私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第1回 日本が"ギャップイヤー"先だったBC駐日代表 ブリティッシュ・カウンシル駐日代表 ジェイスン・ジェイムズさん

ブリティッシュ・カウンシル駐日代表 ジェイスン・ジェイムズさん 1986年1月17歳の時に、ギャップイヤーを利用して来日、約9ヶ月間を東京で過ごした。ケンブリッジ大学に入学し、20歳の時に「日本研究」のため再来日し、1年間滞在。大学卒業後、金融マンとしてロンドンのシティに勤務後、イギリスの銀行の日本支店にストラテジストとして来日、約10年間駐在した。帰国後、再び金融マンとしてシティで活躍した後、ケンブリッジ大学院博士課程で「日本の税制」をテーマに研究中に、縁あってブリティッシュ・カウンシル駐日代表/英国大使館文化参事官に就任し、2007年秋再び来日した。
 いまや先進国がこぞって導入している"ギャップイヤー制度の母国"ご出身で、ご本人も自らギャップイヤーを利用して来日された経験をもつジェイムズさんに、お話を伺った。「私のGAP YEAR時代」インタビュー企画の初回として、もっともふさわしいゲストとなった。
(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)

Q:ジェイムズさんは、ケンブリッジ大学入学前の17歳の時にギャップイヤーで、9ヶ月間、日本に滞在されましたね。なぜ、日本だったのですか?
A:まず、大学は日本研究が専攻として決まっていました。当初、カナダのモントリオールへ行くことになっていたのですが、その後、日本から受け入れ表明が来たので、カナダのオファーをキャンセルし、日本を選びました。


Q:欧州から見れば、極東(ファーイースト)であるし、当時、親御さんは日本行きを心配されませんでしたか?極限とか地の果てみたいなイメージとか(笑)?
A:それ程心配はしていなかったと思います(笑)。両親は既に、日本は治安がよい国だと知っていたと思います。日本のことはあまり詳しくはなかったのですが、他のアジアの国には行ったことがあり、そういう意味で少し馴染みがあったのではと思います。
もうひとつは、実は私は8歳からボーディングスクール(寄宿制学校)に入っていたので、両親と離れて住むことには慣れていました。ということは、両親も慣れていた(笑)。
今は毎日携帯やEメールなどいろいろ通信手段はありますが、私が寄宿舎に入っていた時代は、週一回両親に手紙を書くくらいで、あまりコンタクトを取る機会はなかったんです。実家は学校まで車で7時間もかかるようなところなので、在学中は会う機会が本当に少なかったのです。もちろん長期休暇が取れる時はできるだけ実家に帰りましたが・・・。日本ほど遠くないですけれど、離れたところに住むのは両者とも慣れていたと思います。


Q:英国では、そういう寄宿舎を利用する生徒は今でも結構多いですか?
A: 英国では、子供の7%がIndependent schoolに通うと聞いています。そのうちのほとんどの学校に寄宿舎があると思います。


日本でのギャップイヤー体験は「大学学長助手」というインターンだった


Q:当時日本でどう過ごされていましたか?例えば、英語を教えるとか何か決まりごとはありましたか?
A: 私はある音楽大学の学長の助手をしていました。どちらかというと、インターンに近いですね。例えば、海外からの手紙が英文で来ると、英文で返事を書くとか。当時はタイプでしたから(笑)・・・。英語の先生として、学生一人一人とのレッスンもしていました。また、学長はご自身も学術研究をされていて、本を執筆した折、研究の一部に英語が必要でしたので、その翻訳のお手伝いもしました。それから、研究対象の人物の手紙が大英博物館に保存されていて、そのコピーを入手したのですが、手書きで読みにくかったので、私がそれをただタイプして読めるようにもしました。そんな具合に、雑用も含め、いろいろことを経験できました。


Q: 大変な経験になりますね。
A: 仕事も楽しかったですが、それより日本に住むことが非常に面白かったですね。


Q:ジェイムズさんがギャップイヤーで来日された時、滞在費用は必要でしたか?それは、日本側がもってくれていたのですか?
A: 基本の渡航費用は自腹で、多くはないですが、生活ができる程度のお給料のようなお金はいただいていました。そして普通のアパートを学校に借りてもらって一人で住んでいました。確か月3万円くらいのアパートでした。86年当時はそれくらいの家賃で住めたのです。ドアを開けると、上野動物園のキリンが見えるすごいロケーションでした。桜並木も素敵でした。もうだいぶ前の話ですが(笑)・・・。



Q:高校生の1割以上が経験するギャップイヤーの大学側の捉え方はどうなんでしょうか?

