私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第7回 ギャップイヤーは新興国での司法プロボノと卒業後の国内での無職期の2年、世界の人権問題に真正面から挑む姿勢は何も変わらない 国際NGO ヒューマン・ライツ・ウォッチ 日本代表、弁護士 土井香苗 (どい かなえ)さん

弁護士 土井香苗さん"1975 年8 月神奈川県生まれ。1996 年の東京大学法学部3年生時に司法試験に最年少合格(当時)後、大学4 年生の時、NGO ピースボートに乗船し、アフリカで一番新しい独立国・エリトリアに赴き、約1年司法プロボノとして、エリトリア法務省で法律作りを手伝う。その後、1998 年東京大学法学部卒。2000 年司法研修所終了し、弁護士。2006 年6 月米国ニューヨーク大学ロースクール修士課程終了(国際法)。2007 年、米国ニューヨーク州弁護士。2006 年から、国際NGO ヒューマン・ライツ・ウォッチ。http://www.hrw.org/ja)のニューヨーク本部のフェロー。2007 年から同日本駐在員。
2008 年9 月からヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)東京ディレクター(現日本代表)。2009 年4 月に東京オフィスを明治大学駿河台キャンパス内に設立。日本にいる難民の法的支援や難民認定法の改正のロビイングやキャンペーンに関わる。2010 年4 月よりCS 朝日ニュースター「ニュースの深層」のキャスター、2011年3 月からはテレビ朝日「サンデーフロントライン」のニュース選定委員も務める。2010 年エイボン女性賞受賞。2011 年世界経済フォーラム(WEF) Young Global Leader (YGL)。朝日新聞紙面審議会第21 期委員(2011 年~13 年)。
著書に「巻き込む力 すべての人の尊厳が守られる世界に向けて」(小学館 2011 年)、「"ようこそ"といえる日本へ」(岩波書店 2005 年)、「テキストブック 現代の人権 第3 版」(日本評論社 2004 年)など。(2011 年8 月現在)

(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)

バイトも試験勉強も遊びもピースボート参加も・・・若かったから何でも"勢い"でチャレンジできた

Q:1994年に東大に現役で入学されていますが、法学部を選択したいきさつは?
 本当は国際関係の方面に進みたかったので、教養学部に行きたかったのですが、親の大反対にあいました(笑)。国際関係に進んでも職がない、女性だから資格が取れる学部でないとだめだと言われ、随分喧嘩をしました。しかし、親の意志が固く、しかたなく司法試験に近いということで、法学部を受験したんです。

Q:大学2年の終わり頃に妹さんと家出され、二人でアパートを借りられたとか。その後、3年(21歳)のときに、司法試験に最年少合格(当時)されていますね。司法試験の受験勉強で大変だったと思いますが、どうやって乗り越えられたのですか?
 私は、もし「1日勉強できるよ」という環境にあると、間が持てないというか、「1日、長いなー」と嫌になってしまうんです。家を出て、塾の講師や家庭教師など、アルバイトもたくさんしないと暮らしていけなくて、時間が足りない。そういう中で時間を捻出して、隙間時間で勉強しなければ、という状況のほうが燃えるタイプなんです(笑)。

Q:それにしても、アパートの家賃や生活費のこともありますし、そうとう負荷がかかったのでは?
家賃が約10万円、そのほかに生活費もかかる。でも、若くて元気だったし、移動はマウンテンバイク。家を出て自由になり、すごく嬉しくて、「何ごともチャレンジ!」という気持ちでしたね。バイトをしながら遊びにも行って、司法試験にもチャレンジして、その勢いでピースボートにも乗り、エリトリアにも行きました。

ピースボート乗船は、3年生の司法試験最中に決めていた

Q:ピースボートに乗ったのは、どういうきっかけだったのでしょう。

弁護士 土井香苗さん 司法試験の勉強をしている最中に、試験が終わったらやりたいことの"WISHリスト"を作っていたんです。そのリストの一つにピースボートに乗るというのがあった。世界一周できるのは面白そうだったので。司法試験は合格するとは思っていませんでしたが(笑)、ありがたいことに合格できたので、晴れ晴れとした気持ちで行けました。

Q:どのくらいの期間行ってこられたのですか? その後、アフリカのエリトリアに行かれたきっかけは?

