私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第9回 公益財団法人 インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢設立準備財団 代表理事 小林りんさん

インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢設立準備財団 代表理事経団連からの全額奨学金をうけて、カナダの全寮制インターナショナルスクール(Lester B. Pearson United World College of the Pacific)に留学した経験を持つ。その原体験から、大学では開発経済を学び、前職では国連児童基金(UNICEF)のプログラムオフィサーとしてフィリピンに駐在、ストリート・チルドレンの非公式教育に携わる。
 2007年に発起人代表の谷家衛氏と出会い、学校設立をライフワークとすることを決意、2008年8月よりインターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢設立準備財団 代表理事。1993年国際バカロレアディプロマ資格取得、1998年東大経済学部卒、2005年スタンフォード大教育学部修士課程修了。

(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)


カナダで問われた「あなたは何者?何ができる?」

Q:高校時代は"井の中の蛙"だったと後に書かれていますが、高校時代に考えた「自分力」とはどのようなものだったのですか?
 高校1年生までは、国立大学の受験を目指していろいろまんべんなく勉強してました。でもなんか"違うな"と思っていました。それで、カナダに漠然とした気持ちをもって旅立ったわけですが、そこでずっと問い続けられたのが、「あなたは何者なの?あなたは何ができるの?」でした。それまで自分自身にそのような問いかけをしたことがなかったことに気づきました。日本ではそんなこと聞かれたことなかったなと思って・・・。
 私が留学した学校(United World College)は、各国から奨学金をもらって集まってくる優秀な生徒が多く、勉強はできて当たり前、その上で「あなたは何ができるの?」と問われることに初めは戸惑いました。政治のことを知り尽して、いろんなことを考えている人がいれば、アドリブでジャズピアノが弾ける子もいる・・・そういう中にいると、何かひとつ突き抜けてないといけない、人間としてこのままだと私はなんとも形容できない人になっていってしまうと思い、すごく悩んだんですよね。自分の居場所とかアイデンティティとか、すごくもやもやしていて、2年間実はずっと悩んでいました。勉強はどれやってもそこそこという感じで何か得意科目があるわけでもなかったですし・・・。

Q:中学・高校は私立だったのですか?
 中学から受験して国立大学の附属中学に入り、高校入試で同じ系列の高校を受験しました。受験・受験でゲームみたいな感覚で、そこは楽しく受けたまではよかったんですけど(笑)。


1枚のA4の紙から始まった、学び多き高校カナダ留学


Q:高校を1年生のときに退学し、カナダに留学したということですが、これはどこで見つけてそういうことになったのですか?
 A4の1枚の紙が"ぺたっ"と教室に貼ってあったんです(笑)。高1の夏頃、日本の大学の受験戦争って何なんだろうと悩み始めていました。夏が終わったときに英語科の先生に相談に行ったところ、AFSなどは募集が全て締め切られていたんですよね。それで唯一冬に試験があるのがこれですよと見せて頂いたのが、そのA4 1枚の貼り紙だった。それをよく見たら、全額奨学金だし、丸2年行けて向こうで卒業して帰ってこられる。ぜひこれに応募したいという話になって、親に相談し、賛成してもらったわけです。


高校が社会貢献に重きを置いていて、ボランティアを週2回

Q:カナダですごい経験をされたということですね。向こうの2年間では、学業以外のことで何かされた思い出とかはありますか?
 私はバンクーバーの片田舎の学校で、ロッククライミング部に所属し、週に何回も山に行っていました。そのときはそれかダイビングのどちらかを選ばなくてはならなかった(笑)。あまりにも山岳地帯だったので、いわゆる校庭がありませんでした。陸上とかサッカーとかがないんです。だから山か海か選べと言われ、山を選んだのです。
 文武両道も心がけていましたが、社会的な貢献にも重きを置いていたので、私はクイーンエリザベスホスピタルという重度の小児麻痺のお子さんがいらっしゃる施設のボランティアに週に2回行っていました。

Q:それは卒業までの2年間?
 普通は1年間なのですが、私は母親がソーシャルワーカーだったこともあって、少しでも体が不自由な方の役に立てるならと思って2年間務めさせて頂きました。放課後の活動としてはすごく大きかったですね。あと今の学校設立の原体験になっているのは、夏休みにメキシコに行ったときの思い出です。


初めての貧困と混沌のメキシコへ、"自分の無力さと幸運さ"を思い知った


Q:それは1人で行かれたんですか?
 ええ、学校のクラスメートがメキシコ人でメキシコ実家だったので。

Q:ちなみに、留学生の比率ってそのカレッジはどうでした?
 そこは1カ国1人でした。1人とか2人とか。100人で、約85カ国前後。

Q:カナダ人も何人かいるんですか?
 2割ぐらいはカナダ人で、残りの生徒は全て異なる国の出身でした。日本では、正直まだあまり認知度が高くないんですが、すごく素晴らしい奨学金の制度だと思うので、もっと広めていきたいと思っています。
メキシコ人の友達がいて、その彼女の実家を訪ねたのですが、それが私の中でとても衝撃的な経験でした。発展途上国に行くのが初めてで、25年ぐらい前のメキシコですから、スラムも本当にスラム。貧困と混沌のメキシコに初めて行きました。そのときはスペイン語を習いたいぐらいの軽い気持ちで行ったんですよ。彼女の実家は、小部屋に6-7人で住んでいて・・・。


