私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第4回 高校中退含め、日米の3高校・2大学を駆け巡ったNPO法人代表 特定非営利活動法人 自殺対策支援センター ライフリンク代表 清水康之さん

特定非営利活動法人 自殺対策支援センター ライフリンク代表 清水康之さん 1972年東京生まれ。1988年高校1年修了後に中退し渡米し、同年9月に米国カンザス州ローレンス高校2年生に転入。1年でワシントン州 レイクワシントン高校に転校し、90年に卒業後、帰国。その後、旧ソ連や東欧をバックパッカーとして、見聞を広める。92年9月にニューヨーク州立大学入学、94年に国際基督教大学へ編入。96年6月に大学卒業後、97年にNHKに入局、「クローズアップ現代」などを担当。04年 NHKを退職し、NPO法人「ライフリンク」を設立。10年間で32万人と、中堅都市が忽然と消えるような自殺者数の現状は個人の問題と捉えるのではなく、社会の問題と位置づけ、国や自治体、民間団体や専門家が一体となって社会全体で自殺対策に取組む連携の仕組みづくりを始めた。以来、代表を務め、「自殺対策基本法」成立の原動力にもなった。著書に『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』(共著、10年3月 講談社)、「闇の中に光を見いだす~貧困・自殺の現場から~」(共著、10年3月 岩波書店)など。
(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)

我慢した先の人生も大人の姿も魅力的だと思えなかった・・

Q:まず、清水さんにとって、ひとつの大きな転機は、1988年の高校1年修了時に中退されたということだと思うのですが、その時の心情は? 特進クラスに行けるような成績であったのに辞めてしまったのは、どういう背景があったのですか?
 ひとつは、自分自身が納得して高校生活を送れていない。なんで勉強しなければならないのか。何故貴重な10代半ばから後半にさしかかる極めて多感な、おそらく人間形成においても重要な時期に、理由がわからないのに勉強漬けにならなければならないのか。理由がわからないのに、より点数をあげろあげろと半ば強要される。それに疑問を感じながら、反発をしながらも、それをやれてしまうようになると自分の人生は一体なんだろうと思ったんですね。これから先も納得がずっといかないことも、大人に強いられてやり続けるような人生がこの先出来てきてしまうのではないかいう漠然と疑問を感じていました。私は団塊ジュニア世代ですが、「勉強しろ、より名の知れた大学に入って、安定した企業に入れとそうすれば幸せが待っている」というような、そう言う大人や、そういう社会が魅力的なものかどうか。私には全然魅力的に映らなかった。今を我慢して、自分の納得いかないことをやり続けられるような大人になっちゃった、その先に待っている人生も決して魅力あるものではない。むしろこういう大人になりたくないなと・・。疲れて酔っぱらって電車で人に怒鳴り散らしたり、楽しそうに見えない大人たちになってしまうくらいだったら、今の時間をもっと自分の納得のいく形で過ごしたいと思った。我慢した先に輝けるというかこのような大人になりたいと思えたら、我慢したと思う。我慢した先に待っているだろう人生も大人の姿も魅力的には思えなかった。だから、我慢する理由がない。だったら自分で今やりたいことをやった方がいいのではないか、それで高校を1年で辞めました。当時は、まだ不登校という言葉もなく、高校中退です。でも、リセットしにくい社会ですが、あとで結果を出せばいいとも思ってました。

Q:やりたいことはすぐに見つかったのですか?
 いや、すぐに見つかったわけではないですね。私も結果的にアメリカに行ったんですけど、最初からアメリカに行こうと思って辞めたわけでなく、とにかく自分が生活しているいろんな強要されている空間から抜け出すというか逃げ出すというかそういう必要があると直感したんです。単純に「アメリカは自由そうだ」とも思っていました。今だからこそ、当時のことを振り返って、理由があるように話ができますが、当時の感覚としてはとにかくこの場(高校)にいて3年間我慢し続けて、理不尽なことに対しても何も言えなくなるような、我慢できちゃうような、受け入れられてしまうようなそういう大人になりたくないなというのが先にありました。ほんとにそこから抜けだすことができるようになるのかと・・。というのはわからずに、そこに居続けると自分の大切なものがどんどんそぎ落とされていくという感覚があったので、それで辞めました。私の場合は、ほんとに運がいいことに父親が大学院時代にアメリカに行っていた経験があったので、それで知りあいの方が、「アメリカに来たらどうか」と言ってくださっているというのがあった。アメリカだったら当時としては自由そうだし、英語が得意だったわけではないですが、何かを予感させる。日本の場合は見通しが全部立ってしまって、こうしたら1+1=2、2+2=4というような自分の人生が単純に見通しが立ってしまって、しかもその見通しの先にあるのが決して魅力的でない。アメリカの場合は1+1=2になるかどうかもわからない。むしろ何か当時としては湾岸戦争前でしたから、アメリカに対しては幻想というものがあって、憧れを抱いて、アメリカなら何かあるかもしれないなという思いで行きました。

Q:私も高1のときに、普通科が中学の焼き直しにしか見えなくて、つまらなくて、3学期はほとんど行かなかったのですが、母に「高校だけは卒業して」と泣かれて、従ってしまったことを想い出しました(笑)。
 私は末っ子なので、姉がいて兄がいて、私。姉も兄もまっとうな、まわりも文句も言わないような道を選び、進学もしてました。末っ子はまぁしかたないかと割とあきらめてもらいやすい状況だったですかね。「自分で判断しなさい」という環境でした(笑)。

Q:なんとなくご自身がもやもやとして悩みがあったときに、家族の軋轢というか親御さんの対応はいかがでしたか?
 もともと小学校時代からやんちゃだったので、そのまま中学、高校に進んで、そろそろ言い出したかという感じだったと思います。何か豹変して辞めると言ったわけでなく、中学の時も何で勉強しなければいけないのとか疑問を言ってましたから。とはいえ高校は何となく行っておかないと思い、入学していたんです。家族には、それまでに免疫があったのかもしれません(笑)。


高校を辞めると母親を説得、父親からは「石の上にも3年」と言われたが・・・

Q:一応、家族に理解があったという感じでしょうか(笑)?
 ただ、やっぱり今でも覚えているのは母親を説得しました、自分なりに。何故高校を辞めようと思っているのかと・・。先生が理不尽なこと、これはおかしいだろうと思うことを学校で言った時、やった時に、私が「それは違うんじゃないか」と指摘をすると、そのまま職員室に連れていかれて、先生達から「お前はそんなこと言える立場か」とか、「この成績、その制服はなんだ」みたいなことを言われるわけです。なんていうか、自分が間違いかもしれないけれど、先生が言ってることやってることが間違っていると思うのに、指摘したとたんに自分が封じ込められちゃうような・・。3年間いたら、いろんなことに鈍感になるというか、黙っていた方が得だと思って口を閉ざして生きるようになるのではと、そんな感覚はあったので、それは母親に繰り返し言いましたね。