エリトリアの法務大臣に直談判し、司法プロボノに


 ピースボートに乗ったのが、試験合格後、3年の終わりの1カ月間。航海の終わりにエリトリアに3~4日立ち寄ったのです。法務大臣にもお会いでき、そのときに勢いでプロボノ(時間でなく、法律スキルのボランティア)をしたいとお願いしたら、受け入れてもらえました。それで日本に帰って、1カ月くらい準備して、大学4年の5月に出発し、1年くらいいました。

Q:すごいスピード感(笑)ですが、エリトリアでは何をされたのですか?
 当時、エリトリアが新しく刑法を作っていて、アメリカ、フランス、イギリス、日本など各国の刑法を調べ、比較調査を行っていました。それを手伝っていました。

Q:法律作りに関与・寄与したと・・・。そういう経験は得がたい経験ですね。
 寄与というほどではありませんが(笑)・・・。国を造るということですから、この仕事をいただいたとき、「よし、やるぞ!」と思いましたね。


大学卒業後、外形上は1年間の "無職"という ギャップイヤー

Q:帰国後はどうされたのですか?
 帰国したのが6月で、4月スタートの司法研修所には間に合わず、1年間無職になりました。大学卒業後、直接すぐに司法研修所に入りたいとは思っていなかったので、「まあ、いいや」と・・・。今で言う"私のギャップイヤー"の1年は、好きなことをしていました(笑)。

Q:そうですね、90年代初頭に英国でもギャップイヤー(非日常化での社会体験・就業体験)という言葉が定着した時期なので、日本ではその概念は知られてなかった。ところで、その時期どんなことをされたのですか?
 やはり、バイトをガンガンやっていました(笑)。学習塾や伊藤塾(司法試験等が専門の塾)が主なバイト先でしたね。
そのほか、国際的な人権保護機関の研究者の仲間に入れてもらって、調査の仕事をお手伝いしました。若手の研究者15人が集まって、一人1カ国を調査し、国際比較しました。私はスウェーデンの担当になり、スウェーデンに2~3週間程度行き、実態調査をして論文を書きました。
また、TBSに3カ月くらい研修に行かせてもらいました。TBSの顧問弁護士さんが、私を見て、「社会問題の最前線に行かないとだめだよ、ジャーナリストは最前線に行くので、ついて行って勉強しなさい」と。冬、ホームレスの取材で隅田川沿いに通ったりもしていました。すべて、今の私に役に立っています。

Q:まさに、それは社会体験中心のギャップイヤーですね(笑)。その後、2000年に弁護士登録をされ、5年間弁護士として経験を積まれました。2006年にはNYのロースクールに留学されていますね。それはご自分の選択ですか?
 いつか留学したいとは弁護士になる前から思っていました。司法研修所に通っているときに、大手のローファームからお誘いを受けました。大手ロ―ファームは、3~4年仕事をすると、1~2年、事務所のお金で海外留学させてくれたりする。それで一瞬、行こうかなと考えたのですが、よく考えると本当にやりたいのは人権問題。留学のために魂を売り渡してどうするかと思ってやめました(笑)。
それで、人権問題をやりながら自費でちゃんと留学はしようと思っていた。それで、5年間は弁護士として人権問題もやりながら、お金も貯めて初志貫徹したというわけです。


NY留学はNY大学が"人権の最前線"だったため、そこにたまたまHRWがあった

Q:留学先にNYを選んだのはなぜですか?
 NYは国連やNGOなど、人権のムーブメントの最前線だったので、もともと行きたかった。NY大学は、先生も実務家の方が多く、国際舞台で現役で活躍している方が多いのも魅力的でもありました。

Q:留学後はどうされたのですか?
 留学のあと、そのまま弁護士にもどるのはいやだなと思っていました。弁護士でも人権の仕事はできるのですが、基本的には儲からない分野なので、儲かる仕事と半々でやらざるを得ない。そうではなくて、ちゃんと人権活動することで給料がもらえる仕事、つまりNGOの仕事に就きたいという気持ちがあった。ただ日本には、弁護士を雇ってくれるNGOがなかった。それでロースクールに1年通いながらどうするか考えていました。
ロースクール修了後、1年間はNYに滞在できるビザが出たので、NGOを回って研究しました。日本に戻って新しいNGOをつくろうとも考えましたが・・・。
HRW(ヒューマン・ライツ・ウォッチ)の本部がたまたまNYにあり、とても興味があったのですが、新卒は採用しないし、当時の私にとっては非常に壁が高かった。
NYU( ニューヨーク大学)などの学生に向けて、1年だけのフェローシップ(研究奨学金)が出ていましたが、すごい数の学生が応募に殺到していて、とても私のようなアジアからの一留学生が太刀打ちできるものではないなと悟りました。
 それで、学術研究対象としてHRWを選んだんです。一種の知恵、戦術ですね。首尾よく、国際交流基金から1年間のフェローシップをもらい、HRWに1年間置いてくださいとお願いしました。
 それがブレイクスルーになり、全然期待していなかったのですが雇ってくれることになりました。


