私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第13回 アジアで子どもが買われる現状を看過できないとNPO「かものはしプロジェクト」を立ち上げた 村田早耶香(むらた・さやか)さん

第13回 アジアで子どもが買われる現状を看過できないとNPO「かものはしプロジェクト」を立ち上げた 村田早耶香(むらた・さやか)さん東京都出身、フェリス女学院大学国際交流学部卒業。大学在学中の2001年、東南アジアNGO訪問時に「売られる子どもの問題」の深刻さを知り、2002年に仲間と共に「売られる子どもの問題」問題に取り組むかものはしプロジェクトを設立。10歳未満の子どもまでもが被害にあっていたカンボジアで、「売られる子どもの問題」を防止するため、職業訓練と雇用により家庭の収入を向上させる雑貨工房を経営。また、警察訓練の支援や孤児院運営の支援を通じて、「売られる子どもの問題」の根本的問題解決に取り組んでいる。

(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)



きっかけは"国際協力"に興味を持ったことから

Q:今、振り返ってみて、どんな中学生、どんな高校生でしたか?
 中学・高校生の時は正直そんなに目立つタイプではなかったと思います。成績もそんなに良い方ではなかったですし、すごく活発で目立つタイプの子ではなかったです。ただ好きなことはすごく一生懸命やっていました。高校生の時、部活では和太鼓をやっており、全国大会に出て準優勝したのはいい思い出です。  中学生の時に池上彰さんの週刊こどもニュースで「国境なき医師団」を取り上げていたのを偶然見ました。レポーターが同じ年齢の中学生だったのですが、「国境なき医師団」の現場に行って、わかりやすくレポートしていました。そのお医者さんがアフリカの農村で医療活動することで何百人もの人が助かっているということを知り、国際協力に興味を持ちました。そして高校生の時に国際協力について調べ始めて、外務省に話を聞きに行ったり、青年海外協力隊の説明を聞いたりしました。 そして大学に進学し、国際協力について継続して調べて勉強しました。「こんなに好きなことを勉強すると大学では単位になるんだ」と思ったことを記憶しています。

Q:中学時代にお父さんにおこづかいの値上げ申請をされたとか(笑)?その時のエピソードを教えてください。
 父にお願いしたら、たった1万円で同じ年の子がタイやカンボジアでは学校に通えると話をされました。私のお小遣い数ヶ月分で途上国では学校に通えるんだと言うことを知り、「私でも頑張れば支援出来る!」と思いました。途上国と日本では貨幣価値が全く異なるので、日本では少額でも途上国では大きなインパクトを生むことをその時知り、"ハッ""としました。

Q:お父さんのお仕事は海外関係ですか?
 いいえ、国家公務員です。しかし、父が仕事で行ったマレーシアやインドネシアの方たちにすごく親切にされて、それでアジアの人に恩返ししたいということで、私が13歳の頃から毎年3日間、夏の間ホームステイの受け入れをしていました。それ以外に年間4人ほど身元の"保証人"になっていたので、半年に1回は留学生が遊びに来ている状態でした。ですので、私にとってアジアはとても近い存在でした。

Q:国際交流やアジアのバックグラウンドが家庭内にあったと考えられますね。そして、いよいよ大学の選択となりますが?
 受けたい授業、国際協力の授業がたくさんあったので、フェリス女学院大学に進学しました。例えばUNDP(国連開発計画)駐日代表で国連事務次長補兼UNDP管理局長の弓削昭子先生。一時期フェリス(1999~2002年)で教えておられて、その時期に授業を受けることができました。他にもNGO出身の方とか実務家による授業がたくさんありました。


授業で知った「子どもが売られる現実」を自分の目で確かめてみて

Q:西尾市にはどのくらいの期間いたのですか?
 9月から2月までの半年です。保育園だけではなくて、週2回は、宿泊していた老人ホームで介護補助のボランティアをしていました。

