私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第3回 留学、ボランティア、そして7年間のフリーター経験を今につなげる大学教授 慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授 石倉洋子さん

慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授 石倉洋子さん 神奈川県出身。事業戦略や競争力が専門の経営学者。上智大学外国語学部英語学科卒業。7年のフリーランスでの通訳を経て、1980年にバージニア大学大学院でMBAを取得。85年に、日本人女性として初めて、ハーバード大学大学院にてDBA(経営学博士号)を取得。同年よりコンサルティング会社にて、企業戦略等のコンサルテーションに従事。92年に青山学院大学国際政治経済学部教授。2000年より一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授。11年4月より現職。著書に『世界級キャリアのつくり方』(共著、東洋経済新報社)、『グローバルキャリア ユニークな自分の見つけ方』(単著、東洋経済新報社)『日本の産業クラスター戦略』(共著、有斐閣)などがある。
 最初の留学は大学3年時。米国で1年間暮らしたが、貧困層居住密集地域「ゲットー」での福祉ボランティアを経験した。帰国後上智大学を卒業し、7年間自宅で通訳"フリーター"も経験している"筋金入り"のギャップイヤー経験者である。
(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)


海外は中学時代からの"憧れ"で、ついに大学年時に交換留学で米国へ


Q:まず、なぜ上智大学外国語学部英語学科を受験されたのでしょうか?
 とても昔なので古い記憶になりますが(笑い)、とにかく狭い日本でなく、外国に行きたい、世界で何かをしたいと思っていました。そうするとICUか上智。ソフィア祭に行って、上智が気に入りました。私は、中高がフェリスなのですが、上智への推薦制度があり、それを利用しました。

Q:大学3年時夏に留学を決意されたわけですが、なぜ行きたいと思われたのでしょうか?
また、当時の留学は、極めて難関で憧れだったと思いますが・・・。

 全然難関ではありませんでした(笑い)。当時は学園紛争の時代で、大学構内が封鎖されて、授業もなく、交換留学試験への周りの関心が低かったのです。私もアルバイトばかりしていたぐらいですから・・・。
 中学校の時から、外国に憧れていて、何しろ行きたいと思っていました。そこで、AFSやサンケイスカラシップの留学生試験も受けていましたが、受からず、大学に入学してから、夏の語学研修に行こうとお金を貯めていたのです。でも、先に研修に行って帰ってきた人を見ると、日本人だけかたまっていたせいか、英語もあまり進歩がない。これでは意味がないと思い、どうせお金を貯めていくなら留学したいと思うようになって、交換留学制度などを探していました。

Q:情報のアンテナを張っていたのですね。
 大学でESSに入っていたのですが、上智大学はイエズス会ですから男性は行くチャンスがたくさんありました。しかし女子はなかなか枠がなく、たまたま米国のカトリックの大学(カンザス州のセントメアリ大学)への交換留学制度をみつけました。学内紛争で荒れていたため、留学制度には関心が高くなかったのか、どさくさまぎれに受かって、留学できました(笑い)。


大学3年生時にゲットー(黒人居住地)で貧困を体感、ボランティアに従事


 
Q:学部3年の時、大学の交換留学制度で1年間米留学生活を送られたわけですが、70年代当時のアメリカでの生活はどんなものだったでしょうか?
 私の人生ではとてもインパクトがある経験でした。まず、私にとって初めて家を離れて生活するという貴重な経験でした。それまでも家を離れたいと思っていましたが、国内ではなかなか経済的にも難しい、でも留学すればそれができる、と思っていました。自分の力でやっていけるか試したいとも思っていました。しかし、実際いってみると、何でも一人でやらなきゃいけない。行くまでは、ある程度は英語ができると思って行ったら全然わからず、と、大変な思いもしました。米国は当時、学内紛争まっただ中で、デモがあったり学生が殺されたりしていましたが、私が行ったセントメアリ大学は中西部にあり、のどかで穏やかそのもの。殺気立ったところはなく、平和な感じでした。こじんまりした街だったので、いろいろな経験をすることができました。

