私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第6回 学部時代のバックパッカー・欧州でのインターン・豪州での4年の大学院生活が "日本発の社会起業"につながる TABLE FOR TWO代表 小暮真久さん

TABLE1972年生まれ。1990年早稲田大学高等学院卒、1995年早稲田大学理工部機械工学科卒。オーストラリアのスインバン工科大で人工心臓の研究を行う。1999年、同大学修士号取得後、マッキンゼー・アンド・カンパニー東京支社入社。ヘルスケア、メディア、小売流通、製造業など幅広い業界の組織改革・オペレーション改善・営業戦略などのプロジェクトに従事。同社米国ニュージャージー支社勤務を経て、2005年、松竹株式会社入社、事業開発を担当。経済学者ジェフリー・サックスとの出会いに強い感銘を受け、その後、先進国の肥満と開発途上国の飢餓という2つの問題の同時解決を目指す日本発の社会貢献事業「TABLE FOR TWO」プロジェクトに参画。2007年NPO法人・TABLE FOR TWO internationalを創設し、理事兼事務局長に就任。社会起業家として日本、アフリカ、米国を拠点に活動中。

(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)

高校時代に価値観の深みや多様性みたいなものは身に着いたし、広がった

Q:どんな高校生だったか?内進で理工学部に行かれたわけですが、そのいきさつもお聞かせ下さい。
 付属高校なので、自由な校風、そうですね自由ですが、悪く言えば勉強しない高校でした。その代わり文化活動と称した課外活動に熱心でした。留学をしたりする生徒もいれば、映画・音楽に熱中したり、クラブ活動を思いっきりしたり・・・。授業を教える先生たちも大学の教授や講師を兼務されている方が多かった。なので一般のカリキュラムから外れたことを教える。例えば、当時の歴史の先生は縄文時代が専門で縄文時代しか1年間かけて教えない。古文の先生は、株のトレードについてずっと授業中話している(笑)。後は教科書を読んでおけというふうに。非常に個性的な先生が多くて、一般教養ではダメですが、若い時代のインパクトという点で、強い刺激を受けました。生徒も変わった生徒が多くて、お互い刺激をし合う。若いので、自我を確立したいと、もがきつつ、いろんな多種多様な友人がいました。何が役に立ったかは説明できないのですが、価値観の深みや多様性みたいなものは高校時代に身に着いたし、広がったなと感じます。僕自身は部活をやって、その仲間たちと楽しい時間を過ごして、まっ悪いこともしましたし。ただ小さい頃から英語は興味があったので、英語の勉強はきちんとして、いずれは海外に出たいと思っていたので、空き時間に時間さえあれば図書室でいいアメリカの映画を何度も何度も擦り切れるほど見て、ことばを覚えるようにしていました。

Q:図書室で映画が見られたのですか?
 そこも変わった学校で、レンタルビデオ屋並みに豊富なセレクションがありました。

Q:今風に言うと"オーディオ・ビジュアル教育"ですか?
 まぁそうですね、見ない人にとってはまったく関係ないので、教育にはなってないのですが。あと高校生は安いので映画館によく行きました。

Q:自由度の高い学校で過ごされたのですね。通常よいわけ方かどうかわかりませんが、文系と理系でわけられて、ある意味束縛されることが多いですよね。

TABLE  FOR  TWO代表 小暮真久さん 僕はあまりいい例じゃなくて、僕は決めれなかった。もう消去法で文系行ってもあまりいい学部にいけなかったので、どっちかというと算数が好きなので理系に行こうかと・・・。一番つぶしがきくといわれていた機械工学を選びました。

Q:そういえば前の白井総長(第15代早稲田大学総長02年-10年)が理工学部機械工学出身でしたね。今振り返って、学部選びは正解だったですか?
 間違いなく正解です。勉強した科目がということでなくて、梅津先生、恩師に出会えたことが大きく自分を変えたので、直感を信じてよかった。