Q:スタディー・ツアーに参加したのは大学2年生でしたね、きっかけは何だったのですか?
日本でギャップイヤー経験をし、ICUに入学卒業した後、オックスフォード大学大学院に進学し、来年大手総合商社に入社する英国人ウォレン・スタニスロースさん 弓削先生の授業で、売られた子どもの話を新聞記事で知ったことがきっかけです。その子は当時20歳で亡くなり、当時19歳だった私とたった1歳しか違わない歳でした。もともと12歳の時に、家族を助けるために働きに出て、その後14歳の時に騙されて売春宿に売られてしまい、最後はエイズを発病しました。その少女が何故家を出たかというと「大好きなお父さん、弟や妹達がお腹いっぱい食べられて、弟や妹達が学校に行けるようにしたい。出稼ぎに出るのは怖いけれども、家族のために出稼ぎにでる」と。でも結局死んでしまった。そして、彼女の最期の言葉がその新聞記事に載っていました。その言葉は、「学校に行って勉強っていうものをしたかった」 私は学校に行ってそんなにしたくないと思っていた勉強を彼女はしたかったということを亡くなる前の最期のことばで残している。それがすごくショックだったんです。 しかも売られた金額が1万円。その時の状況は毎日殴られながらお客さんを1日に10人近くとらされていたと書いてあった。当時の私は大学に行っていて、親のお金を使っていて、親孝行をしたことがありませんでした。家族を助けようとした子が亡くなっていて、勉強するとか生きるとか当たり前だと思っていたことが奪われている現状。日本で1万円といえば、ワンピース1枚我慢したら助けられた金額。「本当にこんなにひどい状況があるのか?」と気になって調べてみたら世界にはこんなひどい現実があると調べていくうちに分かりました。世界中に毎年200万人もの子どもの被害者がいることが分かって、現場に行くスタディー・ツアーに参加することにしました。一方で「これはNGOの人が支援を受けるために誇張して書いているじゃないか」という疑いの目もあって、実際に自分の目で現場を見て確かめようと。アルバイトをしてスーパーマーケットの試食販売を一生懸命やって、お金を貯めて行きました。そうやって貯めたお金を使って、大学2年生の夏休みに10日間ほどタイに行きました。

Q:タイの地域はどちらでしたか?
 タイの山岳部で、北タイと東側のイーサーンと呼ばれる貧しい地区です。

Q:そこで"売られた"子どもたちと会われたのですか?
 間接的に被害にあった人たち、つまりお母さんが17歳で買春させられて、19歳くらいで既に亡くなってしまい、残されたエイズ孤児と出会いました。その5歳の子ども達もいつ発病してもおかしくない状況でした。「この子がHIVを持って生まれたのは誰のせいだろう?」と考え、「売られる子どもの問題」をした人たちやそれを斡旋している人たちに責任があると強く思いました。本で読んだり文献で調べたりすることは"机上の空論"ではなくて、本当にこういうことがあることを知って、なんとかしたいと思いを強く持ち、日本に帰って来てから活動を始めました。

Q:事業展開がタイでなく、カンボジアだったわけは?
 この問題は状況が変わりやすく、5年単位で状況が変わっていきます。タイでは2000年に取締が強化され、法律も改正されて、タイで子どもを買うことが難しくなりました。私が活動を始めたのが2001年ですので、ちょうどタイの状況が良くなってきた時期でした。日本語の文献というのは現地で文献が出て英語の文献にして日本語化するので、タイムラグがあって情報伝達が遅れます。日本語の文献は90年代のことばかりで、タイがひどいと書いてあった。「かものはしプロジェクト」を作る時に、英語の文献や現地調査をしてちゃんと調べてみると、タイではなくカンボジアがひどい状況だとわかりました。カンボジアに仲間が行って現地を調査したら、5歳の子どもが売られていることが分かりました。そこで、対象国をカンボジアにしました。


"会議では現状は変わらない、ならば自分で団体を創ろう!"

