私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第8回 就職浪人やフリーター生活を経験し、芸能プロダクション、ハンバーガーショップなどギャップイヤー期を経て、難関資格を取得し、独立。若者キャリア支援活動に情熱を燃やす公認会計士・税理士 久保田克彦さん

公認会計士・税理士 久保田克彦さん" 1962年東京生まれ。1985年慶応義塾大学法学部卒。流されるまま企業に就職する生き方に疑問を抱き、音楽業界を目指して卒業後、就職浪人。フリーターを経験。芸能プロダクションに潜込んでチャンスを窺うも夢破れ挫折。 しかし、プロダクション社長から「経営」の基礎を学び、7年の大手ハンバーガーショップ勤務をする。その後、外資系生命保険会社を経て、1993年10月に難関の公認会計士二次試験に合格。現在は、公認会計士事務所を経営するとともに、2010年にNPO法人カタリバの監事に就任し、高校生・大学生へのキャリア教育支援に力を注いでいる。
著書に『大人が教えられない本当の「経営」のはなし』(青雲社 2010 年)がある。

(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)


Q:まず、どんな高校生だったんですか?
 最初に正直申し上げて、高校、大学時代は、話すべきエピソードは、ほとんどないです(笑)。
慶応のなかに、思い出と言うか、今直接いかされている原体験があるかと言うと、正直ほとんどないです。慶応は普通部(中学)からなんですけど、普通部のとき野球をやっていて、レギュラーになれなくて、結局高校いって野球やってもあれだなと。趣味的に好きだった音楽のほうにのめりこんで、いわゆる"帰宅部"で、部活とかやらないで、家に帰って音楽を聴いて、ギターを弾いていました。


Q:大学卒業するタイミングというのは、・・・何年入学になるんですか?
 大学は、昭和56年(1981年)4月入学で、昭和60年3月卒業です。


Q:昭和60年3月に卒業される慶応の同期の皆さんは・・・、その頃の経済状況、就職状況はどんな感じだったのですか?
その頃は、バブルのまだちょっと前ですから、まだ、証券会社の人気が高まりつつあるころで、野村さんとかが、それまでは証券とかはそうでもなかったのが、バブルがはじまる頃で、上位にきていたと思います。ほかに、普通にいつもの東京海上さんとか、メーカーも人気がありましたね。そんな時代じゃなかったかと思います。


焦りかストレスからか、体重は10キロぐらい減っちゃって・・あのままどっちにころんでもおかしくなかった


Q:そういう時代に、みんなと一緒に大企業に"入社"するんじゃない道を歩まれた。言いにくいですが、世の中的に一種のドロップアウトと見なされますよね。当時どんな気持ちだったんでしょうか?
 単純に、高校3年間と大学4年までは音楽をほんとにやっていたつもりなんですけど、今振り返ってみると、甘ちゃんなんです。 バンドもちゃんと組めなかったし、曲が作れたわけでもない。ステージに1回も立てなかった。ですけど、本人的にはミュージシャンをやりたくて、ぎりぎりまでがんばっちゃって。当時は、9月1日が就活解禁で、その辺まで行っちゃって、出遅れた頃に駄目だみたいな、就職しなきゃだめかなみたいな状況に追い込まれて、ミュージシャンは断念したんですけど。
かといって、半年後にネクタイしめてサラリーマンやれるような気持ちの切換えもできなかったし、大学4年の終わりの頃は、半分今でいうひきこもりのような状態で、焦りかストレスか、体重は10キロぐらい減っちゃって・・・。
 今考えてみると、あのままどっちにころんでもおかしくなかったなと思います。


残りの数年間だけやりたいことをやって、何でその後やりたくないことを安定と引き換えに取るんだと・・・


Q:みんなと違うことを選ぶというのは、重圧だとかきびしいものがありますよね?
 でも、慶応に付属校から行って大学のネームバリューもあるんで、今と違って入ろうと思えば、上場企業のそこそこのところには選り好みしなければ、入れたんですね。学友は学生時代に好きなことをやって、そのあと安定した会社に入ればそれでいいんじゃないの?というのが10人に聞けば、9人が、そうでした。でも、単純にそれはおかしいんだと思ったんです。残りの数年間だけやりたいことをやって、何で、その後やりたくないことを安定と引き換えに取るんだと・・・。そういう人生を送るために産まれてきたのかと・・・
その時に、自分には音楽しかなかった。がんばったんですけどミュージシャンにはなれなくて、ということです。
 クラス50人中、卒業名簿の就職先欄にひとりかふたり空欄・空白がある、それが私なわけです。そういう状況でした。友人などから色々言われましたが、特に親には、勘当されると思いましたよ。なにしろ中学から付属校に通わせてもらっているんですから(笑)。そんなこんなの状況で、自分の部屋で悶々と悩んでいる時、そんな私でも慰めてくれるものがあったんですね。それが、音楽だったんですよ。やっぱり音楽っていいな、このよさを皆に知ってもらいたいと思ったときに、ばか者だったんですけど、ばかなりに気がついたんですね。別に自分が主役でなくたって、いいじゃないかと・・・。 作る現場に行きたかったんで、作る現場で裏方でいい音楽を作るって言う仕事だってあるじゃないかと・・・。遅かりし、その時点で気がついて、ミキサーになろうと思ったんです。ミキサーって、コンサートとか録音スタジオで、機械を調整して音をつくる仕事なんです。
慶応を出てから、ミキサーの専門スクールに行こうと思ったんです。 それがそもそも普通じゃないと思う。 学費はさすがに出してもらえない。なので、残り半年ぐらい、アルバイトをやりまくって学費を用意して、4、50万したと思うんですけど、レコーデイングスクールと呼ばれていた学校に行って、そこで高卒の連中と一緒にミキサーの勉強をして、ミキサーとして2年通って仕事していこうっていうふうにして、卒業の時点で考えたんです。