Q:もの凄く重要なポイントですね。向き合う力、自分の置かれた立場をちゃんと説明する姿勢と力、清水さんには両方あると思うんです。普通、「どうせ俺のことなんかわかんないだろう」と向き合わず、逃げてしまう(笑)。自分自身もそうでしたね。高1で、ちゃんと親と向き合われたのが凄いですね。

特定非営利活動法人 自殺対策支援センター ライフリンク代表 清水康之さん そんな、なんかちゃんと理路整然と説明して理解を得たというような、きれいな形じゃないんです(笑)。押しきったというか、父親にも言われました「石の上にも3年」、嫌だからと言って、ころころ変わっているようでは社会からも信用されないと。私の場合は、社会から信用されないぞとか社会に出て困るぞというようなことが、いや別にこんな社会から信頼されなくなっていいし、信頼されない結果として困るなら困ってもいいし、そもそもこんな社会に信用してもらおうと思わない。自分にとっては魅力のある社会に映ってなかったので、社会の中で「あーなるぞ、こーなるぞ」と驚かされても、自分の中で反発にしかならなかったですね。こんな社会に生きていたくない、嫌だから辞めるって言っているわけであって、「我慢できなければ社会から認められないぞ」と言われても認められようと思ってない。

Q:正当性があるんじゃないかということでしょうか。もし、仮に高校の先生の言葉のままに、「特進クラス」に行って、大学受験していたら、どうなっていたと思いますか?
 どうですかねぇ。正直想像したことがないですね。少なくとも今の人生はなかったです(笑)。


米の高校卒業後、激動の旧ソ連や東欧をバックパッカーとして

Q:米国の高校に高校2年生として転入されたのは、その年の88年の9月でしたね。90年に卒業されて、そしてアメリカの大学にそのまま入学されたということでしょうか?
 90年6月に高校を卒業して、すぐには大学に行く気にもなってなかったので、ひとまず日本に帰国しました。それから2年間は日本を拠点にしながら、旧ソ連や東欧にバックパック背負って旅行に行ってました。まさに、私がアメリカで高校3年生の時にベルリンの壁が崩壊し、東欧は激動の時代でした。ゴルバチョフが出てきて東西冷戦構造が終わっていく、その先明るいものが予感されるような時代だったので、現場をじかで見てみたいというのが理由でした。アメリカにいた時は、日本人であることを強く意識しました。日本人として、国の壁だったり、国の壁を越えることだったりを意識せざるをえない状況でした。日米貿易摩擦が深刻な問題で、東芝のラジカセがホワイトハウスの前でハンマーでたたき壊されたり、日本はアンフェアだというのでジャパンバッシングの時でしたから、「日本人としてどう思うか?」と授業で聞かれたりする。日本が嫌いで飛び出したんですけど、いざアメリカに行ってみると日本のことをいろいろアンフェアだと言われると腹が立つというか反発がある(笑)。本当にアンフェアなのかどうかと、自分で調べるようになる。盛田昭夫さんと石原慎太郎さんが書いた「NOと言える日本」を日本から送ってもらって、それをもとにアメリカの政治のクラスでプレゼンをしたり、結果として日本人であることを強く意識させられるようになりました。だからと言って日本が大好きになったわけではないけれども、好きとか嫌いとかではなくて、自分が生まれて自分の家族も友人もいて、故郷としての日本を意識するようになりました。同様に、他の国々でも、そこには人の暮らしがあるわけです。そういうことを感じていてた時に、まさに東欧、当時ソ連で自由を勝ち取るために若い人たちの戦いがあった。天安門事件もその時期、自分で見てみたいと思いましたね。

Q:バックパッカーの期間は?
 行って帰ってきて、行って帰ってきてって感じでした。1ヶ月間行って帰ってきて、また家庭教師のアルバイトして、また行ってというような・・・期間もでこぼこで、3回くらい行きましたね。

Q:まさにギャップ(寄り道)ですよね。ということは90年の春以降、半年間くらいですか?
 90年6月に卒業して帰ってきて、91年初頭から92年の春くらいまで、行ったり来たりで、2年弱という期間になります。

Q:国内にいるときはアルバイトでつないで、そしてついに米国で大学入学ですか?
 家庭教師などでつなぎながら、92年の9月に米国の大学入学です。2年は長いと感じられるかもしれませんが、勉強したい気持ちがないのに行ってもしょうがない。国際政治には関心があったので、もう2年経つ頃には勉強して知りたいと。何で東西冷戦構造ができて、何故それが崩壊し、あるいは生活は貧しいはずなのに、ルーマニアとかユーゴスラビアは内戦が勃発する直前、子どもと犬が楽しそうにしている。目がきらきらしている。日本に帰ってきて成田から自宅に帰る途中、塾の帰りか子どもが暗い顔してて・・。これは日本だけの問題かと思ったけど、国際的にみて日本はどうなのかということも関心がありました。それが明確になってきたので、自分の中で学びたいというモチベーションが高まってきたので、そうしたこともあって92年9月に、またアメリカの大学に留学しました。

Q:それはカンザスシティにある大学ですか?
 いえ、それは最初の高校がローレンスというカンザス大学がある大学街にあって、1年間いました。高校3年はシアトルの郊外にあるレイクワシントン高校に行っていて、大学はオルバニーにあるニューヨーク州立大学で、国際関係を勉強しました。国際政治について勉強して、他大学の博士課程まで行って、研究者になろうと思っていました。

Q:ところで、清水さんがバックパックをやられた経験があることを知ってる人は少ないかもしれませんね(笑)。
 隠すとかじゃなくて、だいたい経歴は、NHKを辞めるところから始まることが多いですから(笑)。