Q:大学の2年生の時に、ご自身の考えに近いNGOで半年間ボランティア活動をされていた。それは「かものはし」を始める前ですね。
 当時、自分なりに動きました。その過程で世界会議にも出させて頂きました。政府間レベルのトップ級の会議にも参加しました。しかし、大枠は大きな会議で決まるものの、現場で苦しんでいる子ども達が守られるまでに時間がかかる。自分の当時の力を出しきって最大限頑張って、意見を出しました。それが国連の文章の素案になって、世界中の人にその文章を見てもらえる状態になりました。外務大臣クラスの国のリーダーに私たちの意見が聞いてもらえたと思いました。 しかし、それでも世の中は変わらないと気づいた。継続的にやり続けないと変わらない。法律改正させたり、条約を批准させたり、予算配分を変えたり等の具体的なことをしないと変わらない。加えて、現地の子どもたちに支援が行き届くレベルで活動しないといけないことに気がつきました。  またその会議で気づいたことがあります。「売られる子どもの問題」について、世界でもっとも活動している人たちが3,000人集まっていたのですが、その人たちだけでも十分な変化をつくることができなかったのです。かつ日本は加害国としてすごく有名でした。「児童ポルノを一番作っているのは日本です」とか「加害者をアジアで一番出しているのは日本です」と言われているわりには、この問題を知っている人も活動している人も少ない。最も活動している人が集まっているはずなのに層が薄いことに気づきました。子ども・若者代表も日本人が30人くらいでしたが、会議の基調講演を作るグループに入ってしまい、彼らと一緒に文章を作りました。まだ活動を始めたばかりの私が文章を作っるくらい層が薄いことに驚いたと同時に、取り組んでいる人が少ないんだったら気がついた人がやっていかないと変わらない、タイで出会ってきた人たちを誰が守るんだと強く思いました。この問題を知ってる人が伝えて、動いていかないとあの人たちは守れない。それで活動していこうと思いたちました。

Q:確かにタイに行かれたのは2001年8月。同じ年の12月に第2回世界会議に参加されている。4ヶ月しかないのに、そこまでの活動をされた。ある意味層が薄いと考えられるのも当然かもしれませんね。その後、NGOでボランティアを半年ほどされて、そこの理事会で、ある提案書を出されたとか?
 大学の3年生の時に作成したもので手のこんだものではありませんでした。その当時「売られる子どもの問題」防止に関して、そのNGOではリソースが割けなかったので、理事の方にプレゼンしましたが、通りませんでした。結局半年間その団体でボランティアをしたのですが、既存の団体でやって通らないんだったら、自分で団体を創った方が早い。それで動き回っている時に、今の仲間と出会って、一緒に団体を創ったという経緯です。


さまざまなハードルを乗り越えて結成10周年

Q:カンボジアの職業訓練センターでインターンをされたのはいつ頃だったのですか?
 カンボジア国内のNGOを1ヶ月で40団体くらい回りました。その中のNGOの一つで1週間ほどインターンをさせていただいたのが、大学4年の4月〜5月です。そこで子どもたちと一緒に遊びながら、日本語を教えていました。

Q:20歳で2002年、大学3年生の時に、任意団体でスタートされましたが、当時のご両親の反応はいかがでしたか?
 団体を作って活動することは反対ではありませんでしたが、卒業してカンボジアに行くことは反対していました。

Q:就職活動は3年の時に始まったと思いますが、ご両親は"通常のレールに乗る"のが当然だと考えられたわけですね。大学は、現役で入学されて、休学せずに卒業された?
日本でギャップイヤー経験をし、ICUに入学卒業した後、オックスフォード大学大学院に進学し、来年大手総合商社に入社する英国人ウォレン・スタニスロースさん日本でギャップイヤー経験をし、ICUに入学卒業した後、オックスフォード大学大学院に進学し、来年大手総合商社に入社する英国人ウォレン・スタニスロースさん そうです。

