代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集


「ファインディング・ニモの世界~ギャップイヤーの私的考察」写真.jpgのサムネール画像

三澤 拳人
(日本でファームステイタウンを実現する男、グローバル人材育成NPO法人エレフィ所属))


人生の中で、もっとも縛りがなく自由な時間ってどれだけあるでしょう?
学校に行けば基本は授業、会社やバイト先に行けば仕事。
赤ん坊の頃は右も左も分からず、されるがまま。
家族を持てば、子育てで頭がいっぱい。
定年過ぎれば、自由だけども身体や気持ちがついていかない。

私たちには、いつも自由な時間がありません。

大きな話になりますが、
人類は効率化を極め、100時間かかる仕事が1分でできるコンピューターを開発しました。
では残りの99時間は自由時間になりましたか?
いいえ、もっと効率よくなるように働いて働いて時間がなくなります。
なぜでしょう?
そんな不思議な時間のカラクリ世界の中で、
ギャップイヤーは、人間が人間らしくいられる数少ない時間。
私はギャップイヤーをそう捉えています。

「さて、今日は何をしよう?」

21歳、オーストラリアに渡った私の毎朝はこの言葉からスタートします。
私に与えられたルールはただ1つ。

「あなたはこの1年間、何をしてもいいですよ、自由です。」

忙しい大学生活を過ごしていた自分にとっては天国のような時間でした。
だけど天国も甘くはありませんでした。
毎日が自分との闘いでした。


この1年間は、想像を絶するほど沢山のドラマがありましたが最も強く感じたことは、

「自分ってこういう人なんだ。」

ということです。
自分のことをわかったようで実は何も知らなかったことを思い知らされました。
言語も概念も全く違う環境に渡って、何をしてもいい。
、、、正直、何をしていいか全くわかりません。
広大な環境で大冒険をして想像もつかず、生死の狭間も感じるような波乱万丈の日々。
まるでファインディング・ニモの世界にいるようでした。

やりたいことを叶えに渡航した人たちも中にはいたし、
行く前にそれを渡航した先輩たちにオススメされました。
ただ、自分にとってはただただ自由な時間が欲しかったのです。
英語が聞き取れないし話せないし伝わらない自分の無力さ。
日本にいたら、想像のつく場所にいって想像通りのことができるかもしれないけど、
そこには想像していた場所とは違う景色があって想像通りのことすらできません。
辛くなって日本人グループに入って安心しにいったり、
やりたいことを叶えて留学がうまくいってる人と比べて落ち込む日々でした。

時間が経つにつれ、あることをだんだん思うようになりました。

「この1年間は、無駄になるんじゃないか。」

その悔しさがまた自分を何かやらなきゃと焦らせて負のスパイラルに落とし込めました。
だけど自分の弱い部分も強い部分もはっきり分かるようになって、
何をやりたいかというより、どんな人になりたいかへシフトしました。
そして自分だけではなく、なりたい自分を想像するためにヒントとして周りを見ました。
どんな人たちがいてどんな風に考えて生きているのか。
仕事仲間や友達などの身近な人から、世界で活躍する人たちや、歴史上の人物など。
全てが自分にとってのヒントになりました。

日本に帰ってきて
就職活動のための自己分析に頭を悩ませる学生たちの多さに納得しました。

・あなたの長所はなんですか?
・あなたの短所はなんですか?
・あなたは学生時代に何をしましたか?

そりゃ分からないよね、、、。
というか酷だよね、、、。
みんなと同じ道を進んで、同じ環境にいなさいって教育をしながら、
他の人との違いを教えてください。

私はそのとき、みんなギャップイヤーを取ったらいんじゃないか?と思いました。

就職活動で答えるためにというわけではないですが、
長所も短所もわからず自分らしくやりたいことも分からない中で、
マッチしてるかどうかも分からない環境で人間関係で揉めてストレスだけが溜まっていく。
それなら一旦縛りから開放されて自由な時間を取って自分を見つめたらいい。
ギャップイヤーは究極の自己分析期間だと思います。

