私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第12回 「産後のヘルスケア」という領域を開発し、「出産→育児」に対して「出産→産後」という文脈を切り開いたNPO「マドレボニータ」代表 吉岡マコさん

NPO「マドレボニータ」代表 吉岡マコさん埼玉県出身。川越女子高校2年の3学期から1年間、AFSの交換留学生としてオーストラリアに留学。帰国後は、AFS日本協会で学生ボランティアとして活動。東京大学文科三類入学後、演劇やダンスなどの身体芸術や、心と体のつながりについて関心を持ち、ダンスやヨガを学ぶ。最も影響を受けたのは麿赤児ひきいる大駱駝艦の舞踏合宿。卒論は「身体文化論」。1996年に文学部美学芸術学科卒業後、東大の身体運動科学の修士課程に進学。実験、測定などの訓練を積み、学外では、臨床心理学、東洋医学、ヨガ、ダンスセラピーなど、様々なヒーリングの技術を学ぶ。1998年3月大学院を休学(後に中退)、出産を経験する。予想していなかった産後の身体の消耗とツラさを知り、行政や医療の母子保健サービスにはない「母体の回復のためのリハビリが必要」という問題意識を持つ。1998年9月に、産後のリハビリのためのプログラムを開発し「産後のボディケア&フィットネス教室」を始める。産後8ヶ月のときにパートナーと離別。医療系出版社の契約社員を経て、1999年7月に教室を再開(フィットネスクラブのアルバイトをしながら)。02年に、活動をマドレボニータと名付ける。07年から産後セルフケアインストラクターの養成と認定制度を導入し、プログラムの多地域展開に取り組む。08年2月29日にNPO法人登記完了。『産後白書』シリーズなど産後の分野の調査研究にも力を注ぐ。著書は『産前・産後のからだ革命』(青春出版社)、母になる女性のための 産前のボディケア&エクササイズ(講談社)他多数。

(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)


AFS(アメリカンフィールドサービス)で豪州高校留学

Q:高校は中高一貫に行かれていたんですか?
 いいえ。埼玉県の川越女子高校という公立の学校です。

Q:それでAFSを知ったのは高1のときですか?
 そうですね。両親がAFSを知っていて。草の根の高校留学で世界平和を目指す団体で、世界中に支部があります。高2の3学期から1年間オーストラリアに留学しました。学校が1月から始まって12月までいました。南半球なので1月は夏でした。


留学の影響で高校に復学するもダブり、オーストラリアの1年が"ギャップイヤー"に

Q:なるほど。それで1年行かれて戻ってきて、単位認定とかなかったのですか?
 そう、たぶん学校と交渉すればそういうのもあったと思うんですが、でも私はもう帰ってきたら高3の3学期だったので、受験は無理だなと思って。それで私は1回ダブって、高校4年行ってるんです。それこそギャップイヤーですよね。

Q:ところで、オーストラリアの高校で2度転校されたというのは、どうしてなんですか?
 実はそんなに珍しいことではないのですが、ホストファミリーとあまり合わなくて、それで結局引越しすることになり、まず転校しました。ところが今度は転校した先の学校とあまり合わなくて、それでカウンセラーの人に相談して合いそうな学校を紹介してもらいました。AFSは非常にサポート体制が手厚くて、ボランティアのカウンセラーが2人ついて、いつでも相談できるようになっています。とはいえ、当時は非常に悩みました。いろいろ世話してもらったのになんか合わないとか言うのもすごく気が引けて・・・。英語も最初はそんなに達者じゃなかったので、うまく表現もできなかったですし・・・。17才の自分にはかなり大きな負荷でした。

Q:ということは、オーストラリアで高校は1年で3校行かれたということですか?
 そうなんです、3つ行きました。


高校内での人種差別の存在、世界平和のために自分ができることは何かを考えていた

Q:それで、非常にセンシティブなお話だと思うんですけれども、人種差別のようなものを感じられて、ショックを受けたとか。それは、どんなものだったのでしょうか?
NPO「マドレボニータ」代表 吉岡マコさん オーストラリアは移民が多い国で、アジア系も多いんです。学校にもよるんですけど、いろんな人種がいて、人種関係なくすごく仲がいい学校もあれば、人種ごとに固まっちゃってみたいなところもあります。私が2つ目に行った学校がそんな感じの学校ですごく固まっていて。でも日本人はいなくて、私は学校で1人だったんですよ。でも見た目だけじゃわからないじゃないですか。だいたい韓国人か中国人だと思われていて、それでアジア系だからと一くくりにされ、その雰囲気がツラくて・・・。散々悩んだあげく、ホストファミリーとカウンセラーにそれを打ち明けて、別の学校を紹介してもらって転校しました。3校目は生徒数が少ないこじんまりした学校で、AFS帰国組の子も何人かいて留学生に理解のある学校でした。最初に私のお世話係みたいな感じで学級委員長みたいな子が付いてくれたんですけど、その子は確かご両親がレバノンで、その子のグループにはいろんな人種の子がいて、スリランカ人とか、ギリシャ人とか、ヨーロッパ系の白人の子もいたりとかして。最初に聞かれたんですよ、「アジア系のグループ行く?私のグループに来る?」みたいな。それで「え、ちょっとよくわかんない」って言って、保留にしました。私は留学生って立場だったので、みんな興味をもって話しかけてきてくれたりして、別にどこのグループにとかいうよりはいろんな子と話すようにしようと思って。それで特定のグループに入らないようにしました。結局その学校でもやっぱり人種によってグループが分かれていたんですよ・・・。しかもグループ間のコミュニケーションってほとんどなくて。