A: 基本的に個人がギャップイヤーを取りたいかどうかが重要であって、大学の方は入学が決まれば、かまわないという立場にあります。つまり、入学が決まった後、入学を1年遅らせて、その間にギャップイヤーを利用する場合、ほとんどの場合、大学が認めてくれます。逆に大学のほうが望ましいと思っているかもしれないですね。いろいろ体験をして、その学生はもっと自主的になり、独立した自己を形成し、大学に戻るという認識でしょうか。


当時のケンブリッジやオックスフォードでは、ギャップイヤー経験者がほとんど


Q:ケンブリッジ大学に入学されて、ギャップイヤーを経験した人としていない人では、学生の違いを感じられましたか?友達の中で。
A:誰がギャップイヤーをしていたかはわかりません。当時は、ケンブリッジの学生はみんなギャップイヤーを経験したのではないかと思います。これは、ギャップイヤーがイギリスで始まった背景とも関係すると思います。高校の最後の試験は6月、7月頃ですが、昔はケンブリッジとオックスフォードに入る場合、別の試験がありました。その試験が12月頃でしたので、2つの大学を目指している生徒は、秋まで1学期間を高校で過ごさなければならなかったわけです。そして、ケンブリッジとオックスフォードに入学する学生は、入学が決まって以降、つまり12月以降から大学の学年が始まる翌年10月初めくらいまで時間がありました。ですから、みんなギャップイヤーを取っていたのではないかと思います。
今は、ケンブリッジもオックスフォードも制度を変えて、入学が決まるのは他の大学と同じスケジュールになりました。そういう意味で、かつてのような必要性はなくなっていますが、ギャップイヤーを希望する生徒も多いですし、親も大学もどちらかというとメリットがあると思っているようです。


「日本行き」は個人で手続き


ブリティッシュ・カウンシル駐日代表 ジェイスン・ジェイムズさんQ:ジェイムズさんの日本行きのお世話をした団体名を覚えておられますか?
A:私は個人で手続きしました。


Q:個人で、日本とどうやってコンタクトをとられたのでしょう?
A:私は13歳の時に、聖歌隊のメンバーとして来日していました。その演奏旅行の主催者が、私がギャップイヤーで勤めていた音楽大学でした。そういう意味でご縁があったわけです。


Q:当時17歳(1986年)で日本に来られて、一番記憶にあることは?楽しかったり、悲しかったりいろいろあったと思うのですが、どんなことを覚えていますか?
A:その質問は非常に難しい(笑)。小さなことですが、いろいろなことを思い出します。例えば、冬から春にかけて、日本の気候が少しずつよくなりますが、成田に到着した時、日本は冬で、私も若く不安で心細かったんです。その後、私も徐々に生活も慣れてきて、温暖な春が近づくにつれ、楽しくなってきました。そのうちに、一人の同僚と毎日ご飯を食べるようになりました。今でも印象に残っているのは「カツオ丼」です。初ガツオ、おいしかったです(笑)。そして日本語ももちろん勉強しなければなりません。基本的に学校のスタッフと日本語で話すことになりましたので、少しずつ日本語で会話ができるようになりました。先に紹介しましたが、私が住んでいたアパートはちょうど上野動物園の目の前でした。ですから、初めて調べた漢字は、アパートの窓から見えた "水族館"という文字だったのです(笑)。


帰国後に報告書の提出はなし


Q:ギャップイヤーが終わって英国に帰国された時、大学や高校に「ギャップイヤー報告書」のようなものを提出されましたか? 例えば、定型の決まりの報告書や、何かの授業を受けたとみなすとか、履修単位にする評価する仕組みがあるとか・・・。