どこが"私の売り"なんだろうって悩み続けた2年間

Q:彼女が裕福な家庭だったというわけではなかったということですね?
 そうです、奨学金をもらって学校に来たことがわかりました。たとえば彼女のお兄さんは、中学校を卒業して自動車の整備工をしていました。その中でも彼女だけ奨学金をもらえるという幸運に恵まれて、カナダに来て全然違う人生を歩んでいるわけです。そういうのを見て、自分が当たり前だと思ってきた教育とか、あるいは親がいて、当たり前のように大学になんとなく行くと思っていたということが、どれだけ幸運なことか、その社会の中においては当たり前でないのかということをはじめて思い知りました。それで、カナダの学校の中では自分の無力さとか才能の無さを思い知り、その一方で外に出て自分の幸運を思い知った。自分に与えられた能力や運、縁とかが、たぶん自分だけのためのものじゃないんじゃないかっていうのをすごく強く感じ始めたのが高校時代だったですね。でも、じゃ、どこが私の売りなんだろうって悩み続けた2年間でもあったんです。

Q:ちなみにメキシコに行かれた期間は1週間ぐらいですか?
 1ヶ月単位ですね、1ヶ月を何回か行きました。


忙しい大学生活の傍ら、東大受験に励む

Q:それでカナダって秋入学で卒業は夏ですよね。そこに2年間いて帰国して、その後どうなったのですか?
 私は6月に帰ってくるんですけども、そこから実は9月には慶応のSFCに仮面浪人という形で毎日通っていたんです。SFCの総合政策学部で、今でも仲がいい人がたくさんいるんですけど、9月から3月まではSFCに通いながら受験勉強をしていたんですよね。私は、1993年の9月から1994年の3月まで半年在籍していました。SFCの4期生です。

Q:ということは大学に通いながら東大への受験勉強ですよね?秋に入学されて受験は1月ですよね?
 そうです、センター試験は1月ですね。

Q:すごい集中力ですよね。
 まぁ、そう言われれば、夏休みもありましたので(笑)。大学に入る前の夏は勉強していました。慶応に入っちゃったらものすごく忙しい大学なんです。すごく出席を厳しくとる学校でほとんど何もできず、さらに泊りがけでプレゼンとかをやるという体育会系の学校なので、ずっと(受験勉強が)止まっていました。それで冬休みにもう1回勉強し直してセンター試験を迎えるという感じだったんです。

Q:なぜ慶応から東大に行こうと思われたのですか?
 もともと東大受験というのは視野には入っていました。京大は実は帰国子女枠で受けていて、東大の一般入試も受けていて、うまいこと2次試験が同じ日だったんです。そのため両方とも受けられなくて、いろいろ悩んだ結果、東大の方だけを受験することに決めました。

Q:それで、国際関係を勉強されていたのですか?
 はい、開発経済という、経済学部の中でも途上国経済を中心にやっていたんです。


「私らしい仕事ってなんだろう」と悩みました


Q:それで卒業時、当時としてはまだ早すぎて"注目を集める領域じゃない"途上国経済ということだったのですが、そのあたりはどういう判断があったのでしょうか?
インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢設立準備財団 代表理事 小林りんさん 私は先ほど質問にあった「なぜ東大に行ったのか」というと、もともと就職先として国家公務員とか外務省とかそういうイメージを持っていたんです。そのためには、国公立の大学がいいんじゃないかと。入学していろいろOG・OB訪問とかしていると、当時私は就職活動としては、外交官試験の勉強とか、あるいは当時のOECF(海外経済教育基金)を視野に入れて勉強していたんです。でも先輩たちからは「君は向かないんじゃないか」とか「公務員っていうのは、キャラクター的にちょっと違うんじゃない」とすごく言われました(笑)。「特に日本の公務員ってどうかなぁ?りんちゃんは大丈夫かなぁ」と仲のよい先輩に結構心配してもらいました、それで他も見た方がいいと。「国際協力っていうのは国際機関っていう道もある。例えば新卒では入れないので、何年か民間に行って大学院に行って、そこから国際機関っていう道もあるよ」なんてことをささやかれたんですよね。今JICAさんにいる先輩なんですけど。民間って何にも考えたことがなかったので、そういう選択肢もあるのかと思って外資系の金融とかを見ることにしたんです。
 じゃあ、キャラに合うってどういうことなんだろうって。数年間でいずれそういう道に入る、あるいは大学院に行ってからそういう道に入るということであれば、若い時代に自分のキャリアにあったことをのびのびやったほうがいいんじゃないかっていう先輩のお言葉をいただきました。それってどういうことなのかと思って悩みました。だけど、外資系とかまわっていたら「こういうのをキャラに合うっていうんだろうな」って実感しました。面接がすごく楽しいし、話していて同じ"匂い"がする人がわさわさ出てきたんです。
 今思えばすごく非常識だったと思うんですが、私は本が大好きなので面接の待ち時間とかを惜しんで本を読んでいたんですね。そしたら外資系投資銀行の面接官に「普通君ね、面接のときの待ち時間に本とか読まないんだよ」って言われて(笑)。まぁ雑誌とかいっぱい持って読んでいたんですよ。「でもそういうの僕は面白いと思う。僕はそういうのはすごく好きだ。でもそれ日本の会社だったら君はNGだよ」って言われて、「そうなんですか」って(笑)。


Q:その方は日本人だったのですか?
 日本人です。その方が採ってくださって、私のことすごくかわいがってくださいました。今でも面接のときに本読んでいたって言われるんですけど(笑)。


