私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第5回 司法試験に合格した後、直接司法修習生にならず、1年間のギャップイヤーを取得した気鋭の弁護士 弁護士 木下万暁(きのした まんぎょう)さん

弁護士1976年石川県生まれ。1995年慶応義塾高校卒。1998年10月、大学4年時に司法試験に合格。1999年慶応義塾大学法学部政治学科卒業。2000年4月に最高裁判所司法研修所に入所、2001年10月、司法修習修了(54期)と同時に弁護士登録(第一東京弁護士会)。太陽法律事務所(現ポール・ヘイスティングス法律事務所・外国法共同事業)勤務を経て、2004年、米国Duke University School of Lawに留学。2005年同校を優等の成績で卒業し、日本人として初めて留学生の総代を務め卒業式でのスピーチを行う。同年、カリフォルニア州司法試験に合格し、現在の勤務先である外国法共同事業オメルベニー・アンド・マイヤーズ法律事務所(弁護士を1000人弱抱える米国の大手法律事務所)に移籍。ニューヨークオフィスで勤務後、2006年から東京に戻り現在に至る。2008年3月、オメルベニー・アンド・マイヤーズ法律事務所全体で年間数名にしか贈られないValues Award (現在はこのAwardを発案した米国元国務長官ウォーレン・クリストファー氏の名前を取りWarren Christopher Values Awardと呼ばれる)を米国弁護士以外で初めて受賞。専門はクロスボーダーM&Aその他国際的な企業取引。現在、第一弁護士会の公益活動運営委員会委員を務める。著書は、「NOLポイズンピルの発動とデラウェア州裁判所の判断 ~Selectica, Inc. v. Versata Enterprises, Inc.~」 (共著、MARR、2010年8月)。「中止されたM&A案件から学ぶ成功するM&Aへの道標」 (共著、M&A Review、2010年7月)、「日本版ポイズン・ピルの実務的課題」 (共著、商事法務、2006年7月) 他。

(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)

やりたいことが特になく、成績の制約で、大学は法律でなく政治学専攻に

Q:大学は付属高校(慶応)から、内進で決まったのですね。何故、法律学科でなく、政治学科を選ばれたのですか?
 選んだというより、そこしか行けなかったという事情で政治学科になりました。内部進学の場合、大学での学部は高校の成績上位者から行きたい順に決まります。私の代は文系では法学部法律学科が人気で、まだできたばかりの頃の慶応SFC(湘南藤沢キャンパス)の総合政策・環境情報学部も人気がありました。高校時代はアメリカン・フットボール部での部活に一生懸命になっていて、気づいたらひどい成績。そこから商学部、文学部、政治学科からどれか選んでいいよと言われたものの、商学部は数字は苦手なのでパス、そして文学部で勉強するというのは自分には全く想像できない。残すは法学部政治学科ということで、そういう消極的な理由で政治学科になったんです。

Q:本来、法律を勉強したかったのですか?
 はっきりしたものでもなく、してもいいかなという程度です。高校では部活でいっぱいいっぱいで将来のことなどは特に考えていませんでした。やりたいことも特になくて、良く分からないけど政治学科でよいか、と・・・。

Q:大学入学で、決め込んでこれっていうことではなかったわけですね。選べる中で選んだのが政治学科だったということでしょうか?
 はい、そこしかいけないし・・・(苦笑)。


大学2年から始めた司法試験勉強


Q:司法試験に大学4年生(1998年)の10月に合格されていますが、どんな学生生活だったのですか?
 大学1年時は高校のアメフトで部活が一緒だった友人とダイビングのライセンスを取りに行ったり、旅行やバイトをしたりという生活。大学2年の4月から徐々に司法試験用の勉強を始めまして、当時1日5~6時間くらい勉強していました。あとは普通の大学生活を送る、ただ3・4年生になると司法試験の勉強が相当忙しくなるとわかっていましたので、大学1・2年生のうちにほぼ卒業単位を取り終えました。これも政治学科の特殊なところですが、履修は何単位取ってもよくて、月曜日朝9時台から土曜日の2時頃の最後のコマまで、全コマ履修することができました。実際授業に出てみて興味が持てたり、ノートがあったりすれば全部試験を受ける。逆に、試験を受けなければ何故か最初から授業を履修していないことになるという変わったシステムでした。確か144単位で卒業だったのですが、2年生修了時点で140単位を取りました。あまりいい成績ではなかったのですが・・・。なので大学3年の前半に三田キャンパスに数回行ったくらい。それ以降何やっていたかというと朝7時半から夜11時くらいまで取り憑かれたように司法試験の勉強をしていました。

Q:1、2年のうちに詰めて単位を取られたのですね。
 今のロースクールはちゃんと授業を受けて議論してっていう、法曹教育として非常にまっとうな教育だという気がしているのですが、昔は覚えて考え方を身につけて、試験を受けて受かればいい。大学の成績も関係ないですし。だから大学は大学でさっさと卒業し、後は司法試験に受かればいいという感じで勉強していました。最近は就職活動の時に大学やロースクールの成績の提出を求められることも多いようですが、当時言われなかった。言われていたらまともに就職できなかったかもしれませんね。

Q:司法試験を受けようと思ったのはいつですか?
 大学1年の時です。旅行やバイト生活も飽きてきて、そろそろ本気で何かに取り組もうかなと思い始めていた頃でした。夏休みに、時間があったので車で九州以外の全県を回ったりしたのですが、途中で飽きちゃいまして、これは何かもう少し具体的な目的があることをやらねばと。周りを見ると、高校時代のチームメイトは朝から晩までアメフトをやっている。自分もそれくらいの時間を費やして、気合を入れて何かに取り組もうかと思いました。