海外を経験したということより、日本を離れたことに意味がある


Q:先日、社会起業家支援NPOのETIC.でメンターをやったのですが、経歴見ると、起業家の卵の7割近くがバックパッカーか留学・遊学経験者のギャッパーだったんです。日本社会は「寄り道」を異常に嫌い、ストレートに入り、ストレートに卒業する単線型の"無菌な"履歴書に価値を与えている。いろんな社会経験をした人こそ、イノベーションを起こせると思うのですが・・。
 私が思うのは海外を経験したということよりも、日本を離れたということの意味が大きいのではと。日本で生まれて暮らしていると、この価値観しかない、この社会しかないと思いこんでしまう。「この世」と言ったときに、この世は現世、日本の場合は日本社会になってしまう。海外は非日常に感じられてしまう。実際は非日常と言われてる海外で、多くの人が暮らしている。人は生まれて育って死んでいる。日本を離れて初めて日本社会を客観視出来て、私の場合。決して日本だけで生きなきゃいけないわけではない。日本が合わなければアメリカで生きればいいし、ルーマニアでもいいわけで・・。暮らしていく場所は日本に戻らなければならないわけでない。そういうふうに感じた時にもの凄く自由に、そこで初めて日本社会とある意味対等というか、妙な先入観や敵意もなく向き合えるようになった感じがあるんです。日本で生きていかなきゃいけない、当然ここでなんとか生き抜かなければならないと思ったときは、生き苦しい。必ずしもそうじゃないとわかり、体感できた瞬間、日本に帰ってきても息苦しくなく生きていけるようになっていった。もちろん海外に出て生活したということなんですが、その手前で日本を離れて、客観視できるようになったのが、自分にとって大きかったかなと・・。


大変だった米の大学の授業、でも面白いと思えたわけ

Q:アメリカで国際政治を学ばれた時、満足度は高かったですか?

特定非営利活動法人 自殺対策支援センター ライフリンク代表 清水康之さん  やっぱりもう全然大学の授業が違いますからね。もの凄く授業が魅力的でした。当時から授業自体が学生に評価される。教授を学生たちが評価するというのがありました。何しろ現場で実務を踏んでいる人たちが教授陣になって教えていたので、国連の授業なんかでいうと国連で長年勤め、バリバリ交渉やっていたような、インド人だったんですけど、授業をするんです。日本でいう教科書は授業の前提条件ですね、前提の基礎知識として当然のように読んでこないと言ってることがわからない。でも教科書を学び始めた途端つまんないです。生のことを知るためには、教科書を当然の基礎知識として読んでないといけない。あるいは文献を読むんですけど、カントの「永遠平和のために」とか、マキャベリの「君主論」とか、読むことが目的でなく、まず事前に読んで、それから議論するんです。大学1年の時から、そんな具合で、それが大学での教育だろうと思いました。読んで書くだけなら、大学に行かなくても自分でできるわけです。大学でやる意味、それだけ実践を踏んできている教授からリアルな話を聞ける。あるいは同じ道を志している仲間と議論ができるところが存在意義です。それは、日本の友人が言ってた大学の中身と全然違う。そりゃあ、大変でしたけどね(笑)。授業もものすごく、大変でした。今思い出しても、ホント大変だった。

Q:海外の学校で他に日本人がいないと、"日本代表"になりますよね。「トヨタは・・、日産は・・」、なんて、一国を代表したようなことを言わざるを得ないような・・・
 私は、高校時代に精神的に鍛えられました。大学時代は物事を批判的に見る目とか情報の捉え方というか、情報は加工の仕方によって、どういうふうにでもとらえられてしまうことがわかった。情報との距離の取り方を授業を通して学び、大きかったです。


日本のICUへの編入は祖母に寄り添うため

Q:アメリカで魅力的な居場所がみつかった。だけどICUの3年生に編入された?それはどういういきさつだったのでしょうか?
 実は大学も、大学院も博士課程までアメリカに行こうと思っていたんですよ。大学院も行きたいところも決めていました。アメリカの場合は本格的な専門教育は大学院で、学部があまり差が出るわけでない。授業料の問題もあってニューヨーク州立大学を選びました。大学院は行きたいところがあって、そこに行くことさえできれば学部はどこでもいいなと・・。そんな中、アメリカにいる最中、祖父が亡くなった。祖母も高齢になっていたので、ずっと大学院に行っていれば、祖母も亡くなってしまうだろうという危惧がありました。3,4年の学部のうちならば戻ってきて、日本で過ごしながら、大学院でまたアメリカに戻れればいいかなと考えたんです。とはいえ、ただ大学卒業するということではないので、日本の大学を夏休みにまわって、ICUはアメリカの大学に似てて、いいかなと、それでICUに編入しました。


卒論のテーマは「日本脱出マニュアル」

Q:その要因は、当時ICUの準教授だった姜 尚中先生(現・東大大学院教授)の影響も大きかった?
 大きかったです。大学の雰囲気もディスカッション中心の授業を展開しているし、姜先生のもとで勉強出来るならという思いもありました。

Q:ICUに入られる前に、姜先生と面識は?
 日本のビデオをたまに親に送ってもらって見てたんですが、その中に「朝まで生テレビ」があって先生が出演していました。姜先生は在日で日本にいて、私は日本人でアメリカにいました。"中間性"と先生は言っていたかと思いますが、狭間で物事を判断し、両者の間をつないで理解の断絶を少しでも弱めて緩めていく姿勢に共感するところがあったんです。
 手紙を書いて、つまり自分はこういう状況で日本の大学に編入しようか迷っている、もし先生のゼミに入れるんだったらICUに決めようと思っていると書きました。その時、卒論で書こうと思っていたことは「国家という枠組みの限界性と絶対性」でした。当時は国際人という言葉がはやりで、国際化の中で国のボーダーが溶解しているようなイメージが少なくなかった。国家という枠組みは限界はあるけれども、国際企業とか国際機関が出来て、相対的には枠組みは自由度が低くなってきている。国家という枠組みに限界はあるんだけれど、でも必ず残る絶対性あると。両面から見ていった時にあり方として何が残るかという研究をしたいと手紙に書きました。

Q:大学3年時に、明確に卒論の構成の骨子ができて、それを表現できるところがすごいです。
 でも、結果的には卒論は「日本脱出マニュアル」と、ガラッと変えて卒論詐欺みたいな形になりました(笑)。姜先生は結果的には喜んでくれたんですが・・。日本を脱出する理由と具体的な手段とを卒論にまとめて、評価はAをもらいました(笑)。