 でも、そこに私が入るっていうのはなんか意味があるんじゃないかなって。それで最初のうちはもう見ためだけでアジア系って差別されるっていう経験をして・・・。それは街を歩いていてもそうなんですけど。でもその当時はまだ日本人は金持ちで一目置かれている?というか、また1990年ぐらいのバブルがはじけたぐらいの時で、日本人っていうと「あっ」みたいな、ちょっと見方が変わったりとかして、でもなんかすごいそういうのが嫌だなと思っていました。それで、この学校に私が留学生として来た意味は、そういう「人種の垣根」みたいなものを崩すとかそういう役割があるんじゃないかなと考えて、それで人種関係なくいろんな人と関わるようにしました。ほんの数ヶ月のことでしたが、私が帰国するころに、気が付いたらそういうグループの境界線がうすくなっていたんですよ。本当にミックスされて、例えばよく話すようになった韓国系の子がいたんですけど、一方で、ベネッサっていう白人のヨーロッパ系の子とも仲良くなって、家にも遊びにいかせてもらったりしたんですけど、私つながりでその韓国系の子と白人の子が普通に親しげに話すようになったりとか。それまでは全然、口をきかなかった人たちがそういうふうに交流するようになるのを目の当たりにして。なんかそういう"触媒"的な役割を果たせたんじゃないかと。私自身も、1年間オーストラリアにいて、ただ自分のために異文化体験をするっていうだけでは意味がないなというか、わざわざAFSのミッションを背負って派遣されてきた意味がないってずうっと思っていて。私費留学ならいいと思いますが、AFSという世界的な組織で世界平和っていうミッションを掲げてやっているその一員として派遣されたからには何か残さなきゃいけないというような、そういう使命感みたいなプレッシャーがあったんです。それで、高校生なりに、その世界平和にどうやって貢献できるだろうみたいな、いろいろ考えていて。でも最初はすごく挫折感がありました。自分が普通に人種差別される側として存在していて、そんななか自分に何ができるんだろうって途方にくれて。帰国が近づくにつれて、私まだ何も成し遂げてないってプレッシャーにさいなまれました。でも最後の最後で、自分の通っていた学校でそういう変化が起こせたってことで、これで帰れるなって、でもほんと帰る直前でしたけどね、それを実感できたのは。

Q:そこで達成感が生まれたということですか?
 そうですね...いや、そんな清々しいものではなく...じんわりと、ですけど。世界的にみたら本当に小さな変化で。そして、大人になってから、そんなことごときで満足してちゃダメだと思い至りましたが。


東大受験に向けて集中勉強開始

Q:それで帰国されて高2を2回やったということですよね?
 そうですね、一つ下の学年の2年生の3学期に復学です。

Q:その後、高3ということなんですけども、そのときに大学どうしようかって話に当然なりますよね。そこでどんな感じで東大・文3を受験ってことになったのでしょうか?
 私はオーストラリアにいる間は全く勉強する余裕がなくて。英語は一生懸命やりましたが、古文とか漢文とか理科とか全く忘れました。向こうは選択授業とかで本当に楽しんでしまったので、ちょっと日本の受験勉強にはついていけず。あと1年しかないから絞らないと間に合わないなと。いくつも受験すると試験の形態や内容が全然ちがうので志望校を1つに絞ってそれでそこの過去問を研究してそれでいこうと思って。まずは東大を調べたら、暗記をあんまりしなくていいということがわかった(笑)。年号とかじゃなく、大体の流れを把握していて大事なポイントが書けていればいい。それでほとんど記述の問題だから、これはいいなと。オーストラリアの高校ではいわゆる日本の穴埋め試験みたいなものは一切なくて、とにかくエッセイという小論文みたいなものをいっぱい書く。それが自分に合うなとも思っていました。暗記物で全部覚えて記号で答えるみたいなはすごくナンセンスだとずっと思っていて、こういう自分の頭で考えて調べて書くみたいなことをオーストラリアでも一杯やってきたので、たまたま東大の入試スタイルが似ていてイイと思いました。

Q:全く知らない人のブログを見ていたら、その人は大学生でアメリカ人の友人がいて、日本の大学の入試を見せてくれって言って国語がどんなものかってことで簡単に訳したんですよね。そうしたらそのアメリカ人がえらい驚いて「えっ、今、君何言った?」と。つまり「この筆者はどう考えているか次のうちから1つ選べって、そんな質問あるのか?」と。著者じゃなく、自分はどう思うかっていう質問じゃないのかと念を押されたという文化の違いのお話です(笑)。
 でも受験って結局採点の効率の問題なんですよね。どう思うかっていくつか選択肢を用意しといて答えさせるだけならマークシートで採点できるけど、どう思うかを書かれたものを採点するのって1個1個手作業だから、その受験の手間を考えたら。教員がどれだけ負担を負えるかってことになるんでしょうか。


漠然とした中で、興味あるものに専念した学生生活

Q:それで3年生から文学部美学芸術学科というところに進学されたわけですけど、例えばそのときにキャリアのイメージって芽生えたんでしょうか?
 学部のときは本当に漠然としていて、何が自分の職業になるのかが見えていなくて、とにかく自分の興味のある方向に勉強しに行ったという感じです。演劇だったり映画だったりとかそういう人間の体を使った芸術に興味を持って、だから絵画とか写真とかよりも、まあそれも好きでしたけど、その人間が動いて体を動かして表現するっていう分野にすごく興味がありました。蓮實重彦先生が学長になったころだったんですけど、映画の授業を取ったり、自分自身でも踊りをやったりで、でもそれが何の職業につながるのかっていうのは全く考えていなかったというか、いつかはつながったらいいなくらいでした。

Q:でも当時から、「つながったらいいな」っていうのはやっぱり思われていたんですね。
 漠然とですね。でも若いとこう...危機感がないじゃないですか。今みたいにインターン制度とかもなかったですし、わりとみんな、そんなに職業に対しての危機感っていうのは周り見ていてもあんまりなかったように思うんですよね。「今を生きる」、みたいな感じで。そう、キャリア教育も無かったですから。


就活か起業かの時代に、自分は両方から外れていった

Q:4年の頃(1995年)ですか、NYに1か月行ってダンスやヨガのレッスンを受けられたということですが、その時期って、世の中的には「就活」の時期では?
 普通は、そうみたいですね。でもあの頃ってそれこそ就職氷河期の始まりなんですよ。でもバブルの"残り香"みたいなのもあって、だからすごい二極化した時代ですよね。いわゆる一流企業に勤めている友人はいます。一方、(ホリエモンで有名な)堀江貴文さんが1つ上の先輩なんですが、そうやって起業する人もいて。「就職したくないなぁ」っていうのが私の周りの友達の口癖でした(笑)。ちなみに、もちろん当時は"ホリエモン"じゃなくて、普通に堀江さんって呼ばれていました。