Q:近著で「貧困の実態を一部垣間見た」との記述がありますが、具体的にはどのような光景でしょうか?
 セントメアリ大学で社会学を教えていた先生(元シスター)が、カンザスシティのゲットー(黒人居住地)の一角を借りて、そこに住む人々のためのセンターをつくり、社会活動をしていました。1年間の留学が終わった夏、そこに数週間居候させてもらったのですが、これがボランティア活動に参加する初めての経験でした。夏はとても暑いのですが、ゲットーの家は、貧しいから狭く、室内は暑くて家にいられない。そこで近くに住む黒人の子供たちを無料の施設、たとえば公園やプールに連れていくプログラムをやっていました。子供たちが悪い仲間に誘われたり、犯罪にまきこまれたりするリスクを少なくしようという目的もありました。小規模でしたが一種のボランティア活動でした。アメリカ人の高校生と私と二人で、このプログラムを担当したのです。

Q:留学前に上智大学で、社会学の授業が興味深く、米国で「社会変革と少数民族」のコースを取られたとありますが、当時の社会変革の意味合いは?
 Social Change and Minority Relationsというコースで、歴史を振り返り、世界各国でどんな社会変革があったか、その原動力は、などを学びました。ガンジーの話などももちろん出てきました。「少数民族」といっても意味がわからなかったのですが、米国では黒人やメキシコ人などを指していました。70年代ですから、まだ人種問題がかなり大きく、警察との衝突なども多かったのです。そのコースをとった学生は、少数民族の実態を調べるプロジェクトをしたのですが、私は元シスターの先生に教えていただいて、黒人の牧師さんにインタビューしにいきました。警察が黒人に対してどれほど差別するか、というような話も聞きました。それまで人種問題などあまり考えたことがなかったので、こうした経験はとても貴重でした。


帰国後「休学扱い」と思っていたら「単位認定」されて卒業するはめに


Q:帰国されたのは1年後の4年生の夏だったわけですが、米国留学中の単位が認定されることは事前にご存じなかった?
 知りませんでした。私はセントメアリ大学との交換留学プログラムの4人目くらいだったのですが、それまで留学した人はみな4年生の時に行っていました。私は3年生の時に行ったので、帰国後は3年生のまま、休学扱いで卒業までもう1年通学するものと思っていました。でも留学制度を担当されていた神父様(教授)が「学校のオフィシャルなプログラムなのだから単位認めるのは当たり前だ。」と言ってくださったので、帰国して半年で卒業してしまいました(笑い)。


限定的だった女子の「就活」、キャリア・イメージが持てない時代


慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授 石倉洋子さんQ:4年生の夏以降国内で、今でいう「就活」というか、会社訪問したり、入社試験は受けられた?
 日本航空など数社は受験しましたが、全滅でした(笑い)。ただ、今みたいに誰もかれも就職しなくてはならない、という感じではありませんでした。就職しない人もかなりいました。70年代の就職活動ですから、会社訪問制度など確かなく、いきなり常識試験、面接だったと思います。女子大生が勤められる対象企業が少なく、いわゆるコネ入社が多く、お役所以外は門戸が狭かったと記憶しています。

Q:挫折感はなかった?大学4年当時もたれたキャリア・イメージは?
 就職できませんでしたが、挫折感はありませんでした。私自身、キャリアや仕事のイメージもまったく持っていませんでした。高校の時から漠然と、大学を卒業して結婚しようと思っていたのです。高校の同期生の中には、就職すると言っていた人はいましたが、私はテニスばかりしていたし、社会的な意識は全くなかったといって良いと思います。


就職先はなく、"フリーター"生活


Q:卒業後は、今風にいうとフリーターであるかもしれませんが、フリーランスの通訳になる目算はあったのでしょうか?それとも「出たとこ勝負」でやるしかないという感じだったのですか?
 「出たとこ勝負」でしたね。1年間米国に行っていて、英語力が飛躍的に伸びたと実感していました。当時、英語を使うアルバイトは料金が高かったので、留学する前から、かなり英語に関連するアルバイトをやっていました。留学して、英語力が飛躍的に進歩したと思いましたから、これを使わない手はないと思いました。
 当時アポロの月面着陸などテレビで放映され、西山千さん、鳥飼久美子さんなど同時通訳が脚光を浴びていおり、同時通訳の仕事はとても華やかな感じでした。そこで、就職先はないけれど、英語を生かす道はないか、と探して、上智の近くにある日米会話学院を見つけました。そこで開講されていた同時通訳のコースに学び、同時通訳の技術を学ぶことにしたのです。


