私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第10回 日本で大学中退、米国留学後、ひきこもり・ニート等の就労支援事業を国内で軌道に乗せたNPO法人'育て上げネット'理事長 工藤啓さん

NPO法人「育て上げ」ネット 理事長 工藤啓さん1977年 東京都生まれ。1998年成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科中退、2001年米国ベルビューコミュニティーカレッジ卒。2004年5月、ひきこもり、ニート、フリーター等の就労支援団体であるNPO法人「育て上げ」を設立。事業内容は、1.若年者就労支援事業、2.企業連携事業、3.保護者支援事業、4.キャリア教育事業、5.官公庁ソリューション事業など。従業員数60名強で、年間売上高2億円。内閣総理大臣「再チャレンジ支援功労者表彰」受賞。2011年4月から明治大学経営学部 特別招聘教授。著書に「NPOで働く」(東洋経済新報社、2011年7月)などがある。

(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)


「30歳までに自立、それまで好きなことをやれ」と明言した父

Q:中学から高校にかけてどんなことを考えておられましたか?
 中学校の時は総理大臣になりたかったんです(笑)。政治を知った上での総理大臣でなくて、"権力者"という勝手な想像の中で、国のトップになれば、いろんなことが自分で決められると思っていました。小学校の時の夢の延長みたいなものです。公民の勉強で議院内閣制と大統領制の違いを知った時に、大統領制は権限が強い、韓国をみても大統領が変われば体制が変わる。一方、議院内閣制はそうでなくて、みんなに認められないといけない。全然違うなと思ってやめました。
 今まで親にやりたいと言ったことを否定されたことがありませんでした。いつも言われていることが2つあって「自分が好きなことをやりなさい」ということ。もうひとつは小学校の時からずっと言われてきたことですが、「30歳までに自立しなさい」と。
 父親からは「29歳までは広い意味でのコストは親が出してやる」と言われ、「じゃあ、何故30なのか」と聞きました。「昔は人生が30歳くらいだった時に、成人儀式で男の子は13歳。それが人生60の時代になって成人式ができた。そして人生80年時代だ。成人を20歳に置くのは時代にあわないし、無理がある」と父は言っていました。社会学者は60歳が人生の終わりの時期に20歳が成人だった時と比べて、今人生80年になって精神年齢は0.8掛け、精神心理的には0.7掛けとも言われているそうです。30に×0.7で21、×0.8で24なので、30までにいわゆる昔でいう本当の意味での成人にたどりつけばいいんだということ。僕にとっては、30までに自立すればいいんだと前提がありました。だから29まで好きなことをやっていい。工藤家における自立というのは「自分の力でお金を稼いで食べていくことだ」とわかりやすく定義をされていました。20歳までは食べられなくても実家にいていいし、好きなことをやっていいよと。

Q:ご両親は勤め人でいらっしゃいましたか?
 いいえ、自営で今もNPOをやっています。


家庭が社会に開かれていた"30人家族"の中で

Q:そういう環境にあるとものの考え方は違ってきますね。何故成城大学のマスコミュニケーション学科を選んだのか?また、進路を決めるにあたって、どんな影響を受けましたか?
 どちらかというと私は働くというのは、勤め人としてのサラリーマンを描いていました。起業家の志向はまったくなかった。ただひとつだけ自分から父親に高校2年生で進路を決める時期に「高校を卒業して働きたい」と伝えました。深く考えてないんですが、当時大学生っていえばコンパするとか、勉強するわけでもなく社会人になるための最後の余暇みたいな気がしていました。社会のことを全く知らない前提ですが、4年という時間を無駄に過ごすのであれば、4年早く働き始めた方が"使える"ようになると思っていました。