Q:ということは、留学前からHRW(http://www.hrw.org/ja)を狙っていたということではなく、偶然本部がNYにあったというセレンディピティだったのですね。ところで、このHRWは非営利の国際人権組織ですが、どのような規模なのでしょうか?

弁護士 土井香苗さん 世界各国に、約300人のスタッフを抱えています。日本にオフィスができたのは3年前で、まだあまり知られていません。私は、弁護士として5年間仕事していたときに、難民の弁護を多数したのですが、そのときに裁判所に出す資料として、よくHRWの資料を使いました。アフガニスタンやイランなどの状況を説明するためにいいレポートがたくさんあったのです。それでHRWの存在は知っていました。


人権や難民に関心を持ったのは、中学生時代に読んだ本から・・・
私にも何かやれることがあるのではと思ったんです。

Q:人権って、経済や文化以上に非常にファンダメンタルなものなので、なかなか実感がわかないですよね。そういう日本の状況をどうしたらよいと考えていますか?
 日本人で人権にあまり関心を持っていないことを気にされる方もいますが、基本的にはいいことだと思います。きちんと人権があるから、人権を意識しないですんでいるのですから。
仮に日本が、人権が侵害される国になったなら、その重要性にすぐに気づくでしょう。
私は、中学時代に、犬養道子さんが書いた『人間の大地』を読んで、難民の問題や人権問題に関心を持ちました。難民ってかわいそう、というだけでなく、その背後にある紛争、大国のエゴや政治的な思惑といったハードな面にもズバっと切りこんだ本でした。世界に虐げられた人々がいるなら、将来、私にだって何かできることがあるのではないか。それで、いつかはアジアかアフリカに行って、そういう問題を解決したいとずっと考えるようになりました。
 世界中には、人権が日常的に侵害されていて、どうにかしてほしいと考えている人がたくさんいます。
日本人は認識していないかもしれませんが、日本は国際的な大国なので、とくにアジアの国々に対して大変影響力があります。そのパワーを、人権問題の解決のために発揮してほしい。これからは「日本は人権の大国だね」と言ってもらえるような国にしていきたいと思いますね。


ギャップイヤー期にあたるエリトリアで考えた「自分は弁護士の資格をもらえたけど、そのまま弁護士になっていいのかなと」

Q:人権も、国家間の相互扶助・互恵という側面があるのではないかと思ったのですが・・・。
つまり、現代の日本ではほとんど人権を蹂躙(じゅうりん)されることはないけれど、そうなることはありうるわけで・・・。その際、国家同士で相互チェックという見方をすると、他人事ではなくなる・・・。