Q:"ホリエモン"とは当時お話されたことあるんですか?
NPO「マドレボニータ」代表 吉岡マコさん 東大は語学でクラス分けされるんですけど、1つ上の先輩が下のクラスを面倒を見るみたいな伝統があって。私はスペイン語クラスで、上クラスの人が新入生歓迎合宿みたいなことをしてくれるんですけど、その合宿の世話人をしてくれたメンバーに堀江さんもいました。だから、ほんとに入学して最初に会った人ぐらいな感じです。ゼミも文化人類学の船曳建夫先生っていう、今でも堀江さんと交流がある有名な先生ですけど、そのゼミでも一緒でした。堀江さんがオンザエッジっていう会社を立ち上げたのも割と身近で、私の友達もライターとして関わっていたり。フリーターをしながら会社をたちあげるとか、友達が立ち上げた会社に参画するとか、そんな友達が何人もいたので、就職しない生き方もありなんだという認識でした。だから、その新卒一括採用の道からは完全に私もその時点で外れたんですけど、私は研究者になるのかなって漠然と考えていました。モラトリアムとも言えますが、自分の興味のある大学院にはいって、そういう体のことをもっと追究していきたいと真面目に考えていました。それが職業になるとしたらどうなのかなって思って、そうするとやっぱり研究者になって、身体運動科学を専攻してそういう分野で研究者になれば、例えば大学の体育教師になれないかなって。

Q:それで94年4月から生身の身体を研究したいということで大学院に進学されたということですね。
 そうなんです。美学芸術学は完全に哲学だったので、手で触れることができるようなという意味でのリアルな身体を扱う分野に行ってみたくて。


自分のやりたかったこととの"乖離(かいり)"に直面、人生の行き詰まり

Q:ところが、縁あって妊娠、出産を経験されるという展開に?
 ここが、いきなり飛躍してるんですよね(笑)。

Q:それは、修士の2年のときですか。
 修士の2年ですね、修論書かなければいけない時だったんですけど。でも今思うと大学院の入試までに解剖学とか運動生理学とかバイオメカニクスとかスポーツ科学とか、ほぼ独学で全部勉強して、その期間に学んだことが、実は今の仕事にもすごく役立っています。大学院に入ってからのことは、授業よりも、研究室の実験や測定のお手伝いが印象に残っています。たとえば最大酸素摂取量を調べる設備があって、測定にきたスポーツ選手の呼気を袋に集めてそれを二酸化酸素と酸素を分析するみたいなことをやっていました。私はその袋を密閉して、その分析器のところまで運んで、呼気が漏れないようにつないで、とか。そういうデータをとるための測定はすごく勉強になりました。一方、自分自身は、研究ってなんのためにやるんだっけ?ということが見えなくなってしまって。産後の心身について日夜研究している今と違って、その当時はそこまで強い問題意識や現場があるわけじゃなかったですから、「研究」そのものに意味を見いだせなくなってしまったんですね。それがストレスで盲腸になっちゃったぐらいです。盲腸になって腹膜炎も併発して1か月ぐらい入院したんですけど、盲腸で1か月入院するって普通じゃないですよね(笑)。


未来が見えないままギリシャへ

Q:ないですよ、盲腸なら普通1週間の世界ですよね。
 ひどい腹膜炎も併発して。自分のやりたくないことを無理してやるとこうやって身体に出てしまうんだと思い知りました。それでもう大学院をやめてフリーターになろうかと思っていたんです。そしたら、私の指導教官が私のくすぶっているのを見て、ギリシャでオリンピックスタディという研修会があって、日本からも1人行ける枠があるんだけど、英語しゃべれるならと声をかけてくださったんです。1か月ぐらいの合宿で、世界中からスポーツ科学をやっている大学院生が集まってきて、オリンピックについて学んだり自分の研究を発表したりしました。私も学部の卒論のテーマが身体論で、16世紀まで遡って西洋と東洋の身体論の比較みたいなことをして、そこでオリンピックがどう影響するかみたいなことも文献をたどって調べました。そういうのもあったので、東洋と西洋の身体の考え方を比較した研究を引っ提げて行ったんです。でも自分のなかでは、それが終わったら大学院は辞めるつもりでいました。向こうに早めに行って、結局3か月ぐらい滞在したんですけど、天気もいいし、完全に大学院のことは忘れてリハビリというかオフの状態でした。先生には申し訳なかったですが...。

Q:完全にオフな感じで・・・。
 はい。本当に天気もよくてね、のんびりしたいところで。たまたまそこで出会った人がいて、それは全然オリンピックスタディとは全く関係ない人だったんです。たまたまいい感じになって、それで向こうで結婚して家族を持つってのもいいかなと思って・・・。

Q:ギリシャで出会いが?
 この話をするたびに、ほんとに自分がもう嫌になるんですけど、今の自分だったら絶対にそんなことしないと断言できますけど、その当時は24歳でして、なんかその、ちょっと、自分の人生に行き詰まっていたところがあって、自暴自棄になっていたのは否めません。でも必死で考えて選択したつもりなんですよ当時の自分としては。

Q:チェンジをしたいような気持ちもちょうどあった頃なんでしょうね?
 とらえどころのない身体の研究をするよりも、家族をもつとか、自分の身体をつかって出産するとか、そっちのほうがすごくリアルで手ごたえがあって、尊いことに思えてしまって。


自宅で出産、様々な人が集まっての"共同保育"を経験

Q:ちょっと、びっくりしたのが自宅で出産されたっていうことで、それは日本でですか?
 そうです。

Q:普通は多くの人が病院(産婦人科)ですよね。これはあえて選んだんですか、それとも何かお考えがあってですか?
 最初は病院に行きました。その頃、若くして子どものいる友達っていうのが数人いて、自宅出産とか助産院とか病院以外の選択肢を教えてくれて、いろいろ出産のスタイルについても勉強しました。私も"身体オタク"なので、人間の持っている力を最大限に発揮して赤ちゃんを産むというのを試してみたいというのもありました。ただ、自宅出産は危険も伴うので助産師さんがすごくその方の覚悟を試すようなところがあって、流行っているからとかオシャレだからとかの理由でこられちゃ困ると。最初に問い合わせの電話をかけたときに「なんで自宅で産みたいんですか」と厳しく問われました。もちろん、安全に産むために、食事、運動、体重管理、すべて頑張りました。もちろん、病院での妊婦検診にも定期的に通いました。