Q:梅津先生の出会いのきっかけと先生の魅力はどう表現されますか?
 僕は隣の研究室で研究始めようとして立ち話していると、梅津先生が通るんです。工学部の先生には珍しく、インターパーソナルスキル(対人能力)が高いんです。もの凄く疲れていると思うのですが、いつも笑顔で必ず挨拶される。

先生が好きになり、研究室を途中で変わった学部時代

Q:自分の"島"じゃない人なのに?
 全然関係ないんです(笑)。本来話す必要もないです。ただ人が好きな人なので、興味持って"どうだぁ?"ってずけずけ入りこんでくる。学生も戸惑うほど、常に人のことを気にかける先生。単に研究するために彼の研究室に入るのでなく、人格形成から何から何まですべてを背負いこむというか。ホント面白い先生なんです。「彼女、元気か」とか「ケンカしたのか」とか聞いてくる。そんな先生がなかなかいなくて・・・。僕は"人と人"ということが大好きで、今の仕事にも繋がっています。どちらかというと工学部というとその真逆です。そんな中でヒューマンな先生がいらして、それに研究テーマが人工心臓ということで非常に面白いなと思いました。この先生の下で修業したいなと思いました。そう思い出してすぐに行動に出ていました。自分の担当の教授がどう思うかとかは考えない。先生のところで何かやらせてくださいと。

Q:わだかまりとか当時の先生と関係がぎくしゃくとかしませんでしたか?
 しましたね。今だったら、やっぱり大人になったので気にしますが、当時はやりたいと思ったら、人がどう思おうといいやと・・・。それよりも担当教授に嫌われるとかよりも、梅津先生と研究やりたいという気持ちが強かったんです。


人と違うことを恐れる必要はない

Q:私もそうでしたが、高校の時に大学の姿(実像)が見えにくいですね。大学に行くことの選択の悩みに対して、何かアドバイスをお願いします。大学選びに対しての判断のよりどころというか・・・
 人の生き方といっても何百万種類、1億人いたら、1億種類ですよね。アドバイスとは言えませんが、人と違うことを恐れる必要はない。好きなことがわからない人もいると思うんですよ。僕みたいに30半ばにならないとわからない人もいる。焦るなということも含めて、人と違うことを恐れなくていいということじゃないですかね。


学部時代に、"ウォー"というか爆発感というものがなかった

Q:毎日新聞の小暮さんの連載読んで、びっくりしたのですが、学部時代モヒカンでアメリカインディアンのようにされていた(笑)。自分の表現として意識してやったことか、それともあまり考えずに?
 ホリエモンみたいのじゃなくて、長髪でした(笑)。何かもう閉そく感というか10代の怒りというか・・・。何を怒っているわけじゃないんですが、何かイライラしているというか。何か違うことしたい。大学のキャンパスの中に、機械工学やっていても、爆発感とか"ウォー"という心揺さぶられることがあまり起きなかった。外見からでも、人と違うことがしたかったんです。


Q:当時モヒカンにしてたりすると、ご両親が心配されたりとか、ご兄弟の関係はどうだったですか?
 僕と両親は高校に入ってから、あんまりいろんなことを言うことはなくなりました。家が遠かったので、友達の家にころがりこんで、平日でも帰らないのはしょっちゅうだったんです。大学で、もがきながら探してるんだろうなという程度で気にしていなかったと思います。


まず、大学2年時に、米国・メキシコに1ヶ月のバックパッカー。それがスタート


Q:干渉もなかったのですね。大学2年生の時、1か月ほどアメリカ・メキシコに旅行されたのはツアーだったんですか?
 高校時代の4人で貧乏旅行、バックパッカーです。

Q:日本を離れて、印象として、覚えておられることは?
 海外に出て、もがいて探していた興奮するものがあって、面白いなと感じました。人も生活も価値観も全然違う。英語が通じなかったのは大きかった。もっといろんな国を見て回りたいという衝撃として感じました。


就職に向けて"同質化"させようとする。それが、息苦しさの正体では?