 人権保護は施しではないですね。人権活動は、お金をあげるという話ではありません。基本的には各国が、「人権守る」という義務を持っている。自分の国の人たちの表現の自由は守るとか理由なく拘束はしませんとか、野党だからといって弾圧しないとか、女性だからといって差別しないとか。それは国家の義務なのです。
国家が義務違反をしているときに、「やめなさい」と求めるのが人権保護運動であって、何かをあげるというのではない。現地の人が、「私の人権を奪うな」と要求しているので、それをサポートするのが仕事です。
しかし日本には、海外の困っている人を助けるというと、ものやお金あげるという発想しかない。エリトリアに行った当時の私も、難民問題に興味はありましたが、解決法というと、難民にものをあげるという発想だった。
エリトリアに行った理由の一つは、自分は弁護士の資格をもらえたけど、そのまま弁護士になっていいのかなと・・・。もともと国際協力とか国際関係に興味があって、そっちの方面に行きたかったわけですし。発想が乏しく、国際協力というと、ものをあげることかなと思っていたので、せっかくだから、エリトリアにいって、現場を見てみようという気持ちもあった。すると、エリトリアでは、ものをもらう活動を政府は心よく思っていなかったんですね。そのようなことがあって、思っていたほど援助するという活動が魅力的に思えなくなった。
日本はお金持ちの国なので、モノやお金をあげるということで、国際貢献をしてきたけれど、それだけでいいのかなと思うようになりました。
「金の切れ目が縁の切れ目」だったら悲しいじゃないですか。
日本の価値観というか、理想の姿というのが重要ではないかと。その理想のために日本も汗をかきますよとか、日本もそのために立ち上がりますよという、日本のソフトパワーを見せてほしい。
ただ、今、日本のソフトパワーというと、マンガなどの文化だと思うんです。それも重要ですが、文化だけじゃなくて、政治的なリーダーシップもとれるようになっていくべきだと思っています。その中で、お金だけじゃない、次のステップを日本は確立していくべきです。 
そのひとつが人権であり、人間を守る思想ではないかと思います。環境を守るという姿勢もそうだと思います。
日本は今まで、平和主義国家ということを世界に打ち出してきたわけですし、他にもいろいろ日本が打ち出していくべきソフトパワーはあると思います。
簡単なことだけじゃなくて、難しいことにもチャレンジしていかないといけないのではないかと思いますね。
人権って、紛争とか独裁とか、ハードコアなイシューなんです。私は知らない、難しい問題は他国に任せたと言うほうが楽だけど、カッコよくはないですよね。尊敬される国にはならない。
次の日本は、そういう難しい問題にも挑戦していける国になってほしいなと・・・。

日本人は"素朴な正義感"を持つことが大事


Q:若い人に、人権意識を高めもらうために、どんなことを訴えたいですか?

弁護士 土井香苗さん "素朴な正義感"を持つことではないでしょうか。日本人はもともと持っているものだとは思いますが・・・。
日本は平和なので、それを発揮しなければならない場面がたくさんあるわけではないですが、不当に扱われている人とか、不当なことがあれば、それはおかしい、と思って、勇気を出して声をあげられる人であってほしい。
理不尽なことを見てみぬふりしないことが人権を守るということの基本なのです。
正義感をもって生きるのはカッコイイことではないかなと私は思います。

Q:カンボジアの児童売春問題に取り組んでいる「かものはしプロジェクト(http://www.kamonohashi-project.net/)」の村田早耶香さんは、売られる子どもの問題の実態を知ってしまって、これを見ないふりはもうできない。知った以上人権問題に関わらざるを得ない、ということでプロジェクト立ち上げた。そういう正義感の強い人は確かにいますね。
 若い人に限らず、多くの日本人が正義感を持っていると思いますね。だから、今以上に何かしろと言っているわけではないんです。ただ自覚することはいいことではないかと思います。自分のパワーとかメッセージというのは、自覚しないと生まれてこない。いいものをもっている人でもそれに気づかなければ、他人に影響を与えることはないと思う。

日本人は、日本人が思っているよりもいいものを持っています。それを自覚して、せっかくだからそれを他人ともシェアする。日本の中の他人ともシェアし、世界中の人ともシェアする。そうなっていくと、日本の魅力がすごく増すと思います。
おいしい食べ物があるとか、ファッションが面白いとか、マンガが面白いとか、それにプラスした、パワーになっていくんじゃないかなと思います。


将来、日本が"人権大国"だと言われ、尊敬される国になってほしい

Q:土井さんが、将来こういう人になりたいというモデルはあるのですか?
 難しいですね。海外ではいろいろな人がいるのですが、人権のエリアで巨匠と言われるような人は、残念ながら日本にはいないです。最も近い人では、JICA理事長の緒方貞子さんですが、人道のエリアですので、人権活動とは違う。ですからモデルというのは私の中ではないです。
単純に、その日その日、やりたいことをブレずにやってきました。岐路に立つことがあったら、世界の人権のためにどっちがいいかということで選択してきたので、今後もそういうふうにやっていきたいですね。
日本人としては、将来日本が「人権大国だね」と言われて尊敬されるような国になったら、本望です。