「"産後の情報"が文献で見当たらない!」が事業の原点

Q:女性の産後の大変さをまさに身をもって体感されたと思いますが、「産前と産後」の違いについては、「理論」としてもいろいろ研究もされたんですか?
 そうですね。まず安全に産むためにやっぱり相当な体力づくりも必要ですし、あとはやっぱり栄養のことですとか、妊娠中に安産をするために妊婦がどうやって過ごさなきゃいけないのかとか、ほんとに日本語の文献以外にもフランス人が書いた水中出産の本とか、ミシェル・オダン博士という有名な先生がいるんですけど、それの英訳のバージョンとか、当時はAmazonなんてなかったので紀伊国屋に行って文献を探して、いろいろ読んで身体については、よく研究しました。ただそこですごくびっくりしたのが、「産後の情報」って全然ないんですよ。最初のうちは妊娠と出産のことにしか興味が向かないので、妊娠・出産のことを一杯読んでいたんですけど、産後になって気づいたのは、いろんな人の出産体験記とかはありますが、あと子育て体験記になってしまうんです。それでわたしがよく参照したのが、米国人のシーラ・キッツィンガーという女性が書いた「出産後の一年間(The year after childbirth)」という本です。ちゃんと分厚い本で全て網羅されていて、子育てのことだけじゃなくて本人の身体のことだったりとか、心のケアのことだったりとか、夫婦関係のことだったりとか、仕事のことだったりとかが網羅されている。イラストも大人っぽくて、ほんとそれだけが頼りみたいな感じで手元にいつも置いていました。なんで日本ではこういうのがないのかなと思いました。それが最初の問題意識。結局日本語の文献がないってことは、日本にそういう文化がないってことだから、いろんな人と話していても結局子どもを産むと、あとは子育ての話ばっかりなんですよね。それでなんか変だなっていう違和感を感じ始めたっていうのが、それが今の「産後ケア」の領域につながります。


あまりに知られていない"産後の身体"へのダメージ

Q:そこが、原点ですよね。自分で体感されて実際に研究もされて、「産後」ジャンルはやっぱりない。だけど、世の中的には絶対必要ですよねということでしょうか?
NPO「マドレボニータ」代表 吉岡マコさん そうですね、必要ないならいいんですけど、自分も出産を経験して実感したのが、ほんとに出産って、身体にすごいダメージを与えるんです。みんな赤ちゃんが出てくるからおなかが軽くなって楽なんじゃないの?って勘違いする。でも、それは間違っているんです。あれだけ大きなものが出てくるから、関節が一回破壊されるようなもので。関節をつないでいる靭帯もやわらかくなって、関節もぐらぐらになります。だからまず出産後はうまく歩けないんです、ほんとに。あとは子宮から赤ちゃんが出てくるだけじゃなくて、胎盤という臓器がはがれて出てくるので、子宮の中が傷だらけなわけです。こんな大きな臓器が内臓からはがれて出てくるわけですから。

Q:表現が不謹慎かもしれませんが、なんかロケットの切り離しみたいな感じで、ドカーンといっちゃうみたいな・・・。
 はい、人間の身体から内臓がはがれて出て来るって大変なことですよ。ひざをすりむくとそれだけでも痛いじゃないですか。あれだけの大きさの傷が、人間の身体の中にあるってなると相当なダメージです。だから本当におなかに力が入らないし、起き上がるのもしんどいし、眩暈(めまい)がするし。そんな状態で、本当に身体はぼろぼろになるんです。私はこういう仕事をしているから、そのときの記憶をリアルに覚えていて。覚えているのは、いつもいろんな人に吹聴しているからなんですけど、普通は、みんな忘れちゃうんです。この話をお子さんがいる人に結構話すんですけど、「身体ぼろぼろになるじゃないですか」って言うと「うーん、そういう人もいるみたいですね」っていうんですよ。「自分はそうじゃなかった」って言い張る人すらいます。

Q:たぶん、多くの女性は大変ゆえ忘れたいっていうのと、次は「育児」「子育て」の大変さにかまけて、興味関心が子供に向いてしまう?
 そうなんです、みんな通ってきた道だからと、諦めてしまうような。だから余計にこの大変さや対策が伝承されないし、明るみに出てこないんですよ。だからみんな人知れず我慢して我慢して乗り切った人は、いいですけど、それをこじらせて鬱(うつ)になっちゃう人もいるし、夫婦仲が冷えきってしまう人もいる。虐待しちゃう人もいるし、やっぱり問題の温床なんですよ。


誤解が深刻な問題を引き起こすこともある

Q:ご主人との関係も変わってきますしね。
 そうですね。パートナーとの関係は激変します。でもそれに向き合うだけの体力が産後にはないんですよ。それでうまくコミュニケーションがとれなくて、家庭がギスギスしてしまったり、というのはよくあります。でもそれが女性の産後の身体の回復が足りてないからなんだってみんな思い当たらなくて、結局子どもに向かう虐待は本人の心の弱さのせいだとか、鬱もその人の気質のせいだとかまわりの環境のせいだとか言われる。出産後の体がすごくダメージを受けていて、それがちゃんとケアされてないから心にも出てしまうみたいな発想にいかないですよね。

Q:心と体ってリンクしてるんだけど、あえて分離して考えがちというか・・・。
 それは実感がないからっていうのもあると思いますけど。でも、経験者、当事者からは「そうそう!そうなんです!」って共感してもらえることが多い。そういう人はマドレボニータのプログラムを知って「こういうのが欲しかった」と言ってくださいます。


新卒一括採用のレールから外れ、生きていくために始めた新事業

Q:なるほど。それでだんだんこうビジネス的なところに進展してきます。1998年の9月に立ち上げられましたが、当時まだ産後6ヶ月ですよね、これって大変じゃないですか?
 最初は、出産後はギリシャで暮らそうと思っていたのですが、産んでみたらすごく大変で、生きているだけで大変だったので、これは飛行機に乗ってギリシャに移り住むとか、今住んでいるところを引き払うとか現実的に本当に無理でした。また、子どもが乳児の一番大変な時期にパートナーと協力して生活を送ることができなかったことは、その後のパートナーシップに決定的な打撃を与えることになります。それも「産後が大事」だと主張する大きな理由のひとつなんですが。そんなわけで当面は日本で暮らしていくことにしました。

 でも日本で暮らしていくには、とにかく新卒一括採用の道からは外れてしまったわけで、ここが日本のひずみだと思うんですけど、新卒一括採用のレールからいったん外れるとオフィシャルには全く道がない。乳児がいるので5時半には帰りたいという条件で働きたい人に、働き口なんて全くないんです。