英語には「Think out of the box」という言葉がありますが、
個人的には「Go out of the box」の方がしっくりきます。
別にギャップイヤーで海外に出なくたっていい、
ただ自分らしく自由にいられる人生の貴重な時間が
当たり前のようにとれるギャップイヤーが日本にもできたら、
日本自体が日本を見つめ直して新しい日本になっていくんじゃないかなと思っています。


インスタグラム:@misawa_kent

「ギャップイヤーや海外で暮らすことは特別なことではない」ONISHI.jpg


大西駿貴
(学習院大学文学部心理学科4年休学中、NPO法人CATiCカンボジア駐在)

自己紹介と活動経緯
 私は今、大学を休学して、カンボジアの子どもたちに映画を届けるという活動をしています。
 この活動を始めるまでは、国際協力やボランティアには全く興味がありませんでした。では、なぜこのような活動をしているのかと問われると、正直はっきりと答えることは出来ないような気がします。しかし、この活動に関わり始めたきっかけは、2年半前にこの団体の代表に出会ったということです。

 とはいっても、この人がめちゃくちゃエネルギーがあったり、人に喝を入れるような、人を突き動かす力があるような人であったわけではなく、そのときは、ただただ普通の日常会話をしただけなのですが、なんとなくその人にカリスマ性のようなものを感じ、その空間になんだか不思議な感覚のようなものを感じて、その感覚に従うべきなのではないかとそのときに感じました。という経緯から、途上国の子どもたちに映画を届けるWorld Theater Project(ワールドシアタープロジェクト)を推進するNPO法人CATiCの活動に参加することになりました。

 ただ、こんな風に、なんとなくの感覚で参加することになったいきさつと、当時この団体の活動があまり活発でなかったこともあって、果たして日本で何をしているのか、映画を届けているというのは、いつどのようなプロセスで行われているのかなど、把握できていませんでした。なので、とりあえず、主要なイベントとかミーティングに出席したり、その団体のメンバーの方々に会ったりしていました。そこでは、「なんでこの活動をやっているの?」とよく聞かれました。「んー」と思いながらも映画が好きで、とか言っていたかと思います。

 関わり始めて1か月か2か月くらい経ったころ、私と同学年の大学生が大学を休学してカンボジアに駐在し、この活動を本格的にカンボジアで広げることになりました。彼は、自分の熱い想いをはっきりと持っていて、その結果、カンボジアに行くという決断をしました。そうして自分の想いとか考えとかをもって行動に移しているのはすごいなと思っていました。それと同時に日本では、そのカンボジアでの活動資金を集めるための映画関連のイベントを定期的に開催する動きが出てきました。私は、その企画や運営をしていました。その間は、カンボジアからの成果が定期的に報告され、すごいなと思っていました。そうしてしばらく経って、駐在員の後任を探していたが、見つからないということになって、代表から「大西、カンボジアに行ってみない?」という打診が来ました。そして、私は大学を休学してカンボジアに行くことにしました。


心が動いたこと
 私は、心が動くことはあまりなく、はっきりとは言えないのですが、おそらく大抵のことは「そういうもんなんだな」と自分の中で納得してしまうのではないかと思っています。そのため、今回カンボジアに到着してもそんなに驚くことはなかったように思います。カンボジアに到着して、現地スタッフたちと挨拶して、この人たちとこれから一緒に仕事をするんだな、どうやって関係を作っていこうかなと思って、英語で会話が出来なくて、勉強しないとやばいなと思って......と、こうやって書き連ねてみると、心が動くことがないというより、小さく動くことはあるけど、大きく動くことはないのかもしれないです。

 なので、心が動いたという実感がなく、日頃「大変だったことはなんですか?」とか「感動したことはなんですか?」と聞かれても、そんなに大したことだと思っていなかったりするんだと思います。でも、強いて言えば、一番心を動かすことになったのは、この団体のことについて、じっくり考えたことだと思います。はたしてこの活動は本当に正しいことなのか、意味があることなのか、あるいは、目的を果たすために他にいい方法があるのではないかなどです。特に映画である必要はあるのか、そもそもそれを現地の人は受け入れているのか、映画を見せて本当に効果があるのか、などをよく考えました。