Q:お父さんは弁護士と伺いました。当時のご自身のキャリアイメージはお父さんでしたか?
 それもひとつあります。他方で小さい頃、父親には反発があって弁護士にはなるものかと育ったところもあって、複雑なところもありました。ただ、小さい頃から周りの大人から「大きくなったらお父さんの事務所を継げば良いんじゃないか」みたいなことを言われて育ちましたので、弁護士という職業はやはり気にはなりました。気になってしまった以上は必ず30歳とか40歳とか人生どこかのタイミングで「あの時司法試験やっとけばよかった」と後悔は必ずするだろうと。だったら今受かって、そんなこと考えなくてもいいように好きなことをやろうと思ったのが、スタートなんです。また、当時はこれから就職難になると言われていた時代。ならば司法試験受かりましたと言えば、就職も何とかなるだろう、そんな感じでした。ホントに後ろ向きな話ばかりで恐縮なんですが・・・。例えば、当時映画が好きで毎日のように映画を見ていたのですが、映画の配給会社の買い付けは楽しそうだなとか、でも私自身、何のバックグラウンドもないんですね。大学で勉強したことも何か役に立つわけではないですし、英語やフランス語が話せるわけではない。でもそういう時に法律が分かります、契約交渉できますとか言えば面白そうな会社に就職できるんじゃないかなとか考えてました。また、勉強しているうちにこれが楽しいと思うかもしれない。プランとしては25から20代後半くらいに受かれば、人生60年から80年もあるので、そこからスタートでもいいだろうと。父はもともと会社で働いた後に辞めて、30過ぎに弁護士になっているのですが、それを見ていて、人生生き急がなくても大丈夫だろうという安心感もありました。


予定より早く受験生活が終わってしまい、びっくりしたのを覚えています


Q:それで、大学4年の10月に、1回目のチャレンジで合格した?
 はい。自分自身、予定より早く受験生活が終わってびっくりしたのを覚えています。模試を受けているとこれは合格してもおかしくない成績だろうとかいうのは出てくるんですが、合格率を考えると、なかなか合格することのイメージを具体的に持つのは難しい。もちろん、落ちたくないとか、自分は絶対に落ちないとか日々考えて勉強をやっていたものの、受かったらもう司法試験の勉強をしなくてよくて、そこから先は研修が待っていて、2年後くらいは弁護士になっていて、というそんな具体的なことまで考えられなかった。落ちないイコール受かるは当たり前なんですが、それが自分の生活にどう影響して、自分の将来についてどういう決断をしなきゃいけないのかは全く考えていなかった。

Q:当時の試験制度はどのようなもので、合格率は何パーセントくらいだったのでしょうか。
 昔は1年に3階層の試験がありました。今は試験制度が変わってしまいましたが・・・。5月の第2週「母の日」の日曜日にマークシートの択一で、最初が短答式、全国でだいたい5分の1くらいに絞られます。論文が7月20日頃「海の日」あたり、これでさらに4分の1から5分の1になります。9月末にだいたい800人~900人くらいが残って、最後の口述試験で10%くらいが落ちる。最終の発表は確か10月末くらい。私の時で受験者は3万人くらいで、最終的に800人くらい合格だったと思います。合格率にすると2.7%程度でしょうか。

Q:98年当時、学部生で合格した人、あるいは1回で合格した人はいたのでしょうか?
 結構いますよ。合格するまで大学を卒業しない人もたくさんいるので、数字の解釈は色々ありそうですが、当時大学生で合格するのは全体の3割くらいだったと思います。また、1回で合格するのは合格者の1割くらいなのではないでしょうか(注:法務省によると平成10年度は67人で8.3%)。

Q:根を詰めて、集中的にやる試験なんでしょうね(笑)。
 当時、私や私の周りにいた大学生としては多分それが多数派だと思います。ただ、ひとたび研修所に入ると意外とそうでもなかった。例えばクラスで私の隣に座っていた方は元日銀の65歳近くの方でしたし、会社で働きながら司法試験に合格しましたとか、主婦やりながら勉強して受かりましたとか、色々な方がいました。私は世の中を何も知らず、「大学からそのまま来ました」というのが恥ずかしいような、そんな気持ちになりました。

Q:当時、法律以外の学問をやっていた人で、司法試験に合格した人数はどれくらいだったのでしょうか?
 私の大学の同じ学年でどれくらいいたかどうか記憶にありませんが、政治学科の先輩で受かった人が数人いたと思います。ちなみに、私の大学では、政治学科というところに入った後、法律の授業が好きな人が法律学科に転科するという方法もありました。ただ、それやると、1年生の法律学科の授業を取り直さなくてはいけない。私は学校はあんまり好きじゃなかったので、そこまでこだわって、転科はやりたくないなと思いました。

Q:転科はかえって、司法試験にはロスになってしまうという感じでしょうか?
 当然学ぶものはあると思うのですが、少なくとも私にとっては学問的に法律が好きというスタートではなかった。まず司法試験に受かってみて考えようと考えて、受かる最短コースをということで、受験予備校に行って受けました。当時資格ブームが始まった頃だったので、よくあるパターンなんです。かなりの人が予備校に通っていました。


立ち止まってゆっくり考えたくて、米国で"ギャップイヤー"を


Q:1999年に大学を卒業されて、司法修習生に直接ならず、"ギャップイヤー"を1年取られるわけですが、どういう選択肢の中で、なぜアメリカだったのですか?
 とにかく、今後のことをゆっくり考えたいというのがありました。せっかく早く合格したのだからより専門性を高めるために大学院でこういうのを勉強した方がいいとか、これからは知的財産だから慶應・藤沢で学んだらどうかとか、いろいろ友人の話を聞いて面白そうだとは思ったのですが、勉強は正直しばらくもういいやと思ったんです。それと、合格した後に、若くして受かると裁判官になりやすいとか、検察官になりやすいとか、大手事務所に入れるとか言われましたが、それは自分にとって何なんだろうと。このままいって一番になるためには、こういうところに行った方がいいんだみたいな道筋も懇々と諭されもしましたが・・・。私は大学4年でまだ22歳になったばかりの時です。そんなこと言われても、よくわからず、不安になって、ちょっと待って考えさせてっていう思いでした。そもそも弁護士になろうと強く思っていたわけでもなかったため、1年くらい休みをとって、立ち止まってじっくり考えたいと思いました。周りにいろいろ話を聞いていたら、たまたま知り合いの中に、ニューヨークのソーホーの大きな壁に全面猫の絵を描くという画家がいて、その方の家が結構広いので、部屋に入れるよってことで、そこで気軽な気持ちでいきなり渡米し、"国際的居候"をすることになりました。たまたまその方が日本に帰る時だったので、その方の家でキャット・シッターをしながら、一人暮らしを2か月くらいしていました。それからしばらくして、クイーンズの安いマンションに引っ越しました。同じくギャップイヤーをとっていた大学の友人がニューヨークにいたんです。当時は彼とは大して仲よくもなかったので面倒臭いなという思いもありましたが、お金もなかったので、100㎡近くの広さのマンションを月10万円程度で一緒に借りました。恐らく最初で最後のルームメイトです(笑)。