Q:小暮さんも息が詰まるという表現をされていますが、清水康之さん(NPOライフリンク代表)も日本にいると、息苦しさ、窮屈さを感じたという。若い頃のキーワードといえますが、この正体、何だと思われますか?
 私の場合、機械工学は4年間で、就職にむけて"同質化"させようとする。みんながそうなっていく。どういう就職先だからこういう研究をするとか。憧れの就職先も3~5社しかない。みんなが同じようになっていくことに対して、僕みたいな人は窒息しそうになるくらいの息苦しさを感じたんだと思います。

Q:今の若い人たちも続いているかもしれませんね。
 そうですねぇ


アルバイトで資金を作り、アジア・欧州などにバックパッカーとして行った


Q:アルバイトの資金をもとに、いろんな国をバックパックして周ったんですね。夏休みを使ってですか?
 そうですね。アジアも行ったし、オーストラリア、ヨーローパも行きました。


欧州での国際インターンシップ・プログラムは貴重な2ヶ月間だった


Q:数々のいろんな国に行かれて一番学んだことは?どんなことが印象的でしたか?
 やっぱり長く滞在したスロバキアで、いろんな国の学生と寮生活をして、お互いやっている活動やテーマは違うけれど、寝食をともにして、語り合っていろんなことを学びました。日本学生研修技術研修協会の国際インターンシップ・プログラムでの2か月は貴重な体験でした。

Q:大学4年になられて、卒論自体が人工心臓の研究で、きっかけは隣の研究室の梅津先生の影響ですね。早稲田卒業されて、オーストラリアの大学院に進んで、最新の研究を続けられたんですか?
 オーストラリアは国をあげて、政府レベルで研究を推進していたので・・・。梅津先生が、かつてそこでナショナルプロジェクトのリーダーをされていた関係でした。


豪の大学院修士課程に4年在籍


Q:1年半~2年くらいですか?
 当初はそのくらいでしたが、最終的には4年近くいました。


豪での4年間のおかげで、その後の多忙さにも負けず、心に余裕ができた。そして、自分の軸も定まった


Q:研究以外にもオーストラリアの生活で印象に残っていることはありますか?

TABLE  FOR  TWO代表 小暮真久さん 結構遊んでばかりいたので、結果としてはそれがよかったと思っています。その後いろんな仕事や日本で一番忙しい会社に入っても、心に余裕が持てるというか。それはオーストラリアの4年間があったからだろうなと思います。日本人以外の人と、何かやるということに対しての経験やビビらなくなったというか、海外に住む経験は大きかった。あとは西欧の価値観、考え方は4年暮らしたことでよくわかって、いいところ・嫌なところがはっきりしました。自分の軸が定まりました。好きなこと嫌いなことが凄くはっきりしたし、人から干渉されてもぶれなくなったこと。4年間で自分の軸作りが出来ました。

Q:今おっしゃった自分の軸作りのための"空白期間"はまさにギャップイヤーですね。節目の時に、人は強くなる。研究自体、修士課程はオーストラリアので取得されたんですね。
 そうです。


ワンプレーヤーというより、何か束ねる仕事をしたくて、マッキンゼーに


Q:ただ、人工心臓と次のマッキンゼーがどう繋がるのでしょうか?
もうオーストラリアに4年もいて、あれだけ遊びたかったり、仕事がしたくなかったのに、急に仕事がしたいと思い始めました。もともと興味あった国際的な仕事がしたいと思いました。国連みたいなところも考えましたが、職業経験がないので厳しい。一方、人工心臓の研究の延長で医療機器系企業も見て回った。でも自分の居場所じゃないなと感じました。違う立場の人同士がいろいろ物を言い合ってなかなかまとまらない学会の様子をみていて、自分っていうのはそういう人たちのワンプレーヤーというよりは、何か束ねる仕事がいいなと。そのためにはもっとビジネスの勉強がしたいと思いました。そんな時に友達からマッキンゼーを紹介してもらいました。医療機器メーカーのコンサルもマッキンゼーはやってましたし、いろんな関連性もあり、いい会社だなと思って決めました。