大学卒業後は父親とは絶縁関係で、"とんでも学校"も3ヶ月でやめました


Q:それでは、"ミキサー養成学校"には2年間行かれたんですか?
 とりあえず、勘当されずに、家には置いてもらえたんですけど、父親とはもうほとんど絶縁状態でしたね。でも自分的には "よし"と4月から通い始めたんですけど、ありがちな"とんでも学校"だったんですね(笑)。こんなところ2年通っても、ミキサーの実力なんか身につかないとすぐわかっちゃったんです。3ヶ月でやめました。そのあと、その学校はすぐつぶれました。


Q:たしかに、法整備が遅れていたせいか、浮かれたような学校って結構ありましたよね(笑)。
 若輩者ゆえ、コマーシャルとかパンフレットとか立派だと、ここに行けば何とかなるって思っちゃったんです(笑)。広告なんて派手にやっていたので、回らなくなっちゃったんでしょうね。


自然とそういう人間が吹きだまっていたんですけど、励ましてくれたんです


Q:その後、プロデユーサーの養成学校に通ったんですね。そこが、一番重要なのでは?
 親、親戚、友達には、「ほれ、みたことか」とばかり、散々言われました。おまえはもう一生立ちなおれないぞと・・・。
確かに当時は今みたいじゃなくて、デユーダとかやっと出たか出ないかぐらいで、中卒でも高卒でも大卒でも、新卒で就職できなければ、セカンドチャンスはなかった。そのときは、言われたとおりだったんですけど、その状況で、言われても、もうどうしようもない(笑)。親とそういう悪い関係になって、とりあえず部屋はありますけど、今でいうフリーターですね。食っていかなくちゃならないからいろいろバイトをやっていたんです。そうしたら、バイト先にオーディション受け続けながら俳優めざして頑張っている奴とか、ダンサーになるためにバイト先でレッスン料を稼いでいずれダンスで舞台にたつことを夢見ている連中とか、司法試験のために生活費をバイトで稼いで勉強している人とかいて、自然とそういう人間が吹きだまっていたんですけど、励ましてくれたんですね。「久保田の音楽の素晴らしさを知ってもらいたいっていう気持ちが本物だったら、絶対チャンスがあるからあきらめるなよ」と・・・。確かに諦めたらそれっきりだなと・・・。それにまだ自分的にも不完全燃焼じゃないですか。がんばろうと思ったのに、いきなり足元すくわれたみたいな感じだったので。そこで音楽の雑誌のうしろのほうの広告から、今度は大きくないこじんまりとしたプロデユーサーの専門スクールを見つけて、あやしいことこの上ないんですけど、もうすがるところがないんで(笑)・・・。


"いい出会い"からプロダクションに採用に


行ったら、学長さんが元日本ビクターの重役さんだった人で、その人がそういう境遇におかれながらも、まだ音楽やりたいなんて言ってる私はおバカさんなんですけど、おもしろがってくれました。「変わってるね、そこまでして音楽やりたいのか、いい目してるね」と気に入ってもらったみたいなんです。いい出会いがあったんですね。夜間だったんですけど入学させてくれたんです。そして、大学出ているし、この業界は経験がないとなかなかチャンスをもらえないから、プロダクションが人を探しているからその面接に行ってごらんよと。「やりたい音楽の制作の現場じゃないけど、経験を積んでいると何かのチャンスがあるかもしれないよ」と言ってくれて、それで行ってたまたま採用されて、プロダクションとつながったんです。昼はプロダクションで働いて、夜はそのプロデユーサーの学校に行っていたんです。


Q:そのプロダクションは、非正規の社員ですか?
 いわゆる契約社員ですね。社会保険とかまったくなかったと思います。時給制でしたしね。


Q:好きな音楽のジャンルというのは何であり、どんなプロダクションだったのですか?
 洋楽、ロックですね。そのプロダクションは、当時けっこう勢いがあって、大きなプロダクションで、アリスのメンバーとか、渡辺美里さんとかがデビューして、当時は勢いがあった。100人入りたくてもひとりしか入れないようなそういう倍率でたまたま入れちゃって、ファンクラブの運営をやっていました。