米国のビジネス・スクールの存在を知ったことはターニングポイント

Q:1978年(昭和53年)、京都で開催されたハーバード・ビジネススクール(HBS)の教授を招いてのセミナーで通訳をされ、そこで米国のビジネス・スクールの存在を知ることになった?
 そうです。ビジネス・スクールとは何か、全然知らなかったのですが、セミナーを通じて何をするところかを知ったのです。

Q:その時、HBSの教授に対し、「ビジネスで利益をあげること」に興味があるとかなり直裁的表現をされたわけですが、計算づくか、本心で思われた発言だったのでしょうか?
 本当に思っていましたから、本心です。友人が「趣味で店をやりたい」と言っているのを聞いたことがありましたが、ビジネスをするなら利益が出ないと続けられない、赤字の事業をするほど辛いことはありませんから、「趣味で商売をする」のはナンセンスだと思っていました。表現が強すぎるかもしれませんが。商売をするからには儲けなくてはならない、と思っていました。
 これはビジネスに限りません。私は、経済的に独立していなければ、自由はないと強く思っていました。自分で生活していけなければ、何を言っても誰も相手にしてくれない。だから留学したいと思った時も、自分で何とかいけるようにお金を貯めていました。


関心が"コミュニケーションの橋渡し役"としての通訳業から、「コンテンツ」そのものに移行し、再度留学へ


Q:2回目の留学になりますが、その頃通訳の限界を感じられていた?
 通訳は、コミュニケーションの手段というか、ツールです。私は、コミュニケーションの手段よりもコミュニケーションする中身、コンテンツに興味があるらしいということが段々わかってきました。通訳の仕事をする中で、中身自体が面白い。「つなげる」仕事よりも、私は通訳すべき「コンテンツ」に興味があると感じるようになりました。
 通訳は、専門家と専門家の間をつなげることに意味があり、価値があります。だから通訳という仕事は「どう伝えればお互いが理解しあえるか?」良いコミュニケーションを「どうやって確立するか?」が一番のミッションです。その責任を果たす仕事ですし、それがとても大事だからこそ高いフィーをいただきます。しかし、私は「つなぐ」役割でなく、話の中身そのものに興味があったのです。そうすると通訳としてはかなり問題なのです。
 私が通訳すると、元のスピーカーがいった通りに忠実に訳すのではなく、意味やメッセージを伝えようとするため、意訳することなどが起こったのです。
 なぜ私がコンテンツに興味を持ったかというと、いくつかの出来事に遭遇したからです。中でも、印象に残っているのがスイス人のディレクターと日本の写真家西宮正明さんがシンガーミシンのカレンダーを作った時のことです。その時たまたまスイス人のディレクターの通訳をしたのですが、両方ともがクリエーションとかディレクションの専門家で、間に入る私だけがその分野の素人。私が下手に訳そうとするより、二人が直接簡単な言葉で話した方がお互いに言いたいことがわかる、意味が通じる、私が間に入らない方がコミュニケーションできるという経験をしてしまいました。
 通訳をしている人の中には、「伝える技術」に特化して、それを磨こうという道もありますが、私はそうではない、ということがわかったのです。
 当時、同時通訳はそれぞれ政治学経済学など専門があって、それを使って通訳する人という方が多かったのですが、その中でも「伝える」方を重視して、元のスピーカーを前面に出し、自分は透明になればなるほど良いと考えている人も、そうでなく、誰の訳をしても、それは自分の訳になるといっている人もいました。
 たとえば、当時同時通訳の第一人者であった西山千さんはどちらかというとちゃんと伝える、国広正雄さんはもとが誰だろうとこれは国広の訳だと自分を前に出しておられた。またその後、ニュースキャスターをされた浅野輔さんは多分コンテンツ側の方のようでした。