「日本脱出マニュアル」の趣旨は"この世は日本だけじゃない"というメッセージ

Q:「日本脱出マニュアル」は、簡単に言うと、どんな論旨なんでしょう?
 自分の経験をふまえて、当時「完全自殺マニュアル」という本が売れている時期で、またオウム真理教の事件が起きて若い人たちがオウムに入っていく時期で。私の場合、日本社会や学校社会が嫌で飛び出す先が、たまたまアメリカだった、じゃ、アメリカに行けない人は、アメリカよりもオウムに魅力を感じた人がオウムにいって、あるいは死を選んでいる。つまり日本から逃げ出すためにオウムだったり、自殺だったりということを選ばざるをえないという同世代が多くいるということを強く感じたんです。自分だけではなかったという感覚なんです。日本が生き苦しくて、こんなところで生きていたくないと思ったのは私だけじゃなかった。同じ同世代がたくさん思っていたということに気づいて、ただ不幸にも彼らはオウムや死を選んでしまった。私はたまたま選択肢としてアメリカに行くっていうのがあったから、アメリカを選んだ。根っこの部分で社会に対する不信感だったり、憎悪というかは共通のものだという感覚がありました。だったら、死でもオウムでもなく、生きていくための具体的な手段として日本を脱出するということを、実際に自分が体験してそういうことがあるというのがわかったので、それをもとにして、なんで今日本脱出なのかということを理論編と極めて具体的にテクニカルなことに分けて書きました。「マニュアル社会における最後のマニュアル」というサブタイトルだったんですが・・(笑)。

Q:日本だけでなく、海外にも道がある? ギャップイヤーの本質的なとこと近いですね。
 日本だけじゃないよという選択肢。序章でこの世っていうと日本ではこの社会を意味するけど、決してこの社会だけじゃなく当然どこだって生きていける。それをことばだけじゃなくて論文にしたかったんです。


転機はオウム事件

Q:「至るところに青山あり」の感覚ですね。
 自分の転機となったのはオウムの事件です。信者だった井上嘉浩氏が書いた日記が朝日新聞に載ったのですが、それが自分が高校時代に書いた日記にそっくりだったんです。自分のじゃないかと、驚いたくらいです。「大人たちは満員電車に揺られながら、どこに連れて行かれるかも分からないままこれで良いのか」という社会への嫌悪感の内容でした。それって、自分の文章かと思ったくらい似た感覚です。彼の日記を読んだ時、「もしかしたら自分がオウムに入っていたかもしれない」と、はっとさせられました。そして、自分が社会に対して抱いている漠然とした苦しさというのは、個人的な感覚ではなく世代が共有していることを知りました。だったら国際政治よりそれに関わっていった方が面白いんじゃないかと思っていました。同世代の人と対話をしながら考えていければいいなと思い、NHKを目指しました。


NHKの面接官に「日米で高校3つ、大学2つ」を説明

Q:ICUを卒業されて、97年に25歳でNHKに入局されるわけですが、高校中退したり、編入学されたり、日本の人事部の視点からにいうと、通常"ややこしい"あるいは"傷だらけ"の履歴書ですよね(笑)。採用者側に偏見がなかったというか、寛容なのか、やはり見る目があったと言わざるを得ないのですが、当時の採用面接官から何か感じましたか?
 入局した同期を見まわすと、ストレートというよりも留学経験があったり、大学院に行っていたり、何かやっていた者が多かったですね。さすがに何も目的もなく"ふらふら"はいないですが(笑)。その年によって採用のねらいがあるっていうようなことも聞いてますが・・。その年は普通ではない人たちを集めようとしたのかもしれません(笑)。

Q:高校中退のこととか、日本の大学に編入したこととか聞かれましたか?
 聞かれたと思いますね。それこそ高校と大学で日米5つ行ってますから(笑)。細かく言うと、高校3つ、大学2つです。確か聞かれたと思います。

Q:さっきの話だと高校中退する時、お母さんを説得されたように、自分はこの時点ではこう、あの時点はこうときちんとNHKの面接官に説明しきったということなんでしょうね。
 それぞれ自分なりに理由はあっての行動だったので説明しました。カンザスからシアトルの高校に転校したのもカンザスはESLという英語を第2言語とする留学生向けのクラスがあって、海外から来ている学生は英語の授業をとらなければならない。1年目(高2)は3時間くらいとりました。2年目(高3)も2時間取らないといけないと言われた。2時間取っちゃうと他の単位を取りきれずに、もうその年に卒業出来ないとわかった。とにかく日本が嫌で飛び出したのにアメリカで3年かけて卒業したなんて、周りの同級生たちと1年遅れるわけで、嫌で逃げ出して、自分で選んでアメリカの高校に移ったので、アメリカの高校も2年でちゃんと卒業しなければという思いがありました。ただカンザスの高校にいると2年で卒業できない。そこでESLのない、かつ自分のことを受け入れてくれる高校を探した。カンザスから1年終わって、その夏休みに電話しまくって、シアトル郊外にある高校が受け入れてくれることになりました。インターネットがなかった時代でしたから、それは大変でした(笑)。向こうにいって一生懸命勉強したので、日本の中学・高校の成績とは全然比べものにならない、オールAに近い。自分の好きなことだし、自分がやらなきゃいけない、何より自分で選んだことです。どこの高校に行くかを選んだとかじゃなくて、「何をするのか」が基準でした。日本の高校に行くかアメリカに行くかも自分が選んだこと。熱の入り方というか、自分がやらなきゃいけない、やりたいという想いは日本にいた時と全く違うものがあった。一生懸命勉強して、そういう成績があったのでTOEFLもそれなりの点取ってたので、高校が受け入れてくれて卒業できたわけです。


"懸命に生きる人たち"をドキュメンタリーに撮りたかった

Q:NHKを選んだ理由に「懸命に生きる人」をドキュメンタリーに撮りたかったとのことですが、どんな人を見ると"懸命に生きている"と感じますか?
 私は運よく、たまたまアメリカの高校に行ったり、海外を放浪したり、大学に行くこともできた。ただ自分と同じように息苦しさ、生きづらさを感じてても逃げ出せないような人たちがいて、それぞれの人生の中で、理不尽さにつぶされないようにつらい苦しい状況の中でも、自分らしく生きようともがいて葛藤している人たちはたくさんいる。高齢者とか子どものドキュメンタリーを創りたいというのでなく、自分と同世代でこの社会のあり方とか同調圧力とか価値観とかに押しつぶされそうになりながらも、でも自分なりに懸命に生きている人たちですね。こういう風に生きている人もいるんだよ、あぁいうふうに生きている人もいるんだよという、それが、"懸命に生きている"イメージです。

Q:"懸命に生きる"というテーマは、人生の選択肢の提示っていうことですか?