 その結果、今まで"ふわふわ"していた自分のことを改めて知ることができたような気がします。自分はどんな考えをもっているのか、すべての考え方の中に共通する考え方は何なのかや、何を思ってこれまで生きているのか、何に価値があると思って暮らしてきたかなどを、前よりも明確にすることが出来たのかなと思います。

 そもそも、私が大学で心理学を専攻したのは、単におもしろそうという理由もあったのですが、自分の心を知りたい思いがありました。だから大学に入った目的というものに関しては、学問とは違う形のカンボジア駐在で、ある程度達成してしまったことになります。とはいっても、今まで一生懸命ではないものの、多少勉強をしてきたものが土台としてあり、このような経験を経たことで、達成されたのかもしれないとも思います。こうやって書いてみると、よく言う"自分探しの旅"に関して、「そんなの見つかるわけねーよ」とかこれまで思っていたわけですが、考える時間は大量にあり、色んな環境に身をおける、"自分探しの旅"は、たしかに自分を見つけることができそうな気もします。
これからどうしていきたいのか

 現実的な話をすれば、この活動をするまでは、映画が好きだったことから、映画に関連した職に就こうとか思っていました。ところが、今はそうでなくてもいいかなと思うようになりました。おそらくこれまで、「好き=楽しい」という価値観だったからだと思います。今はそうではなくなりました。楽しく生きたい、やりたいことは全部やりたいというのは昔から変わっていないので、多分、「楽しい=何か」に変わったのだと思います。その何かはまだわからないです。
 これからどうしていきたいかというと、というよりどうするつもりなのかというと、この活動を続けていくつもりです。今のところ、この活動が楽しいと思っているようで、続けたいと自分は思っているようです。

 来年度カンボジアから帰国したら復学し、就活、卒論と色々ありますが、それもやるつもりです。あとは、1年遅れになるので、一つ下の学科の友達を作らないといけません。それとバイトもしないといけません。やらないといけないと思っていることはたくさんあります。

 卒業後にどのように生きていきたいかというのは、この経験があって出来上がったものではありませんが、少なくともそれを形成する一つになっています。「楽しく楽(らく)して」、でも退屈ではない人生を送りたいと思っています。退屈ではないというのが、私にとっては一番優先順位が高いものです。

 この文は、留学に迷っている人や興味がある方に向けて書いてみています。行動するのには理由が必要なように思いますが、そうではなくて、行動してやっとそれに至った理由があったとわかるのかなと思います。至った理由というより、その行動のすべての要因の総和が正だったとわかるのではないかなと思います。

なので、何か大それたと、大きいと、思われる行動をするようなときは、外から何かしらの理由を求められたり、熱を測られたりして、もしそれがはっきりしていなかったり、熱が足りないと思われることがあるかもしれないですが、そんな時は、自分は、赤い炎のようにメラメラとごうごうと熱そうに燃えてはいるようには見えないけれども、それは、自分が青い炎を持っているからなのだと、青い炎は赤い炎のように激しく燃えることはないけれども、熱さは赤い炎よりも熱いのだと、自分を納得させておけばいいのではないかと思います。


まとめ
 たしかに、この駐在によって色々な経験をさせてもらっていますが、特にそれが"自分を成す"大きなものになったわけではないとも思っています。小さい頃から、お母さんとお父さんに育てられ、小学校では友達と過ごして、中学では部活の先生とコーチに出会って、高校では部活の先輩たちにお世話になって、受験のために勉強し、大学では友達と遊んで彼女ができて別れて、毎日バイトして、店長と遊んで、この団体の代表と出会って、色んな人にお世話になって、カンボジアに行くことになって、異国の人と過ごすようになって、まあそんな感じで進んでいってしまうものなんじゃないかなと思っています。