Q:NYでは何をしていたのですか?
 最初は、なかなか友達もできないので、週2回ほど空手道場にも通いました。英語で習う空手は新鮮でしたし、意外と日本人は少なく、いろいろな友達ができました。結果的に、楽しいニューヨーク生活になりました(笑)。私は2年生以降、大学生活がほとんど司法試験で消えてしまっていたので、自由な刺激のあるひとときでした。ルームメイトとも6、7か月くらいの共同生活でしたが、今では大親友です。彼はほとんどブラジルだのマチュピチュだのと旅行ばかりしていました。私もフロリダや東海岸に行ったり、コロラドにスノードボードに行ったりしていましたので、実質的には共同生活というような感じではないですが、一緒にNYにいるときは色々と将来について語ったり、共通の友人とともにマンハッタンで飲み歩いたりしていました。今でも一緒に飲むと当時の話しになります。

Q:アメリカでは旅行が多かったですか?また、アルバイトや学校には行かれなかったのでしょうか?
 半々ぐらいでした。みんな行くような10人くらい生徒がいるクラスの語学学校に行ったり、企業から派遣されるようなビジネス英語用の語学学校にも行ったりしました。ただ、どうせやるならもう少し実務的なスキルを身につけたくて専門学校にも行きました。ちょっとしたパソコンのクラスとか、経営の基礎とか、興味のあるものをとってみました。また、米国では"パラリーガル"と呼ばれる法律事務所でセクレタリーよりもやや専門的な仕事をするスタッフがいるのですが、その2,3カ月の入門クラスを受けました。たまたま選んだ学校がそうだったのかもしれませんが、何故か生徒は黒人の方が圧倒的に多かったです。普通に生活していると白人の友人や日本人の友人しかできなかったので、私にとってはまさに非日常の世界というか、様々な知り合いができて、そこでの出会いはとても面白かったです。


法律のスタッフ(Paralegal)入門クラスで、見事に鼻っ柱折られ落ち込む


弁護士 木下万暁さんQ:パラリーガル(Paralegal)って、そういうコースを経験された弁護士さんは少ないですね(笑)。
 クラスは20人くらい生徒がいるコースだったのですが、最初は何をやるか全くわかってなかったんです。「リーガル」っていう名前がついていたから取ってみようかな、みたいな。でも、「パラ」ってなんだろう、とか思いながら。クラスに入ってみると、圧倒的に女性が多く、先生と私以外は全員女性で、ほとんどが黒人という構成でした。つまり、私だけ男性でアジア人ですね(笑)。それでいて、私は日本の司法試験通ったはずなのに、議論に全くついていけないというか、自分の存在が示せない。頭では言いたいことは浮かぶのにタイミングを逸してしまって気づいたら次の議論が始まっている。もどかしいというか、自分の無力感じると同時に、俺は今まで何をやってきたんだと思いました。ですから、私の"ギャップイヤー"は、見事に鼻っ柱折られ、落ち込みの連続でした。なので何とも辛かったというか、悶々としていたというか・・・。最後には眼が覚めました(笑)。

Q:パラリーガルという制度は日本ではないのですか?
 日本の事務所でも大手の企業法務の事務所であればそのようなシステムはあります。私の事務所も一応アメリカの事務所なので、パラリーガルという方がいて、議事録を作ったりとか登記関係の処理をしたり、一部翻訳をしたり、実務的に弁護士を補助する仕事をしています。ただ、多くの日本の事務所の場合、秘書さんがかなり踏み込んだお仕事までやってくださるので、パラリーガルと秘書の区別もかなり曖昧な印象があります。

Q:その専門学校の修了書はあったのですか?
 実はドロップアウトしました(笑)。凄く面白かったし、友達も出来ましたけど、帰国まであと1,2カ月しかないが、どうするとなった時に、やっぱり遊んでおきたいと。学歴になるというような感じでもなかったので、内容もわかってきたなというところで、完全に観光客に戻りました。ミュージカル、コンサート、アメフトを見に行くとか・・・。

Q:帰国後、司法研修生になられるわけですが、2000年の4月から1年半ぐらいの期間ですか?
 はい、そうです。当時は1年半でしたが、今は1年2カ月に短縮されたらしいです。私の弁護士登録は2001年の10月でした。


ギャップイヤー後、日本と違う場所で働くのも悪くはないなという感じに


Q:最初は刑事弁護をやりたいと思っていたのですか?
 そうですね、それが親のやっていた仕事なのでイメージを持ちやすかった。父がやっていたのは刑事弁護とか子どもの人権とか、中小企業の法務が多かったと思います。私が家で父から話を聞くのは刑事弁護で、こういう子どもが捕まって無罪になったとか、子どもの人権で大変なことがあったとか。弁護士になるかどうかも分からず司法試験をやっている時に色々と父と法律について話すようになり、今学んでいることはこうやって役に立つのだと、意外と面白そうじゃないかと思うようになりました。あ、これなら別に司法試験に合格したあとに企業に就職とかしないで、弁護士になるのが良いんじゃないか、と。
 その後、1年ギャップイヤーで米国にいる間は、具体的に考えられるほど情報があったわけではありませんが、海外でいろんな友人が出来て、いろんなものをみて、日本以外にも楽しい世界はあるなというのがわかりました。弁護士になって、違う場所で働くのも悪くはないなという感じになりました。それから、どういう弁護士の道があるのか調べ始めました。その頃、友人は司法研修所に入り、就職を決めたりしていました。行き先は様々で、裁判官になったり、検察官になったり、大手法律事務所に行く人もいれば、1・2人の弁護士がいる事務所に行く人もいる。