特定非営利活動法人 自殺対策支援センター ライフリンク代表 清水康之さん どういうふうに生きていけばいいのか会話のきっかけを提供できればと思いました。自分自身もどう生きていいかわからないと思って悩んでいたこともあった。伝える手段はメディアだろうと、そして若い人たちに伝えるにはテレビかなと・・。バラエティーでなく、クイズでなく、ドキュメンタリーはNHKじゃないかなと思って、単純なんです(笑)。

Q:ドキュメンタリー監督の龍村仁さん(元NHKディレクター)はご存知ですか?ドキュメンタリーを作るという意思が強い人で、清水さんと同じ強いものを感じていました。
 いいえ、NHK辞めてから、ガイアシンフィニーで。

Q:影響を受けられたオーストリアの精神科医・心理学者であるヴィクトール・フランクルさんが亡くなったのは1997年9月でしたが、そのときは何をしていて、何を感じましたか?
 知ったのは姜先生からで、その後はそんなにフォローはしてなかったです。ただ、仕事したり、いろんな課題と向き合っていく中で、より大きな存在となっていきました。


親を自殺で亡くした子どもたちの冊子をみて、「これだ!」

Q:話題になった01年の「クローズアップ現代」のドキュメンタリー「お父さん死なないで~親の自殺 遺された子どもたち~」の制作作りのきっかけはどういうものだったのですか?
 若い人たちがこれからどう生きていけばいいのか、我々の世代(団塊ジュニア)は幸せになるための方程式を持ってないというか、ちょっと上の世代は「一流の大学、一流の会社、やさしいお嫁さんもらって幸せな家庭」みたいなことを勉強サボっているとなれないよと言われ、聞かされてきた。我々はそれが幸せかということ、幻想だと感じ、どうやって生きればいいのかわからないという世代なんです。だからこそ、これからどう生きればいいのか葛藤しながらも生きていく姿を社会に伝えたいと思いました。番組作っていくうちに、最初は若者っていうテーマを課して、番組にくっつけていた。そうじゃないこともやってるうちにドキュメンタリーは面白いと思いました。人の人生にある種、土足で踏み込みつつ、でも番組も終わって感謝されたり、自分では体験し得ないような他人の人生をお借りし、追体験しつつ社会に伝えていく。それをやってるうちに若者の話がどっかいってしまっていて、親を自殺で亡くした子どもたちの冊子をみて、「あぁ、自分がやろうと思ったのはこういうテーマだった」とハッとさせられて、「如何に生きるか」ということ、社会から押しつけられていく誤解や偏見だったり、価値観だったりと個人がどう折り合いをつけながら生きていくのかということ、「これだ!」と思って取材しました。


WHOが決めた「世界自殺予防デー」に何もしない日本、ならば自分がやるしかない

Q:04年にNHKを辞められるわけですが、その取材時に決めたのでしょうか?
 いえ、その時は全く考えてなかったです。私が辞めようと思うようになったのは自殺対策が動いていないっていうことがわかった時です。自殺で亡くなった方の遺書の取材してたんです。亡くなった方の最後に残した言葉っていうのはどういうことだったのかと・・。それを取材していくと決して死にたくて死んだわけではないことがわかってきて、借金だったり、過労だったり、介護疲れだったり、複合的なんです。対策どうなっているかというと全然対策は行われていない。社会的な取り組みとして行われていない。国も自治体も個人の問題として、対策がうたれていないということがわかってきた。番組を通じて対策が動いていくだろうと思っていた。番組を放送してから遺児の子たちが当時総理大臣の小泉さんのところに申入れにいった。あしなが育英会のつながりのある議員が仲介して。それで動くかなと思っていたら、難しいからねと動かなかった。いつまでたっても対策が動かないと、亡くなっていく人は高止まりを続けている。取材は継続をしていたので、いろんな分野でいろんな知合い、専門家や民間団体の方々と知合うようになって、それで誰かの尻をたたいているうちに自分がやった方が早いと気づいてしまった。他の番組をやりながら、常に気になってしまって・・。気になって、気になって、ここまで気になるんだったら、現場に入って期間区切って活動したらと・・。最初3年間と決めていました。給料はでなくても最低限の生活は出来る状況。長い人生の中の3年間くらいは自分がこれやるべきだと思うことに誰の指示も受けずに、自分が思うがままにやる期間があってもいいんじゃないか。まぁ、NHK辞めて、NPO立ち上げて、もう6年半になっちゃたわけです。

Q:NPOとしては、04年10月に立ち上げられるわけですが、辞めようと思いたって、実際に辞めたのはいつだったのでしょうか?NHKを辞める決意は、半年前くらいですか?
 いえ、もっと長い期間でした。辞めるのを最終的に決めたのは03年の9月10日のことがあってでした。この日はWHOが決めた「世界自殺予防デー」、こんな取り組みが行われましたという日本の現状とその対策の遅れの番組を作ろうと思っていたんです。ところが、9月10日に誰も啓発のイベントもシンポジウムもやらない。WHOが定める世界自殺予防デーは1年に1度世界的に啓発をやっていきましょうという日に、誰もやらないってことで、待っていてもしょうがない。その時に自分がやるしかない、具体的に辞めることを考え始めました。ですから、1年近くかかりました。


30代でNHKを辞める・辞めないよりも、10代の頃の自分がなりたい大人を優先

Q:外から見ると、安定して魅力あるNHKを辞めるにあたり、葛藤や迷いはありませんでしたか?
 NHKを積極的にやめたいと思っていたわけじゃないですし、自分の感じる社会の問題点に自分なりに精一杯取組める状況があれば、辞めることはなかったと思います。ただ、NHKにいても自分の思うことはこれ以上出来ないだろうと思うようになったんです。もちろん会社に社会保障がくっついている日本では、会社を辞めることは社会保障がなくなるということなので、非常に悩みました。NHKにずっといたら安泰だろうとも思いましたし・・。
ただ、自分の個性をそぎ落とされる環境にはいたくないと単身でアメリカに行って、英語も話せない中、這い上がってきた16歳の自分に対して、30歳を超えた自分が「生活があるから」といって自分を制御してしまうと、それは、自分が16歳のころに嫌だと思っていた大人になってしまうのではないか、と思ったんです。それは出来ないなと。今の自分は色んな人に支えられてあるわけなので、10代の頃の自分がなりたいと思っていた大人でありたい。迷いはしましたが、やはり現場に入らないとできないことがたくさんあると思いましたし、やろうと思えばできるはずだと信じて選択しました。

Q:ひとりでやっていくことに不安は? 不安があったなら、どうして乗り越えられたんでしょう?