 それで、こうやって過ごして来た中で、たぶん人に出会って何か感じただけでなくて、映画とか漫画とかアニメとかテレビとか音楽とか本とか、そういうものに触れてきたから、その時その時の行動をとってきたのかもしれないなと思います。

『メジャー』を見て吾郎かっこいいと思い、グローブをはめながら『メジャー』を見て、『ライヤーゲーム』を見て、「秋山さん、かっけー!」と思って心理学を専攻しようと思ったり、『福本伸行名言集』を読んで、「よし、こうやって生きよう!」と思ったり、『ティファニーで朝食を』を観て、作中では指輪だけれど、私の彼女にはティファニーのネックレスをあげようと思ったり、そんな感じで自分たちが届けている映画も、なんらかの影響を与えてくれたらと個人的には思っていて、かつそれが、効果的で効率的であると思っています。イメージとしては、映画とかアニメでいう、過去にタイムスリップしたときに、過去を少しでも変えてしまうと未来がものすごく変わってしまうみたいなものです。この活動でよく言われる批判は、「映画を上映して何が変わるの?」、「人ってそんな簡単に変わらないよね?」というものがありますが、結局のところ、そうではないような気がしています。

 何が言いたいかというと、仮に2時間の映画を上映することで、その中のわずか数人、もしくはひとりに影響を与えたとするならば、わずか2時間で十分な効果があったと言えるかもしれなくて、そして、もし、人はそんな簡単には変わらないとするならば、そもそもいくらどんな労力と時間をかけたとしても、ほとんど人は変わらないんじゃないかとも思います。つまり、そうであるならば、その労力と時間を多くの人々に接触するために使った方が効率的ではないかと思います。そう思って私はこの活動を続けていきます。代表は、本気で世界を変えようとしているので、それについていこうと思います。そう最初に決めてしまったので、そうするしかないと思っています。

 読み返してみると、ほんとに何が言いたいのか、何を言っているのかわけのわからない文章になっている気がしますが、ここまで読んでいただき幸いです。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


プロフィール:
大西駿貴
(学習院大学文学部心理学科4年休学中、NPO法人CATiCカンボジア駐在)
FB:https://www.facebook.com/toshiki.ohnishi.5
(参考)途上国の子どもたちに映画を届けるWorld Theater Project(ワールドシアタープロジェクト)を推進するNPO法人CATiC :https://worldtheater-pj.net/

(関連記事)
2016年2月1日付
No.232:「映画を通して未来のカンボジアを創る!~だから今、休学して1年のギャップイヤー」山下龍彦さん(大学生、NPO法人CATiC副代表)-エッセイ集 フロンティア・フォーラム: http://japangap.jp/essay/2016/02/npocatic.html

「なぜギャップイヤーで高校留学と自転車世界一周に?そこで感じた価値とは?」
タンザニア.jpg

鈴木孝浩
地域おこし協力隊


 ギャップイヤーとは価値のあるものなのだろうか?私の人生においては明確にイエスと答えることができる。人生をレール上を歩くことに例えるならば、ギャップイヤーによって今まで考えもしなかったレールに乗り換えることとなり、想像もし得なかった場所へ到達したからである。そこはわくわくで彩られている。私の周りのギャップイヤー経験者は似たような想いを持っている人が多い。

 私の人生では二度のギャップイヤーがあった。一度目は高校生のときのオーストラリア留学。二度目は社会人経験を経たあとの自転車世界一周である。

 16歳のときにオーストラリアの南に位置するメルボルンに1年間留学し、現地の高校に通った。1つの転機となった問いがあり、それは人生を変えた。

「タカは大学に行くの?何を学びたいの?」

 日本で進学校に通っていた私は、当然のように大学へ行くものだと思っていた。親も周りの友人も大学へ行くことが当たり前のような感じだったからだ。しかし改めて問われると、学業が好きとは言えない私が大学で何を学びたいのだろうか。学びたいことがないのであれば、働く選択肢を真剣に検討したほうが良いのではないか。