Q:通常、司法研修に入る時に、だいたい"就活"というか、どういう事務所に属していくのか決められるのですか?
 当時は研修所に入った直後の数か月くらいで決めるケースが多かったと思います。特に弁護士になる人は、大まかどのような事務所に入りたいのか、方向性を決めます。企業法務を扱う法律事務所への就職活動は早かった。4月に研修が始まり、7月から9月位には就職先が決まるという感じでした。なお、今はもっと早くて、司法試験の結果が出る前から、大学の成績、履歴書を持って、"就活"がスタートします。

Q:現在は弁護士も"買い手市場"になったから、"就活"が早くなっているイメージですか?
 ロースクール制度になって、タイミングが大きく変わってしまいました。我々の時は"売り手市場"で、行きたいところにほぼ行ける。当時最後まで就職が出来なくて困る人などいなかった。今は、確かにに買い手市場になりましたね。


2000年に、画期的なハンセン氏病の国家賠償請求訴訟に立ち会う


Q:司法修習生の研修当時、ハンセン氏病の国家賠償請求訴訟を取り扱う事務所に所属されていたとか?
 研修は1年半で、最初の3か月と最後の3か月は研修所で、学校みたいに集まって、座学、勉強をします。真ん中の1年は各地ばらばらに飛ぶ。私の場合、福岡に配属されました。そこで法律事務所、刑事裁判、民事裁判、検察それぞれ3か月回っていきました。その中の最初に配属された法律事務所でハンセン氏病の案件を中心でやっていた先生につきました。元ハンセン氏病の患者さんの療養所にみんなで行って、訴訟の準備をする。一緒にお酒を飲んだり、いろいろな世間話をしたりしつつ、徐々に信頼関係を作り、言いにくいことも話をしていただいて、陳述書にし、裁判所に提出しました。私のような修習生は戦力外なので、お酒を飲んだり、いろいろとお話を聞くのが中心でした。ただ、そこで見た弁護士の活動は素晴らしかった。弁護士になろうと思った時に描いていた人権活動の本物の現場を見せてもらいました。人の心や命を救うことのできる仕事だと。


「人権畑と企業法務畑」は、私の中では対立でも二分法でもない


Q:ハンセン氏病の国家賠償訴訟と企業法務とは、木下さんの頭の中で、どう連関するのでしょうか?
 やっぱり企業を守るイコール人権の対極にあるようなイメージを持つ人はたくさんいると思うんです。しかし、ほんとにそういう二分法なのかなと。企業は経済活動を支える重要なことをやっている。雇用を生み出すことが社会の基礎を支えている。それをバックアップしていくのが企業法務でもあります。また、規模の小さい会社を救うこともあるかもしれないし、日本が大きくなる、強くなる上で必要な技術を持っている会社を守るとか、企業法務イコール金儲けという単純な図式ではないでしょうと。当時、世の中の人のためになりたい人と強く思っている人は、企業法務を避けているようなイメージでした。一方、企業法務に行く人は、あまり人権に興味がないみたいな割り切り方で、両サイドからいろいろ言われるわけです。「人権活動とかやっていても飽きちゃうよ、企業法務は法律の最先端のことをやるから、ダイナミックで、エキサイティングだ」とか、「企業法務なんて誰でもできる。人の命や尊厳にかかわる活動こそやりがいがある仕事だぞ」、と。どちらも言っていることはそのとおりですが、今自分にあるのはどちらかだけの選択肢なのかなぁと。ハンセン氏病の案件は、まさに画期的で素晴らしかった。弁護士は何年も見返りなど気にせずに働いて、勝訴した時には依頼人と一緒に号泣している。こんなにやりがいのある仕事ってあるかなとつくづく思いました。自分の生活を賭けて、自分でお金も払って、自分にしか助けられない人が目の前にいて、やらなきゃいけないと思って何年も頑張る。それって企業法務にあるのかなと思いましたね。今、目の前で起きていることと同じレベルの社会的なインパクトを企業法務を通じて出せるのだろうかと。私は高校の部活などで、チームスポーツをやってきました。何年も一つのゴールに向かって頑張って、辛さも喜びをみんなで分かち合うようなことをやってみたい。それは企業法務だとあるのかなと考えてました。でも、話を聞いているうちに、企業法務にも、人が必要だったりします。ずっと一緒にお客さんと会社の生死を賭けてやるプロジェクトもたくさんあります。そこから自分ならではの価値が出せると思って、絶対つまらないと言われながらも、結局、企業法務を扱う法律事務所でキャリアをスタートすることを選びました。ハンセン氏病の訴訟の準備のための弁護団合宿というのがあったのですが、その合宿先から、当時内定をもらっていた前の勤務先の法律事務所に電話し、研修所卒業後、一緒にお仕事をさせて下さいという電話をしました。何であの場所から電話をしたのかはっきり覚えていませんが、自分の中で、今見ている素晴らしい人権活動に決して劣らない企業法務の活動をするんだという思いがあったのかもしれません。

Q:ハンセン氏病の国家賠償訴訟が勝訴したことは画期的だったわけですが、いつでしたか?
 2001年の5月に熊本地裁で原告が勝訴しました。その後国が控訴するかどうかが社会問題になりました。当時の福田官房長官と小泉首相が政治的な判断として控訴しないと確定して、和解しました。全国で訴訟が起きていまして、主に西日本と東京だったんですが、それも和解で進みました。