Q:大学を卒業された2004年に事務所を立ち上げて、任意団体からNPO法人にもなっていた。カンボジアに作られたのですね?
 はい、プノンペンです。

Q:現地でカンボジア人をパソコン教師として採用し、当初は孤児院の生徒向けに教えられていた?
 そうです。

Q:めでたく04年9月にNPO法人を取得され、村田さんがカンボジアで活動されて、共同代表のお二人は日本で活動し、その後3年でパソコン教室は一区切りを付けられました。それは、どのようないきさつだったのですか?
 最初タイでの事業モデルを考えていました。タイは中学の卒業者が多いので、タイであればパソコン教室をして日本から仕事を持ってくることがあり得た。カンボジアでそれをやろうとすると、対象者と事業内容がずれている。現場では葛藤がありました。事業モデルはずれているが、ビジネスとしては成り立つ。ただ対象者はまったく学校に行ったことがなかったり、1,2年でドロップアウトしている子がほとんどでした。「売られる子どもの問題」の被害者は大半が教育を受けたことがなかった。その人たちにパソコン教育していくことは時間とコストがかかります。それよりも農村支援に切り替える方が費用対効果が高かったし、被害者は農村出身の子どもたちが多かった。事業モデルを変えたほうがいいというのが現地から出ていて、ただ日本からはパソコン教室をやるというのでお金をいただいていた。途中で急には変更できなくて、現場ではフラストレーションがたまっていました。事業モデルを変えるというのは、意思決定をしながら戦略を変えることが必要でした。当時それがうまくいかなくて、団体の根幹を揺るがす議論がありました。「ミッションを取るか事業を取るか」という議論の中でミッションを取り、事業モデルを変更しました。

Q:農村支援は雑貨を作る工房が主な事業ですね。「警察訓練支援」とはどんな形だったのですか?
 政府がやっている警察官へのトレーニングの能力アップのための資金を出しています。本来警察が加害者を捕まえ、裁判で裁くべきなのですが、現実は女の子と外国人がホテルに入っていても捕まえないし、売春宿で子どもが売られていても誰も摘発をしない。警察官の摘発能力が低いので、証拠品を集めていなくて裁判で有罪判決が出ない。カンボジア国内でもそういう状況で、ましてや保釈金を払って海外に逃げてしまった加害者はアメリカや日本の裁判で証拠品になるようなレベルの証拠品はないし書類も作れない。証拠品を押収が出来ていないので、有罪判決がほとんど出ない。いくら法律を整備しても現場の警察官がちゃんと動かないと加害者が逮捕出来ない。それで、現地の警察官の能力を上げるために法律の内容を理解してもらう座学の講座、摘発の仕方、証拠品の押収する実習などを訓練しています。また犯罪者データベースを作って海外に逃げてもすぐ情報が来るようにすることや、「売られる子どもの問題」ホットラインを立ち上げ、その電話番号をゲストハウスやホテルに貼って、もし「売られる子どもの問題」を見つけたら電話してもらうような仕組みを作りました。

Q:専門性が高いですね。
 私たちがやっているのではなく、それに対し「資金援助」をしているのです。被害者を出さないようにしていても加害者が大手を振って買っていることを自慢している現状だったので、なんとかしたいとずっと思っていました。被害者を出さないようにする農村支援を始めて、いろんな人にかものはしプロジェクトの活動を認知してもらえるようになり、警察支援を一緒にやらないかという話がきました。それで加害者の処罰に関しても、サポートするようになりました。

Q:2009年から、売られてしまうリスクの高い子どもたちがいる孤児院の支援をされていますね。規模はどれくらいですか?
 いろんなプロジェクトに取り組んでいる孤児院なのですが、その中でも親元に帰れない、返すと売られてしまうリスクの高い子どもたちを保護している施設です。常時50人ほどが暮らしています。タイとの国境の町に住んでいる再貧困層やストリートやスラムで暮らしている子どもたちは、タイ側に売られやすい。タイでは物乞いをしたり、物売りをしたり、ひどい状況で働かされる。物乞いのお金が集まらないとご飯を何日も食べさせてもらえなかったり、殴られたりわざと怪我をさせられます。一度働きに出て戻された子どもたちは、売られやすい最貧困層の親元に置くとそのまま売られてしまうので、一時保護施設に入れて親への経済サポートをするのですが、それでも難しい場合は、その孤児院で暮らしています。


つぎは、インドでも展開

Q:かものはしプロジェクトは10周年を迎えられましたが、これからの5年10年の展望はいかがでしょうか?
 インドに展開を始めていて、インドでのサポートを今後進めていきます。この問題は法律が変わったから、急に問題がなくなることもありえるので、常に状況を見ながら活動していきます。インドは自立心が強く、非常に優秀なインドの人たちがNGOでこの問題に取り組んでいるので、現地の人たちをサポートしていきます。ただインドは土地が広いので都市によっては全くこの問題に取り組んでいない場所もある。それで、その団体の活動の支部を作って、団体のサポートをしています。