マネージメントのイロハはプロダクションで習得


Q:そこで、経営に近いというか運営を身につけられたということですね。
プロダクションの社長が変わった人で、製鉄所の工員さんからプロダクションの社長にまでなった人なんです。だから、私みたいな人間をおもしろがってくれたんです。マネージメントっていうか経営のイロハを手ほどきしてくれたんですよ。ほかに社員もいたんですけど、自分だけ特に目をかけてくれたんです。マネージメントとの出会いは、そこだったんです。


Q:プロダクションには、何年いらしたんですか?
 籍がちゃんとあったのは、実は2、3ヶ月だったんです。


公認会計士・税理士 久保田克彦さん Q:その後は、何をしていたんですか?
そのあとは、プロデユーサー養成スクールに通いながら、ソニー・ミュージック・エンターテインメント(SME)への入社に挑戦していました。当時名のあるところで公募していたレコード会社は、SMEしかなかったんです。オフィシャルに門戸を開いていたのは、ソニーさんだけで私は、2回入社試験を受けました。
1回目は、素手でいって、最終の直前で落されたのかな。そのあと、次の年、これはプロダクションのコネで、いきなり役員面接につないでもらえて。そこでOKがでれば、やっと念願の音楽の制作の現場にたてるチャンスだったんですけど、でも落ちて、卒業してから2年ぐらいたっていたんですね。そのときに、ある意味やりきった感もあって、ここまでやって採用されないのは、縁がないのかなと言う気持ちと、もうひとつはわずかの期間だったんですけど、プロダクションにお世話になってマネージメントの仕事のおもしろさを少し感じ始めていたんです。ちょうどその頃、大手ハンバーガーショップでアルバイトをしていて、そんな話をしたら、店長がマネージメントだったらうちの仕事で経験できるぞ、働かないかと言われて、それでその会社に入社したんです。昭和63年ですね。そのショップでは、アルバイトをやめたり続けたりで4年ほど経験がありました。店長になったのは、社員として入社後3年半たってからですね。当時、社内では新しいキャリア・ディベロップメントのプログラムができて、入社後店長になるまでは10年というモデルだったんですよ。無理矢理3年半で引きあげていただいたという感じですね。


ハンバーガーショップ勤務時代は、マネジメントを勉強したい気持ちと視点を忘れず持っていた


Q:成績が抜群だったからでしょうね。
 ほんとに、上司によくしていただいたんですね。多分今だとできないと思うんですけど、当時はリスクをとって人を評価してくれるって言う方がいたじゃないですか。「責任は俺が取るから」的な方がいて下さって、その方に買っていただいて、実は独立したあともクライアントさんなんですけど・・・。日本でやっている会社とはいえ外資系で、その辺の競争は激しくて、明らかに上のタイトル、役職を狙っている人間は多いんです。だけど私はそういうのは全然なくて、マネジメントをほんとに勉強したい気持ちと視点を忘れず持っていたのが、逆によかったのかなと思います。


Q:そうすると、ハンバーガーショップでマネジメントに当たっていたのは何年間ですか?
 アルバイト期間を含めて、5年位です。


Q:そこから、今度は金融保険のコンサルタントになったんですか?
 外資系生保会社で、保険の外交員です。理由はハンバーガーショップは大きい会社だったので、経理や会計は当然本社がほとんど全部やるんですね。予算管理など、店長クラスもつくったりするんですけど、基本は本社がやるので、経験できないんですよ。お恥ずかしながら、学生時代は勉強していないので、簿記とかとっておけばよかったんですけど、遅まきながらその頃、簿記の通信とか始めたんです。


Q:ハンバーガーショップ勤務時代の後期から、簿記を勉強なさったんですね。
 そこでは、確かに総務的なこと人事的なこと、営業的なもの、経営のなかのいろいろなフィールドは経験できるんですけど、唯一会計財務だけは、本社がやってしまい経験できていなくて。マネジメントやりたいのにそこだけできないのは、中途半端な気がして、それでとりあえず、簿記の通信を3級から始めました。そうやっていたんですけど、忙しくて勉強がすすまないし、勉強はしたい、やらなくては、そう思ってやめて保険の外交員になったんです。仕事の内容自体は、会計財務に若干関係があって、企業向けの節税保険とか売っていましたけど、それよりも時間が自由に使えることがよかったです(笑)。
外資系の外交だったので、営業の成績をちゃんとコンスタントにあげていると、日中は何をやっていても自由だったんです(笑)。朝、会社に行って、あとは何もいわないので、喫茶店とか資格試験の予備校とかで勉強していたんです。