どうせやるなら、今までの日本の弁護士とは違うことをやりたい


Q:2001年当時、外資系の法律事務所に就職される弁護士は、まだ少なく、"先駆的"なベンチャーに入社するような感じでしょうか?
 まだ少なかったですね。ちょうど98年くらいに法律が変わりまして、日本の法律事務所と外資系の法律事務所が一緒に仕事が出来るようになり始めた頃だったんです。形は、合弁とかジョイントベンチャーに近いです。日本の弁護士が外資系の法律事務所に直接雇用されることはできなかったんですが、日本の法律事務所と協同で事業を行う、同じオフィスを使うことは可能になりました。日本の弁護士たるものという矜持(きょうじ)のようなものが存在していて、外資系にいっても金の亡者しかいなく、そんなところに行くのは日本の弁護士として自殺行為だとも言われることもありました。あとはハゲタカの代理ばっかりで直ぐに嫌になって辞めるだけだぞとかですね。私が弁護士になった2001年は海外のファンドが不良債権や不動産への投資を加速していました。でも、どうせやるなら、今までの日本の弁護士とは違うことをやりたい。日本企業が海外に進出するときや、海外から日本に進出してきて一緒に仕事をしましょうという時に、海外の文化とか海外の弁護士の戦い方がわかった弁護士じゃないと、これからの日本企業が世界を相手にやっていく際のお手伝いはできないだろうと思うに至りました。だったらそういうところに身をおいて、自分たちがこれから相手にしなくてはならない彼らがどんな人たちかわからないとダメだなと。入った事務所はまだ日本人はたった4人と小さかったので、一緒に歴史を創ろうという気概を持ちました。


Q:その後、外資系法律事務所に入った後、実際に刑事弁護はできたのでしょうか。
 弁護士になり、数件やりました。今でもその時の被告の少年から時折連絡があります。私は、就職先の内定を受ける前に、内定をくれた事務所の弁護士に、「企業法務をやったら、刑事弁護ができなくなるのではないでしょうか」と質問したんです。他の事務所でも同じ質問をしていて、答えはほぼ「まあできないね」という回答だった。でも、その時だけは、「それは択一の話ではない。刑事弁護だろうが人権だろうが、一般民事訴訟だろうが、やりたかったらやりなさい」という答えが返ってきました。刑事弁護も、うちの事務所でやればいいと言われました。毎日忙しいが、企業法務をやったら刑事弁護ができないというのは自分で作ったハードルに過ぎない。日常業務に追われてやれないのであれば、お前がその程度の弁護士なんだと、そう言われて「あっそうか」と思ってその事務所に入りました。しかし、入ってからやっぱりそこまでできなかったですね(苦笑)。一年目に数件担当した後は、徐々に刑事弁護活動から遠ざかって行ってしまった。やっぱり刑事弁護についてはその程度の熱意だったかもしれないです。企業法務が楽しかったですし、お客さんと一緒になってやってくのが、これまで本当に楽しかった。事務所の中でも外資系事務所なので、同僚がどんどん変わっていく。仕事もなんとか認めてもらいたいですし、お客さんにも喜んでもらいたいですし、とにかく必死で働く3年でした。ただ、途中でこれだけでよいのか、と思う気持ちは少しずつ強くなっていたことも事実でした。


仕事は朝9時から夜中3時、でも仮眠もとります


Q:ほとんど寝てないのでは?仕事は、朝9時から夜中3時?ですか
 途中少し仮眠を取ったりすることもあります。ぶっ通しで働くわけでなくて、新人弁護士の採用活動でご飯食べてたり、軽く飲みに行ったりもします。

Q:2001年10月に弁護士登録をされて、アメリカ、ロサンゼルスの研修にも参加された。また、2004年の7月にデューク大学大学院に入学される?
 ノースカロライナ州にあるデューク大学の修士課程に入学して、その後05年9月にニューヨークに移りました。Master of Lowは、よくある海外留学生向けの1年のコースなんです。

Q:そこで、クラスの代表や卒業式での総代をつとめたのですか?
 学生団体の代表は立候補でやる人がいなかった。友人から一緒にやらないかと言われ、気づいたら巻き込まれていた。卒業式のスピーカーもやりましたが、たまたまです。成績が一番だったと勘違いしてもらえることがあるのですが、実はそういうわけでもないんですね。でも1000人を超える人の前で原稿を見ないで長いこと話をするのは良い経験になりました。

Q:語学で専門用語とかたくさんあるわけで、いつのまにか、英語の力をつけられた(笑)?
 前の事務所に入ってからが大きかったかもしれません。あと最初にアメリカに行った時に、語学学校は役には立ちませんでしたが、そこで会った友人にアクター(役者)志望の人がいた。そういう人たちは話せる英語、舞台とかでお客さんに理解してもらえる英語を話さなきゃいけないので、発音を矯正するような英語のレッスンを受けていた。私も紹介してもらって、元アクターの先生の英会話のレッスンを受けて、実践的な、会話をして理解できる英語を習いました。徐々に言いたいことを伝えられるようになり、話すのが楽しくなって、書いたり読んだりは得意じゃなかったんですが、話すのは少し得意になりました。

Q:デューク大学への留学は、事務所から行くようにと勧められたのですか?
 半分半分ですね、事務所のプログラムで、4、5年勤めたら留学するのがあるんです。ただ私の場合、タイミングとかもあって、2年半でどうかと打診されて、行きました。


米国で、NPO設立のプロボノ(時間でなくスキルのボランティア)を経験


Q:大学院留学後のニューヨーク勤務時代に、ブルックリンで、NPOを起こして、空手教室をされたのですか?
 私自身がやったわけでなく、そのプロボノ(時間でなく、スキルのボランティア)の案件が事務所に周ってきました。話を聞いてみると、ブルックリンの、とある地域の子ども達が、何かあると暴力や薬に手を出すので困っている。空手をやらせればself-discipline(修養)を覚えて、いい子に育つんじゃないかというミッションを掲げて、3、4人くらいの人が投資銀行を辞めて、空手道場とみんなが集まれるようなコミュニティーを創るための会社を立ち上げようとしていました。空手だし、もしかしてみんな日本語を話すかもしれないから、これをサポートできるのは私しかいないだろうと思い込んで、「やります」と手を挙げてしまいました。ただ、実際に会ってみると、そもそも一部の人には英語も通じにくい、「スペイン語は話せるか」とか言われて、全然ダメだったんですけど・・・(笑)。日本語は全然必要なくて。この案件では、会社をNPOとして設立し、連邦とニューヨーク州で寄付金が課税控除になるような申請をしました。案件としては極めて簡単なアメリカではよくあるプロボノ活動です。NYでは、毎日のようにプロボノ案件の情報がいろいろな団体から回ってきていました。事務所にもプロボノ担当の弁護士がいて、そのコーディネイトをやっている。非常にシステマチックで、やりたい人はすぐに手を出せる環境は凄いなと思ったのを覚えています。企業法務でも社会貢献やっぱりできるじゃないか、と嬉しくなりました。日本でも、今後、進展するかもしれません。