特定非営利活動法人 自殺対策支援センター ライフリンク代表 清水康之さん 不安もありました。将来のこと、収入がたたれること。あと番組が作れなくなるのは、後ろ髪ひかれる思いでした。NHKに7年いて、番組作りは大好きだったので・・。ただ、不安とか後ろ髪をひかれる想いよりも、やっぱり自殺の問題は人の生き死に関わる大きなテーマであるし、それも毎日80人、90人が亡くなり続けている。そのことと自分が日本社会に対して抱いていた息苦しさ、生きづらさが根っこで繋がっているという感じがあったので、根っこの部分にあるものがいったい何なのか、みんな幸せになりたいと思って生きているはずなのに・・。多くの人が生きづらいと感じている、その正体をディレクターとして突き止めたいというのがありました。ディレクターとしてよりも現場に入った方がその正体にせまれるなと思って、だから辞めることが正しいのか間違ってるのかなんていうのは選択した時にその結論が出るんじゃなくて、辞めた後の行動によって、結論は出していくものだというのが強くありました。それは高校辞めた時に、「高校辞めた」というのを取り上げればそれはとんでもない、大変なこと。でもその後頑張って切り拓いてきたから、あの時辞めてよかったと思えるようになったわけです。何か自分の決断の評価というものは、その後の決断の後の行動によって出していくものという考えがありました。高校を辞める時の苦労と辞めた後の苦労を考えれば、社会人になってそれなりにやれるということがわかってきた中で、それで、もどかしくて将来の安定、収入が断たれることにおびえて辞めずにいるのは、自分の中で若かりし頃の自分に申し訳ない。繰り返しになりますが、何もできない無力な10代の高校生が自分なりに納得した人生を生きたいと思っていたわけですから・・。自分なりに責任を持って選択をしていこうと持っていたにもかかわらず、大人になって社会的な存在になった自分が、立場的なことや収入のことを気にして、自分のやりたいことをやらないとなると、まさに自分が"あんな大人になりたくない"と思っていた、避けたい思っていた大人になっていくんじゃないか。大変だというのは、大人だから、容易に想像はできました。それで選択して後頑張れば、あの時やっぱり辞めてよかったと思えるようになるはずだ。そういう確信はありました。あとはそういうふうに行動できるかどうか、自分への自信というよりはこれで行動できないくらいなら小さく生きるしかない。"そんなでかいこと言わずに生きろ"という思い。やれるかやれないか試すしかないでしょう。

Q:聞きにくいことなんですが、清水さんご自身、死のうと思ったことは?
 ないです。生きるのをやめたいと思うことはありましたけど、積極的に具体的に死のうと思ったことはないです。


「生き心地の良い社会」とは納得と満足が鍵

Q:スローガンになっている「生き心地の良い社会」を定義すると?
 「誰もが自分自身であることに納得、満足しながら生きられる社会」。誰の人生生きているんだかわからないとか、自分の人生なのに自分の人生だと思えないとか、面倒くさいと思ちゃうとか、じゃなくて、その人がそれぞれが自分の人生に納得して満足して生きられる社会です。

Q「生き心地の良い社会」は、"幸せな社会"と置き換えてもいいのでしょうか?
 幸せは、苦労があったり、瞬間瞬間楽しいとかよりも振り返った時にあの時頑張ったなとか、しんどかったけど人に支えられていろんな人のありがたみがわかったなとか、しみじみ亡くなる前にかみしめるようなものかなと・・。いつもニコニコハッピーな暮らしは必ずしも私にとって幸せといえるのだろうか。また結果的には人生の納得感が大事ですよね。「生き心地の良い社会」は幸せということと必ずしも直結しているとは考えていない。自分で納得しているか、満足しているかが重要だと思います。

Q:ライフリンクでは'つながり'をテーマにされていますが、つながりを実感するのはどんな時ですか?
 取材した遺児の子たちが、高校生・大学生に育って、当時おびえながら孤立していたのが、その後同じ体験をしている仲間たちと出会って、支えてくれる大人たちと出会って、人に支えならが自分の痛みと向き合って回復していって、その人、その人なりの人生を紡ぎだして、歩きだして、今度は支える側に回っていることを実感したときです。時間をかけて経験してきているので、人間というのは弱い部分、情けない部分もある。けれども、どれだけつらい状況に追いやられてもそこから回復していける力がある。決して一人で回復していくのでなくて、人と人との関係性の中で回復していく。そして回復した人がまた別の人を手助けする。人間が回復していく、これは遺児だけでなく、遺族、未遂体験の人も、その後人の支えになり、関係性の中で回復していく姿をみていると人は一人で生きているわけでないし、つながりの中でこそ、人間が本来持っている力も発揮できるし、その力が発揮されるとその人の人生もそこから見出していくし・・。我々自殺対策っていうことでありますが、生きる支援、そのつながりの中で誰もが生きていけるような社会、回復していく人たちをみていると、つながりの大切さ、つながりの中で人は生きているんだなと実感します。


自分の経験を紡ぐ、人生の物語を納得のいくものに創りかえていく力がある

Q:神戸の震災時の「あしなが育英会」の子たちが、東日本の震災にかけつけ、力になっていますね。
 人の痛みがわかりますからね。さっきの幸せ感もそうですが、例えば親を自殺で亡くしたという一点だけをとれば不幸かもしれないですけど、そういう経験をしたからこそ、人の痛みがわかったり、自分に支えられるありがたみがわかったり、自分が誰かを支えられるという自信になったり、人間のつながりが生まれてきたりということだと思います。何かひとつのライフイベントによってその人の人生が決定づけられるものでなく、どうにもならないと思われるライフイベントであっても、それを受容していくプロセスの中で、その人なりの人生を紡ぎだしていくものだと思う。あの時はこうだった、ああだったとか常に経験を受容の仕方を変えてというか自分なりの納得のいく物語を創りだしていく、ひとつの重要な要素がライフイベントだったりする。それは捉え方によってはどうにもならないことが起きてしまったと思っても、そのことが人生の土台っていうか経験に、その人らしい人生を築いていくための不可欠の経験になったりする。ライフイベントに決定づけられることなく、自分なりに人生物語を紡ぎだしていく、それを繰り返し、物語を自分の納得のいくものに創りかえていく力が人間にはあると思う。そんな意味で人にはたくましさはある。ただ日本の教育は物語を創る力よりも物語を押しつけてくる。物語は押しつけられるものだっていうその中で生きなきゃならないんだ、押しつけてくる物語の方が正しんだ――そういう教育になってしまっている。それはもっといろんな経験をしたとしてもその中で物語を紡いでいく、自分なりに解釈をしていく訓練を、そういう力をもっともっとつけさせてあげないと子どもたちが大人になった時に、なかなかその物語を紡げなくて、社会がおしつけてくる物語に呑まれてしまい、結局自分の人生を生きている感じを持てない、周りからの評価に脅されて踊らされて生きている。自分じゃなくてもいいんじゃないか?となってしまう。教育のあり方も今の日本社会の閉塞感をつくっている大きな要因になっている。
 先ほどおっしゃられたETIC.の社会起業家の卵たちもそうですけど、自分なりに経験を紡いでいけるというか物語を開拓していける人はもっともっと必要です。どうせダメだよねというどうせ変わんないよねという、だからどうせ自分の人生物語も変わらないという。理不尽を受け入れられてしまう、「おかしいよね」という感覚を変えられないと思ってしまっている人が多いから閉塞感があると思う。おかしかったら変えればいいじゃないか、ものごとは変わるんだという前提に立つ人が増えてくれば、全然雰囲気が変わる。
 ギャップイヤーってことで言えば、私は中学か高校ぐらいの年代の時に希望者は国のお金で1年間海外に行かせてあげるくらいのことがあっていい。1週間、2週間でなく1年間。サッカーやりたい人はブラジルに行けばいいし、福祉やりたい人はスウェーデンに行けばいい。日本の将来を担っていく若い世代が日本を離れて世界のいろんないいもの見てきて、人脈も創って、それで日本に帰ってくるもの凄い社会とっての財産、ひとりひとりの人生にとっても豊かな土壌を築いていく経験にもなるはずです。