Q:NPOの運営の議論として、ある意味いい評価でもありますが、「かものはしプロジェクトの活動は村田さんしかできなかったですね」とか「これからも村田さんにしかできないことですね」と言われたらどうでしょうか?属人的になりますが...
 「売られる子どもの問題」防止の活動に関しての想いが一番強いのは私なので、想いを伝えるのは私が一番得意かもしれません。実際に出会ったタイやカンボジアの子どもたちとの出会いが、10年の活動を継続する原動力になっています。でも、貧困削減や雇用創出は私がいなくてもできると思います。


上手くいかないことがあってもキャリアは人それぞれ、努力したら道は拓ける

Q:中高生・大学生に伝えたいことは?
 留学したり旅に出たりするのは見聞を広げられるので、自分の人生を豊かにします。日本では、世の中の仕組みは一番数が多い人向けにレールが作られているので、そのレールから外れると"生きにくさ"はあるかもしれません。でも外れたとしても自分がしっかりしていれば、自分がやりたいことができ、遠回りしても結局近づいていることもあります。  私の場合は、就職を全くせずに団体を立ち上げ、10年やってきています。ちょっと"ふつう"とは違う。大学を卒業した時点で社会からこぼれおちた感覚は、正直ありましたね。例えば当時は、クレジットカードが作れないとか身分証明書がなくなってしまうとか・・・。これまではフェリス女学院大学の村田だったが、会社に入らなかったら○○会社の○○というような身分証明書がない。社会から認められていない存在なんだと感じました。 また、保険・税金の仕組みが全然わからず、年金は払い続けながら、103万以上稼げなくて、アルバイトという状態で働いていました。団体設立当初は月3万円くらいで暮らしていました。金銭的にも非常にきつく、親の扶養に入ってなかったら、医者にもかかれない状態でした。  その時にやっぱりメインストリームにいた方が安全なんだ、だから敷いたレールの上を歩めば良かったと後悔しました。そんな中、私の周りには「類は友を呼ぶ」で不思議なキャリアを積んでいる人がたくさんいた。イギリスで起業する人や、世界一周している人など色んな人がいました。そこで気づいたのは、キャリアは人それぞれで、生きにくさはあるけれど、自分さえしっかりしていればどんな状況でもやりたいことはできると思いました。  もともと高校生くらいの時は外務省で外交官になりたかった。受験を上手くできなかったので、そのキャリアは遠いなぁと思いました。でも「国際協力」の仕事は今まさにドンピシャでできている。外交官になることだけが「国際協力」に関わる方法ではないと思います。確かに肩書きとか組織に入れるとかとは違うけれど、自分なりに専門性や力があればやりたいことはできると思います。

Q:今お聞きしていて思ったことは、人材育成のプロジェクトを一般企業と協業されていますね。つまり、既存の企業も「かものはしプロジェクト」を認めてしまっていて面白い。メインストリームから離れているようにみえて向こうからもアプローチがあって、一緒にできることがないかというのが今のステージですね?
 余りにも外れちゃったという感覚が、卒業した後、強かったのです。でも努力をしていって本当にどうしたら子どもたちが助かるのかとか国際協力はどうしていくべきか考えていました。地道にやって力をつけていって、いろんな人からサポートしてもらえるようになりました。そして資金も集まるようになりました。カンボジアで職業訓練センターをやって、警察支援もやって積み重ねていった結果、何が起きているかというと周りに仲間が増えていて、私がやりたかったことに近づいています。さらにやり方は沢山あるので、決まったやり方だけではないことに気づきました。

Q:JGAPでエッセイを書いている学生のひとりも実は「かものはしプロジェクト」でインターンをして鍛えられて、その後さまざまな活躍をしています。最近スタッフとかで"ギャップイヤー"ということばを聞くことはありますか?
日本でギャップイヤー経験をし、ICUに入学卒業した後、オックスフォード大学大学院に進学し、来年大手総合商社に入社する英国人ウォレン・スタニスロースさん 周りから聞くことはあります。秋入学のこととか。今このインタビューの窓口をしてくれた彼女はギャップイヤー中で、休学してインターンしています(笑)。