コミュ力と嗅覚の「自分力」を見出してくれた尊敬すべき先輩と、考えたこともなかった自分の強み

Q:外資系投資銀行のあと、ベンチャーの経営者になられたというのは、これはどのようなきっかけなんですか?
 そのとき私はモルガン・スタンレーの投資銀行部という部署で、2年目にIPO (株式上場) 業務担当で、いろんなIPO企業のお手伝いをやらせもらう部署に配属でした。投資銀行の人間っていうのは、いわば会社を世の中に一緒に"売っていく"仕事なのです。その経営者の方々と一緒に、ロードショーと呼ばれるもので、世界中の機関投資家さんに「この企業はこういう企業ですから投資してください」とか「最初の上場のときに株を買ってくれませんか」って機関投資家さんに話をするんです。それは私たちがするのではなく経営者がやるんですけれども、そのストーリー作りとかロードショー、その機関投資家を集めるのは証券会社がやるんです。そのお手伝いをしていた部署だったんです。
 それで何が起きるかっていうと、2週間とか3週間とか世界中をその経営者の方と泊まりながら周るわけですね。当然いろんな話を聞きます。「IPOも面白いし華やかだけど、その前が面白いんだよ」って言われました。そのほんとに何もないところから立ち上げて、「今、君が見ているところは起業というもののほんの一瞬の断面であって、その前とかその後が本当はすごいビジネスの醍醐味なんだよ」っていう話をされて・・。私の場合、いつか大学院に戻って、開発あるいは社会貢献の道にと思ってずっといました。だから若い間の勉強期間っていう意味では、自分はどういうところを伸ばしていけばいいのかなって思った時に、もっと勉強できるところ、もっと自分を活かせるところっていうのを考えていたんですね。
 先ほどの「自分力」って話に戻ると、実は先ほどのモルガンの採っていただいた方以外に、もう一人インド系のアメリカ人で今でもすごく尊敬している上司がいたんですけれども、彼が私の「自分力」を初めに見出してくれました。1年目が終わった時のレビューというか評価のときに、彼が「君は人間のコミュニケーション能力とか場の空気を読む嗅覚が非常に研ぎ澄まされている」と。「それは今アナリストとして一生懸命モデルを作ったり、数字をかちゃかちゃやったり、プレゼンしたりっていうのには活かされないかもしれないけど、将来5年後とか10年後とか、君がいろんな人にセールスというかディールを持って来るときに絶対に活きてくる。そして人をマネージする立場になったときにあなたのその性質は必ず活きてくる」と。
 けれども実際には小数点間違えたり、計算間違えたりとかいろいろするわけですよ。「今のこういうのはちょっと向いていない。まあ頑張っているけど、君の良さはもっと将来的に活かされてくるから頑張ってね」ってすごく言ってくれました。「あぁそうか!」と思って。それまでそれが自分の能力だとして、私は全く自覚したことがなかったんですね。ただ私はおしゃべりが大好きだし、人が大好きなんです。それがあなたの能力なんだよって言ったのが彼だったんですよね。
 そこから2年目のそのIPOの部署に行った時も、例えば私がお酌の席をとるというか、大きな案件の営業の席とか接待の席とかに行くと、ウケがよかったみたいなんです。よく飲んでよくしゃべるから(笑)。普通はそんなレベルでは営業に行かせてもらえないんですけど、いやなんていうか、「いいんじゃないの」みたいな話で連れてっていただけるっていうシチュエーションがぱらぱら出てきました。
 でも数字はほんとに苦手で、今でも苦手なんです。一方で「こういうところが私の能力だ」と言ってくださる方が複数いらっしゃる。これはもしかして、ビジネスの現場では能力なのかなと思い始めました。「じゃそれを伸ばしていくってどういうこと何だろう」って。ずっとその数字をなおすってことをやるよりは、もっともっと自分で営業というか、自分で外に出ていろんな人と話しをしていく、自分の商品や会社を売っていく、あるいは自分の方から攻めてやっていく、人を束ねてやっていくっていう方がたぶん私にとっては「自分力」を伸ばしていくってことじゃないかなって思いました。
 そこでたまたまベンチャーの社長さんとの出会いがありました。こういう道っていうのは、私がもし30歳手前までやるんだとすると、すごく勉強させてもらうにはいい舞台なんじゃないかなとベンチャーに転職しました、模索していた時代だったんですね。


Q:小林さんの話を聞いていて思ったのは、やはり上司の役割って、部下や一緒に働いている人の能力をしっかり量ってあげて、ちゃんと伝えてあげることがものすごく重要だということです。私はシンガポール駐在として3年半いて、"bright side of the coin"っていう言葉を実感しました。つまりできるだけポジティブな表面を見ること。でも日本ってどちらかといえば故意にネガティブな欠点だとか裏面を見てしまって、表面を客観的に見ようとすることが少ない。だから今聞いていてとても羨ましいし、良い方にめぐり会われたのだなと思いました。
 私は本当に上司とのめぐり会いには恵まれていて、どの時代もそうなんですけど、それこそ本当にいい面だけを見てくれる上司に恵まれて、今に至るんです。