Q:それを聞いて、高校卒業してプロになるか、大学に行くか?野球の田中将大選手と斎藤祐樹選手を思い出しました(笑)。
NPO法人「育て上げ」ネット 理事長 工藤啓さん 大学に行かないって言ったら、父親に初めて進路・人生に口を出されてびっくりしました(笑)。「おまえはずっとサッカ一筋でやってきて、アルバイトもしたこともない。30歳まで時間をやっているんだから、どこでもいいから大学に行け。大学に目的を持たなくていいから、4年というある意味許された自由な時間で社会をちゃんと見ろ」と。大学は高校とは違う自由と責任があり、その時間に価値があると言われました。"第1次ギャップイヤー"はその時ですね(笑)。自分は働くと決めていたのに4年間という時間を押し付けられたと思いました。じゃあ、納得した上で何に進もうかと。
 高校生の頃は、漠然とですが、新聞記者になりたいと思っていました。実家が自営で不登校の生徒の塾をやっていました。幼心に実家の仕事が新聞に出た日は黒電話が鳴り止まない。ずっと鳴っていたのを覚えています。正直言うと、小学校の時に宿題で「親のお仕事」というのに答えられなかったんです。不登校とか鑑別所から出てきた人たちと共同生活していて、30人の大所帯で暮らしていました。今でいう自立支援です。家庭が社会に開かれていたので、家族という枠組みが僕にはよくわからなかった。いわば、お兄さん、お姉さんが20人以上いて、結構入れ替わる、自立すればいなくなるが、新しい人が日本中からやって来る。みんな何からの傷を抱えている。そんな中で、自分の親の仕事が宿題で伝えられず、悶々としていました。「僕のお父さんは車を売っています」「とかお母さんは花屋で働いています」とわかるように言えない。単純にサラリーマンですと言いたいんですけど、勤め人でもなく、一般的な塾でもなく、父の仕事が説明できずにかなり苦労しました。障碍を持っている方もいたので、まだ幼い頃には訳わかんない家と近所から思われていました。石を投げられたこともありましたし、通り様に罵声を浴びせられることもあった。家業に対する自己肯定感が持てなかったんです。その一方で、テレビや新聞に自分の家のことが記事で書かれると、困っている方から三日三晩電話が鳴り続ける。大人からは「君の家の記事が出ていたよ」とか「お父さんはすばらしいね」と言ってくれた。幼な心に「新聞やテレビってすごい」と思いました。誰にも理解されないものがペンひとつ、映像ひとつで日本中の人に理解してもらえるとはなんと凄いことかという原体験がありました。進学にあたっては総理大臣というのはなかったので(笑)、メディアに近いところの勉強がしたいと思いました。それで取りあえず大学でマスコミ学科を選びました。成城大学は近くて小さい大学でした。安倍晋三氏など総理大臣も出ていますけど、そこまでは調べていませんでした(笑)。でも具体的にホントにマスコミに行きたかったか、記者になりたかったかといえば、それより"働きたい"という気持ちが先でした。正直後づけで目的意識はあまりなかった。親はともかく、学校の先生や友達には何故この大学とか何故この学部かと言われれば、記者になりたいと理由付けしていました。


ギャップイヤーは大学いかず、深夜・朝・昼と労働一筋のときからかな

Q:実際大学生になってからの生活はどうでしたか?
 学校はほとんど行ってなかったと思います。入学してすぐにバイトを始めてました。父親からは「自由な時間を遊べ、つまり社会を知れ」というのと「1年間で、本を雑誌漫画もありで千冊読め」と。親からの指令はこのふたつであとは自由。だから当時、バイトは深夜・朝・昼働いて、もちろん悪いバイトはしていませんが、年間で300万くらい稼いでいたと思います。時給千円以上のアルバイトに絞り、どうしたら店長さんやお客さんに役に立って、そこで働く一番高い時給に持っていけるのかをめざしていました。結局、あまり寝ないで1ヶ月で26日間くらい働いていました。でも、学校は出席がある授業には行っていました。社会を見るため、夏休みや冬休みは海外も行きました。お金も時間もあったので、最初の夏休みはアメリカや、オーストラリア、そしてフィリピンにも・・


Q:旅行はバックバッカーという形ですか?
 僕はバックパックみたいなのは苦手だったので、1か月とか3週間のチケットを取って、最初の3日だけはホテルを決めて、その間に泊めてくれる人を探すんです。観光に興味がない。そこに住んでいる現地の人、日本人の留学生が当たり前に生活している空間や時間に関心がありました。そこにいる人たちに泊めてもらって、同じ時間を共有したかった。学生が多かったので、彼らも休みの時期で、生活を共にしながら、一緒に過ごすんです。