Q:この震災で活動範囲も広がったと思いますが、今、ここ数年の目標を聞かせてください。
 我々の目標はひとつしかなくて、ライフリンクがなくても自殺対策が自立的な軌道に乗るようにすること。頑張んなきゃ対策が動かないということじゃなくて、我々がいなくても機能していく状況を創る。解散できるだけの社会状況を創るというのが我々の目的です。

Q:いわば、プロジェクトチームの感覚ですね。
 そうです。時限的なことをやっている。常にそれは意識しながら、今年度末で解散できるものなら解散もする。


自分で限界を決めるな!

Q:ご自身のモットーである「自分で限界を決めない」という言葉がありますが、実際正直な気持ちを言って、限界を感じることはありませんか?
 自分の限界は自分で決めるべきではないですね。ただし、社会はそんなに甘くないのも確かなので、慎重さと大胆さを持ち合わせていることが大事かと思います。慎重かつ大胆にというのは表裏の関係だと思っていて、慎重さがあるからこそ、大胆なことが出来ると思います。過信しすぎると何も出来ないので、色んな人生経験を積みながら慎重に物事を積み重ね、いざという勝負時にちゃんと行動できるだけの力を培っておく。そうすれば自分が「これだ!」と思ったタイミングで自分なりの決断ができると思うんです。つまり、「限界を決めるな、でも社会は甘くないので、チャンスがきた時に大胆に行動できるように備えろ」ってことですかね・・・えらそうなことを言ってますけど(笑)。
 最近聞いた話で、働き蟻の2割は働かないらしいです。怠け蟻です。でもそれにもちゃんとした理由があって、8割の蟻の一部が疲弊すると、その埋め合わせの役割を怠け蟻がもつんだそうです。それを聞いて自分は怠け蟻かなと思いました。僕はもともと本当に怠け者なんです。隙あらば怠けようかなとも思ってます(笑)。ただ、世の中が今の戦い方ではどうにもならなくて、みんな疲弊しているという中で、怠け者の自分としては今が頑張る時なのかなって思っています。


人間が作ったものだから、人間の力で変えていける

Q:今の若い世代は、特に限界を設定しがちではないかとの見方がありますが、どう思われますか?
 やっぱりそういうおまえたちはもうダメなんだと社会から押しつけられているので、そう思うのはある種しかたがないと思います。ただ実際はそんなことはないので、どうせダメだなんて高校生が思っているのは間違いなので、変えようと思えば変えられることはたくさんある。人間が作ったものだから人間の力で変えていける。それは私も大人として若い世代に見せていかなければならない。やれば変わる、変えられる。


若い人の自殺は、社会に対する"三下り半"では?

Q:2010年に就職を苦に自殺した大学生が46名(男性40名・女性6名)と、前年比倍増していますが、今後の展望含め、どう観ていけばよいでしょうか?
 就職活動している学生と話をして、なるほどなと思ったこと。私も高校時代同じでしたけど。社会からはこういうふうにあらねばならぬというメッセージが強く押しつけられている。いわゆる"同調圧力"です。小さい頃からそういうものがある。明るく元気で朗らかで、そうあらねばならぬというのが強くある。自分がその期待に添えているのかどうか、周りからの評価で自分を見る癖が出来てしまっている。だから行動する規範も物事を選択する基準も、「これやったら周りからよくみられるかな」、「先生に褒められるか、成績伸びるか」、「受験に有利か、就職に有利か」みたいな、自分が何をやりたいかということよりも周りからの評価をうるために得になるか損になるか、周りの評価の中で選択を迫られて生きている。それでも何とか無理して作り笑いをして、受け入れてもらえるんだったら我慢してやりくりできると思うんですけど・・。そこまで作り笑いしてそこまで無理をしてそこまで自分の感情を押し殺してきたにもかかわらず、社会からいらないよって言われてしまったら、そりゃ絶望しますよね。何も残るものがない。周りから受け入れてもらおうと思って我慢していたのに、無理に作り笑いしてきたのに、そんなあなたいらないよって言われたらどうしたらいいかわからない。男の子なんだからという同調圧力は強いものがある。面接に行って、面接官はどういうふうにして答えれば受け入れてくれるのかなぁと思いながら、自分の言いたいことよりも、面接官の顔色を伺う。それでもことごとく不採用・不採用になったらどうでもよくなっちゃう。人生もここまで苦労して生きる理由はないなと思っても不思議じゃない。むしろそうだよねっていう。死にたいというより、生きるのを辞めたいという状況だと思う、若者たちは。こんなばかばかしい日本社会での人生を辞めたい。だからこそ、日本じゃなくて海外に行けばいいじゃないかって、私は思います。
 それと、あと満員電車と学校のいじめです。これが無力感を押しつけているんだと思う。どうせ動いても電車は止まらない。日々あなたは無力ですよ。こんな窮屈でばかばかしいと思いながらも、乗らざるをえないですね。いじめなんていうのは今の学校制度の中で当然生まれてくる。閉ざされた空間の中で、ストレスのたまった子どもたちがいれば当然。当事者だけの問題でなく、環境の問題にしないと。いじめられててもかわいそうだなと口に出せない助けられない。今度は自分がいじめられるんじゃないかという子どもたちが無力感をそこで押しつけられて、どうせ言っても今度は自分が・・となる。どうせダメだと思うことを再生産している。生きる魅力を感じなくなると思う。苦労してでもとか死ぬ気になれば何でもできるとかいうじゃないですか、それは生きることが大前提で、生きていれば幸せなこともあるよという果実があれば、死に物狂いでやります。死に物狂いでやるくらいなら死にますみたいな。その人の人生、命に魅力を感じないのでなくて、この社会に魅力を感じられていない。若い人の自殺は、日本社会に対する"三下り半"だと思っている。大人たち、私たちがこういう社会をつくっているので変えていかないといけない。