7年間の"フリーター"時代に学んだことは「一流の人の素晴らしさ」


Q:7年の"フリーター生活"で学ばれたことを整理するとどうなるでしょうか?
 何より、一流の人と直接触れて、知り合えた経験がとても貴重でした。一流の人は何らかの分野のプロフェッショナルですし、とても強いプロ意識を持っています。そうした人を身近にたくさん見たことで、「個」で勝負するためのプロ意識も学びました。
 私自身、企業や組織に属すのではなく、"フリーター"として個人でやっていましたから。仕事それぞれ、その時に価値を出さないと料金をいただけない。病気をしたり、時間に遅れたりではプロとしてやっていけないことを知りました。同時に、一度仕事を一緒にした人と連絡を維持するネットワークの重要性も感じました。プロ意識を直に学んだのはその時だと思います。

Q:「一流の人と知り合った」と言われましたが、すべていい意味ですか(笑い)?それとも一流と言っていてもそうでもないこともあると解ったということでしょうか?
 いろんな分野で本当に一流の方々にたくさんお会いできました。どんな分野でもホントに一流の人、世界級の人は素晴らしいということを直接の接触から知りました。本当に実力がある人は、自分が何を知らないかを知っているので、謙虚ですが、「偉そう」にする人は二流だなと感じました。これは貴重な経験だったと思います。

Q:敢えてひねくれた質問ですが、70年代当時の女性のキャリアの選択肢として、流れから考えると、通訳会社経営、結婚、コミュニケーションのスペシャリストがあったと思いますが、そのいずれでもなかったのはなぜでしょうか(笑い)?
 私の場合はコミュニケーションの橋渡しとしての通訳よりも、伝えるコンテンツに興味があることがわかったこと。また、当時結婚相手もいなかった(笑い)こと。それから今まで体系的に学んでいないし、知識も能力も不足しているけれど、ビジネスは凄く面白そうだと思ったことがあります。それまで、ビジネスの訓練を全然受けてなかったのですが、たまたまビジネス・スクールの教授に出会って、ビジネス・スクールはどうか、と勧められ、行くことになったのです。


親の理解があった


Q:当時女性としては結婚とか、親御さんからプレッシャーがありましたか?
 それはあったでしょうね。いろいろお見合いとかもしましたが、どうしても結婚しなきゃならないというプレッシャーはありませんでした(笑い)。私の両親は、何をいっても決めたらやると思っていたのではないでしょうか。ビジネス・スクール留学も合格してから知らせました。それまでは相談していません。合格したので、後数週間で準備して行くと言いました。

Q:「えっ、また留学か?」と親御さんはびっくりされたでしょうね(笑い)。
 両親がびっくりするようなことをするのは、これが初めてではなく、もっといろいろありましたから(笑)、そんなに驚いたわけではなかったと思います。いつもそうでしたから。
       
Q:海外大学院のMBA留学という決断は、当時としては斬新というか、日本の女性としてもユニークだったと思うのですが、ためらうことはなかったですか?
 女性のMBAは一般的に少数派でしたが、日本の女性としてはごく少数で、その意味ではユニークでした。確か、初めての有名ビジネス・スクール卒業生は、ハーバードの小泉衛位子さん、スタンフォードの加藤道子さんといったところです。加藤さんは、マッキンゼーの先輩です。私が受験した頃は、女性に限らず応募者が少なく、GMAT (Graduate Management Admission Test)は数十人しか受けていなかったと記憶しています。


「時間・順序・スピードに対する感度」を上げることが"察知能力"向上に


Q:MBA留学の決断に、「今が潮時」「潮目が変わった」という表現が著書にあったのですが、ピンと来る察知能力をつけるには、若者はどうしたらいんでしょうか?
 「どうやって、つける」というハウツー話ではなく、時間、順序、スピードに対する感度だと思います。自分がこれだと思った時、ある程度「いい加減」でも良いとすることがコツです。すべてがそろってからやろう、と思わず、まあこのあたりで試してみよう、それでいいやと気楽に考えることです。
私は基本的に「今」が大事だと思っています。今耐えていれば、将来こんなに良いことがある、というのはあまり信用しません。これだけ変化が急速な時代、明日何が起こるかわからないからです。今回の東日本大震災がそのひとつですが、こんなことが起こるとは誰も予想していませんでした。ですから、「これだ!」と思ったらその時がチャンスであり、そこですぐ行動を起こすのが良いと思います。私自身、待っていたら好転する、もう少し様子を見ようとかあまり考えません。また、周りのことは気にしません。周りが言うからこうしよう、周りが反対するからやめようとか思っていると、自分の人生ではなくなってしまいますから。