Q:大学卒業しても仕事に就かない・就けない人が10万人も存在する現実。そんな中で、社会体験・就業体験というギャップイヤーの概念が、日本でも議題に上がってきた。高校から大学までの期間だけでなくて、大学卒業後の就職・起業も充実した時間がもてるように創っていこうという仕組み提言だと言えます。
 すごく伝えたいのは中学・高校・大学受験とか就活で失敗したと思ったら、人生が終わったと思ってしまう人が多い。私も大学受験が上手くいかなくて「あ、もうこれで人生終わった」と思いました。それに親の反対で浪人が出来なかった。でも結果的にはそれでよかった。大学に入学後、結構努力したので成績もそれなりによかったです。そして大学で弓削先生に出会っていろんなチャンスをもらえました。大学入ってすぐにノーベル平和賞を受賞したジョディ・ウィリアムズ氏が来校して講演された時に、学生代表スピーチに選ばれたんです。それは周りの人たちが活動しているからと推薦してくれました。2年生で世界会議にも参加出来ました。メインストリームから外れてしまったけれども、努力次第で自分の道は拓けるし、やりたいと思った勉強が出来て、突き進むことが出来るし、新しい道は拓けたんです。人間ってどこで努力するかだけなので、私の場合は、大学に入ってから努力したというだけです。それだけで人生が終わるわけではないから、そこで上手くいかなかったといって投げ出さないでほしい。そこから先の道は努力したら絶対に拓けるということを伝えたい。

Q:それぞれの人生だから、上手くいかなかったと自分で簡単に、また勝手に決めつけてほしくないですね。
 私たちの親の世代はいい大学に入ったらそれで安泰だと思っている人が多いかもしれませんが、今の世の中はそうではなくなっていると思います。コミュニケーション力があるか、モチベーションがあるかとかで変わってきます。時代は日々変わっています。


【インタビュー後記】

"落ち着いた強い炎を絶やさず保てる人"

 インタビューの随所で、村田さんの感性を感じる読者は多いことだろう。 中学生の時に偶然見た、池上彰さんの週刊こどもニュースで「国境なき医師団」の存在を知り、「国際協力」に興味を持つところ。1万円で同じ年の子がタイやカンボジアでは学校に通えると話を聞き、自分のお小遣い数ヶ月分で途上国では学校に通える対価であることを知り、「私でも支援は出来る!」と自分の問題に落とし込めるところ。「少女が売られた金額が1万円。日本で1万円といえば、ワンピース1枚我慢したら助けられた金額」という発想と表現。 普通の大学生は、こんな途上国の現状を知っても、そのときは心を痛めても、心に引っかかっても、その解決のために人生を賭ける事業を興すところまではいかないだろう。それは、"瞬間に燃え上がり強いが持続しない炎"でもなければ、ろうそくのように"持続性はあるものの風が強ければ消えてしまう弱い炎"でもない。"強くて、持続する炎"だ。村田さんのギャップイヤーは、大学4年の4月〜5月のカンボジアでのインターンで、概念でいうと「ショート・ギャップ」だろう。その時期、40団体ほどのNGOを廻ったという。それで、卒業後の自分の進路に腹をくくり、かものはしのマネジメントや方向性を確認した時期だ。 「かものはしプロジェクト」は、村田さんの言葉を借りれば、多くの人に支えられた10年だという。村田さんの著書「いくつもの壁にぶつかりながら」に、"最初のオフィス"について触れられている箇所がある。「今は渋谷だが、最初は一軒家の一室。お金がないので、粗大ゴミ置き場から拾ってきた机を使っていた。事務所で夜遅くまで仕事するときも外食なんてもってのほか。みんなで鍋を作って食べた。」 これを読んでも、村田さんの無謀とも思える「最初の勇気ある一歩」なくして、かものはしは今日生まれ得なかったことも事実だろう。社会を変えるのに、「最初の一歩」である強い想いと勇気と決断、これほど大事なものはないと今更ながら唸ってしまった。(砂)

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