JGAP寄稿者短信:「それでも地球は回っている」(八木 駿祐、関西学院大学総合政策学部)
帰国しました。まず、バイト先や撮影のことなど諸々連絡せねばですが。。。本当にご迷惑おかけしました。。。無事に帰って来れて良かったです。
以下はとりあえず今回の総括です。留学時代のことや、どうでも良いかもしれないことも沢山書いたので長くなりましたが、時間ある時にでも見てもらえれば嬉しいです。そして、今日本も関わるか迷っている、アメリカが国連を無視して進めるシリアへの軍事介入のことを少し考えていかないとですね。
・・・・・・・・・・・・・
当初は、留学時代のリビアの友人の故郷ベンガジを訪れ、彼の家族に会いに行くのが目的でしたが、パスポートの関係で入られませんでした。元から駄目元だったので、次回は綺麗なパスポートで向かいたいと思います。
カイロでにっちもさっちも行かなくなり、急遽そのリビアの友人もトルコに来てくれると言うので、イスタンブールへ移動。トルコ南部の方にシリア人の難民キャンプがあり、そこに、これまた留学時代のハウスメイトだったシリア人の友の家族が難民として避難していました。ついにお母さんにお会いすると、友に聞いていた通り、美しく聡明で多くは語らない、慎ましさを湛えた女性でした。
シリアの友は昨年末に彼の故郷、アレッポで亡くなりました。その他、親戚や友人もかなりの数が亡くなったそうですが、お母さん、お姉さん、まだ幼稚園くらいの弟さんがいました。お父さんはまだシリアに残っているとのことで、おそらく政府軍に拷問にかけられているか、殺されただろうと教えてくれました。シリア政府軍は反政府軍に関与していると疑われる市民を拷問にかけ、情報を引き出そうとしているというのは、どうやら本当のようです。中には10歳に満たない子どもも拷問にあっているそうです。
では、お父さんは反政府軍だったのかと聞くと、顔を真っ赤にしてNOと言われました。家族の身を誰よりも案じ、平和を誰よりも望み、アッラーに毎日5回敬虔に、祈りを捧げているお父さんだったそうです。ただ無実な人たちが、こうして失われていく。
市民の誰も、こんな凄惨な殺戮戦争を望んでいなかった。ただ、政府に私たち市民の苦しい生活を知って欲しかった。それが、なぜ弾圧に始まり、どこからか武器は供与され、血を血で洗うようなことになったのか。堰を切ったように、涙と言葉が溢れていました。
イングランド留学時代、一枚だけ友と二人で撮った写真がありました。2006年の時点で8000円の、動画も撮れない、乾電池式のコンパクトとも言えないコンデジで撮ったものです。彼もぼくも英語が話せず、How old are you?と聞くと、I'm from Syria.と言うくらいには駄目な二人でしたが、一緒にいることは多くて、辞書や身振り手振りでやり取りを必死にしてました。心折れそうな留学初期の頃、彼がいてくれたから頑張れたこともあります。二人して学校の宿題を部屋で机向かい合わせて、20時から24時まで分からんなりにやってました。
シリアがどんな国か聞くと、数枚の写真を見せてくれました。タイムスリップをしたかのような、白を基調とした建築物、その青く晴れ渡った空とのコントラスト。砂埃なのか少しピンクや薄茶色にくすんだ家々が整然と建ち並び、奥にそびえるモスク。当時、初海外だったイングランドも、煉瓦作りなだけで特に日本と差異は無く、初めて見たイスラム世界。その美しさに見とれていました。いつか二人とも英語が得意になって、シリアと日本で再会しようって、その時にはお互いの家族に二人で撮った写真を渡してあげようって、約束しました。
結局、その約束は果たせなかった。彼の死は余りに早すぎた。ただ、一枚、その写真をぼくはお母さんに渡すことができただけだ。アフリカに惹かれつつ、シリアの治安を様子見していたら、ついに機会を逸してしまった。2010年、行くか迷っていた時、行けば良かったと悔やんでも悔やみきれない。
彼は爆撃に巻き込まれて、家屋の下敷きになったそうです。家族が最後に見た彼は、顔を判別し難いほど無惨な姿で亡くなっていたそうです。爆撃も続く最中、ここに辿り着いた時には、もう彼の形見になりそうな服、写真、好きだったボードゲーム、そのどれもが失われてしまっていて、お母さんの記憶には最後のぐちゃぐちゃな顔しか思い出せなかったそうです。
この一枚の写真が、彼が生きた証を遺した唯一の物になってしまった。だけど、お母さんはその写真を本当に感謝してくれた。何度も何度も、シュクランシュクラン(シュクラン=アラビア語でありがとう)と。彼の顔は、凛とした佇まいを持ち、目は綺麗で透き通った茶色をしていて、鼻筋も通った、美しい顔立ちでした。この写真一枚で救われ、二度と忘れはしまいと、何度も家族と見せあっていました。
何もできない。そんな無力感はこれまで何度感じたか分からないけれども、写真を始める前だった、こんな高校生の何気無い写真が、初めて写真家として誇れる、そんな一枚になった。何も伝える必要もない、ただ、遺した一枚。
帰り際に名前を聞かれると「こいつはまた戻ってくる。時間がかかっても何度でも会いにきてくれるから、Ahmadにしよう。そうすれば、忘れることも無いだろうから。」と、リビアの友。Ahmad、これは亡くなった友の名前。お母さんも感激して、別れ際に温もりある抱擁をしてくれました。男で、ましてやムスリムでもないぼくに抱擁なんてして良いのかと聞くと、「あなたは、私の息子だから、構わないのよ。」と言ってくれました。ただ、息子ならちゃんとクルアーンは覚えて、この変なチュニジア訛りのアラビア語をシリア訛りに変えなさいと言われましたが。。。精進せねばですね。
Ahmad、とても良い名前を頂きました。奇遇にも、亡くなったリビアの友人の親父さんもAhmad。帰り道に車を飛ばしてくれた彼も喜んでくれました。
オリンピックで日本は揺れ、世界はシリアへの対応を迫られ、ここ難民キャンプではただひたすらに人々は祈り、平和を願っていた。
忙しない日々の中で、ふと空を見上げ、この空の先にはシリアやアフリカ、色んな世界があって、みんな繋がっている。そんな世界に想いを馳せ、忘れることなく、生きていることに感謝して生きていこう。
それがきっと、ぼくのThe First Step to the Worldだから。
【English Translation:What I Consider On The Way Of "Meeting Social Change Makers" Shunsuke YAGI】
No12:「"社会を変える"に出逢う旅」の半年記 八木 駿祐さん(※当時関西学院大学総合政策学部四回生=休学中)-
エッセイ集 フロンティア・フォーラム :
http://japangap.jp/essay/2011/11/post-2.html