日本の大学辞めて、アメリカ留学しよう!台湾の友人との出会いがきっかけ

Q:2年が過ぎて大学を辞める決断はどんな感じでしたか?
 1年の夏にアメリカに旅行した時に、サッカーやっている公園を訪ねて、入れてもらって1か月泊めてくれる人を探すということをやっていた。サッカーは22人でやるので、22人の犯罪者集団はいないだろうと安心かなと(笑)。その時は台湾人に泊めてもらい、毎日、お酒飲んで遊んでいました。「何でアメリカに来ているの?」という話をつたない英語と漢字でコミュニケーションをとりました。英語ができるようになりたいとかアメリカンドリーム的な話やいつかはビックになるという答えを想像して聞いたところ、彼らは全然違う考えでした。台湾と中国の国交は大変難しい状況で、いつ中国が台湾にミサイルを打ってくるかわからない。もし起こった時に自分がアメリカの市民権を持っていれば、家族や親族をこちらに連れてこられる。市民権を持つためには一定の成績や納税が必要になる。だからそこをめざして今勉強していると言われて、大変ショックを受けました。親の庇護のもと学校にも行かず、バイトしてフラフラしている自分が・・。アメリカで同世代の台湾の友人に出会って、そこにいる理由にが「亡命」とか「ミサイル」とか「家族を守る」とかリアルに言っている。その時点で、彼らと一緒に一定期間人生を過ごさないとだめだと勝手に思いました。1年夏に滞在している間に、どうしたら留学できるかとか何が必要かを予め聞きました。もしあの台湾人とフランスで出会っていればフランスへ、ラオスで出会っていればラオスへ行ったと思います。私は国というより、彼らともっと一緒に居たかった。そして帰国して親に「大学辞めたい。アメリカに行きたい」と伝え、「何故アメリカなんだ」と聞かれました。正直にアメリカだからとか勉強をしたいからという訳でなく、こういう出会いがあって彼らと一緒に過ごしたいと言いました。親としては僕が本気かどうか見極めたかったようでした。本気かどうかしめす指標としてTOEFLが500点以上あれば語学学校を飛ばせて本学に入れる。だからTOEFL500点以上を取りなさいと。最初のTOELFは500点でした。しかしそれ以降、勉強を続けていたのですが、留学するまで一度も500点を超えませんでした。何で最初が500点かわかならないんです(笑)。台湾の友達や親とも相談し、留学のことを全部調べました。英語が伸びないと時間もかかる。成績はシビアで、転学するのであればGPAをきっちり取らなければならない。留学生こそ成績が厳しい。日本で取った英語のクラスや日本史のクラスは単位にならないが、世界中の人が学ぶ哲学・倫理のような教科は単位の移行ができる。そのとき日本での成績は単位以降時に、単位部分しか移行されない、などです。日本で単位を取れば、現地で同じ科目を取得するよりお金も時間も節約できる。結局準備も含めて2年間大学に残って、一般教養と語学のクラス第2言語の単位を取ることをした方がいいと判断しました。1年の夏に2年終わりで辞めると決めました。そして2年間は進学コミュニティカレッジに通い、3年に編入することにしました。


州立大学合格よりも、日本に帰って若者支援する道へ

Q:ベルビュー・コミュニティー・カレッジでしたね。アメリカには、どれくらいの期間いたのですか?
 ベルビューに2年半ぐらいいました。ビジネス学部で会計学を専攻しました。これでもかというくらい勉強しました。そして編入試験を受けて、ワシントン州立大学に合格したので3年生になるはずだった。ただ、さまざまな出会いなどがあり、進学せずに帰国して起業しました。