魅力的な経営者のベンチャー企業で活躍

Q:それで誘われてベンチャーに行かれるということなんですが、これはどういう業種だったのですか?
 ITというか、ITはITなんですけど、アパレルとか雑貨のバックヤード、在庫管理とかをやる会社だったんですね。そのころに業界そのものに興味があったわけではないんですけど、その経営者の方がすごく魅力的な方で、問屋さんをやっていたおじちゃんがいきなり起業したみたいな感じで、そこから問屋をやりながら日本の流通業界の非効率性、それを変えたいと。私はその勉強させてもらうって意味では、業種というよりは自分がどういうロールで入るかってところが一番大きかったので、この経営者の方であれば、是非私も微力ながら一緒にやらせてもらいたいなと思える方に、たまたまめぐり会えたのです。

Q:ベンチャーにおられたのは、いつ頃なのですか?
 私1998年に卒業して、1998年から2000年までモルガンさんで、2000年から2003年までラクーンという会社にいました。その後2006年にマザーズに上場しているんですよ。


高校卒業後10年で考えたこと


Q:その後、転出されて2004年からスタンフォード大の大学院に入学ですよね、そこはどんな心境の変化があったのでしょうか?
インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢設立準備財団 代表理事 小林りんさん 直接的なきっかけとしては、10年に1回のカナダの高校の同窓会です。27歳のときにカナダに1回帰るんですね。でそこで1週間の合宿というか、世界中から生徒たちが集まりました。なので同窓会も国際線でみんな来るんです。1日とかじゃなくて、1週間昔の寮に泊まって昔の仲間と今だからこそ、本当に腹を割っていろいろ話せるというか、その当時はいろいろ悩んでいたことも吐露して、お互いに向こうも実は悩んでいたとか、全然私から見たらこの人華やかでいいな、悩みなさそうだなと思っていた人も実はすごく悩んでいたとか・・。いろんなことを経て自分の内面を内省する期間があったんですね。
 
Q:それは、本格的なホームカミングデーのようなものですか?
 そうですね、それがきっかけでやっぱり初心というか、10代で考えていたことって何なんだろう。そしてこの20代に民間で勉強させていただいたことが、どういう意味を持つと思ってやってきたのかを立ち返ってみたときに、やはり30歳手前にして大学院に行きなおすという選択をするわけなんです。
 

Q:ホームカミングデーに行かれたときは、まだベンチャーにいたんですね。
 そうですね、いました。


JBIC(国際協力銀行)勤務、そしてスタンフォード大大学院に一発合格


Q:それでベンチャーを辞められて、今度はスタンフォードに?
 実はスタンフォードに行く前に、1年間だけJBICでもお世話になりました。そもそもカナダに行って帰ってきたすぐの東大の開発経済のゼミの先輩の結婚式 で、隣に座った先輩がJBICで穴埋めを探していると聞き、応募してみたら採用していただけたんです。ただそれは専門調査員という有期なのでいつかは出なきゃいけない。ミニマム1年ごとの契約がマックス3年という契約だったので、その次を考えようってことでした。仕事をしながら大学院の準備をし始めて、3年ぐらいで受かればいいかなとか思っていたのですが、幸い1年で受かったので、お世話になったJBICを辞して次のステップに行くという感じだったんです。
 そしてスタンフォードで2004、05年と過ごしました。その後、06年から08年までユニセフでした。

Q:ユニセフではいきなりマニラ勤務でしたよね。これはそのときはまだ独身だったのですか?
 結婚していました。私はモルガンの2年目に結婚していますので、大学院もマニラもずっと単身赴任です。

Q:それはご主人のものすごい理解があったということですね(笑)。
 いやもう、今もそうです。本当に私の人生の中での1番の成功は、主人に出会ったことですね(笑)。


圧倒的な格差に愕然、社会的インパクトを与えられる階層への教育の必要性に気付く


 

Q:支えてくれる人が身近にいるということはすごい力になる。それで、マニラからどうして今の学校を創ろうという計画につながるのですか?
 私がマニラの時代は、ストリート・チルドレンの非公式教育ということをやっていたんですけど、それが高校時代に思っていたことに結構近いはずだったんですよね。能力とかやる気で人に差が出るのは仕方ない。だけど、教育の機会不均等ってすごくよくない、能力ややる気があるのに機会が与えられないっていうのが一番よくないんじゃないかなと思っていました。なので、特に貧困層の方たちに機会が与えられることが大切だと思っていたし、かつフィリピンでは貧困層が大多数です。その人たちの識字率を上げることによってその国が変わっていく、それがどういう方向性に変わっていくかは、国民の選択だと思います。けれども、その選択するための情報とか判断材料とかを理解する、ベーシック・リテラシーで、支援させていただくっていうのが近いんじゃないかなと信じていたんです。
 学生時代にバックパックも一杯やってきたし、いろんな国も見てきたつもりだったんですけども、実際にフィリピンに住んでみて、ものすごい格差に初めて愕然としてしまいました。国連職員として色々な方とお付き合いさせていただく中で、将来的にいろんな意味で社会的なインパクトを持ちうる立場にいる階層、あるいは高い能力を持っている人たちの教育とか価値観とかに、もし自分が影響を与えられるような教育をすることができたら、それは貧困層に対する教育と同じぐらいインパクトがあるんじゃないかなと思い始めていました。
 国連が支援している子たちはものすごい格差の中で生きていて、自分が社会的に影響を与えられるような立場に上がってくることはなかなか難しいという現実があります。この人たちが上に上がっていける支援か、またはすでにいけそうな人たちのための教育みたいなものって何かできないかなと漠然と思い始めたのが4年ぐらい前の2006年か7年ぐらい。そこでたまたま今一緒にやっている谷家という彼に、日本に帰っていた週末に食事会で会うんですね。それが、学校設立事業の始まりでした。