Q:4年かけて修士を取得されて、マッキンゼーに入られた。日本の企業だとどうだったでしょう?空白の期間をどうみたでしょうか。マッキンゼーだから小暮さんの人柄、志向性、能力を着目して認められた。多様性をきっちり観ているところが凄いなと思います。日本の企業や官庁の姿勢に対してでしょうか、現在の若者はちょっとでも、誰かと離れる・違うことにおびえている。ところで、マッキンゼーの居心地はどうでしたか?
 日々学びがある。チャレンジングな仕事だったので、充実した時間でした。


TFTは、より国レベルに押し上げ、かつグローバルに


Q:その後、日本で松竹に入られて、その後マッキンゼーの先輩からTFTの話を聞かれた。小暮さんの今の一番のテーマはなんですか?
自分のほとんどがTFTなので、そこに重なってくる。TFTが日本でもいろんなところで認知されるようになってきたので、もっともっと全国レベルで参加してもらえる社会貢献にすることとグローバルな活動にすることです。

Q:TFT以外に何か関連する事業や全く違うことをやる選択肢はありますか?
 ないです。

Q:今一番ほしいものは?
 子どもが生まれたばっかりなので、まとまった睡眠時間ほしいです(笑)。


TFTは想いを実現させてくれる"場"


Q:TFTは、小暮さんにとって何ですか?
自分の好きなもの、想いを実現させてくれる"場"です。


僕たちの時代との環境に違いがあっても、"好きなことをやる"が一番


Q:進路に迷う学生や会社入って3年以内に辞める人が3割もいるんですが、キャリアに悩んでいる人に対してアドバイスはありますか?
学生と仕事を辞める人に対しては違うかなと気がします。一度きりしかない人生なので、好きなことをやってみる、チャレンジしてみる。でっかいことじゃなくてもよくて、小さいことでもやりたいなと思ったことをどんどんやってみる。失敗とかが許されるのも若いうちです。好きなことが分からない人は焦らずに、年とってから出てくることもあります。なかなか僕たちの時代とは違うし、今の学生たちがそうなるのはよくわかります。経済的にも伸びていた、恵まれていた環境だったのが僕たちの20年前で、その時と比べると環境はかなり違う。同じようにふるまえとか余裕持てと言われても、若い人たちから見ればそういう時代を作ったのはあなたたちでしょうと・・・。そう言われれば僕らの責任でもある。だから、あまり当時のことから、今の若者に対して言えないなというのがあります。ただやっぱり若い時にしかできないことがある。僕らも親たちから言われたけど、親の世代になってみて、好きなことはどんどんやったらいいと思います。


好きなことがあればいい―― という生き方があっていいかなという気がします


Q:確かに時代は違い、今の20歳の人たちは、例えば1980年後期のバブル期を知らない。日本の経済は低迷、ずっとどんよりした曇り空のような状態ですね。小暮さんにとって、TFTは"本業"だと思うのですが、本業探しは大変なことでしょうか?本業探しのコツは何かありますか?
やぁ難しいですね。生き方で違います。僕の場合、趣味も多いわけではないので、仕事で自己実現したいとずっと思っていました。ベクトルを一致させる自分がやりたいことを仕事にするのが僕の生き方です。そうじゃない人もいるし、いていいわけで。仕事は仕事で稼いで、趣味が豊富な人もいる。友人は仕事でお金は稼ぐけど、アートを楽しむ生き方。アートを仕事にしたいと思わないと。僕たちよりも上の世代は仕事イコール人生。面白い仕事がないイコール生きる価値ないというような世代だった。リタイアしてからやりたいことをやられている。今はそういう時代でもないので、仕事が別に好きなものでなくてもいい、好きなことがあればいいという生き方があっていいかなという気がします。

