究成果は未だに上げられていない。」と、聞けば聞くほど訳が分からなくなる時もあった。
勉強って何なんだろう。
何で自分は今、生物学を勉強しているんだろう。
どうして、自分はあえてここで勉強することを小さい時から夢みてきたんだろう...
そんな思いが積もり積もった時、日本にいる母からこんな質問をされた。
「例えば、日本の大学に遠い異国から学部留学生として勉強をしに来た外国人学生が隣にいたら、どう思う?」
私は単純に、「よくそんな勇気あるなって思う。日本語で専門分野を学ぶなんて、とても大変だと思う。」と答えた。
母は言った。「それって今のあなたの立場と同じだと思わない?」
...そうか。
急に自分の気持ちが軽くなった。その時初めて、自分を客観視した。
もっと気持ちに余裕を持ってもいいのかもしれない。自分を追い詰めなくてもいいのかもしれない、いや、追い詰めない方が良いのかもしれない。
母の言葉を聞いて、「自分」についてもう一度よく考えてみた。そうすると、「自分の悩みは何て贅沢な悩みなんだろう。」と思えてきた。勉強したくても出来ない人もいて、アメリカに行きたくても行けない人もいて...そんな中でこんな最高の環境に自分が居られることが、どれほど恵まれているんだろう、と。
たった私1人が生きて行くための「プロセス」に、どれだけ多くの人がサポートしてくれているんだろう。19 歳の私が望んでいることのために、どれだけの人が協力してくれてるんだろう。
私は最高に恵まれているんだ、と身を以て感じた瞬間だった。
同じ様にアメリカの大学で勉強している、日本人の学部留学生の先輩や同級生のブログや記事を読んで、「やってやるぞ!」と思えてきた。当時、学内で自分が唯一の日本人学部留学生だったので、同じ経験をしている他大学の学部留学生のブログの存在は、私にとってとても大きなものだった。どんなに要領が悪くて時間がかかっても、人からどんなことを言われようと、「ここに来て本当に良かった。」と思える様に必死になろう、と思った。
ローレンス大学に来て3年が経った。「もう3年」なのか「まだ3年」なのか自分でも分からないが、この3年間に経験したことは、どれも考えてもいなかったこと、想像してもいなかったことだらけだ。ただ、初心だけは今も変わらない。
自分がやれる、できるかもしれないと思ったことは、自分以外の誰もが無理だと思っているとしても、自分を信じてやってみたい。
「自分」が存在する人生...そんな人生を過ごしたい。
卒業するまであと1年半、あの時にあの場で味わった悔しさ、母からの言葉を胸に、自分に出来る精一杯のことを、これからもやっていきたいと思う。
プロフィール:
廣瀬 百合子
福岡市出身。1994 年生まれ。
幼小中高一貫の私立女子校、福岡雙葉学園卒業。高校1年の夏から高校2年の
夏までの1年間、ロータリー交換留学生として、スウェーデンの国連スウェー
デン協会認可校の高校に交換留学。帰国後、高校2年に進級し、2013 年3月、
高校を卒業。同年9月、米国・ウィスコンシン州にあるリベラルアーツ・カレ
ッジ、ローレンス大学(Lawrence University)に入学。現在3年生で、生物
学専攻。
福岡県アンビシャス外国留学奨学生。
ブログ "Japanese Lawrentians" : http://lawrencejapan.tumblr.com
Twitter"Japanese Lawrentians": https://twitter.com/lawrencejapan
Facebook "Japanese Lawrentians" : https://www.facebook.com/Japanese-
Lawrentians-492235757609961/?ref=hl
(他記事)
【JGAP設立4周年スペシャル紙面企画】 エッセイ欄『フロンティア・フォーラム』 「いいね!」数ベスト5稿紹介!