自分の労働力としての価値が一番出せるのが、何かを一から立ち上げることであると思った

Q:マニラ=東京間は、近いといえば近いですもんね。
 はい、それもあって私はフィリピンを希望したんですけれども。そんな中で、帰国した際、たまたま彼と食事会をしていて、ライフネット生命の岩瀬大輔くんっていう今すごく時の人だと思うんですけど、彼が大学の同級生で私がこういうことで悩んでいたら、「すごく才能のある若い人たちを応援することをやっている人がいるから会ってみますか?」って勧めてくれてお会いしました。彼の方から「僕は実は学校を創りたい」って言われて。私のアイデアじゃないんです、そういう意味では(笑)。それで彼が「学校を創るってことどう思う?」って言われて、「あ、そうかー!」と気づかされました。

Q:ないんだったら創ろう、みたいな話ですよね(笑)。
 私にとって自分の価値を一番出せるのが、何かを一から立ち上げることであり、やりたいことっていうのは、教育とか社会貢献だった。社会貢献の中でも特に開発経済、その中の教育、特にリーダーシップをとれる人を育てる学校というアイデアが出てきた。自分のやりたいことと望む働き方の両方がピタっと合ったんです。先ほどご指摘があったように、主人とずっと離れ離れだった中で、日本に軸足を置きながらアジアに貢献していけるという意味でも、すごく全部が満たされるプロジェクトだなと思ったんです。


アフリカでは、既にアントレプレナーを持ったリーダーを育てている学校がある

Q:今どんな学校にしたいと描いていますか。ロールモデルはどこかにありますか?
 ひとつあるとすると、アフリカにアフリカン・リーダーシップ・アカデミー(ALA)という学校が3年ぐらい前に立ち上がっているんです。これは同じくスタンフォードの大学院生たちが卒業して立ち上げた学校なんですね。大陸の指導者層を育てるという使命を持っている学校なんです。アフリカ大陸のアントレプレナーシップを持ったリーダーを創るという学校なんですけど、「リーダーを創る学校」という点でロールモデルかもしれないですね。非常にすごい学校だなと思って拝見しています。


リーダーの定義は「新しい時代の新しい価値観をリードできる人」

Q:インターナショナルスクールをなぜ軽井沢なのかということと、学費や学校の特徴は?
 学校のミッションとしては「日本、それからアジア太平洋側地域、かつグローバル社会に向けて新しいフロンティアを創れる人を輩出する」ということを掲げています。
リーダーといったときに、いろんな解釈があると思っていて、私たちが解釈するリーダーというのが、「新しい時代の新しい価値観をリードできる人」というふうに定義しています。日本ではリーダーというと官僚とか政治家とかそういうイメージがあると思うんですけど、それでもいいんです。どんな立場であっても、新しい価値観というかフロンティアを創ってなかったらとリーダーじゃないと思っています。日本の場合、ポジションとリーダーシップがごっちゃになって考えられていると思うんです。

Q:チェンジメーカーという言葉がパンフにありましたが、それはやはりアショカ財団のビル・ドレイトンさんの言葉なのでしょうか?
 似たような意味だと思います。今、申し上げたことをどういうふうにワーディングするかっていうすごく自分たちの中で悩んでいて、リーダーというのもなかなか誤解があります。あるいはチェンジメーカーの意味がなんか輸入品っぽいなという中で、私たちはそのリーダーという言葉を自分たちで定義をしていこうと。それで新しくフロンティアを創り出すリーダーという形に落ち着いたんです、3年かけて。どうやってワーディングしていったら、一番伝わるんだろうねって話をしました。

一人でもアンハッピーな生徒がいてはいけない

Q:学費であるとか、カリキュラムは?

インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢設立準備財団 代表理事 小林りんさん 学校自体は高校1年生から3年生、いわゆる日本の高校の文部科学省の教育法第一条項といわれるものなんです。日本の高等学校としての資格も取っていくという学校で、日本で初めて、インターナショナルスクールでありながら全寮制、かつ文科省の認可を受けるというのもたぶん初めての学校になっていきます。かなり日本の中ではユニークなポジションになってくると思うんです。学年50人で3学年150人の非常に小さな学校です。
 全ての生徒さんの感じていることとか、あるいは悩んでいることとかを感じられる距離感が必要だと思っているのです。だんだん大きくなってくのかもしれませんけれども、私たちにとっては何百人と通り過ぎていく生徒たちでも、生徒たちにとっては一回しかない高校生活を私たち新設校に託していただくということで、一人でもアンハッピーな人が出ちゃいけないと思っています。
 そうすると、やっぱりマックス150人。私のカナダの学校って200人ぐらいだったんですけど、年間に1人や2人ぐらいドロップアウトが出るわけですよ、全校の中では。それでも目が行き届かないんですね。200人の全寮制でものすごいプレッシャーの中で、すごく学力の高い人たちの中で切磋琢磨して、すごくディマンディング(要求が高い)でプレッシャーもありますし、1年に1人か2人ぐらい帰っちゃう生徒がいるんですね。そういうのを見ていたので、どのぐらいの規模なら全校生徒に目が行き届くかなと考えたときに、学年50人、学校で150人ぐらいだったらサイズ感としてベストであると。とはいえ財政的に赤字になってしまってもいけません。ぎりぎりのラインっていうことなんだろうと思ったときに、たぶん150、160人ぐらいからスタートすることがいいんじゃないかとなったわけです。