Q:イントラプレナー(社内起業家)という言葉もあり、社内で起業する、世の中変えていくという手法も注目されていますね。公私のけじめをつけて、これは本業として稼ぐため、あっちの事業は社会に貢献するためとか・・・。単純化しないで、選択肢をできるだけ広く持つことが重要かもしれませんね。
仕事だけが人生ではない。ある調査ではできることなら仕事なんてしないで子育て、専業主夫をしたい30代の男性が、4割くらいいる。実際やっている人はアメリカにもヨーロッパにもたくさんいる。そういう生き方がいいと思う人は家庭もその方が幸せになる。そう思ったらそうすればいい。ただ上の年代の人達からみると、"なよなよ"した生き方で、どうするんだよ、仕事もしないでとって言われてしまう。そこにギャップというか価値感の乖離がある。若い人たちから見れば、仕事ばかりした世代は、家庭よく見てみたら崩壊しているという見方を若い人たちはする。その乖離がバブル前後からありますね。

Q:ところで、TFTにサポートする学生さんが1000人規模ですか?
登録されている学生が700人で、登録せずに活動している人達も含めて1000人~2000人でしょうか。


Q:TFTに集まる学生たちに特徴はありますか?
すごく熱心です。こういう場で仲間とのつながりや刺激を楽しんでいると感じます。


マインドマップで、自分が今やっていることが"真逆"だと気づきました


Q:小暮さんをとらえたドキュメンタリーで、TFTを立ち上げるにあたり、模造紙にマインドマップを描かれているのを拝見したのですが、どんなキーワードが出てきていたのですか?

TABLE  FOR  TWO代表 小暮真久さん いわゆる世のため人のためみたいなこと、新しいことを気の合う仲間とチャレンジすることが好きだった。既存のものを踏襲するのが苦手で、凄く変えたいというのが多かった。そういうのを見ていったら、その時自分がやってることが真逆だったと気づいたんです。子どもの頃の個性って、本来の自分に近い。大人になると変な社会性が身についてくる。子どもの頃遊んでて楽しかったのは嫌いなことはしなかったから。不謹慎ですが、仕事をそういう目で見てみようと。全然本来の自分と違うことをやっているなと気づきました。だったら子どもの頃と同じように好きなことをやることにしました。

Q:小さい頃、どんなお子さんでしたか?
普通の子です。新しい遊びを考えて、人をまきこむのが好きだった。親に迷惑をかけたりするんですけど。変な正義感が強くて、いじめられっ子をほおっておくのが好きじゃなくて、自然にみんなと付き合えるようになる。

Q:今につながるものがありますね。アフリカの子どもたちを日本で想えるという・・・。
仕事の環境の中で、人の摩擦とかあるじゃないですか?面倒くさいと思いますよ。摩擦を解くのも嫌いじゃないですが・・・。


人との出会いで、新しいものが一緒にいると生まれると感じるときが面白い


Q:人との出会いで魅力に感じるものは何でしょうか?
新しい人との出会いで、すごく楽しいとか心から面白いなと思うのは、何か新しいものが一緒にいると生まれるなと感じる時ですね。


新しいものを作り続けることが、人を惹きつける


Q:新しいものを創りだしていきたいという意欲がわいてくるかどうかなんですね。
月並みなことをいうと、小さい立ち上げの団体は創りだしていかないと、止まっちゃうんです。人も飽きちゃう。人が飽きちゃうのは僕たちだけならいいですが、僕たち超えて子供たちに影響が出ると困る。楽しいことを生み出して、人を惹きつけておくこと。新しいものを創り続けていくこと。現状維持していくことは重要なんですが、誰でも出来る。誰でも出来る組織は人が寄ってこないんです。面白いですねって寄ってくるのは、いろんなものを打ち出しているからです。