Q:その根底にあるのは準備を怠っていないということでしょうか?
 ある意味、そう考えられるかもしれません。自分ではそれほど「大計画」をたてて、論理的に周到に準備しているというわけでもないので、準備を怠っていないといわれると、少し違和感があります・・・


停滞期からの突破口は教授に悩みを素直に打ち明け相談したこと、一方、「個人の自立」も大事


Q:30歳直前で修了されたバージニア・ビジネススクールでのご苦労は? また、ブレークスルーになった出来事は何かありますか?
 クラスではケーススタディを毎日3つずつするので、1週間に100時間以上勉強が必要といわれるほど膨大な量をこなさなくてはなりませんでした。コースに合格するためには、クラスでの貢献が不可欠でした。私はあまり参加できず、このままではやっていけない、これではまずいと思った時に、その悩みを担当教授に話し、どうしたら良いか相談しました。
 アメリカは「個人が自立することが基本」の社会なのです。自分が問題を見つけたら、自分が率先して解決しなくてはならない。その考え方が徹底しています。日本は周囲が状況を察して、遅れている人に何か助言してくれたり、助けてくれたりします。米国では「問題がある、その問題を解決しようと手を打たなければ、大変なことになる、と思ったら、自分でなんとかする」という社会なのです。
 そこで教授に相談しにいって、アドバイスをいくつかいただきました。その通りに準備していったら、論理が通った発言をすることができました。苦労してこの方法を続ける中で、ケーススタディは「ひとつの正しい答え」があるのではなく、「結論へのロジックが大切」なのだ、それを学ぶ手段なのだということを知りました。
 その後も、たまたま私がクラスで一番先に指名され、結論と分析結果を15分位説明しなくてはならないという出来事がありました。その時、幸運にも前の晩、自分なりの結論とその理由づけまで考えていたので、何とかロジカルに説明することができ、「これだ!」という実感がありました。その前の晩、もう準備をやめて寝ようかという誘惑に惑わされず、一応結論まで考えておいたという幸運以外の何ものでもないのですが、この経験が「ここでやっていける」というひとつの自信、そして私がビジネス・スクールで生き残る転回点になりました。あの時寝てしまって、指名された時にしどろもどろで自分の意見をいえなかったら、挫折していたと思います。そうしたら、今こんなことはしていないでしょう(笑い)。


ビジネス・スクールでは「結論へのロジック」を満たして克服


Q:セレディピティ(偶然から幸運を掴み取る能力)があり、そのための準備をやっておられたから?
 何とか効率的な準備のやり方を学んで、ビジネス・スクールで生き残ろうとは思っていましたが、ちょうど良いタイミングで指名されたという「幸運」が大きいと思います。私の分析は、一部間違った計算などをしていましたが、方向としては間違っていませんでした。「結論へのロジック」ということはほぼカバーしていたからです。
 この幸運な経験から、ビジネス・スクールで生き残るためのコツ、勘どころがわかってきました。事業戦略やマーケティングは将来のことを考えるわけですから、どうなるかわからないのです。「私はこう考えます、それはxxxという理由から」とストーリーを創って、それを議論するわけです。ですから、みんな違うことを言うといろいろな見方ができ、議論が白熱するのです。そこがケーススタディの一番の魅力だったのです。