Q:カレッジでは、どんな出会いがあったのですか?
NPO法人「育て上げ」ネット 理事長 工藤啓さん ベルビューではビジネス学部でした。世界中からビジネスが好きな人が集まっている。進学カレッジだったので、四年生大学に転学をする予定の学生が多かったです。そこでは、キャリアとして永久就職を志すような話はありませんでした一方、日本の友人とはメールのやりとり、就職氷河期で就職活動してもなかなか決まらない話。アメリカの友人は起業の話しかしないんです。それも夢を語る。「俺はすばらしい珈琲のアイデアがあって、これを作ったらバカ売れだ」とか。有名企業に就職するという友人も、起業するにはコンサル的ノウハウが必要だから、あくまでも手段としてそこに行きたいという具合。そんな中、ヨーロッパの友人から、金融規制緩和でシニア層を中心に日本でリストラの嵐が起こる。「勉強なんかしてないで、日本に帰って若い人たちを支援する会社を創れ」という示唆を受けた。先進国で企業の多くがガクッとくると、今働いている人たちがリストラで切られる。この人たちを何とかしなくてはならないと政府や企業の目がそちらに向くよ、と。その間に新卒採用が減り、若者の失業率はあがり、ただでさえ脆弱な若い層がより苦しい状況になるのは歴史の流れだという説明でした。自分たちの国もそうで、日本はまさにそうなる。言い方は悪いかもしれないが、若者支援というマーケットができるはずだと。それで、とりあえずドイツとイギリスを見に行きました。友人のツテと自分でアポイントを取っていきました。欧州では"社会投資"ということばに出会いました。若者に何で支援するかといえば社会的な投資だと。投資というのは100円で市場に入れて1000円返ってくる。またはなくなる。社会投資というのは自分の人生を使って社会的によくなること、それがリターンだという考え方を聞いて感銘を受けました。一方で若い人にどんな支援しているか聞いてみて、施設もいろいろ見てみたんです。大したことをやっていないと思った。何でそう思ったかというと自分の実家でやっていることと変わらなかった。規模が大きくなっただけで、職業訓練もみんなとやるとか企業さんと連携してやる。いろんな説明受けたんですけど、どっかでみたことがある。社会的な制度になっていたり、企業の応援があったりがあるだけで、やっていることの目新しさはない。そうか、実家がやっていることの意味は社会投資であるとわかりました。


若者支援と若者投資、それは実家でやっていたことだった

Q:社会投資ということばに巡り合って、お父様の仕事がすんなり落ちたんですね。
 日本に帰って、取りあえずやってみよう。日本でやって上手くいかない場合もあれば、そもそも若者を支援するという市場があるかどうかすらわからなかったのですが、親に留学を辞め、帰国して若者支援しますと伝えました。親として違う組織で、独立してやりたかった。父親は、自らがやっていることと全く同じことをやっても意味がないので、お前らしいやり方でやれと。まずは3年間やってみよう。そしてダメだったらアメリカに戻ろうと思い、父親と交渉していざというときには再度アメリカに行かせてもらえる約束を取り付けました。当時23の時。だから3年やっても26歳、ダメでまたアメリカに行っても29歳までに卒業できる。親に言われていた30までに自立しなさいという約束は守れると計算して、この仕事をやりたいと思いました。


自分らしい若者支援の模索、NPO法人の設立へ

Q:卒業後、すぐ立ち上げられたのですか?
 2001年6月に大学を卒業していて、当初ワシントンの大学には9月から入るはずでした。ヨーロッパに行ったのは2000年9月。大学の編入は早めに決まるので、あとは残りの単位を取っていく。やろうかなと思って、2001年の1月に任意団体で名前だけ立ち上げて、卒業はしないといけないので6月まで学校に行っていました。当初は自分ひとりで調査というか日本でどうか調べていただけです。単位だけ取りにアメリカに行って卒業しました。


Q:卒業されてからは日本に戻って任意団体で始められて、2004年の5月にNPO法人になったのですね。
 最初は日本でどうかなぁと調べていました。日本で関心があるのか?困っている人がホントにいるのか?手伝ってくれる人はいるのか?全国7か所ぐらいでシンポジウムやって、先生やメディアに声かけて、これはニーズがあるなと。当初は任意団体なので自分で決めただけ、社会的に何もない。
やりたいけど、"若者支援"の時代がホントに来るのか確信が持てなかったので、最初の一年半は、シンポジウムを開催したり、国内の子どもや若者の支援をされている団体を訪ねたりしていたのですが、そうこうしていたら厚生労働省から呼ばれました。国としてフリーター対策をやりたいということでした。国の作った施設のフリーター支援の横浜の所長やれと言われてやっていました。8か月ぐらいやった時に、国の仕事は面白いところもたくさんありますが、自由度が高くない。自分の事業として若い人を充分に支援したい。それで、腹を決めてNPO法人を設立して、立川に根を張ったのが2004年5月です。