Q:公認会計士試験に合格されたのは、何年ですか?
 2次試験に受かったのは、平成4年で、31歳になったばかりでした。


実経験を踏まえた上での勉強とか学習は、中身の濃さに違いがある


Q:それ自体すごいですよね。
 会計士の試験って会計の分野は当然あるんですけど、経営学とか、自分が思いっきり経験したことを、あとで、アカデミックに確認するという作業だったんで、ほんとに手に取るようにわかるわけなんです。これが、理屈なんだとあとで、確認するというようなことだったんです。
そういう意味では、実態を詳しく知っているわけではないのですが、欧米では、社会に出てからまた学校にもどって、また学んでから、また社会に出てキャリアが認められるという "ギャップイヤー"の概念があると聞きますが、結果的にそうなりました。
慶応で勉強したことは、ほとんどなくて、社会で経験を積んだものが、あとで資格学校とかで勉強したときに、ものすごく腑に落ちたというわけです。だから、万が一、大学在学中に会計士をめざしても、間違いなく受かっていないと思います。そこは、実経験を踏まえた上での勉強とか学習は、意味合いが違うというか、中身の濃さに差があるなと思います。


Q:公認会計士だけじゃなくて、プラス税理士もダブルでとられているんですね。
 会計士は、税理士もできるので、受験で資格を取ったのは公認会計士の方だけです。会計の勉強をしていたら、思いのほか自分の中で会計の勉強がすすんじゃったんです。産まれてこのかた、こんなに手ごたえがある勉強っていうのは、はじめてでした。一緒に学んでいる連中が苦労しているのに、こっちはすごくわかっちゃうんです。どうせなら、ただ勉強するのではなく、資格をめざそうと。会計士と税理士と資格試験として二つ選択肢があったんですけど、経営学とか経済学とかあったんで、会計士を目指しました。当時会計士は、7科目一辺に受けなくちゃいけなかったんですけど、税理士は5科目を順番に受ければよかったんです。だから、社会人は基本的に税理士を目指すことが多いのですが、最後は仕事を休職して、会計士の資格を目指したんです。30歳で結婚していたんですけどね(笑)・・・・。


20代で年収1000万も私のことですし、専門学校中退で年収100万も私


Q:31歳で、いろんな経験をされて合格されるのは、珍しくないですか?
 たしかに珍しいと思います。特異な経歴ですね(笑)。今、振り返えってみても、私は専門学校中退なんですね、最終学歴は。慶応卒なんですけれど、最終学歴は、専門学校中退で、20代のうちに年収1000万のときもありましたし、100万のときもありました。
「20代で年収1000万円」も私のことですし、「専門学校中退の年収100万円」も私のことです。逆にいえば、そういうことにこだわるなって若い人に言えるんですよね。


Q:"多様性の権化"みたいですね(笑)。
 ある意味、時代を先取りしていたのかもしれないですね。


若者には、自分の姿、自分の思うとおりに成長していってほしい


Q:ところで、"経営のフォートライザー"っていうのは、どういう意味ですか?
 これは、造語ですけど"土地を肥沃にする"っていう意味です。どうも、コンサルって言葉が嫌いなんです。
若い人たちが、基本的にのびのびと、こちらが想像するようなところを超えて、自分の姿、自分の思うとおりに成長していってほしいなあと・・・。こっちに行くなとか、形を作るのにはこうしたほうがいいとかじゃなくて、自分の仕事は、のびのびとするために土台となる大地作り、地面を土地を肥沃にしたい、会社の経営でもそうですけど、会社がやることを"あーだこーだ"いうよりは、成長していく上での基本的な部分をしっかり肥沃にしてあげる、そういう仕事をしたい。そういう思いがあります。


Q:土地が肥えていれば、いい根が出きて、綺麗な花が咲いて、いい木になるっていう話なんですね。
 Sustainabilityも当然あるでしょうし・・・。


Q:枯れないですものね。確かにずっと続いていきますからね。久保田さんがツイッターでつぶやかれている"天職"は、何を指していますか?今のお仕事なのか、NPOカタリバですか?天職を見つけたって書かれていますが・・・。
 イメージは、今まさにお話したような、フォートライズするような具体的な作業がここにあったという感じだと思います。


Q:ご自分の仕事もそうだし、カタリバもそうですね。
 仕事もそうなんですけど、カタリバは特に。両方です。


カタリバを知ったのは、偶然ラジオを聴いていたから。後から気になった。


Q:取引先もそんなふうになってもらったらいいと・・・。カタリバとの出会いは、いつごろだったのですか?
 2年前ですね。ラジオを聴いていたら、カタリバが紹介されたんです。仕事をして、ラジオを聴いていたら、J-waveで金曜日ジョン・カビラさんが担当していて、朝7時台にNPOとかを紹介する枠があって、今でもやっていると思いますが、そこでカタリバが紹介されたんです。理事の方が出て、紹介されていて、そのときは仕事しながらで、聞き流していたんですけど、2、3週たってから、そういえばなんかやっていたなと、。それでJ-waveのページからアーカイブに入ったらあって、それからネットサーフィンでカタリバのホームページにいって、それから説明会に行ったんです。当時は、学生向けと社会人向けがあって、学生向けのは、キャスト(高校に行って話をするボランティア)を募集するものですが、社会人向けは寄付会員としてバックアップしてくれる人が対象です。でも、日程が合わなくてキャストの説明会という学生向けのほうに行ったんです。
 行ったら大学生に混じってやることになったんですが、わりと自然に馴染めて、その中で土曜日の企画というのが年何回かあって、それに来ませんかと言われて行きました。私自身のキャリアもそうなんですけど、基本的にその組織のことを知ろうとしたら、「行ってみなきゃわからないだろう」というのがあって、やりもしないで"あーだこーだ"言うなっ、ていうのが、自分のなかにあるので、お金の面でバックアップするにしても、1回やってみれば、良さも悪さもわかるだろうと・・・。謳っているような、ちゃんとしたものか、いい加減なものじゃないか見極められるだろうと参加したのが、始まりなんです。この間も最年長キャストとして行ってきましたけど(笑)。