A:特にはありませんでした。何もする必要はありませんでした。


Q:1回目と2回目、そしてビジネスとして来日された3回目で、日本の印象は何か変わっていきましたか?
A:やっていたことはかなり違いました。どちらかというと、2回目が大変でした。日本語は2、3年勉強してきたので、その部分は前よりは楽でしたが・・・。
そして、3回目の来日では証券会社に勤務しました。研修生のような勤務体系で、会社の寮に住んでいました。通勤はだいぶつらかったです。通勤時間は埼玉県の蕨市から1時間20分くらいかかったと思います。それに日本のふつうの企業ですと、たとえば部長が帰るまでみんな帰らないという慣習がありますね(笑)。全部日本語でのコミュニケーションですので、日本語の書類をいっぱい読まなければならないし、翻訳も頼まれるなど最初の数カ月は常に疲れていたように思います。勤務先は日系の証券会社だったのですが、英語ができる人がいないところでやってみようと、そんな意気込みで選びました。


Q:現在の英国人は、ギャップイヤーをどう捉えていると思われますか?
A:ギャップイヤーを体験する生徒にとっては、楽しいことだと思います。しかも、自身の成長が実感できる。試験地獄というほどではありませんが、高校まで勉強してやっと大学に入学が決まり、少しゆっくりするという側面もあるのではないかと思います。


「大学入学前」だけとは限られていないギャップイヤーの概念


Q:「ギャップイヤー」の概念は大学入学前だけの期間だけではなく、大学在学中、就職前、あるいは就職してからも含むという広い概念で捉えてよいでしょうか?
A:どう考えるかは、その人の自由なんですね。システムは固定ではありません。大学側は1年ギャップイヤーを取って、1年遅れて入学することを容認しています。
卒業後にギャップイヤーを取る人は少ないと思います。就職が課題になるからです。しかし、大学卒業後にギャップイヤーをとっても、就職できないという訳ではありません。そうしたければ1年遅くして就職するのは可能です。それが日本との違いかもしれないですね。
高校卒業後のギャップイヤーは、大学を決めてから休むわけですね、大学での専攻はもう決まっている。大学を卒業した時には就職を決めたいというのが普通です。企業の方は1年待つというところは少ない。ある言語を勉強して、その国に行く人を除き、大学在学中に休学してギャップイヤーを取る人はそれ程多くないのではないでしょうか。


Q:英国の大学は、外国でのボランティアとかインターンを学生に直接あっせんしていますか?あるいは、専門業者が取り扱っているのでしょうか?
A: 発展途上国に行って、そこで学校を建てたり、井戸を掘ったり、そういうニーズに対して、あっせんがあります。学生は将来望んでいるキャリアに関係するインターンをすることもあります。


Q:海外でインターンしたい場合、ギャッパー(ギャップイヤーを経験する人)が料金を支払うわけですか?手数料、コミッションということでしょうか?
A:アメリカのシステムは違うかもしれませんが、インターンは基本的に給料をもらわないけれども、お金を払ってインターンをすることはあまりないでしょうね。多くの場合、企業は少しはお金を払う。例えば通勤代、給料には至らないが何がしか支払うというのが多い。
 日本でもそうですが、就職市場が少しずつ厳しくなった中で、企業側はあまり支払わずにインターンをさせたがるので、支払う金額は下がる傾向にあるのではないでしょうか?


英国では、大学・家族の理解があるギャップイヤー


Q:ジェイムズさんはギャップイヤー発祥国のご出身で、ギャッパーとして来日されたわけですが、フォロワーの日本にどんなふうにしたら、ギャップ文化を植え付けられるか、そのアイデアやアドバイスを頂戴できないでしょうか?