Q:これまでやってきたことが評価される道が閉ざされる。
 それは新卒でも同じかもしれないですね。まあ百歩譲って子どもがいなければ契約とかで夜遅くまでなんでもします!みたいな感じで雇ってもらえたかもしれなかったですが・・・。当時は育児休業法も整備されてなかったですし、あっても正社員にのみ適用される制度ですから、フリーターには全く縁のない制度でした。そう考えると結局勤め先がないので、自分でなんとかやってくしかないじゃないですか。それで自分で自活してやってくしかないなと思って「産後のボディケア&フィットネス教室」という教室を立ち上げました。これが本当にビジネスになっていけばいいなと思っていたんです。でも現実はそんな全然甘くなくてですね、とにかく集客ができない。知名度もない実績もない中で、何十人も一気に集客なんてできない。ほんと今でこそ受益者が3000人なんて言ってますが、年間3000人なんて夢のまた夢で、1回のレッスンに5人集まればいいようなものでした。でも、それじゃ全然食べていけないですから。それで結局9月に始めて、現実的にやっぱり無理だなと思って、98年12月にいったん閉じました。


挫折で教室閉鎖と契約社員生活の始まり

Q:99年1月以降、一旦契約社員として働かれているんですね。
 そうなんです。もう無理なので、父の友人に出版社を紹介していただき、でもやっぱり10時から5時半までしか働けないということもあるので、と言われて、本当はそういう理由ではいけないと思うんですけど、とりあえず3ヶ月間の試用期間は時給で働くことになりました。

Q:大学院のときにストレスを感じられて腹膜炎になられて、それと同じようなことが働いても起こったとか。
 そこで正社員になれていたりすれば、そこで頑張れたかもしれないです。医療系の出版社で、毎日のように病院や大学病院の先生に電話して校正大丈夫ですかとかチェックしたりしていました。仕事自体はすごく面白かったのですが。5カ月目くらいから体調を崩してしまいました。声がでなくなって、電話もとれなくて迷惑かけました。

Q:今の仕事にも関連している仕事ですね。
 そうです。ほかには病院の院内報や腰痛の冊子を作ったりしていました。私も解剖学や運動生理学の知識もあり、自分の関心にはある程度近い分野だったので、編集者としてもし正社員になっていたらそこで頑張っていく道もあったのかもしれません。

Q:大学・大学院で培った自分のスキルというか能力を活かせるということですね。
 そうです。それで3ヶ月間の試用期間が終わって、4月から公立の保育園に入ることができたので、少し勤務時間も延ばすことができました。9時半から5時半というのが正規の時間いっぱい働けるようになったのですが、残業ができないという理由で、正社員にしてもらえませんでした。


正社員と契約・派遣の大きな格差を痛感。そしてやりたいことの仕事がない

Q:だから今そういう想いが、"ワークライフ・バランス"みたいなところに来ているんでしょうか?
 そうですね、契約社員として働いていた頃は、9時半〜5時半、月曜から金曜までずっと働いてもだいたい16万円前後。社会保険にも入れないですし、ボーナスも出ない。その中から年金とか、国民健康保険とか、保育園代とかを払う。いわゆるワーキングプアー、そんな言葉は当時はなかったですけど、現実に経験しています。

 派遣とか契約ってそういうことですよね。その分正社員がたくさんもらっている。同じ仕事していてもすごい格差が存在します。

 正社員にしてもらえなかった時点で、ここで働き続けても未来がみえないと思って、最初は新たに正社員にしてくれる会社を探そうとしました。当時「とらばーゆ」とか駅の売店で売っていたのを覚えてます?

Q:リクルートの雑誌ですよね。
 そう、「とらばーゆ」と「サリダ」。まだネットの時代じゃないので、売店で週2で出ていたんです。210円とかで売っていて、毎日のように今日は「サリダ」今日は「とらばーゆ」って感じでした。ただ、子持ちで正社員になれるような会社はなかなかないですよね。資格ももってないですし。

 でも私も本気で全国チェーンのエステサロンが正社員を募集しているのをみて、現実的に応募を考えていました。身体に関係する仕事だし、実家の近くに引っ越して、3交代だから遅番のときは実家に子どもを預かってもらってとか、そこまでシミュレーションしていました。でも想像すればするほど、無理だなって。私がやりたかったことじゃ全然ないなと思って。それでちょっと発想を転換して、1カ月くらいしたら次はバイト雑誌に切り替えたんですよ。当時「フロムエー」と「an」が週に2回出ていました。毎日読んで休日に面接いったりして。時給も半分ぐらいになっちゃうけど、バイトをして週1回この教室を再開すればいいじゃんって思いつきました。


"教室再開"――自己投資と自分で生活をデザインできる生活へ

Q:それで、スポーツクラブで下積みをされていたというわけですね。
NPO「マドレボニータ」代表 吉岡マコさん "バイト+教室"の2足のわらじで働いても、計算したら前の会社と結局稼ぎはさほど変わらない。時給は試用期間は750円からスタートで週5で働きました。今まで9時半5時半で働いていたときは保育園のお迎えがすごい遅くなってしまっていたので、もっと早くお迎えにいきたいというのもあり、休憩なしの9時〜15時のシフトにさせてもらいました。

Q:1日に休みなしの"通し"の肉体労働では、相当キツイのでは?
 そうでもないです。たった6時間ですから。でもその後、3時上がりだと保育園のお迎えも早く行けますし、例えば3時から自分のバイト先のジムやスタジオでトレーニングして帰れたり、ためになる研修にも参加させてもらえたり、いい環境でした。前の会社だったら9時半から5時半まで全部仕事で自分の時間は一切ない。それなのに保育園のお迎えだってギリギリだし、ほんとに追われるような生活でした。

 ところが、スポーツクラブだったら、シフトも融通がきくし、仕事がそのまま勉強になったし、子どもの保育園にも明るいうちにお迎えに行ける。子育ての時間も取れるし、それで大体ひと月に稼げる金額が8万円ぐらい。同じ時期に週1で教室を再開したんですけど、当時お月謝を1万円に設定して10人集まれば10万円。スタジオ代など経費引いて収入8万円。そうすると16万でしょ、そうすると出版社時代とそんなに変わらないんです。でもお教室は午前中だけだから午後いっぱいは自分の時間がとれる。その時間に書きものをしたり、セミナーに行ったりもできるし。