多くの生徒に門戸を開く奨学金制度がポイント

Q:費用は?
 年間の費用が実費の場合250万円。プラス寮費100万円で350万円です。これが都内のインターナショナルスクールと同じぐらいで、海外のボーディングスクール、全寮制よりもちょっと安い、今超円高なので今のレートでたぶん同じぐらいだと思います。ただこれだと本当に富裕層の方しか来られなくなってしまうので、5人に1人は奨学金を出したいと思っています。

Q:価格競争力っていう意味では他の学校と変わらないし、しかも奨学金も用意しましょっていうことですね。
 そうですね。

Q:日本人と非日本人の比率はどうなんですか?
 昨年のサマーススクールですと、3分の1が海外からの留学生で、3分の1が国内のインターナショナルスクールに通っている多国籍の方たち、3分の1が日本の学校に入る日本のお子さんたちですね。
 今年はインターナショナルスクールに行ってらっしゃる方たちが3・11の影響でほとんど参加いただけず、両脇がきゅっと広がったような感じで、2分の1が海外から、2分の1が国内からで、そのうちインターナショナルスクールのお子さんは4-5人ぐらいでした。10人ぐらいが日本の学校で、3分の1に相当します。10人が日本の学校、5人がインターのお子さん、15人が海外からという感じだったんですよね。だからこう線を引いて何人以上って決めるわけじゃないんですけど、普通にリクルーティングして、生徒募集をしてこういう比率になったので、これが一つの目安になるんじゃないかと思います。


土地確保、学校設置認可、そして公益法人認定と学校開設へ着々と

Q:2013年の9月に開校として、今の進捗状況ってのは相当うまく回っている。学校建設もそろそろですね。
 そうですね。今の段階としては、2011年の6月に学校の土地の確保をしました。7月にサマースクールをして、8月に文科省の特例校として申請し、12月に指定を受けることができました。つまり日本の学習指導要領にぴったりそっていないけれども、特例校として認めて頂くことができた。一方9月には公益法人認定を取得、今年1月には長野県より学校設置計画を承認されました。

Q:一般財団から公益法人になった?
 はい。

Q:それはおめでとうございます。大変ですもんね、審査の条件とか?
 でも本当に内閣府のご担当者の方がものすごく頑張ってくださって、いろんな調整を各省庁さんとしてくださったんです。しかも実績が全くない財団でやっていただくのは本当に特例だと思うので、ご担当者の方にはものすごく感謝をしています。


軽井沢の人たちと一緒に学校を作りたい、最後の決め手は、やはり"人"

Q:立地についてですが、軽井沢っていうのははじめに軽井沢があったのか、それとも、いろいろ探したけど軽井沢だったのか?
 もともと探す条件として3つだけどうしても譲れないと思っていたのが、自然の中にあることと、それから海外から多くの留学生を受け入れる予定なので、国際空港からある程度の近いところにあることですね、それから公共交通機関があること、ということで探していて、そうすると、もう1つありますね、海外の方からみて圧倒的に差別化できる立地、例えば、富士山が"どーん"とあるとかですね(笑)。
 軽井沢の場合は雪が降るとか。特にアジアの方ですね、アジアのシンガポールとか香港に比べて圧倒的に違う立地、雪が降る森がある温泉があるみたいな、そういうところはたぶんアジアの方にとってはすごくインパクトがあると思ったので・・。富士山の麓とかも、うち父が富士市出身なので富士もいいなと思っていたんですけども、新宿から高速バスってそれは海外の方はちょっと厳しい。新富士の新幹線の駅からも相当ありますので、ちょっと難しいかなと思って富士は断念したんです。
 いろいろ東北新幹線沿いとか那須とかですね、いろいろなところを見ていった中で、いろんな地域の方とお話したんですけど、軽井沢最後の決め手はやっぱり人でした。人がものすごく違うなと思って。もともとショー牧師という方が開いた別荘地だと言われています。国際的なものに対して非常に寛容力のある土地だと思うんです。なので別荘とか持っている方はもとより、町の役場の方とか農家の方とか建設のおじちゃんとかに言っても、みんな「いいね、この話!」って言うわけですよ。特殊な地域だなと思って。この学校をすごく心から「いいね!いいね!」って言ってくれる人がいっぱいいる、これは特殊な地域だなと思いました(笑)。

Q:長野は「教育県」ともよく言われますね。また、軽井沢といえばジョン・レノンが避暑地として・・
 あっ、そうですね、オノ・ヨーコさんがいらしたというのもありましたし。やっぱりもともとショー牧師を初めとする海外の方たちが、東京の暑さを逃れてくる避暑地だったので、かなり国際的なところでした。そのせいか、私この前初めて知ったんですけども、ショー牧師などが海外からいらっしゃったので、パンとかジャムとかって長野県で初めて作られたのが軽井沢だったと。今でも軽井沢ってパン屋とかジャム屋とかイタリアンとかそういう洋モノがすっごく多いんですけど、それはそういう方たちに端を発している。という意味で、こういうインターナショナルスクールというのは、特に東京を出て地方に創るとなると、地域に溶け込んでいくのが難しいと思うんです。「本当にこういう学校ができることを誇りに思う」っていう風に言ってくださって。すごくそこに、この方たちと一緒に創らせていただきたいなというのをすごく感じたっていうのが最後の決め手です。