Q:「結論へのロジック」というのは、プロセスが大事ということですか?
 自分なりの結論がないとダメですが、どうやってその結論に至ったのかというプロセスも大事です。「私の意見はこうです。どうしてかというと」というロジックがはっきりしていることが大事なのです。結論は自分の「判断」ですから、まず「自分の意見」を持っていないと全然相手にされません。自分の意見を持つことの重要性は、最初に交換留学でセントメアリ大学に行った時に痛感しました。どんなことでも、周囲が「あなたはどう思うか」と意見を聞いてくるのです。日本ではこうしたことはほとんどなかったので、最初はとても戸惑いましたが、「正しい答え」を求めていたり、そもそも「正しい意見」があるわけでない、相手は私がどう思っているか、を聞いているのだということがわかってきました。ですから、自分の思う所、極端にいえば何を言ってもいいわけです。この習慣は最初に留学した時に学びました。


MBA取得後に、企業に就職かドクターコース進学かの決断


Q:MBA卒業時の就職活動は葛藤があった?
 葛藤はありませんでした。卒業して企業に勤めようと思って、面接も多数受けました。不合格の手紙も多数もらいましたし、内定ももらいました(笑い)。内定をいただいた企業の中には、多国籍企業の日本支社の仕事もありました。MBA取得後すぐつく仕事として良くある、Assistant to Presidentというような仕事です。これはMBAをとってすぐする仕事としてはとても恵まれているのですが、良く考えてみると、日本支社でこうした仕事について力が出せるか、にはかなり不安がありました。当時日本ではMBAはあまり知られていませんでしたし、日本人、それも女性、そしてMBA取得してすぐという立場で、業績をあげられるとは思えませんでした。本社と日本支社の間に挟まったり、外国人のトップと日本人社員の間にあって、かなり難しい立場になるという心配がありましたから。
 また、ビジネス・スクールに行く前から、将来大学で教える仕事をしたいという希望も持っていました。そこで博士課程に行くことを考えたのですが、当時30歳近かったので、ドクターコースに行くなら今しかない。待っていたらこのオプションはなくなってしまう、将来また得られるものではない、と思いました。ビジネス・スクールの先生たちとはいろいろ相談して決めましたが、米国の状況を知らない両親にはそれほど説明もしなかったと思います。

Q:2年間の学費は?
 MBAの2年間は貯めていた私のお金で賄えましたが、いろいろなスカラシップもいただきました。

Q:その後、帰国せず、ハーバードのPhDでなく、経営学博士(DBA)コースを選ばれた理由は?
 ハーバード・ビジネス・スクールでは、当時、博士課程の学生のほとんどがDBA志望でした。実際、ビジネス・エコノミックスのPhDはあったのですが、私は、学部時代、経済学を専攻していたわけではないので、それは考えられませんでした。企業経営に関心がありましたし、最初はマーケティング専攻で始めました。


キャリア形成のポイントは、 "どういう人生を送りたいか"に尽きる


慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授 石倉洋子さんQ:30代半ばで DBAを取得され、その後経営コンサル、マッキンゼーに在籍のまま大学院講師兼任、療養中のご主人を看護しながらの、大学教授転進とキャリア転換されるわけですが、キャリア形成に関しての重要な要素・ポイントとは?
 要するに自分はどういう人生を送りたいのか、何をしたいのか、を考え、それが実現するような能力をつけることです。また、仕事とプライベート、家族のバランスをどうするのか、どんな人生が理想か、仕事は、家庭はと考え、意思決定していきます。
 仕事については、自分の能力でやっていけるのか、が鍵になります。経営コンサルティングはUp or Out(昇進するかやめるか)が徹底されている世界です。ある程度やって実績があげられないと、辞めた方が良いといわれます。自分の実力が常に評価されているわけです。プロジェクト毎に、終わった後、評価セッションがありますが、「このプロジェクトでの自分の仕事を評価すると、どの程度か」とリーダーに聞かれます。
私も最初のうちは自分の実力が全くわからず、「これくらい」と答えたら「その半分位しかやっていない」とリーダーに言われたことがあります(笑)。そうか、自分の実力はこの程度なのかと思いましたが、何とかそれでも自分の力を磨いて自分しかできないことを見つけようと苦労しました。実際、経営コンサルティングの会社では、お客様が必要としている新しいタイプのサービスを考え、それなりに居場所は見つけることができました。しかし、このままコンサルティンで力が発揮できる、パートナーになれるという将来像は持てませんでした。「このままいても将来はなさそうだ」と感じました。周囲には私よりもっとすごい人がいる、信じられないほど良く働く人もいる、仕事の要件と自分の力、家庭における役割などを比べてみて、キャリアを転換したのです。その見極めは自分でしました。