学生がリスクテイクしないのは、おとなの責任


Q:そこで、高校生や大学生に対して感じられることには、どんなことがありますか?
 いろいろありますよね。一番思ったのは、ほんとに"リスクテイク"しないなと。それで、これはおとなの責任だと思いました。大人が許容しないから。見事にそこをリスクを避けよう避けようと、自分がやりたいからじゃなくて、こっちは危ないからこっちみたいな。でもそれは、可哀想だなと思いましたよね。それがまず一番なんですね。リスクを取らしてあげられないっていうことですね。


誰からも助けてもらわなくちゃいけなくて、喜んで助けてもらえるようになることこそ"自立"


Q:親御さんもそうだし、社会の目がそうなんですね。安全なところばっかりで、本質的なところが抜けちゃっているんでしょうね。社会の縮図がそこにある。
 失敗をしないように、失敗をしないようにということですね。私の本にも書いたんですけど、こういう本をだしたのも、ちょうどカタリバにコミットした頃、去年3月ですけど、序章にも書いているんですけど、今お話した大人の責任の部分で、今の若者は覇気がないとか、内向きだとかいうけど、それはないだろうと、おとなのお前が言うなと私は思うわけです。挑戦できるような環境や、度量を用意しないで、挑戦しろなんていうのはどうかっていうのがあって・・・。
自立と言う意味をはき違えていると思うんです。誰にも助けられないで、一人でやっていけることを自立というふうに刷り込まれちゃっているんですけど、私からすれば、誰からも喜んで助けてもらうようになることが、それが自立。というのは、社会に出ていけば、社会っていうのは、助けて助けられてという人とのつながりが社会というわけで、その中でいい仕事をし生きていくっていうもの。誰の助けも借りないで生きていこうとしたら、どこかで限界があるわけです。そうじゃなくて、誰からも助けてもらわなくちゃいけなくて、喜んで助けてもらえるようになることが自立なんだよって教えてあげたいんです。そんなことを、本に書いたり、カタリバで話したりしているんですが、そういう話は大学生に響くんです。大学生は、ちょうど就活でそこを悩んじゃっているんです。親の期待に応えて親からみて失敗じゃない会社にはいらなくちゃいけない、自分がやりたいじゃなくて、自分はこっちかなと思っても、親はこっちにしなさいと、それで、いいのかと。
 でも、そもそも自分で主体的に考えたり、親を説得するのも、私からすれば一つの助けてもらう意味合いに入っていると思うんですけど、助けてもらう、自分から発信して、周りに働きかけて、今は一旦譲ってもらっても将来返せばいいんだよと、そこまで思い至らないと、考えもつかないし行動にも落とせない。根は深いなと、この2年ぐらいやらせてもらって思います。ただ、思いのほか、学生は素直という意味では、素直なんですね。感性は、私達よりすごくセンシティブで、感性はいわゆる物欲偏重じゃない、もっと世の中には大切な価値観があるということに対する感性はある。ただ、そこにたどり着き方を知らない。たどり着くためのいろんな意味での素養、気持ちを育ててもらっていない。そういう意味では、JGAPが環境を用意してあげようという運動は、すごく意味があるのかなと思います。


車の運転でも助手席に乗ってると道を覚えない、だから経験が大事


Q:久保田さんは、ブログの中で、「(学生が)前向きになれと言われても」って書かれていて、その中で"人生の流れ"のことを書いてあると思うのですが、それはどういう意味ですか?
 私も最初は、若い人たちに対し、"元気出せよ"的なコミットの仕方だったんです。それでも、酷だなって思い始めて、そもそもベースとなる素養を備えさせられていないのに、できないことをやれって言われても、それは無理だよって気付いたんです。自分のことを思いかえしてみれば、決して明るい未来じゃなくて、常に365日24時間前向きだったわけじゃなく、どっちかっていうと、"こんなんで大丈夫かな"って考えていたときの方が多かったぐらいで、結果オーライでしかなくて、それをなんか"したり顔"でやればできるぞなんて、よくよく振り返ってみれば、そんなこと言えた柄じゃないなというのを書かしていただいたんです。あとは、ほかのブログにも書いていますが、練習試合ばっかりやっていても所詮練習試合なんですよ。なので、自分の足で歩いて欲しいと。引っぱられて、歩かされて歩いていたってしょうがない、車の運転でも助手席に乗ってると道を覚えないけど、自分で運転すると道を覚えるみたいな。車じゃなくても、どっか行くときに自分で行く道を確認して行けば覚えるけど、連れて行ってもらったら、どこ?みたいな。同じことだと思うんですよ。若いうちの失敗は必ず明日の糧になる。できるうちに色々失敗して、経験してっていうことですよね。