 だから時間の使い方としては、同じ金額を稼げて、空いた時間に自己投資もできることになります。毎日毎日「お先に失礼します」って急いで会社を出て、ぎりぎりで走ってお迎えに行って、もうお友達は誰も残っていないところに最後のお迎えっていうのが、自分でも本当にいやで。それよりも、早めに5時とか5時半に迎えに行って他のお母さんとも喋れて、子どもたちが一緒に遊んでいる様子も見られる。もう1時間違うだけでも全然、保育園の様子が違うんですよ。

 前の会社だって、保障があるわけでもない。だったら、同じく保障がないバイトでも、自己投資できて、生活を自分でデザインできるような生活がしたいと思って、その会社は辞めさせてもらいました。でも、紹介してもらった手前、本当に親には申し訳なかったです。理由はともかく半年で辞めてしまいましたから。


「マドレボニータ」の名前の由来

Q:01年が事業の始点で、今のマドレボニータが形成されていくわけですが、吉岡さんは株式会社でなく、"社会運動"としてのNPOを形態として選ばれた。そしてマドレボニータという素敵な組織名をつけられたわけですが、これは突如生まれたものなのか、それともスペイン語を大学のときに選択されたことと関係あるのでしょうか?
 たまたまスペイン語の辞書がそこにあったんですけど(笑)。でも最初から「マドレボニータ」という名前を付けてはじめたわけじゃなくて、最初はほんとお教室があっただけでした。活動自体に名前が付いていたほうが紹介もしやすい、なんか屋号みたいなのないの?って言われたことがきっかけです。それを考え始めたのも、初めて2〜3年経ってから(笑)。

 でもその活動の中で母親たちに出会っていく中で、やっぱりなんかこう日本の母親文化のいびつさというか、すごく違和感を感じていました。それは何かというと、母になった瞬間にみんな幼稚になってしまうというか。でそれは自分たちもそうだし周りもそうやって扱うっていうか。みんな「ママ」って呼ぶとか。


"ママ"という甘ったるい人称は絶対使わない

Q:"一人称"じゃないんですよね。「私は」っていうのが消えちゃって「○○ちゃんのママ」とか、「○○さんの奥さん」とか。
 例えばテレビのニュースで母親たちのことを話題にするときは、ママって言わないじゃないですか。「○○県○○市の母親たちが集まってこういう活動をしています」とか。でも新聞ですら見出しには「○○ママ、~をスタート」とかやっちゃうんですよ、大手の新聞でも。マドレボニータでは、絶対にママという人称を使わないという価値観と行動規範は徹底して共有しています。

 百歩譲って「母親」、本人たちに呼びかけるときは絶対に名前で呼ぶっていう、それは本当に厳しいコードがあるんですね私たちの中では。ママってすごい画数も少ないし、それこそ新聞記者とか編集者の人とかにしたら文字数食わない便利な言葉。産後ママとか、働くママ、在宅ママとか。私たちはそんな中、「産後の女性」って言い方をするんでけどわかりにくい。

Q:たしかに、「産後ママ」のほうが、頭の中にぱっとイメージが浮かぶ(笑)。
 でもそこにみんな流されて、本人たちも人間としてのアイデンティティというよりは、母親としてのアイデンティティ一色になってしまって、自分のこともママって呼んでしまうし、人のこともママって呼んでしまうみたいな。それが日本人の母親たちを幼稚にしてしまっている一つの要因なんじゃないかなと思っています。中には、私みたいに甘んじたくないと思っている人もいるんじゃないかなと思って、そういう人に出会っていきたいなと思って、こういう活動を始めたという経緯もあります。名前を付けたときに甘い名前は嫌だなと。雑誌の見出しなんかを見ていくと、大体「○○ママ」とか、そういうのばっかりなんですよ、"元気ママ"とか。そういう甘ったるいフレーズを使いたくないなと、まずその頭があって、たまたまスペイン語の辞書が目について、こうパラパラやって母ってなんだっけって見たらマドレって出てきて。マドレっていう音はあんまり甘くなくていいなと。


当事者じゃない人たちへ、「産後白書1」

Q:あと「産後白書2」が終わって3が発売ですよね?
 3が出ました。

Q:その「産後白書」の意味ですね、白書にかける想いとか、お話ください。
 ここが企業とNPOが違うところだと思うんですけど、それこそビジネス的にサービスを提供してそれでお客さんからお金を頂いてまわっていけばいいっていうならただのビジネスでいい。NPOの価値っていうのは、今まで社会的に必要とされているのに、なかったサービスを作って提供していくっていうところに意義がある。市場すらなかったところに作るわけだから、サービスだけでなく市場も作って行く。だから現場そのものが新しい。今まで誰も見たことがない現場を持っているっていうところが強みだと思うんです。その現場をただ回しているだけって本当にもったいないというか、すごい損失をしていると思うんです。だから新しい現場だから常に研究しなきゃいけないし、開拓しなきゃいけないし、検証しなきゃいけない。ほんとにこれでいいのかとかほんとにこの流れで正しいのかとか。それを研究室でやるのではなくて、現場に来てくれている母親や赤ちゃんたちの表情だったりリアクションだったりとか、その人たちが発してくれる言葉だったりとか、指摘し書いてくれる言葉だったりとか、そういうものから研究していく。だから、その現場を私たちはただ回しているだけじゃなくて研究しながらやっています。そうしていくと、すごい知見がたまっていく。それで「産後の現実ってこうなんですよ」とか「産後の女性には、この3つの柱が必要で・・・」とか、普遍性のある事実が見えて来る。でもそれをただ普遍的なんですよと言うだけだと信用してもらえないんです。特に女の人が言うと「女の人がこう元気にやってて、結構なことですね」みたいな感じで世間話になっちゃうんです。

 いやいや、ほんと税金を投入するぐらい価値があることなんですよって言っても、ただ叫んでいるだけでは説得力がないですよね。当事者からは「そうなんですよ」って共感してもらえるんですけど、当事者じゃない人にはポカンとされてしまうので。やっぱりそれをちゃんとデータとして、目に見える形にしてそれを発表しなきゃいけないなと。それが「産後白書」第1弾でした。現場にいる私たちが、私たちのところに来てくれる母親たちの声や表情から肌感覚で感じとっていることを、ただ言葉で言ってもわからない。それじゃ、その人たちに実際に紙でアンケートとって実際に答えてもらって、それをデータとして蓄積して分析して、っていうことをやっていたんです。