Q:当時はアメリカの弁護士は、"プロボノ"が年間50時間も要求されるとか?
 やらないと罰金とかいうことはないですが、あくまで目処としてそれぐらいはやるようにと言われていました。

Q:最初のプロボノ経験は、このニューヨークが初めてだったんですか?
 はい、日本でも前の事務所で若干ありましたが、積極的に関与している形ではなかったので、初めてといえます。


年間3,000時間働く、それでは5%はプロボノに充てようと


Q: 2006年に帰国されて、2006年以降は、年間200時間をプロボノに充てるというのをご自身に課したとか?
 それくらいはやりたいなと思ってました。積極的に社会貢献活動をやっていた弁護士の友人がいまして、彼が毎年一定の時間を割くように意識しているという話をしていたのを聞いて、当時考えたのはだいたい年間3,000時間は働くかなと思ったので、その何%っていう割合で考えました。10%はきついかなと、でも5%以上の時間はやってみようと。それは200時間くらいかなというのが根拠です。企業のために、社会のためにというのはありましたが、そういう大きな話はまずは置いておいて、もっと身近なところで手助けしたいという思いで。ただ、当初は弁護士でプロボノでやりますので一緒にどうですかと日本のNPOに話しかけても、不気味がられたり、相手も何を頼めばよいか分からないみたいで、プロボノ案件は少なかったですね(笑)。

Q:つまり、木下さんは、日本における弁護士分野のプロボノの先駆者ですね。今、木下さんのお仕事としては毎年3,000~4,000時間働いておられるわけですが、それって弁護士さんとしては普通なんですか(笑)?
 私は、かなりワーカホリックです。ブラックベリー(RIM社からでている携帯,スマートフォン)を横に置いて、寝たりとか。基本24時間スタンバイできるようにとしてしまう(笑)。

Q:そんな中、長女が授かって育児休暇を取られ、ワークアンドバランスもされたのですね。
 さすが外資系事務所なので、男性でも当たり前のように育児休暇を取ります。今のところ子どもが生まれた男性弁護士は、6・7人連続して取ってますし、取るなとかは言われたことも聞いたこともがありません。また、育児休暇後も、例えば一旦5時くらいに家に戻って、子どもとご飯を食べて風呂に入れて、また事務所に戻るという生活もできます。夜8時に再出社とか、そんな生活をやりたいかどうかはまた別の問題ですけど。


"世の中変えたい"というソーシャルセクターの人たちは面白い


弁護士 木下万暁さんQ:仕事の面白さとプロボノの面白さ、そのバランスをどう表現されますか?
 私にとっては、どちらも結構同じ。弁護士としてやらなければいけないことだと思っています。企業法務は私じゃなくてもやる人はたくさんいる。だから私じゃなきゃ出来ないように頑張っています。プロボノをやっている時間は、そういうことをやってる人が余りいないので、一緒にやりたいとか一緒にやって世の中変えちゃおうという仲間もできるかもしれないと思っているんです。上から目線の発言に聞こえるかもしれませんが、僕がやらなくて誰がやるという気概は、きっと伝わると思うんです。ソーシャルベンチャー(社会起業家)、ソーシャルファイナンスにしてもこれから伸びていくと思いますし、法律も変わっていくと思います。何よりそこでやっている人たちが凄く面白い。私自身も面白い経験をさせてもらっています。今後、企業法務の弁護士もソーシャルセクターにきっとどんどん入っていくようになる日がくる。弁護士がコミットする土台が出来るといいかなと思ってやっています。

Q:年間200時間もプロボノにかけている弁護士さんは、どう考えてもあまりいないですよね(笑)?
 どうですかねぇ、プロボノの定義によると思います。刑事弁護はもともとかなりプロボノで、当たり前のようにやっている人は日本の弁護士で山のようにいる。法律扶助とかは全然お金が入らない中、手弁当でやってる人はたくさんいます。人権問題もまさにそうです。「プロボノ」やっていますという人はあまりいないかもしれませんが、「社会貢献活動」「公益活動」という風に呼べば、実は弁護士業界全体で見ると結構いるんじゃないかと思います。皆さんあまり自分では言わないですけど・・。一方、企業法務をやっている弁護士はというと、まだまだ少ないかもしれませんね。

Q:ギャップイヤーと近い概念で、サバティカル(長期間勤続者に対して付与される長期休暇)があると思うのですが、弁護士さんもあってもいいですね?
 日本の弁護士にとっては、1年間のロースクールへの留学とかが、一番多いサバティカルみたいな感じかもしれませんね。ただ、それ以外にももっとあってもよいと思います。例えば、アメリカのリファーラル・オーガニゼーション(referral organization)と呼ばれるプロボノ紹介したりする機関があるのですが、そこにいる弁護士は、トップ・ローファームの若手弁護士です。ニューヨークの優秀な弁護士が何人も来ています。NPOとかの仕事ばかり1,2年やって戻る。そのまま、その道に入っていく人もたくさんいるようです。

Q:"竹の節目"のように、10年に1回くらいアクセントを入れた方が、成長すると確信する人も多いですね。学生の時に、すごく素敵だなと思ったのは、故・糸川英夫さんなんです。あの小惑星「イトカワ」の由来の方です。ロケット作ってるし、踊りのバレーやったり、10年ごとに節目つけたんですね。根っこのところは想像力。想像力を世の中に示し続けていた。本気でその都度傾注してきた。10年経つと煮詰まっちゃうこともあります。次のステップアップのために必要かもですね。例えば、40歳代で、住宅ローンや子どもがいたりでギャップイヤー取るのは難しいかもですが・・、英国では、「オーバー・フォーティー・ギャップイヤー」という言葉がある。10年単位で、人生を見直してみることが必要かもしれません。 
 ちょうど私も今弁護士10年目が終わりそうな時でして、次の10年どうしようか悩んでいるところでもあるのです。この10年とても楽しかったので、次の10年も同じくらい楽しくしたい。でも、次の10年はもっと世の中がよくなるように、日本の文化を海外にもっと発信できるように、違った角度から物事を考えてみたいなあと思います。