A: 一番必要なのは大学の理解であり、英国のように入学前に1年間どこかに行ってもかまわないとすれば、導入しやすいのではないでしょうか? 現在、大学から見れば、ギャップイヤーで学費の入金が遅くなるわけで、そこが難しいのかもしれません。制度が定着すれば、ある生徒は1年入学が遅くなるわけですが、その前年の生徒が入学するので相殺されると考えられるとよいのですが・・・。


ブリティッシュ・カウンシル駐日代表 ジェイスン・ジェイムズさんQ:日本の場合、ギャップイヤー導入の大きな課題として、大学の理解とその積極的な導入意思、それから、親御さんの安全志向とどう向き合うかの課題がありますね。
A:そうですね。イギリス人、アメリカ人もそうですが、躊躇なく海外に行く人が多い。イギリスはヨーロッパの大陸からそんなに離れていない。フランスが見える距離です。海外に行くのはそんなに大げさなことではない。日本でも、今や安い航空券が利用できる。ですからこれは私のギャップイヤー以後の話ですが、最近はローコストキャリアが利用できて、日帰りでドイツに行ったりするとか、リッチな人の中には、フランス、イタリアで別荘を買って、毎週末行くという人もいる。そういう意味で海外に行くことはそんな大した話ではありません。そしてアジアにも、香港やオーストラリアなど、イギリスとの縁の深い国・地域があります。家族の一部が他国に住んでいる人も多いので、そんなに心配はしないのではないかと思います。


もう一度、青年に戻ってもギャップイヤーで日本を訪問する


Q:もう一度英国で17歳に戻って、ギャップイヤーができるとする。どこに、何をしに行きますか?
A:また日本に来ると思います(笑)。日本研究を選んだ理由は日本に非常に興味があったからですが、今でも非常に興味があって、もっともっと勉強したいと思っています。


Q:日本の魅力、どんなところに日本にモチベーションを感じられるのですか?
A:日本の文化は深いと思います。若いころ興味を持っていたのは、松尾芭蕉、俳句、浮世絵などです。後に平安時代に興味を持ちました、歌舞伎も好きです。他には日本人の働く習慣も面白いと思います。日本人は非常に完ぺき主義だと思います。自分も日本で働く場合は、期待されるのがプレッシャーかもしれませんが、そういう働き方が好きなんです。自分も周りの人もハイレベルの仕事をするということです。


ギャップイヤーは人生におけるアドベンチャー!


Q:ジェイムズさんにとって、「ギャップイヤー」って何ですか?
A:まあ、冒険だったんでしょうね(笑)。先ほどお話したように、着いた時は怖かったです。言語が全然わからないですし・・・。成田空港に着いて雇い主である学長に電話をしなければならなかった。当時は携帯もありませんから、日本円はお札しか持っていなくて、10円をどうにか作って、公衆電話から電話をしなければなりませんでした。学長は英語ができましたが、「到着しました」と日本語で伝えました。非常に不安でしたね。でも、そういったいろいろなことを乗り越えて、日本に住むことで自信がつきました。そういう意味で自分が成長できたと思っています。


Q:英国で生まれた慣行であるギャップイヤーが、オーストラリアや、米国、カナダ、イスラエルとどんどん広まっています。日本でも大学生の国際競争力向上をめざして、ギャップイヤー文化を研究・啓発する一般社団が立ち上がりました。できたてのほやほや(fresh from the pen)ですが、何かメッセージをいただければ?
A:国際的な見方が大切だと思います。私は4人兄弟ですが、そのうち3人は海外に住んだことがある。そうすると、自分の見方が変わってきます。その国の見方を深く理解できることもありますが、自分の国を外からより客観的に見ることができ、面白い。そういう意味で、ぜひ日本人の方にもギャップイヤーを利用して、海外に住む体験をしていただければと思います。
                                     

以上


インタビュー後記

 

 ジェイムズさんのお応えに、誠実で魅力ある人柄が現れるインタビューになったと思う。特に日本に対する熱い想いは、ギャップイヤーで17歳の時に東京に来られて以来変わらない、いやますます高まっておられるように感じた。
JGAPは、日本版ギャップイヤー(Jギャップ)を「インターン・ボランティア・国内外留学」の3軸に整理しているが、ジェイムズさんは、「インターン」として大学学長助手を選び、日本で英語を無償で教えられてもいるので、「ボランティア・海外留学」もカバーされていて、3要素を網羅されているといえる。
 お話の中で確認できたことは、ギャップイヤー期間は本家の英国でも、「大学入学前」に限らないこととその導入には大学の理解が重要であることだ。
「もう一度青年に戻っても来日していた」と、四半世紀経過しても何のためらいなく言い切るジェイムズさんは、素敵な英国紳士だと心から思った。

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