 実は膨大なデータが集まったのですが、収録されているのは、その中のほんとに厳選された3割ぐらいなんです、全く関心のない人にもわかってもらえるように、本当に必要なデータだけを凝縮して出したのが「産後白書」でした。でもそれを発行したことによって、当事者じゃない人たち、関心のなかった人たちにも興味をもってもらえたり、理解してもらえたりという効果がありました。

Q:おじいさんとおばあさんが買って、孫が生まれた方に配ったりっていうこともあったとか?
NPO「マドレボニータ」代表 吉岡マコさん はい。当事者だけでなく、当事者の周囲に届いたのが大きな成果でしたね。マドレボニータには事業の1つめの柱として、当事者(産後女性)に教室を届けるという事業があります。それと同時にスケールアウト(事業の横展開)するために、教室で教えられるインストラクター養成と認定という事業があって。まぁ、この2つだけの事業だったらNPOじゃなくてもよいと思います。ただ私たちは3つ目の大事な柱として調査・研究・開発事業を掲げています。誰もチャレンジしてない現場から出てきた知見や問題に向き合い、そこを追究して世に問うていくというのはNPOの大事な役割だと思います。当事者へのサービス提供、スケールアウトのための指導者養成、自分達が扱っている分野の調査・研究・開発その3つの柱がそろった上で、それを応援してくれる会員さんがいます。

 マドレボニータの会員制度は、賛助会員と正会員があり、賛助会員は募金感覚で細く長く応援というかたが多く、正会員の方々は、マドレボニータの活動やミッションだけでなく、その研究の部分にすごく共感してくださっているかたが多いです。NPOの会費としては年間2万5千円って結構高いと思うんですけど、「マドレジャーナルの最新号が読みたい」といって正会員になってくださるかたも多いです。

 そうすると、例えばNECとの恊働事業であるワーキングマザーサロンのファシリテーターを募集しますっていったときに、正会員の中から募集するのですが、そうするとマドレボニータの文化をかなり深いところまで理解して価値観を共有しているかたが応募してくださるのでプロジェクトの進行もスムーズですし、なによりもパッションをもって応募してくれるファシリテーターが集まるのでプロジェクトが成功しないはずありません。会員さんは、ですから、「応援してくれる人たち」というだけでも充分なのですが、それ以上に、マドレボニータという文化を盛り上げて行くコミュニティのメンバーのようなかたもたくさんいらっしゃいます。


NECとのワーキングマザーサロンの成果を形に、「産後白書2」

Q:そうですね、深く関与もしていただけるということですね。「産後白書」の2と3のコンテンツなり編集の違いってどうでしょうか?
 「産後白書2」は当初はその名前にするかって実はすごい議論がありました。まず、ワーキンマザーサロンという長く続けている活動がありまして、そのサロンに参加してくださる方々に毎回アンケートをとっていたものを何かの形でまとめようということになりました。NECとの恊働事業だったので、まとめたものをつくる予算をNECさんからの協賛金に計上しました。そこはパート1と違うところです。

 「産後白書」パート1のときはほとんど自己資金と、あとは社会起業支援のSVP東京さんからの助成金で発行したのですが、「産後白書」の実績と、ワーキングマザーサロンの受益者が年々増えているという実績(2011 年度は全国で1399人が参加してくれました。)もあり、NECさんの協賛というかたちで制作することができました。「産後白書2」は、「子どもを持って働くことを考える」ということをまとめた白書になりました。

Q:NECの社員で妊娠された女性以外でも参加できるのですか?
 誤解されやすいのですが、このプロジェクトはNECの「人事部」ではなく、「社会貢献室」の事業なので、むしろNECの社員の参加がまだ少なく、そこはまだ課題の部分なんです。昨年は全国で半年間のあいだに1299人のかたに参加していただいたのですが、社内の参加者は1割未満に留まっています。まだ社内で人事的な効果があるということは認めてもらえていなくて。どちらかというと、地域の市民に貢献した、メディアに注目してもらえたという部分が評価されています。

Q:社会貢献としての位置づけ?
 NEC社会貢献室が協賛をしていて、主催はマドレボニータです。NECさんと社会的なミッションや目的を共有しながら、マドレボニータが持っている技術や知識や、会員さんなどの人的ネットワークを使って、「ワーキングマザーサロン」というプログラムを全国で展開する。NECが協賛しているので、冠に「NEC」をつけてNECワーキングマザーサロンとして実施する、という構造です。全国でのサロンを展開する担い手であるファシリテーターはマドレボニータの正会員からボランティアを募り、研修をして、その年のファシリテーターになります。研修の費用や、サロン開催の費用はNECさんが負担するので、ファシリテーターは金銭的な負担なく活動できます。ファシリテーター候補生は2カ月間の厳しいオンライン研修と、2日間の合宿を経て晴れてファシリテーターとなり、6月からサロンの開催がスタートします。サロンはファシリテーターの住む地域で11月まで毎月実施します。今年も全国で実施していますよ。


Q:全くのオープンでフェアに参加できるんですか、素晴らしいですね。

 そうなんです。この事業はNECの社会貢献室との恊働事業なので、評価の指標もどれだけNECの社員だけでなくの地域の人たちに対して貢献できたかというのも大きいんです。


パートナーとの関係に焦点を当てた、「産後白書3」

Q:「産後白書3」の特徴はいかがですか?
 2はお話したように「ワーキングマザー白書」でもよかったんですけど、でもやっぱり1が評判よく、いろんな人に話題にしていただけたので、その名称を引き続き使おうということで「産後白書2」と名付けました。産後をめぐるいろんなことを研究するのが私たちの使命だから、第3弾第4弾と出していこうよと。そこで、私たちが独自にやっていた「マドレネットワークサロン」というイベントがあって、社会起業支援のSVP東京の「ネットワークミーティング」のようなものですけど、それを年に3回、4年前からやっていました。それは完全にオープンな場で学生も男性も来れる場です。「産後白書」を出したことによってほんとにいろんなステークホルダーが参画してくれるようになって、今まではほんと女性と子どものためのNPOという見られ方だったのが、男性とか老若男女、いろんな方が関わってくださるようになりました。