社会全体で育てる'育て上げネット'


Q:NPO法人キズキの安田代表と知り合って、すぐ"育て上げネット"ということばを聞いて、いい語感だなあと思いました。どこからきたことばですか?
 明確にこれってないのですが、両親の仕事をみていたこと。そしてドイツでマイスター制度をみて、イギリスでニューディール政策をみた時に、結局のところ人の成長というのは突き詰めると上司と部下の関係も含めて限りなく徒弟制度だと。英語にするとMasterとPupilだと。うちのロゴはM&Pになっているんです。じゃあ徒弟制度っていうのがホントに上司部下だけの関係で育つかと周りの環境もあります。若い人が自己責任で育ってなくて、いろんな人にお世話になって、社会全体で育ちを応援していくものだと思います。どうしても和語を使いたかった。アメリカにいて感じたのが意味のわからないカタカナの氾濫とか英語で使われていない意味で使っている。かっこいい名前はいっぱいある。保護者世代にも支援をしなければいけない。誰しもがカタカナについていけるのか。言葉の意味がストレートにわからないと自分たち世代しかわからないことばでは通用しない。だから和語がいいと思いました。社会全体で育てるという意味です。


若年者就労基礎訓練プログラム 通称"ジョブトレ"で就労支援

Q:ジョブトレも簡潔でわかりやすいですね。
 正式名称は若年者就労基礎訓練プログラム。見れば何かだいたいわかる。通称がジョブトレ。このプログラムでは、これまでジョブトレは250人ほど参加していて、1年から2年で9割が仕事についています。

Q:夜型の生活が朝型になるとか、体系作りに時間がかかったと思いますが、ご自分で構築されたのですか?
 自分で作ったと言いたいのですが、これも育った実家の環境がプログラムだった(笑)。実家は24時間共同生活で、自分としては通所型を選択しました。24時間の生活支援というよりは、就労支援がしたかった。


Q:工藤さんが書かれている若者が人間関係が苦手だとか不安とか希望が持てないという切り口は実家を見ていたからなんですね。若者のニート・引きこもり問題に取り組む「K2インターナショナル」の岩本真実さんはご存じですよね?
 真実さんとは仲良しですよ。僕と真実さんは経済とか経営的感覚を大事にしていて、事業を創るときの感覚が似ているように思います。この分野で企業とコラボレーションしたり、新しい領域広げていたりする人は少ない。ビジネスマインドを持っていることですね。真実さんのところよりも、うちのほうが社会への押しが強いような気もします。


この2、3年で韓国、ヨーロッパからの視察が来はじめ、Hikikomoriが英語に

Q:工藤さんにとって大きな目標は何ですか?
 東北の震災が復旧から復興に少しずつ変わってきて、雇用の問題までくれば、被災地への貢献ができます。大きな柱としては東北の支援に対して、今まで組織でやってきたつながりを使って被災地に入るのが大きいです。

Q:今年は震災復興支援が柱になるということですか?
 復旧はマンパワーの世界なので人が動きます。復興のなかでも雇用となると、企業のリソースが復旧期とは別のカタチで被災地の貢献になるんです。いろんな企業さんやNPOを巻き込んでやっていきたい。もうひとつは今までは寄付とか国内からいただいているという連携だった。この2,3年いろんな国から視察がくるようになりました。韓国や、学びに行ったヨーロッパの国々から視察が来るんです。うちが先進というよりはどうもヨーロッパでいう困った若者を、保護者は抱えず自立という名で自宅から独立させていたが、それが難しくなってきている。一方、日本は若者が困った場合は保護者が抱えることが多くあります。日本の世界観がアメリカとヨーロッパで広がり始めている。親が家から蹴りだしても、経済があまりに悪いので、シェアハウスにいてもアルバイトでは食べられなくなってしまっている。経済が連動しているのですが、そうすれば家にいる形になってしまう。引きこもり状態になる若者がいるようです。アメリカ、ヨーロッパからも家から出てこない人をどうするの?っていうことで視察に来ます。つまり、ひきこもりは辞書にも現れ始め、Hikikomoriという英語になりました。それだけ英語のなかに同義の単語がないのでしょう。