Q:土井さんの活動は、日本にとって必要不可欠な"警鐘"でもありますよね。つまり、今、日本は人権侵害されていると感じる人は少ないかもしれないけれど、今後日本もそうならないとは限らない。小さな蹂躙だったら、今でもあるわけですし・・・。
 そうですね、お隣の国といえるフィリピンだって、「超法規的処刑」みたいなものが存在する。60年前にさかのぼれば日本だって、軍事大国で表現の自由がなかったわけで、新聞も自由にものが言えなかった時代でした。多くの人が、表現の自由を行使しただけでつかまったり、獄中で亡くなった人もたくさんいらした。日本も過去はそうだったので、これは重要だと意識して、不断の努力で守っていかないと。
人権って蹂躙したほうが権力側にとってはラクなんですね。自分の納得いかないものは新聞だって閉鎖しちゃえと。権力保持のためには楽なんです。ですから市民の力でしっかり監視して、健全な社会にしていくという努力しなければならない。あまり自覚せずに努力しているんだと思いますね。そういう問題があれば、メディアも書きますし、そういうシステムが機能していると思います。


簡単なことではないが、人生一度きりだから自分の信じる道を行く

Q:今までのキャリアから、若い人にメッセージやヒント提示はありますか?
 簡単なことではないのですが、自分の信じる道を行くということですね。人生1回しかないので、納得できる人生を歩むべきではないかと思います。
例えば、私も弁護士になるときに、大手ローファームに入ろうかって一瞬思うわけです(笑)。それのほうが楽ですし、社会的にもみんなに「すごいね!」と言われるわけですし、誘惑はありますよね。自分の人生が2回、3回あるのなら、1回くらい大手ローファームに入ってみたいという気持ちは今でもあるのですが(笑)、1回しかないのなら違うんじゃないかなと・・・。
ですから、大きな選択のときには、人生は1回しかないんだということを考えて選択してほしい。保守的になるのも、一つの正しい判断だと思うので非難するつもりはありませんが、チャレンジすることも一定程度の人は選択していく社会というのが、社会を元気にしていくのではないでしょうか。新しいことに挑戦していく人が、社会に必要だと思いますね。


【インタビュー後記】

"経歴・肩書きの強烈さを忘れさえせてしまう優しさを持ちながら、筋をちゃんと通す人"  

 「東大法学部に現役入学、3年秋に司法試験に最年少合格(当時)、人権派弁護士から、世界の人権問題の総本山である国際NGO ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)の日本代表」――もし土井さんと面識なかったり、雰囲気や著書を知らない人だったら、この"形容詞だ"けで、まずは"おっかない"、間違ったことを言ったら大変だと気構えるに違いない。あるいは、何か"とんがり過ぎ"て怖いと思われるかもしれない。しかしながら、実際お会いしてお話した途端、多くの方はそのイメージの違いに、拍子抜けというか、ジェットコースターの高低のように意識の落差を感じるだろう。大学受験時頃からご両親の不和があり、行きたかった教養学部ではなく、親の言うことを聞いて素直に法学部を選んだのは、言葉にはなかったが、娘として従順になることでの両親の関係修復への期待か配慮からではなかったか。その証拠に、東大入学後、家庭が崩壊した途端に妹さんと家出し、家賃10万円のアパートに覚悟を決め、移り住んでいる。困難な自立生活を送りながら、当時史上最年少で司法試験に合格してしまう集中力と心に秘めた闘志、何よりその努力は、筆舌ににつくし難い。ただ、ご本人の名誉のため書くが、涼しい顔をして、「それほど、性も根も尽きるほど勉強した覚えはない」と笑っている。


 ギャップイヤー期にあたるエリトリアで考えた「自分は弁護士の資格をもらえたけど、そのまま弁護士になっていいのかなと」という感慨は、土井さんのその後のキャリアにとって極めて重要なファクターになっている。やはり、非日常下で自分を見つめなおす時間は、決して無駄でも空白でもなく、いわば「真実の時」だ。


 「人権」という"生死と尊厳"に係るテーマは、重く大きい。しかし、土井さんはそれを必要以上に声高にアジテートするでもなく、日本人みんながわかりやすいように、取っ付きやすいように伝承する"語り部"のような実務の人だ。そして、中学生の頃描いた少女の「人権」への想いは、大学学部時、卒業後の無職のギャップイヤー時代、人権を扱う弁護士になってからも、そして現在のHRW日本代表になってからもブレることなく一貫性があり、筋が通っている。
 土井さんの"巻き込む力"は、匕首(あいくち)で強引に"従属させる力"や相手を論破して"屈服させる力"ではなく、それは、まるでスポンジのようにソフトで、周りはいつの間にか吸収されてしまう"引き寄せる力"だと強く感じた。(砂)
編集・写真: 石井栄子

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