ネームバリューとか、皆が行くからっていう就職はどうでしょうか


Q:「人生の流れに身を任せず、自分の足で歩こう」と書かれていますが、そういう感覚をもてるかどうかは、重要ですよね。
 ある意味、私がくそみそに言っているように聞こえる一流大学を出て一流企業に行くのを否定しているわけじゃなくて、自分の意思で自分の足で、足取りを確かめながら進んでいらっしゃる方はすばらしいと思います。でも、何となくネームバリューがあるからとか皆が行くからとかそういうふうに歩んでいるのはどうでしょうね。今、49歳になって同窓の奴らも苦労しているじゃないですか。タイミング的にも今さら転職でもみたいな、もう5年頑張れば早期退職でみたいな話で、その先が長いですからね。まだまだ、その気さえあれば世の中にバリューを残していけるんですけど、ざっくりみてもそういう気概のある人間はなかなかいなくて、それで、人生いいのかなって思ったりします。
 

Q:今カタリバ大学っていうのが、ありますね。そこで教えらているんですか?
 カタリバ大学では、私は一生徒で、寺脇研さんが中心となって、不定期ですけど、セミナーみたいな形式でやっています。わりと社会人向けで、高校生向けも会によってはあるんですけど、一般に門戸を開いている座学で、グループワークでお話をする場なんです。私がやっているのは、「くぼやんゼミ」で、また別です。
キャストといって大学生が高校に行って、お兄さんお姉さんとして話をするんですけど、その中からだんだんリーダーが自然発生的に出てくるんですね。その人たちが、ホントの意味のリーダーというか、いろいろなチームワークとか、マネジメントをやるようになんですけど、そのリーダー層に対する職員研修を今年から月1ペースでやらせていただいています。


"生きた証"の"生きている証"との違い


Q:その「くぼやんゼミ」に、宿題がでるそうですね(笑)。ツイッター見てて、いい宿題だと思ったんですが、「生きた証と生きている証の違い」の解を教えていただけないですか(笑)?問い自体がすばらしいと思うんですが・・・。
 今はやりのクエスチョンを投げかけて、答えさせるという"白熱教室"みたいな感じです(笑)。
これは、なにしろ第7回目の話なので、今、端的にお話するのは、難しいところもあるんですけど(笑)・・・。
要するに、社会の中で生きていくという行為には、時間軸に沿った未来に対する働きかけと、空間軸に沿った他者に対する働きかけが必要なんですね。時間軸に沿った働きかけの例でいうと、将来の自分に対する投資ってありますね。自己投資です。勉強とかが一番分かりやすいかもしれません。未来の自分自身に対するある意味"種まき"、働きかけですよね。もう一つ、空間軸に沿った働きかけの例として、今の人たちは、あまり得意じゃないんですけど、他者に対する働きかけをすることによって、何か形や満足を得るという働きかけ。楽しくわいわいもいいですし、そこに社会的に価値があるかどうかは別です。
このどちらにも働きかけないのは、刹那的で排他的な状態で、これは「生きている」とはなかなか言えないと思います。自分自身に時間軸上働きかけること、頑張ること、空間軸上、他者に働きかけて今現在の形や満足を得るために頑張ること、は"生きている証"にはなるんです。でもどちらか片方では"生きた証"にならないんですね。社会的価値として残らない、明日への希望を紡げられないんです。時間的にも空間的にも、その両方に働きかけること、他者の未来に対して種をまき花を咲かせ実を結ばせるように頑張ること。社会の中で自らの役割と責任を知り、自覚し、責任を果たすべく努めること。この両軸での働きかけが兼ね備わってくると"生きた証"になるんです。
 今の自分とは、結果でもあり原因でもある。実でもあり種でもある。時間的にも、空間的にも・・・。「社会性」「使命感」を腑に落ちる形で確認してもらうのがこの講の目的です。聞いている大学生も第7講ぐらいになると難しいとは思いますが(笑)・・・。