Q:親は子供を外に出す欧米でも、経済状況考えると家にいる。欧米でも引きこもりが出てきたんですね。
 親としては、慣習・文化として自立を強要して外に出していた。それでも働かないのであればホームレスでもしかたがないぐらいの考え方ですが、今はちゃんとした学生でも学費や家賃などの生活費が払えるほどの給料が貰えない。そもそも仕事がないという話なんです。家で抱えるというよりはそうせざるを得なくなってきた。お隣の韓国は日本と同じ状況、受験過熱からバーンアウトがいて、雇用環境の悪化は日本以上です。ほとんど中小企業が少なく、一部の大企業に入るために強烈な競争があります。青年問題は大きくなってきている。年間10団体ぐらい、学生から政府の方まで視察に来ます。自分たちがやっていることが少しでも世界で役に立つのであれば、世界に支店をだすというよりも自分やっていることを他言語化して使ってもらう。社会課題解決手法をソフトコンテンツとして輸出できないかと思っています。


日本から世界に発信する、もはや他言語化は必要不可欠になる

Q:工藤さんが培ってきたノウハウ、知見を他言語化すること自体が使ってもらえる、世界で応用できるというのは夢がありますね。
 電子書籍、アプリがあるので、そんなにお金をかけなくてもグローバルのインフラに載せることもやりたい。アメリカに行っていろんな出会いがあって、助けてもらってばかりだった。直接ではないにせよ、支えれ貰った方々への恩返しとして何か日本から貢献できるものがあればと思っています。
 東北支援で寄付を集めて行かないといけない時に、マレーシアに行ってわかったことは、「もう終わったことである」と忘れ去られていたことでした。全然終わってないよという話をしたのですけど。結局海外の人達みんなが見るブルームバーグとかニューズウィークニュースみたいな媒体に掲載されなくなり、日本にある情報は国内向け、または、国内向けの情報を翻訳したものです。海外の媒体が書かないと海外の人達には情報が入らない。被災地、応援する人達の言葉や行動もなかなか海外には届かない。でも応援したい人たちは海外にもたくさんいる。ある財団は被災地向けに寄付集めたものの日本から申請が来ないとおっしゃっているそうです。日本のNPOだって海外から資金を集めていいわけです。国内調達も大切ですが、私たちもせめて英語で日本の状況をちゃんと外に伝える。日本で培ったものを売れるかは別にして外に発信する。世界に目を向けてもいいと思います。


Q:アショカ財団のビル・ドレイトン代表が東工大に講演に来られた時に、日本のソーシャル・イノベーションの状況が全くわからなく、英語で書いてくれるように言っていました。
 もともと海外を支援するNGO的NPOは海外発信基本だと思うのですが、国内問題をやっている人が海外に発信する例がほとんどないので、できることからやっていきたい。


"HIKIKOMORI"はオックスフォード辞書に登録、成熟した先進国で起こる現象になっている

Q:「ひきこもり」は今や英語だと?
 一昨年7月にオックスフォード辞書に"HIKIKOMORI"で登録されました。英語の概念にないので、"SUSHI""などと同じです。オックスフォード英語辞書は世界基準。そこに入ったということは日本独特の現象でありながら、世界でも同様のことがということだと思うんです。成熟した先進国で子どもを外に蹴りだす、自立を強要する力が親にも経済的にも厳しくなった場合に似たような状況が起こるだろうと。僕が留学した時、先進国でこうなったら若者支援のマーケットができるのと一緒で、先進国でこうなるとひきこもりは増えるという話ができて、先進国のスタンダードで本質的な部分で通じるものがあるのかなと思います。

Q:"HIKIKOMORI" は育て上げネットのキーワードになりますね。
 海外で「育て上げ」がどんな意味合いを持つのかまだわからないのですが、海外でも日本でも支援は"Support" なんですよね。「育て上げる」というのは"raise" "bring up" なのか、それともサポートにあたるのかなと考えます。地域環境や社会全体で若い人の育ちを創るみたいな概念化ができればと思います。いつか"SODATEAGE"が辞書に入るかもしれません(笑)。