ギャップイヤーで、"もがく"素の自分に出会って、向き合えた


Q:アメリカと日本とでは司法制度のみならず、日常的に議論をするなど文化がまったく違うと思いますが、ギャップイヤーをアメリカで取ったことで、身に付けたことは何ですか?
 大学卒業後すぐに、ギャップイヤーとしてアメリカに行った時と、事務所からの派遣としてロースクールに留学した時とでは感じが違っていました。ロースクールに留学したときは日本の弁護士としてそれなりに実務を知っていることもありましたので、あまり不安はない。ふつうに学校に通って朝から晩まで勉強した。ただ、最初にアメリカに行った時は言うことも伝わらなかったですし、必死だった。ロースクールでみんな弁護士ですという状況とは全く違って、どこに顔出しても「お前、誰?」って感じでした。一から友達を作って、一から生活して、自己主張してという経験は、その後の人生にとても役に立ちました。バックグラウンドがないところで、肩書きがないところで、"もがく"素の自分に出会って、向き合えたからです。
 日常的な議論という意味では、ロースクールで学んだことは大きかった。ロースクールでの学生や教授の議論を聞いているとすべて、「これあなたどう思いますか?」って聞くと"I think ~, because・・・"と、全部because、って言う。Becauseっていう形で理由を言わずに結論だけ言っても、日本だと「わかってるよね」という感じで進むことも多いし、逆にそこまでいうとかえって無粋となる場合もあります。アメリカ人は結論だけ言うと、そこから先を"Because~"と促してくる。逆にBecauseって言ってると、なんかちゃんとした理屈があるような雰囲気になり、それっぽい議論になってくる。でも、よくよく聞いてみると全然大した理由を言っているわけでもない。こんなんでいいのかとびっくりした。ただ、考え方によっては、ちょっと言い回しや文章の組み立て方画が違うだけで、比較的簡単に理解しあえる。それまでは、何でわかってもらえないのかとか思うこともありましたが、それからはとにかく話さなきゃと思うようになりました。

Q:文化人類学で言うと、"ロー・コンテクスト"と"ハイ・コンテクスト"の違いってことでしょうか?日本人は1を聞いて10を知るハイ・コンテキスト文化。一方、アメリカは全部言わないとおさまりつかない"ロー・コンテキスト"。その差があるかもしれませんね。
 カリフォルニア州の司法試験でも予備校の先生には、「論文試験ではとにかく書けと。たくさん書け。どんな議論でも、どんなばかげた議論だと思われることでも主張・反論になるのであれば書け」と言われました。思考過程がみえないと合格しない。間違っていても、それなりの理屈を作ってクライアントを弁護しなければいけないのがおまえたちの仕事だと。できるかどうかが勝負の分かれ目なんだと。ここまで無理スジというか、こんなに低いレベルの議論まで答案に書買いちゃうのかと、その発想は私にはなかったです。日本の司法試験はこの学説があって、この判例があって、こっちの方が妥当と。理論的にもよりメイクセンスするからこっちですと。極端な例を言えば、最高裁がこうだからこうという。アメリカの方がより判例の社会なのに、司法試験の場合は、ああ言えばこう言うみたいな感じでやればいいんだと、そんなことを聞いて、なるほどと思った覚えがあります。


楽しく仕事をして、人のために頑張って働いているうしろ姿を見せたい


Q:やはりこうしてお聞きしてみると、"人権派"のお父さんからの影響はかなり大きいのでは?
 余り感じてなかったんですけど、今思うと大きいんでしょうね、悔しいですけど(笑)。なんだかんだ言っても、背中を見て育ってきているのでしょう。小学校の頃、宿題をやっているとあんまり勉強するなと言われたことを覚えています。もうちょっとやりたいことがあるだろうという感じで。ただ、気づけば自分から受験勉強をしたいといい始めて学習塾に通い始めた、ゆっくり休むはずのギャップイヤー中も何だかんだいって勉強したりしている。弁護士も面白くなさそうな仕事だなぁと思いつつ、どこかで興味があって司法試験を受けようと思ったわけです。仕事の事はあまり本人からは聞いたことはなかったですが、どこかで感じ取る部分はあったのでしょうね。そして今思うのは、自分の子どもに、私が楽しそうに仕事をやってる姿をみせたい。何やってるかわからないと思うのですが、お父さんは楽しく仕事をしていて、人のために頑張って働いているっていううしろ姿ですね。一番やってまずいなと思うのは、やりたくないという辛い表情を子供にみせること。せめて誇りを持ってるなというふうには見てほしいと思ってます。

Q:「この仕事嫌だな」と思う仕事は、どうしているんですか?
 やりますね。これまでの経験では、あとで絶対やってよかったと思うからです。胃が痛くなる仕事の方が成長します。次から胃が痛くならなくなってよかったとも思います。クライアントの投資スタイルや事業戦略は様々です。それらを見ていて、特に弁護士になって最初の数年は、このクライアントをサポートすることで世の中のために何か役に立っているのだろうかとかふと思うこともありました。大量の契約書を作り、何百億円のお金が動くけれども、自分はそのペーパーワークだけやっていていいのだろうかとか。でも、投資や、お金が回ることは日本の社会に必要だと。たまに辛かったですけど、中で働いている人達の考え方や苦悩もわかりましたし、企業が再生する姿もみました。投資の最大化をとことん追及するやり方は全てダメみたいな見方もしなくなりました。やりたくないと最初に思う仕事というか胃が痛くなる仕事であればあるほど、終わった時の喜びも大きいです。だからワーカホリックみたいなことも言われます。

Q:気分転換、大事にしてることは?
 家族との時間やスポーツをする時間、そしてプロボノや個人でやっている社会起業家支援の時間です。プロボノや社会起業家の支援はやらなきゃと言ってやってますけど、自分の中でバランスを取ってるんだと思います。

Q:ワーカホリックということですが、土日はどう過ごされていますか?
 早朝と夜は仕事しています。それ以外は、家族と過ごすことが多いですね。

Q:ギャップイヤーを取るにあたり、躊躇することはありましたか?
 気づいたら決めていたという感じでした。後になって「何で司法試験受かって休んだの?」とか、「弁護士やりたかったんでしょ、何ですぐやろうとしなかったの?」とか言われることもありました。そこで始めてそういう見方もあったか、と。理解してもらおうとしたわけではないので、気にしていなかったですが。