Q:軽井沢は一つのブランドですし、お決めになったのはいつですか?
 「軽井沢は・・・」とは言いつつ、土地がなかなか決まらなかった(笑)。軽井沢地域と思ったのは、3年ぐらい前なんですけども、その中でやっぱり軽井沢町内ってなるとかなり地価が高くてですね。不動産市況が下がってきてて、軽井沢町内でも意外と手が届く土地が出てくるんじゃないかとこの2年ほど言われてきた。やっぱり軽井沢町内が一番理想的。でもなかなか高くて手が届かなかった。ところがだんだん手が届くように、いろいろなご縁があって、いい土地にめぐり合えたのが昨年の1月31日でした。

Q:それは何坪ぐらいなんですか?
 7400坪ですね、全部で25000坪ぐらいあるところを地主さんとは、「将来的にこの25000坪に学校のキャンパスができたらいいね」と言っているんですけど。
 まずはその3分の1の7400坪を購入させていただいて、そこに校舎と寮を建てます。


きちんと奨学金を出すことが私たちの一番の大きなミッション

Q:今、準備事務局として一番お困りになっているとか、一番欲しているとか、そのあたりはいかがですか?
 やっぱり奨学金ファンドですかね。幸いなことに、地代とかその建設費とかは集まってきているので、ずっと奨学金を出し続けていくためには、やはりかなり潤沢な資金がないとやっていけませんので。かつどれだけ奨学金を出せるかが学校の根幹でもあります。全員自費にすればまわっていくんですけど、きちんと奨学金を出すっていうことが私たちの一番の大きなミッションなので、そういう意味ではそこの奨学金の部分をご協力いただけるような方が一番ですね。

Q:いわゆるファンドレイジングというのはどうなんですかね、ファウンダーとは別の話ですか?
 ファンドレイジングの中でも、ほんとにかなり大口で入っていただく人をファウンダーと呼んでいるんですが、ファウンダーって英語でもちろん創設者という意味です。なので、誰か一人が創設者というよりは、今回はみんなで創っていっているという学校。別に私がすごい大資産家とかではないので私のお金ではないですし、一緒にやっている谷家は本当に一生懸命支えてくれていて、彼のもつあらゆる人脈を駆使して共感の輪を広めてくれていますが、私財をどーんと投じているわけではないので、みんなで同じぐらいの費用を持ち寄っています。

Q:いわゆるコ・ファウンダーというか、みんなで創っていきましょうという感じですね。
 もちろんその核となる理事のメンバーでかなりの金額は用意しているんですけども、その人たち以外にもいろんな方に大口入っていただいています。みんなで創っていく学校にしたいという風に考えていますね。


振り返ってみると、どこも無駄じゃなかった

Q:話伺っていて、小林りんさんという人は、IPOがらみで社長さんと一緒に動かれたことを今されているのかなと思いました。
 振り返ってみると、どこも無駄じゃなかったな。実は途中途中で結構いろいろ悩みながらの人生、キャリア形成だったと思うんです。やっぱり一番の近道を通ってきたかというとそうではないと思うんですよね。例えば2、3年モルガンにいてすぐ大学院とかすぐ国連とかの方が、たぶんきれいだったと思うんです、履歴書という意味では。でも社会人の基礎というのはモルガンで本当にいろいろ教えてもらいました。
 先ほどのベンチャーでは、全部一から創っていくということがどれだけ苦労することなのか、すごく思い知りました。そこで自分で名刺を脱ぐというか、誰も知らないこと、例えば大きな会社の名刺とか学歴とかを背負ってではなく、やってることと自分っていうものだけを売りにしていくってことがどれだけ辛いことなのか、今までいかに学歴とか会社の名刺にお世話になっていたのかを思い知りました。そういう意味でも、それを脱ぐっていうことが、どれだけリスクがあって大変なことなのかということを思い知った上でやっています。
 今やっと少しずつ知名度が上がってきていますが、今でももちろん私のことをまったく知らない方に名刺をお渡しして、ゼロからご説明することもある。そういう中でもやっていくというのはどういうことなのか、でもそこでもきちんと誠実に実直にやっていけば、見てくださる方は見てくださるというのをすごく実感しています。    
 そういう意味では「石の上にも3年」、今ちょうど3年でもう3年座っていますけど、石の上にずっと(笑)。そういうことによって「皆さん見てくださる」とか「きっといつかわかってくださるんじゃないかな」っていう忍耐力をすごくその時代に学ばせていただいたのだと思います。どこもたぶん無駄になってなかったんですよね、本当に。

Q:そうですね本当に。何かトータルな形で今生かされているし、今生きておられるような感じがやっぱりします。転機がそれぞれつながってますね。まるで竹の節目のようにその都度成長されているというか、上に伸びている感じです(笑)。
 竹のようにまっすぐじゃないですけどね、さるすべりみたいですけど(笑)。

Q:でも幹みたいなものは動じていないというか、全然ぶれてない。
 いやぁ、でもほんとに悩んできましたけどね。特に「自分のやりたいこと」と「一緒に働きたい方や方法」が一致してこなかったのが、ずっと悩みだったと思うんです。モルガンとかベンチャーですごくクイックなファストペースな現場でバンバンやってくのって楽しい。でもやりたいことは教育とか社会貢献とかであって、そこがなかなか一致しなかった。ここはここで面白かったけども精神的にハッピーではなかったというか、やったこれが嬉しい楽しいって感じではなんというか最終的にはなかったんですよね。
 逆に国連とかJBICも面白かった、やっていることはすごく楽しかったんです。でもやっぱりもっともっと自分で一から創っていくようなことっていう方が向いているなぁと思った。何かこう初めて私はこういうことをずっとやりたかったんだなっていうことにめぐり会えたって感じですかね。

