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「昨年12月2日:重湯200g」(愛甲 大、 株式会社イタドリ 代表取締役社長)愛甲1.jpg


ちょうど1年前のぼくの話をしたいと思います。

これまでほんの限られた人たちにしか言ってこなかったことなのですが、ぼくは今からちょうど1年前、日付で言うと昨年の10月30日から12月18日までのちょうど50日の間、入院をしていました。


原因は不明。厚生労働省の指定する特定疾患で、いわゆる「難病」として研究対象になっている病気です。

この投稿のきっかけは、先月読んだ辻村深月さんの小説『島はぼくらと』の中で

島の人は外からきた人間のことを表面的には応援しつつも心の中では「自分の目標だけ達成したらすぐに去ってしまう」と思っているのかもしれない。

といった類のことが書いてあって、ぼくももしかしたら一部の人にはそう思われているのかなぁ、という寂しい思いが湧いてきて。しっかりと自分の気持ちを発信していった方が良いんじゃないかと。

そんなぐあいです。
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10月10日に発症。39度を超える突然の高熱に始まった長い長い思い出です。

発病から1週間・2週間と、もしかしたら自然に治るかもという淡い期待を持ちつつなんとか生活をしていましたが、20日が経過しさすがに限界というところで病院に受診に行きました。即日入院でした。

入院から1ヶ月以上、絶食を行いました。栄養は腕から補給される点滴です。1日700キロカロリーほど。水分の摂取も禁止され、許されるのは口の中を潤すうがい程度。口に含んだ水はベッドのそばに置いてあるバケツに吐き出します。栄養不足のため途中から『中心静脈栄養法』といって、鎖骨のあたりから太いチューブを体の中に入れて糖度の高い点滴を摂取しました。これで1日1400キロカロリーほどです。
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この間、衰弱は予想以上に早く進みました。しっかりと自分の足で立てていたはずが、点滴装置にもたれかかりながらの歩行になり、車椅子の移動になり、ついには自分で車椅子も押せなくなって移動のたびに看護師のお世話になりました。

毎日夕方から明け方にかけては、発熱と言葉では表しようのないほどの全身の痛みが襲いました。特に辛かった期間には、モルヒネと同等か、それ以上の効き目とされる痛み止めを点滴に混ぜて服用しました。中毒を予防するために1日あたりの使用量は制限され、ゆっくりとゆっくりと投下されました。
この時の体の炎症を表す数値は基準値の500倍以上。末期ガンの患者が叩き出す数値でした。
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体重は15㎏落ち、その際には「もうギリギリのラインです」と言われました。命に関するほどではないですが、もしこの閾値より先に踏み込んでしまっていたら回復までの期間が2倍にも3倍にも伸びていたでしょう。

絶食以外の治療ではまず最初に「白血球除去療法」というものを行いました。血液を取り出し、その中から白血球をろかにより取り出した上でもう一度体に戻すという、人工透析に似たものです。透析室で行いました。期間は2週間。統計的な治癒率は60〜70%。
この時の白血球の数値は、白血病や敗血病が疑われる20000という数値を超える27000。

しかし、効き目はありませんでした。

症状はとてつもなく進行し、この時の診断は「重症の中で(も)悪い」。万能薬と言われるステロイドも現段階ではすでに遅しとの判断で、内科的にできる最後の治療として、非常に危険度の高い薬を服用しました。
臓器移植の際に拒絶反応が出るのを抑える薬です。こちらの改善率は50%〜70%。「もしこれで失敗したら、臓器の摘出をしましょう。」というのが医師の判断でした。

入院してから体力のある時間を見つけてはに病気の本を取り寄せて勉強しましたが、重症例として挙げられている患者の数値や画像は、明らかにぼくのそれより軽度でした。自分の目を疑いました。
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最後の薬は、これでもかというほどの副作用をもたらしてくれました。何も食べていないのに悪心がひどくなりました。腎臓や肝臓に影響を与え、外見上は分からないもののかなりの量の髪が抜けました。

そのおかげか、症状は劇的に改善していきました。主治医も驚くくらいにあっと言う間に。

そして、、、12月2日。ちょうど1年前の今日。食べ物が食べられるようになりました。全部飲み物だったけど、そして、涙が出るほどおいしかったけど、胃がびっくりして半分も食べられませんでした。

この食事のことは、一生忘れないと思います。

そこからは本当に順調に回復。12月18日に退院して1月の末には体重も入院前の水準まで戻り、薬の種類・量ともに減りました。

その後、一切症状が出ず今に至ります。

言うまでもないですが、伊豆大島は昨年の10月16日に台風の大雨による土石流で39名の方が亡くなったり、行方不明になってしまいました。この惨劇の時期と重なるように、ぼくももがき苦しみ、そしてなんとかカムバックしました。

ぼくは奇跡的に病気前の姿に戻ることができたけど、伊豆大島の多くの人はそうではありません。まだ当時の生活や精神状態を取り戻せていない人が大勢います。

なんとかしたいけど、自分の力ではどうにもならない。
そんな人たちがもう一度立ち直るためのサポートをしていきたい。

正直に言うと、今の伊豆大島の姿を1年前の自分と重ね合わせています。

だから、今がそうであるように、ぼくやイタドリのことを求めている方がいる限りは伊豆大島での仕事から逃げも隠れもしないし、これからさらに伊豆大島に起業家が集まって島の発展につながるためであれば、どんな不条理な圧力や脅しにも耐えてみせます。

とはいえ、これからぼくは意識的に大島以外の地域での仕事を増やしていこうと思っています。たくさんの場所を見ることで違う角度からの学びが得られるかもしれないし、新たなつながりだって生まれるかもしれない。将来的にそれらは必ず大島の役に立つハズです。そしてもっというと、イタドリにはたくさんのすばらしいメンバーがそろっているので安心です。

そして、この病気は発症者のうちの多くの方が元のようには社会復帰できません。ぼくのように好きなものが食べられて・お酒も飲めて・運動も自由にできて・疲れ果てるまで働けるという人は、ほんの、ほんの一握りです。

だからぼくは、同じ病気を持っていて、働きたくても働けない人の分まで頑張らなきゃいけません。

夢を追いかけ続けなければなりません。

人に求められ、人のために仕事ができるということは本当に嬉しいことです。
この喜びを噛みしめて、これからも日々邁進していきます!

2014年5月3日付 エッセイ集 フロンティア・フォーラム欄No.166:「僕たち四人が伊豆大島で起業しちゃったワケ」(愛甲 大さん、 株式会社イタドリ 代表取締役社長)
http://japangap.jp/essay/2014/05/post-75.html