学問と実際とをつなげて、若者の血肉となるよう案内できればいいかな


Q:久保田さんが残していっている「くぼやんゼミ」のメッセージは、"何だろう?"と考えさせるプロセスがいいですよね。
 あと、カタリバの現場という"実学"があるのがいいんです。私の仕事としては、最初に言ったとおり、アカデミックな部分だけでは血肉にならないので、それを実務と結びつけて、ここがこうじゃないかとそれを結び付ける、その道案内が必要な時期なんですね。大学生ぐらいや、若い社会人ぐらいだと。
 昔は、職場でもそういうことをやってくれる上司がいたんですね。上の人に余裕があって、時間的にも気持ち的にもそういうことが出来たのが、今は余裕なくできない。さっきもお話したように、今の子たちはセンスもいいし、能力はもっているんだけど、経験もできるんだけど、そこをリンクさせられない。なので、私はカタリバの企画に参加しながら、そこでの様子を見ながら、学問と実際とをつなげて、彼らの血肉となるよう案内できればいいかなと思っているんです。


Q:カタリバ゙の中を牽引する、リーダーたちのコーチングを、今やっていらっしゃるわけですよね。
 カタリバでは、リーダーはすごくいい経験ができるはずなんです。学校とも交渉するし、在学中にほかの大人の人との交流もあるし。


Q:ビジネスに近い話ができるんですね。
 そうなんです。中では、何十人何百人単位の企画をコーデイネーションしなくちゃいけないし、なかなかしたくてもできる経験じゃないです。でも、私からみるとそういうチャンス・経験をしているはずなのに、学べるはずなのに、うまく血肉にできていない。そこのところが、JGAPがギャップイヤーというかたちを日本社会に働きかけているのは私も賛同していますし、それができた暁に私がお手伝いできることは、今お話したこと、得た体験・経験をうまく学問とリンクさせて、ほんとの意味で血肉にして、あげるところ。JGAPが環境をご用意なさるとしたら、私がお手伝いするとしたら、そういうところなのかなと・・・。


Q:今の会計事務所を構えられていて、これまでの経験が端的に生きていると感じられることはありますか?
 仕事の中では、端的に、直接的にという意味では正直言ってあまりないかもしれません。


Q:それは、プロフェッショナルとしての公認会計士の仕事に傾注できるということでもあるわけですね。
 偉そうで申し訳ないんですけど、開業して15年目になるんですけど、営業したことは1回もなくて、そこに時間やエネルギーをもっていかれる、ということはないです(笑)。私ともう一人でやっているんですけど、昔、お世話になった方たちが、久保田が開業したんだったら、みたいな形で繋がってくださるので、営業をしたことがないんです。ご迷惑かけないようがんばらしていただいているおかげもあって、口コミとかでクライアントになっていただいています。ありがたいことです。


Q:それ自体すごいですね(笑)。今までの経験が、全部生きているっていうことですね。
 よくしていただいているんです。私的にお客様を選んでいるわけでもないのですが、自ずとそういう形になりました。よいクライアントさんに恵まれた、という点では本当に自分のユニークなキャリアがあってこそ、と思います。ただ、自分が今日お話しているキャリアのなかで培って、ある形にすれば、皆さんのお役に立てるはずと思っていた部分があるのですが、それを十二分に発揮できるような、そういうチャンスがなかなか業務の中に見出せない状況がありました。単に努力不足なのかもしれませんが、フィールド的にもなかなかそこにたどりつけていなくて。さっきカタリバの件がなんとなく頭に残ったというのは、自分の潜在的な問題意識があって、そこだったら今のクライアントさんのなかで生かせていない部分をいかせるのかな、というのがあったのかもしれないです。
実は、この本の中にご案内しているようなことを、クライアントさんの中間管理職研修でやっていた時期があるんです。そのときに、簡単にいうと限界があるなと思ったのは、鉄は熱いうちに打てということです。多感で吸収力、柔軟性があり、リカバリー可能な若いうちにこそ多くの経験、出会いを重ねることが本当に大切だと痛感しました。