若者を育てることは社会に投資をすること

Q:若い人に仕事がないとはどんどん機会が奪われることです。そうなると「育て上げる」という概念を持ってもらって、共有することは重要ですね。
NPO法人「育て上げ」ネット 理事長 工藤啓さん 言葉としては育て上げや引きこもりよりも、若者支援がいろんな人の協力を得やすい。でも日本は若い人の支援は歴史が全然ない。ヨーロッパは100年とか歴史があります。日本では2003年頃からやっと始まったので、そもそも若い人を育てるっていう風土はあっても、社会的なコンセンサスが当然のものとして共有されていない。会社が育てるというのがあるかもしれない。会社と家庭に任せすぎていて、社会の役割として小中学生じゃない次世代を育てるというのがなかったと思います。まだ日本で7年しか経ってないので、深みはまだないんですけど・・。やもすると教育の責任か家庭の責任か自己責任になってしまって、社会責任にならない。その部分をお話させていただく際に、社会投資という言葉を入れることによって理解していただけるようになりました。


職住近接で家庭の近くで働くこと、地域とのつながり

Q:私も一昨年9月に朝日新聞を辞めて気づいたのは、それまで社会人でなく"会社人"だったと。社会人っていう感覚を多くの人が持たないといびつになってしまう。家庭と学校と地域を統合した上位概念に社会がある。社会で育てる、社会でサポートし合う感覚がいるのかと感じています。
 私は、人生のテーマに職住近接を置いています。働くことと家庭が近い、距離的にも精神的にも近いこと。昔の日本の在り方がいいなぁと思っています。うちのスタッフも多くがこの辺に住んでいる。もちろん遠くから来る人もいますが。職住近接だといろんな地域のお手伝いもできる。○○町に住んでいる工藤といいます、こういうNPOやっていますというと"市民という前提"が共有できます。同じ市民の工藤で、工藤は育て上げネットやっていますと言う。まず町民、地域、コミュニティーがある。町民までいくとどの辺?と聞かれる。例えば、高校の近くですと応え、話が弾む。


原色だけじゃない、色を混ぜていろんな色を楽しむ生き方

Q:若い世代が生き方、働き方を悩むことがあると思うのですが、何をアドバイスを?
 ギャップイヤーという言葉に関連して考えると、生き方・働き方に悩む人は物事をゼロとイチかで考える人が多いと思う。職住近接で子どもを会社に連れてきたり、妻も同じ会社なのでうちで会議したりする。ギャップイヤーで学校を辞めるか辞めないかみたいな考え方とかある会社とそれ以外とか。ゼロとイチの間にすごく多様な0.1とか0.2とか数字があるはずなのに何でもかんでもゼロとイチで考えてしまう。のりしろやバッファー、重なりみたいなのが見えなくなってしまう。人ってあやふやな存在。基本的にあやふやな人間の生き方を考える時、あまりはっきりとした形で物事を考えすぎると余裕がなくなるのではないかと思います。「白・黒」で考えず、白黒の間に灰色があることを認識し、許容する。例えば青色は黄色と赤色を混ぜてみた人がみつけたんだと思う。会社と家だけじゃなくて、会社と家のものを混ぜてみる。ひとつひとつを点で考えず、2つを関連づけて考える。新しい何かが生まれると思います。色は原色でできてない。多様性っていろんな色を混ぜてみたら面白いことが起こる。結局どれにするのという物言いが多すぎますね。若者が将来に希望を持てる社会を創りたいですね。


【インタビュー後記】

"物心ついたときから「社会」を感じていた人"  

 工藤啓さんの話は、整然としてわかりやすい。自分ができる領域のポジション把握や目的意識が明確なのだ。それは、工藤さんが生まれ育った家庭環境から自然と出てくる実感が大きいと感じた。両親が若者の自立支援をしていたため、不登校や少年鑑別所から出てきた青年達と同居をしていた。それは、一般家庭で育った多くの人からみれば非日常であるが、工藤さんにとっては、30人規模の"大家族"は日常である稀有な経験だ。だから、今でもその皮膚感覚が残っているからか、判断に躊躇や迷いがない。日本は「社会的課題先進国」であり、日本が解決するであろうプロセスや手法、そして知見は、今後は海外に輸出・移転することも多くなる。HIKIKOMORIは、今や英語になったという。就労支援はドメスティックに見えて、実はユニバーサルであることを確認したい。(砂)

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