Q:通常自殺で亡くなった人については、複合的なプロセスを抱えて死に至るケースが多いそうですね。       
 調査では、例えば失業者でいうと、(1)失業し、収入が絶たれる (2)生活苦に陥る (3)借金から、多重債務 (4)うつ病になる。しかし、就職失敗による自殺は、(4)以外該当しない難しさがあるように思います。


自分で決めたからこそ、決めたことが正しかったと思えるよう頑張れる

Q:今、ここに自殺をまさにしようとしている青年に出くわしたら、何を語りますか? 
 「死にたくなるのは当然だよね。当然だと思うよ、ただ変えていけることもある」と言います。自分のことを言える大人でありたい。

Q:結果をみて、「自分で決めたことをよかった」とはっきりいえる原体験は?
 大きなことは、高校辞めて正しかったと思えるように努力出来たこと。もしかしたら小さいことの積み重ねで、言ったこと、やったことを正しいと思えるように、小さな行動が積み重なって、高校も辞められたのかな。自分で何かいろいろやらせてもらった。自分で判断して物事決めさせてやらせてもらったというのが大きかった。自分で決めたからこそ、それに対して自分で責任をとれるし、自分が決めたことが正しかったと思えるように頑張れる。自分で自分の人生を生きているという実感が持てる。全部押しつけられて、「あれやれ、これやれ」って言われていたら、自分で決める力も育たなかったと思う。責任もいい意味で負わされてきた。

Q:プロジェクトチームであるライフリンクが、一定の成果を得て解散になったら、どうしたいですか?
 がっつり休みたいです(笑)。アウトプットが多いので、自分のインプット、充電の時間を1年、2年は取りたいですね。


1つでもいいから、自分のこだわりと自分の内外に好きなものをつくる

Q:17歳くらいから25歳の悩める若者に声をかけるとすれば、どんなメッセージを送りますか?
 「ここにはこだわっている」「これだけは譲れない」といったものを、1つでも2つでもいいから自分の中に作ること。自分のことを丸ごと好きになれなくても、「自分自身のここは好きだ」「こういうことをしている自分は好きだ」というものを、1つでも2つでも作ることが大事だと思います。
 人生は、「全教科平均80点以上」である必要なんてまったくありません。むしろ、"一点豪華主義"でいった方がよい。納得のいかないことが多くても、何か一つでも自分が大切に思って好きでいられるものがあれば、それが自分を支えてくれるからです。(小説家の平野啓一郎さんも「分人」という考え方を提唱しています)
 そして、そうしたものを作るには、いろいろな体験をすること。自分の中に眠っている、自分がまだ気づいていない自分自身と出会うためには、自分の知らない世界や体験したことのない分野に飛び込んでみることです。
 世界には、私たちがこの狭い日本にいては決して体験し得ないような驚きや感動で満ち溢れています。それに触れるための一歩は、みなさん自身で踏み出さなければならない。でも一歩踏み出した先には、二歩目三歩目を後押ししてくれる何かにきっと出会えるはずです。
 「どうせ人生なんて・・」と諦めるのは簡単ですが、それだったら世界を体験してからにした方が良い。そうでないと、この豊かな世界に対して、そしてあなた自身の可能性に対して失礼です。かくいう私も、まだまだ諦めずに生きていこうと思います。

                                      

【インタビュー後記】

"どんな組織にあっても難局を打開してくれる"人間力と突破力を感じさせる人

 清水さんの現在のテーマは、出会ってしまった「自殺防止」である。1年に3万人以上自殺がする日本に突きつけられたこの難題に立ち向かう生き方を選んだ。実は、このインタビューには"スクープ"があった。それは、清水さんが米国の高校を卒業後2年近く、日本と欧州を行き来するバックパッカーをやっていたということだ。「高校中退、渡米、米国高校入学」以外にもう一つのャップイヤーを経験されたことになる。このことは、多くの人はご存じなかったのではないか。それは、清水さん自身も認められているように、隠すうんぬんではなく、どうしてもフォーカスされることは、「NHK以後」だからである。しかし、清水さんの"今"の大きな構成要素は、高校時代の中退に始まっていることは、このインタビューであきらかになっている。
 企業の採用担当者は、ワーキングホリデーやバックパッカーというと、「履歴書に穴が開いている」と、いとも簡単に切り捨てる傾向がある。しかし、外形的にはその表現しかないが、本人にそこから得たものを聞くと、実質的には「調査活動」や「研究」といってよいほどの得がたい深いレベルの社会体験になっていることがある。清水さんが、ベルリンの壁崩壊後の激動の90年代初頭、旧ソ連や東欧を数度訪問していたことはよい例だ。だから、一般的に否定的な「履歴」の評価を変えるのは、まず自分自身が納得し、外から求められた場合に、誠実に中身を語り、説明しきれるかどうかにあるように思う。
 バックパッカー時代や米国留学時代のギャップイヤー時代の自分を語る清水さんは、懐かしむようなはにかむような二十歳の青年の表情に変わる。それは、テレビや討論会で発言される時に見せる真摯な厳しさとは明らかに違う。その豊かな表情は、その当時に得られた価値あるもの、大切なものを物語る。
 「海外を経験したということよりも、日本を離れたということの意味が大きいのでは」と清水さんは語った。それは、海外だけでなく都会から限界集落でインターンやボランティアを親元離れて行う"国内留学"もギャップイヤーであるという視座と近いものを感じた。正規の修学を離れて、非日常性の中で違う価値観に出会えれば、この社会はここしかないという息苦しさはなくなるかもしれない。
 内閣府参与として、政府の「自殺対策タスクフォース」などで多忙を極める中、若者に参考になればと、自然体に、なんでも語ってくれる清水さんの懐はどこまでも深い。「人間が作ったものだから、人間の力で変えていける」と言う清水さん。ライフリンクに限らず、どんな組織にあってもリーダーとなり、山積された日本の課題に挑戦し、難局を打破してくれる人だと期待してしまう。

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