Q:1年塩漬けするのは珍しいですよね。高揚感があると思うんです。えらい難しい試験に合格したから、普通すぐにでも、次のステップである司法修習生にと。一旦止めるというか違う場所に行くのは勇気がいりますよね。
 資格がある安心感があって、比較的ハードルは低いかもしれません。実際にギャップイヤーを取ってる人は余りいないのかもしれませんが、私の友人の弁護士には何人かいました。司法試験は5年くらいかかることも多いですし、弁護士の場合いろいろなバックグラウンドの方がいるから1・2年くらいビハインドでもなんでもないと思います。でも、一般企業の中で1年休むと勇気がいるなと思います。

Q:筋肉の話ですが、スポーツでレミニッセンスということばがありますね。空手ずっとやっていた。1か月間練習止めて違う場におく。その後、また空手をやると、違う回路が働き、スキルが伸びている。レミニッセンスは筋肉の世界ですが、脳でもいえるかも。ずっと同じことをやるのでなく、一旦スイッチ抜いて、違うことをやる。
 そういう意味で日本も学部で法学部があってロースクールって行くよりは、違う頭を使う違う学部から行った方が面白いですね。私もそうなのであまり人のことは言えませんが、理工学部出身からとか羨ましいですね。


ギャップイヤーは"遠回り"ではなく、次の目標を探すプロセスの始まり


Q:最後に、もし将来、愛するご子息がギャップイヤーを取りたいと言ったら?
 もうぜひです。私がやっていた1年というより、「それするのか!」というリアクションするほどの凄い経験をしてほしい。それこそ、マグロ漁船に乗るとかそれくらいやってもらいたい(笑)。私は小心者なので、息子には、自分より遥かに勇気のいることをやってほしい。私がアメリカにいた1年、一緒に司法試験に合格した友人たちは弁護士になるためのまっとうな研修をしていて、とっても充実しているように見えた。一方、私は地球の裏側で、悶々とした日々を過ごしていました。当時、私は何がホッとしたかといえば、英語で疲れて夜ぼーっとひたすらネットサーフィンをする空虚な時間、それは決して言えないなと思って(笑)。ただ、どんな小さなことでも、これをやりたいと思えることに出会えたり、そう思ってやり始めたことが実際やれるようになった時、嬉しくてしかたがなかった。振り返ってみると、ギャップイヤーは、次の目標を探すプロセスの始まりだったと思うんです。だから、実は遠周りでも何でもなかった。

【インタビュー後記】


"並外れた集中力で、法曹界の常識を変えてくれそうな法律のプロフェッショナル"

 木下弁護士のように、大学4年生で文字通りストレートに難関の司法試験に合格してしまうと、何の迷いもなく脇目も降らず、司法修習生になるのが通常だろう。ギャップイヤーの要件は、決まった大学に入学しないでdeferral(入学延期)し、非日常性の中に自分を置く中、「国内外留学(正規外)、インターンやボランティア等を行なう」ことである。この意味で、大学を司法修習所に置き換えれば、すべて該当する木下さんのケースは、遅れてきたギャップイヤーと言える。欧米では、概念が既に拡張し、就職後でもギャップイヤーは適用されるようになってきている。例えば、米国の非営利のTFA(ティーチ・フォー・アメリカ)で、大学卒業後2年、貧困区で教師をやり、問題解決力やリーダーシップ能力を高めている。その後の就職が引く手あまたというのは、知られている。日本でも今後、このような"ギャップイヤー・モデル"は増えてくるだろう。
 木下さんへの驚きは、大学入学前の学力は相対的に高くなかったのに、ひとたび明確な目標・目的ができ、スイッチが入ると、超人的な力を発揮するところだ。それは、大学4年の秋に1回で司法試験合格、米国大学院で英語をマスターし、卒業式で総代スピーチ、国内大手ファームを振りきり、日本人4人しかいないニッチな弁護士事務所でのベンチャー的出発、現在の「年間3000時間労働で、別途200時間プロボノ」などが見事にそれを物語っている。
 プロボノといえば、2006年に帰国して、日本のNPOに問いかけたら不気味がられたということからして、木下さんが、日本における弁護士としてのプロボノのフロントランナーであるといえるだろう。
 そんな木下さんが、軽い気持ちで踏み入れた米国でのギャップイヤー時代に、法律スタッフ(Paralegal)入門セミナーで、ぎゃふんと言わされた。「俺は法律が実質何もわかってない」と感じる。空っぽの空虚な時間もある中、素になり自分を見つめ、向き合った。そして、いつの間にか、ギャップイヤー後、日本と違う場所で働くのも悪くはないなという感じにまで高めている。この一連の所作こそが、今日の敏腕弁護士を形成する礎になっているように思える。文面からは伝わらないが、例えば大学進学前の成績不振による"小さな挫折"や米国での失敗談を話す木下さんは目を細め、優しく淡々と語る。口調が終始強くない人なのだ。先述とおり、とにかく目標・目的が定まれば、驚異的なパワーを発揮する。現在自らに課しているタスクは、「年3,000時間勤務の中でのプロボノ200時間実現」に違いない。さて、次なる孤高で難攻不落の目標は、何だろう。それは、ひょっとしたら、法曹界で二分法で語られることが多い「企業法務畑と人権擁護畑」の統合化や"昇華"かもしれない。究極の「ノブレス・オブリージュ(「社会的地位の保持には責任が伴う」という概念)」ともいえる。既に日本でのソーシャル・セクターの成長曲線までイメージできる木下弁護士は、まさに従来の弁護士像を変える、型破りで"ハード・マインドとソフト・ハート"を併せ持つ、スケールの大きな法曹人だ。困難をチャレンジとして楽しめる人は強い。だから、組織基盤が弱く低迷する日本の各セクターをぐいぐい引っ張っていってほしい。最後になったが、次の10年、またどのように人を驚かしてくれるかとても楽しみな人である。

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