Q:何か"動いてる"っていうことですね。
また、こんなことやってる!面白い!って。アップルがソニーを超えたのは毎年いろんな新しいものが出てくるじゃないですか。こういう会社かなと思ったら、その期待を裏切るようなものを出す。いつの間にか、そのブランドに愛着を感じる。TFTも同じで、何か自分たちが想像する社会事業だなって、止まった時点でみんな興味を持たなくなる。NPOに期待を裏切るような、悪いことじゃダメですよ(笑)。想像しなかったようなものが出てくると、面白いし関わりたくなる。気になることが重要。みんな忙しいし、楽しいことがたくさんあるから。気になることが大切です。


"仕組み"は簡単がいい


Q:小暮さんがお書きになってる"思いが組織の壁を超える"。その後、仕組みを創る。さて、仕組みを創る時に大切なものは?社会的な課題を解決する時に、仕組みを創る方法論は?

TABLE  FOR  TWO代表 小暮真久さん 仕組み自体は簡単なものがいい。複雑なものは誰も望まない。

Q:モデルは日本で食事したら、20円がアフリカの子どもたちにいくということが、思い描けるシンプルさでしょうか?
 そうです。

Q:"喜ばしい"と感じるのは、どんな瞬間ですか?
 「これ生まれたな」という時です。どこかとコラボレーションしたとか、全く違う業種の人が関わり始めたとか。アフリカでも給食からいろんなものが生まれて、アフリカに進出したことで、現地で新しい活動が起こったりしたら、楽しいですよね(笑)。

Q:最近、嬉しかったことは?
 現地で給食に薪を使っていたのですが、森林伐採の環境保護の問題があった。廃棄されているもの、段ボールとか木のかすで燃料を作って使うというのが回り始めました。現地でそれが発想されたのを見た時は、ほんと嬉しかったです。


【インタビュー後記】

"やわらかさとしなやかさ、そして個の強さを感じさせる人" 

 社会起業やソーシャル・イノベーション(社会変革)が多くの若者の関心になっている。その中で、代表的な人のひとりは、まちがいなくTABLE FOR TWOの小暮代表だろう。
 対象となる定食や食品を購入すると、1食につき20円の寄付金が、TABLE FOR TWOを通じて開発途上国の子どもの学校給食になる。20円というのは、開発途上国の給食1食分の金額であり、先進国で1食とるごとに開発途上国に1食が贈られるという仕組みは何よりわかりやすい。メタボで高カロリーの先進国と、学校で昼食すら取れない貧困国が毎日の食事を通じ、ウィンウィンの"一石二鳥の関係"になるこのモデルは、国内で完結することの多い現在のソーシャル・イノベーションの状況からみれば、一歩先を行く事例といえるだろう。
 小暮さんは自由闊達で満足いく高校時代を過ごしたが、大学では理工学部をたまたま選んだおかげで、授業やゼミ、実験などルーティンが多く、そこでは自分を完全燃焼できるものがなかなか見つけられなかったように映る。そのもやもやしたものが、気の置けない高校時代の友人達と米国・メキシコをバックパックする中で、高校時代の"心の自由さ"を取り戻すようなリフレッシュにつながったように思えた。それは、「海外に出て、探していた興奮するものがあって、面白いなと感じた」という発言や、「機械工学やっていても・・・」、「4年間で、就職にむけて"同質化"させようとする」という言葉に表れる。そして、欧州において2ヶ月という長めのインターンシップしたことで自信が生まれ、豪州での大学院生活(修士課程)につながる。
 小暮さんにとって、豪州での修士課程での4年は学術研究期間だけでなく、旅や思考、そして内省の"ギャップイヤー期間"でもあり、醸成されて「西洋の価値観や考え方の習得と自分の軸作り」になり、今日の自己を形成する大切な期間になったことがわかる。
 人との出会いで魅力に感じるものは、「何か新しいものが生まれるなと感じる時」と明確に答える小暮さん。"日本発"のソーシャル・イノベーションをさらに進めていただき、私たちが海外でTFTプログラムのランチを楽しむ機会を増やして欲しい。それは、ともすれば失いかけそうな日本人としての誇りの回復にもつながるに違いない。

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