一生懸命がんばっていたら、自然とみんな協力・応援してくれる


公認会計士・税理士 久保田克彦さん Q:助けてもらうことが大事だといわれましたが、どうしたらそうなれるのか、どのように教えたらいいですか?
これ、カタリバで紙芝居をやったりするんですけど、今まさにお話されたことが出ています。「くぼやんの人生」を話したあとで、くぼやんが皆が知っていたほうがいいと思うことがあるんだ。そのうちのひとつが、"助けてもらおう"。助けてもらわないと、特に困ったときはやっていけないよ。お金を出してもらうとかだけじゃなくて、いろんな意味で助けてもらわなくちゃいけなくて。
私は一杯助けてもらったんですよ、助けてもらうしかないじゃないかと。助けてもらえる秘訣があるんだよって。これを覚えていってねと話すんです。
 進路を考えるときに、やりたいことをまず見つけて、それがやれるように頑張れと言われるよね。
実はもう一つこっちのほうが、大事なんだけど何だろうと。実は、喜んでもらえること。やりたいことで喜んでもらえるように頑張りナと。なぜかと言うと人間は、皆に喜んでもらおうと思いっきりやマジな奴を応援するのが大好きなんだと。たとえばサッカーでもバスケットでも、すごく旨い奴がいて確かにそいつにボールをまわせば決めてくれる。勝てちゃうんだけど、そいつが早く俺にまわせよ、何でもいいから俺にカッコよく決めさせろよって言う奴だったら応援したくないじゃない。だけど、あんまりうまくないんだけど、チームのために一生懸命努力している奴は、一緒にやりたいじゃない、応援したいじゃない。"くぼやん"もそうだったって言うんです。高校生や大学生の頃、ヒット曲出して、売れて金稼いで皆に"スゲーっ"て言われたいと思ってがんばっていたら、全然だれも力を貸してくれませんでした。だけど、音楽のよさを知ってもらいたいんだとか、お客さんとか従業員の人たちにどうやったら喜んでもらえるのかと頑張っていたら、結局音楽の世界では仕事できなかったんだけど、フィールドが変わっても、そこでそんなふうに一生懸命やったら、そんな姿をみていた人が今でもいろいろ助けてくれる。
 だから、皆もやりたいことがあったら、それをやれるように頑張るだけじゃなくて、喜んでもらえるようにがんばってみな、なんて話をするんです。
高校生に話していて、残念なのは、"くぼやん、スゲーっ"て思われて終わりになることなんです。それは本意じゃなくて、しょうもないひきこもり野郎だったんだ。けど、喜んでもらおうと一生懸命がんばっていたら、自然とみんな協力してくれて応援してくれたんだよ、というところに共感して欲しいんですね。
でも、そういうのは考えているだけじゃわからなくて、JGAPの主張されているとおり、自分から勇気を持って一歩踏み出して探しにいかなくちゃいけないって思うんです。そうやって人と接している中で、励ましたり励まされたりって言う中で、いちばん喜んでもらえること、私の場合は会計、マネジメントの分野だと思うんですけど、それって皆さんそれぞれおありで、ほんとにその人の一番いいところって考えていてもわからないんじゃないかと思うんです。いろいろやってみて、みんなから久保田ってこうじゃないって言われて、考えて、そうかなって思うんですね。


私のゼミで育った子たちが、次の若い世代に伝えていけるように


Q:久保田さんのこれからの夢というか、どういうふうにしたいですか?仕事のこともそうですし、カタリバとの関係性とか、こうしたいとかありますか?
 具体的に数字であげられないんですけど、今「くぼやんゼミ」でやっているようなことを、引き続き小さな積み重ねかもしれないですけど、私のゼミで育った子たちが、次の若い世代に伝えていけるようなsustainable な流れを作りたいなというところでしょうか。
私も経験の中で気がついたことではありますけれど、多分育てられた中で、親、先輩、上司から、どこかで学んだ大切なことを伝えていくべきだと。私が発見したとかじゃなくて、そういう普遍的に社会というものがある限り、ベースにすべき大切な考え方をできるだけ多くの若い子に伝えて、でも時代によって花の咲かせ方、育ち方って違うのですけど、ただ主体的で自由で、創造的で若者たちが希望を持てるような社会につなげたいなと。それが今できなくても、10年後でも100年後でも、1000年後でもいいので、と思いますね。


Q:やられていることは、種まきという感じがものすごくしました。種まきって土壌がいいと発芽していい花にも木にもなるという、それを繰り返しているんですね。
 もうすぐ50歳になるんですけど、年齢的にも自分がリーダーシップをとって表にでていくということじゃなくて、これからは耕して種まきというような感覚になっています。


【インタビュー後記】

"学生たちが自信を持って歩めるよう"ナナメ後ろ"からコーチングできる人"

 久保田さんは、ある意味、現在の大学生の意識を先取りしていたのではと思う。大学卒業の1985年頃は、1990年とされるバブル崩壊前であり、「明日は、今日よりきっといい暮らし」「一億総中流意識」が蔓延していた明るい時代だ。スイスのIMDが毎年発表している世界競争力ランキングを見ると、世界で4位と高位であった。ちなみに今年は59カ国中調査で26位。49歳の久保田さんは、四半世紀も前に、今の大学生が疑問に感じつつある就活の無用なほどの「息苦しさ」やステレオタイプな狭いキャリアのあり方に違和感を感じていたことになる。大学卒業後、多くの挫折と失敗の連続のギャップイヤー期を経て、経営やマネージメントの重要性に気付いた。それが、今の生業である公認会計士・税理士という職業選択につながる。だから現在の若者に「人生の流れに身を任せず、自分の足で歩こう」「社会っていうのは、助けて助けられてという人とのつながりが社会」「失敗は若いうちに」と自らの経験と見識に裏打ちされたアドバイスは説得力を持つ。
 高校生と大学生の"ナナメの関係"に着目したキャリア教育支援のNPOカタリバとの出会いが面白い。ラジオでたまたま存在を知ったが直ぐにではなく、心に滲み込んだ数週間後にコンタクトを取ったという。つまり、数週間の時間は忘却ではなく、久保田さんに"記憶の醸成と覚醒"をもたらせた。若者たちが自由で主体的で、そして創造的な日本社会になるまで、「くぼやんゼミ」の"白熱教室"は、きっと熱を持ったまま続くことだろう。(砂)
(編集:高見ひづる)

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