 そこで、もっと男性の言葉を聞こうっていう意見がでてきました。私たちは日頃から産後の女性に接しているんですけど、その人たちの悩みの大部分を占めるのがパートナーとの関係なんです。私も産後にそれで失敗してシングルになったというのもあるのでその深刻さは切実にわかります。それで、こういう活動をしていると、いろんな人から「子育ての相談に乗ったりするんですか」って聞かれるんですけど、実は子育中の女性の悩みの多くは「子育て」そのものよりも「パートナーとの関係」の問題であることがほとんどで。それがうまくいっていれば、子育ては、協力して乗り越えられる。

 だから私たちが子育ての相談に乗るよりも、パートナーとの関係をいかによくするかに貢献する方が効果的なんです。マドレボニータのプログラムに出たことでパートナーとの関係がよくなったという声を男性からも女性からもよく聞いていたので、じゃあ、その女性だけでごちゃごちゃやってないで、男の人からの意見を聞こうということで、イベントを進めました。出産後にパートナーとの関係がよくなる人も、悪くなる人もいて、じゃあどういうからくりなんだろうねということでネットワークサロンの登壇者には男性も呼んで、カップルで登壇してもらったりして、産後のパートナーシップをテーマに語るというイベントを何度かやりました。それがすごく評判がよくて。たとえば、夫婦のパートナーシップに関してエッセイを何千字で書いてくださいっていうこともできたかもしれないけれど、書くのと喋るのとは全く違うんですね。オーディエンスがいて司会者がいて、それだからこそ、ぽろっと本音の言葉が出てくるっていうのがあるんです。「あ、いま話してて思いだしましたけど」って忘れていた重要なエピソードを語ってくれたり。

Q:なるほど、身構えないんでしょうね。会話の中、言葉にすることによって明らかになるというか。
 そういう「場」の力と、その肉声から語られる「産後から考える夫婦感のパートナーシップ」の内容を形にしようと。それを全部で6回分。全部は載せられないので、これも制作ボランティアを募って、みんなで分担してリライトして、みんなでチェックして、冊子としてまとめたのが「産後白書3」です。


産後ケアの重要性をグローバルに発信

Q:英語版というのは、何を訳されたんですか?
 昨年夏に慶大准教授の井上英之さんたちと、シアトルのiLEAPという素晴らしいイノベーター教育をしている米国のNPOでおこなわれた日米ソーシャルイノベーションフォーラムというプログラムに参加させていただきました。シアトルでいろんな人と「産後」の問題について話す機会がありましたが、母子の支援も、母子支援に対する認識も、日本と大して変わらないという印象を受けました。助産師が訪問するとか、ママサークルとかはあっても、産後女性の母体のリハビリとかエンパワメントとかそういう文脈は見つけられなかった。米国にも、ウツや虐待の問題は依然としてあるけれど、あまりオープンには語られない。構造は日本とかわらない。やっぱりこれは発信しないといけないなと思いました。アフリカなどで衛生状態が悪くて母親や赤ん坊が亡くなるといった話はみんなうっすら知っている。でも、新生児死亡率が世界最少の日本で、虐待やうつなどで人が亡くなっている、その現実はあまり知られていない。そういった事実とともに、それを予防するための方法として「産後ケア」が大事なんだっていうことをグローバルに発信していきたいと思いました。

Q:ボランティアを募って共同で翻訳されたとか。
 最初から翻訳家に依頼するのでなく、会員さんから翻訳ボランティアを募り、facebookのグループを作って共同翻訳しました。1日何センテンスか担当者がアップして、でそれに対して訳文をコメント欄に記入していくという形で。みんなで訳文を見て、こういう表現がいいんじゃないかとか、コメント欄で議論していく。結果的に、時間はかかりました。翻訳者に頼んだ方がずっと早かったと思うんですけど、これもひとつの市民参加の機会を作ったということで意義深かったと思います。

 産後の問題に思い入れのある会員さんが、英語のスキルをつかってこのプロジェクトに参加してくれました。最終的には二重にネイティブチェックしたので、実はこのやりかたのほうがコストがかかるんです(笑)。時間もお金も。そういうことも含めて、運営は大変でしたが、みんなで英訳する場をつくったことに意味があると思っています。マドレボニータは、そういう市民参加のプラットフォームにもなっていると。

Q:ちなみに(発売は)いつ頃の予定ですか?
 夏には冊子版が完成します。その後、kindleで電子書籍の発売を予定しています。

(編集:青学・土田友里)

【インタビュー後記】

"「理論と実践」両方を見事に回せる人" 

 吉岡マコさんは「妊娠→出産→育児」というプロセスに足りないもの、欠けているものを発見した人だ。それは「産後」というステージ。産婦人科の医師だって、「産まれる」ところまでが業務領域で、あとは小児科にパスしてしまう。だから「産後の肥立ち」って言葉も現在は隠れがちで、なかなか「産後」領域のケアや保健に気付かなかった。マコさんは「妊娠→出産→産後→育児」が普通の感覚で受け入れられる社会を目指している。昔は大家族で、「産後」ステージはばあちゃんが担ったり、周りに「知恵袋」が存在して、「育児」へのスムーズな連係があった。それが今は築きにくい。そこで考えたのがネーミングも秀逸だが「産後白書」の制作である。もう5千部以上売れたが、遠くに住む「ばあちゃん、じいちゃん」が買い求め、出産する孫娘に贈るケースがあると聴いて合点がいった。「理論」のほうは大学とも共同研究したり、「実践」では教室という現場で教え、自分の"分身"といっていよいほどのクオリティで「認定インストラクター」を養成し、日本を席捲しようとしている。しかも、英語を通じて異文化の世界に発信しようとしている。これほどバランスよく"理論と実践の融合"課題を克服する能力を持った人も珍しい。そのマコさんがここまで、赤裸々にこれまでの人生を話してくれた。参考になる若者もきっと多いと思う。
 たまたま多くの共通の知人がいるが、ほとんどのマコさん評は「あんなに短時間で知らない分野のことを吸収できる人はいない!」だ。"新卒一括採用"という規定のレールに乗らなかったことが、今の吉岡さんの活動と成果を生んだとしたら、皮肉な感じがする。かつて聞いたことがある。「なぜ、株式会社じゃいけないんですか?」「マドレは"運動"なんです。だからNPOが一番すっきりくる」と即答された。産後という新しい領域から、パートナーとの関係を考え、そして生きやすい共生へ。吉岡マコさんは健全な社会変革を目指しているように感じる。だから、国や行政により近い「公」の世界で活躍してほしい。こう願ってしまうのは私だけでは決してないはずだ(砂)。


記事一覧

私のGAP YEAR時代トップページへ戻る