 最終的にはオーストラリアで選択したビジネスという授業が面白く、それを大学でも学びたいと経済や経営の学部を受験することにした。数学や物理が好きで得意だった私は理系の学部に進むものだと思っていたが、学びたい学問を見つけたので文転して経済学部を目指すことにした。そして大学生活では本を書いたり会社を立ち上げたりとビジネスに関わるような活動をしていくこととなる。私のオーストラリア留学というギャップイヤーにおいて間違いなく人生のレールを乗り換えたのだ。

 オーストラリア留学でもう1つの転機となった出来事がある。私のホームステイ先には私を含めて6人の留学生がいた。みな年上で、年齢は20歳から28歳の5人だった。スウェーデン人、タイ人、台湾人、香港人、韓国人。夜な夜な話をしている中で兵役の話となった。台湾と韓国では男子全員に兵役があり、タイではくじ引きで兵役があるという。たどたどしい英語での会話だったが、兵役の最中に友人が死ぬという生々しい話を聞き、「死」というものに触れた。

 幸か不幸かそれまでの人生で死を考えさせられる機会はなかった。人はいつ死ぬか分からないということを意識し始めた瞬間だった。それによって生き方がすぐに変わったわけではなかったが、数年の年月を経て、死の意識が身体の隅々まで巡り、行動に昇華されるようになった。いつ死んでも悔いのないように生きる。そのように生きられるようになったとき、人生は変わった。正確には段々と変わっていったのだが、そのきっかけはギャップイヤーのオーストラリアで留学であった。

 その意識の変化の結果が二回目のギャップイヤーに繋がる。大学を卒業し不動産会社で働いていた私は、充実した社会人生活を送っていた。定年後には自転車世界一周と田舎暮らしをしたいと考えていた。しかしふと思う。65歳から自転車世界一周は自分が持っているイメージと違うものではないかと。

 20歳に自転車で日本一周をしてからの夢が自転車世界一周であった。そのイメージは未知の中での挑戦的な旅であり、65歳の自分の姿はそこになかった。いろいろと思い悩み、相談し、結局は会社を辞めて飛び立つことにした。それはいつ死んでも悔いのないように生きるという、一度目のギャップイヤーでの学びが影響を与えている。

 世界一周旅で得たものは様々であるが、この場では旅をして知ったギャップイヤーの話をしたい。海外では多くのギャップイヤー経験者と出会う。日本人や欧米人などの場合には人生の中にギャップイヤーを取ることを自ら選ぶが、社会に組み込まれている国がイスラエルである。イスラエルでは兵役を終えたあとの約一年をギャップイヤーとして過ごし、そのあとに就職など自分の人生を歩みはじめる。視野や見聞を広めるための期間を社会として設けているのだ。それはギャップイヤーに価値があると国が認めていることに他ならない。

 昔と比べて平均寿命が延びた。長い人生のなかでギャップイヤーを持つことは有益である。それによって、よりよい人生を歩むことができるだろう。ギャップイヤーを持つ人が増えて生き方に多様性がうまれることで、よりギャップイヤーというものの価値が分かる人が増えてそれに対する寛容さが生まれるに違いない。1人でもギャップイヤーについての理解を持つ人が増えることを願う。

 最後に私の今をお伝えして終える。自転車世界一周を終えた私は定年後のもう1つの夢である田舎暮らしを35年前倒しで始めた。想像以上に刺激的な日々を送っている。自転車世界一周のときからブログ(http://takahirosuzuki.com/)を書いているので、良かったら見てほしい。それではまたブログでお会いしましょう。

プロフィール:
鈴木孝浩
1984年生まれ。
高校生のときにオーストラリアに1年間留学をする。
20歳のときに自転車日本一周をし、25歳から自転車世界一周に旅立つ。
28歳に旅を終え、愛知県新城市で田舎暮らしを始めた。
日々の生活のことを今もブログに書き綴っている。

参考URL
世界一周帰国後のチャリダーがよく聞かれること
http://takahirosuzuki.com/2014/0218105515

ブログ:http://takahirosuzuki.com/
ツイッター:https://twitter.com/viatortaka
フェイスブック:https://www.facebook.com/viatortaka

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