→http://japangap.jp/info/2015/01/jgap1000.html
林裕太
米国・ローレンス大学1年
リベラルアーツ・カレッジとの出会い
高校2年生の秋、ある出会いが僕の視野を大きく広げることになる。
イギリスの大学に通っていた父親の知人。彼が日本の大学に行くという僕の前提を大きく覆した。「日本の大学に固執することなんて、ないんじゃない?」それは正に、"目からウロコ"の心境だった。そして"日本の大学以外"という選択肢を模索し始めた。そこで出会った"リベラルアーツ"という選択肢。最初耳に入った"リベラルアーツ"という単語は、今までの人生の中で一度も聞いたことがない、繰り返し心の中で唱えてみる。その事実が全てを物語っている。日本人にはまったく馴染みがないのだ。
しかし、「少人数制の授業、包括的な教養」という側面を学習することに重きを置く、そしてなにより小さい学校ゆえのこのアットホーム感こ、の全てが僕にとってのリベラルアーツの魅力だった。これが僕の希望と夢を一気に膨らませた。
しかし、現実はそう簡単には動かない。
決断までの葛藤
あまりこの進学を後押ししてくれる人がいない。所属高校の先生に相談したところ、「受験勉強をして、東大を受けてから考えたら?」。この言葉がひどく心に突き刺さった。しょうがない。この高校からリベラルアーツに行った生徒の前例・実績がまずない、これは先生の親切心なのだ。自分の中で無理やり論理をねじ込み納得させようと努めた。
でもよく考えてみよう。人に反対されたくらいで諦められるものか?そんなことで諦めたくなかった僕は、両親を説得してまず日米併願を決意。出願までのプロセスは容易に片付けられたが、日本の大学との併願は可能だろうとたかをくくっていたが、想像を超える勉強量に、自分のキャパシティが追いつかず、高3の4月からリベラルアーツの出願に専念することにした。
リベラルアーツの授業は"高校の延長"?
入学すると、皆が言っていた通りの少人数制の授業、家族のようなコミュニティ。キャンパスを歩けば何人に会釈をするのだろう。そんな知り合いばかりと受ける授業は、まるで"高校の延長"のようだ。この例えが一番適切。
しかし授業は大変だ。毎回リーディングが課され、事前の準備をして授業に臨む。授業が終わったら、復習に取り組む。都会とは程遠い立地ゆえ、総合大学に比べ外界からの刺激が少なく、毎週こんな同じルーティーンを繰り返している。でもこんなことから得られるものもあると気づいた。言葉で表すのは難しい。でも先々週と比べて少し、成長した?と感じることは少なくない。それに多様な分野の授業をフレキシブルに受けられるというリベラルアーツならではの特権は、僕の好奇心を刺激し、無数の可能性を与えてくれている。
リベラルアーツ・カレッジを選択して
日本人が知らないから就職は厳しくなってしまうのでは?耳にタコができるほど聞いたこの問いかけ。確かに総合大学に通う友人をみて、少し彼らに引けを感じているのは否めない。
でもここで"グッ"とこらえて、今の"自分"を信じてみようではないか。このリベラルアーツの理念は僕に無限大の可能性を与えてくれている。この環境で成長できると思える自分に自信を持たないと。結局は自分探しの旅など存在しないのだから。
そして覚えておいて欲しい。地球の反対側の小さな学校で、自分の可能性を探っている日本人学生が少なからずいることを。そしてこの経験をしている僕たちが主体になって、その経験を次世代に伝えていかなければ。そんな義務感と心が躍るようなワクワク感を感じる。他の皆さんもそうではないだろうか。
その遠い日本とアメリカの距離をどうにかして繋げないか、そんな思いから開設したブログやこの寄稿。
慎重に踏まなければならない道は、世の中にたくさんある。しかし、勇気を振り絞り足を一歩前に踏み出し、与えられた環境の中で選択を正解にしていくことも大切なのではないだろうか。僕はリベラルアーツを選択した先輩として、そのような意志を持ったこれからの高校生の意気を本当に尊重したい。
プロフィール:
林裕太
1996年生まれ
公立小学校を経て、東京港区の芝中学・高等学校に在籍。高校2年生の秋にアメリアの大学の選択肢に気づき、日米併願を始める。そして、高3の4月にアメリカの大学の出願に絞る。同校を卒業後、アメリカのウィスコンシン州にあるリベラルアーツ・カレッジのローレンス大学に入学。
リンク先:
Japanese Lawrentians: https://www.facebook.com/Japanese-Lawrentians-492235757609961/?ref=aymt_homepage_panel
個人ブログ:http://www.agos.co.jp/news/report/hayashi/
個人FB:https://www.facebook.com/yutaponta.go.piano
【JGAP年末イベント告知】
12/17(木)18:30~ JGAP寄稿者トーク・イベント@銀座 「4年目社員、アフリカへ〜2年間のギャップイヤーでの収穫とコンゴ・メロンパン・フェスティバル報告」参加者募集(20名、資料費・飲料込:500円)-日本ギャップイヤー推進機構協会(JGAP) http://japangap.jp/info/2015/12/12171830jgap-4220500.html