Q:おそらく小林さんが注目される一つの理由っていうのが、学校を創るとなれば、学校経営を今までずっとやっていたとか、プロの教育者として長らくやっていたという人が、主流じゃないですか。もともと、どこかで校長やってたとか・・。そういうことじゃなくて、今まで歩いてきたところは教育の世界でなく、ビジネスの世界や国際貢献だった。ところが、今、新たなコンセプトで学校という形でチャレンジされるっていうのが、ある意味今までとは違うプロセスで非常に興味深いし、期待を示す人が多い。そうか、学校を創るのは教育者出身者や大金持ちでなくてもいいんだと気づかされる、その可能性を見せていただいたのが、大きいと思いました。
 いや、まだまだですよ。長い長い長い道のりに少し怖くなりますけど(笑)。

Q:もともと学校を創るのにアジアの格差やアンフェアなところを感じて、それが情熱になったと感じましたが、視野に入っているのはアジアですよね。日本でインターナショナスクール設立となると、日本の視点を意識していますか?
 いくつかあります。日本はアジアのスイスになれるんじゃないかと思っています。経済大国でなくなっていく中で、日本の新しいポジショニングは何かを考えることはありました。学校というのは、治安・環境はもの凄く大事。アジア人がどこにでも行けるといえばどこを選ぶんだろう。日本ならばアジア中の人が来てくれる学校になれるだろうなというのがひとつ。
 20数年前から海外を見てきた中で、当時日本は絶頂期で輝いていた。20年経って、ハッと気がついた。谷家にも言われました「海外のリーダーシップだけじゃなくて、日本も含めてアジア全体のリーダーを育てよう」と。
 実は大学の仲いい友人で同期に三重県知事の鈴木英敬さんがいる。「日本を何とかしろよ」と言われ、ずっとそんなことも頭にありました。日本にどうやって貢献できるのかな?と。日本人として今の学校はベストな選択肢、学校としても意味があるし、自分も日本で貢献していく形としては意味があるなぁと。

Q:高校生になる子たちを集めるわけですが、小学校や中学校の若い世代に向けてはやっていきたいことはありますか?
 今のところはプランとしては考えていません。将来的に中学校併設をやることがあるかもしれませんが、あえて高校をやっている理由がいくつかあります。
ひとつは能動性っていうのがあって、自分で選択して、判断して来てほしいと思っています。誰かに行かされるのでなくて。もの凄くチャレンジングな場になる。学業もみっちりやらないといけないし、いきなり英語だし、全寮制でし、山奥にある。山奥といっては失礼ですが。自分はここを選んできたという自負がなければと到底乗り越えられないハードルがいっぱい待ち受けているんですね。
 私はカナダの学校は行かされていたら逃げていましたね。こんな辛いところに行かされてと親を恨んだかもしれませんね。自分が選んでいったからこそ、乗り越えなきゃいけないと思ったし、しっぽ巻いて帰れないと思っていました。自分で能動的に来てもらうことがもの凄く大事です。それが何歳なら判断できるか?中三はぎりぎりかなと思います。小6でも選ぶことができる子が、中にはいるかもしれません。今後高校の半分くらいの人数を中学から入るのはあるかもしれない。自分の発展のステージにあわせて早い子は早いので。そういう方のための中学はあるかもしれません。
 もうひとつは多様性。小学校の時からずっと同じ釜の飯を食っていたらそれが多様なのか?というのがあります。社会の中で直面する多様はホントに多様ですから、ある程度自国の中で、文化の中でアイデンティティが築かれた人たちが、がちゃっと集まるから多様だと思うんです。ある程度アイデンティティが出来る段階はどこなのかなぁと。中学校3年がぎりぎり。大学でいいんじゃないかという人もいる。私たちの考えでは高校ぐらいがベストではないか?と思っています。いつがベストか答えはないし、お子さんによって違う。学校はお見合いみたいなもの。こういう場を提供させていただきますので、精神的にも学力的にも、かつ理念に共感して下さった方が来ていただく形になると思います。


子供には能動的に人生を歩ませたい


Q:最後に、将来お子さんをその学校に入れたいですか?
 もうじき2歳ですが、彼の判断でしょうね。やっぱり私は能動的に人生を歩むことが一番重要だと思っているので、彼が能動的にそれを選びたいと思えるような学校を創りたいとは思いますけども、あくまで彼の判断だと思います(笑)。
(編集:青学・土田友里)


【インタビュー後記】

"会うと引き込まれるポジティブなエネルギーを感じる人"  

 とにかく、話のテンポがよく、明るく爽やかさを地でいく人だ。経歴は一見華やかに見えるが、小さな"寄り道"や迷い、挫折も経験されている。それが今の人間"小林りん"という人の魅力を一層倍加させているのではないか。マイナスのことをプラスに転化できる達人のような人に思える。何事もいったん受け止め、そこから大局観を持って、次なる行動に移せる人だ。りんさんのギャップイヤーは日本の高校を辞めた時に始まり、カナダで鼻っ柱を折られ、自分を見つめ直したところにある。私の楽しみは、ズバリ、インターナショナルスクール・オブ・アジアでの生徒を前にした開校式でのりんさんのスピーチだ。2013年9月は、日本の中等教育に大きなインパクトと新しい価値を与える月になることだろう。(砂)

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