「英断と無謀」の違いは、新しい機会への「準備」の度合いで決まる


Q:直感的に「これはよさそう!」と思った時の行動の、「英断と無謀」を分けるポイントは ?
 私は、新しい機会が開かれたときはそれほど深く考えずに試してきました。同時に、機会が来るかこないかは別として、手段(資金)や力(英語等基本的な力)をとりあえず身に着けよう、つまり、準備をしていたことになります。
 準備をせず、事実に基づかずに、希望的観測で「こうなったらいい」といっていても実現しません。これは「無謀」といって良いかもしれません。実際、希望的観測だけからなる事業戦略や工程表をつくっている企業もありますが・・・。
高い志をもって、自分の到達したい目標を明確にすることは、とても大事です。夢がなければ、それに到達する第一歩が踏み出せませんから。その場合、目標や夢は少し背伸びするくらいが良いと思います。客観的に自分の能力を知って、それでできることだけを目指していたのでは、夢は実現しません。また目標に至る道をあまり固定的に考えて、それ以外は受け付けないのも問題だと思います。思いもかけない所から機会が登場したり、その機会をとらえたら、新しい世界が拓かれることもありますから。こちらは「英断」になるのでしょう。
 アーティストやスポーツ選手の場合は、生まれつきの能力がある程度必要ですし、小さい時からやってないと世界で戦うのはなかなか難しいです。
キャリアを考える場合カギになるのは「自分はどういう人になりたいか?」ということだと思います。ある分野でそれなりに知られた人になりたい場合は、生まれつきの才能も必要ですし、かなりの時間もかかるし、膨大な努力を続ける必要があります。それだけの才能があるのか、努力をする準備があるのか、時間があるのかを考えてみると、自分で出来ること、出来ないこと、出来そうなことがわかります。
 子供の時は非現実的な夢を持っています。それがすばらしいのです。その夢を追って実際にやっていくと、だんだん自分というものがわかってきます。好きなことであればいくらでも努力できますし、苦労とも感じません。好きでないこと、うまくできないことは努力を続けることができないこともわかってきます。
 私自身は、常に後悔しない人生を歩みたいと思っています。だからもっとやりたいことがあると思って死にたい。時々、「私、ホントはこういう人になりたかった」とか「ホントは本が書きたかった」という人がいますが、こんなことをいう人生はいやです。「今」を大切にする。機会があったらやってみる。やってみると失敗することもある。やって失敗したら、これ以上時間無駄にしなくて良かった、と思う。エジソンの言葉にもありますが、失敗は何をやらなくていいかを知る貴重な体験だということです。


「オープン化」「ユニークさ」「ORをAND」の意識でキャリア形成創出


Q:先生が提唱される企業や事業の戦略シフトである「オープン化」「ユニークさ」「ORをANDにする」を個人のキャリアに適用できるという考え方の根拠は?
 今の事業環境を見ると、世界は「オープン化」し、力のシフトが起こり、トレードオフがなくなりつつあります。このような環境では、ベストの正しい事業戦略があるのではなく、企業は自分の強みをいかした「ユニークな」戦い方ができます。個人も同じように、国境や業界がオープン化する中、自分しかない「ユニークな強み」を見出し、それを評価してくれるキャリアの「場」を広く求めることができます。私は誰でも「ユニークさ」を持っているという強い信念・確信を持っています。自分のユニークさをどう探すか、また、それを磨くかということです。そして、そのユニークさをいかすことができる、磨くことができる、それを「買ってくれる」場所を探すことです。
慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授 石倉洋子さん ユニークさを探すためには、「ORをAND」にする組み合わせを考えることも重要です。世界がオープン化しているのにもかかわらず、今までの業界で我々にはこういう強みがあったという固定観念にとらわれてしまっている会社もあります。個人も同じで、「優秀な人」とはこういう人だという今までの尺度にとらわれてしまうのです。しかし、今、世界は大きな変革の真っただ中にいます。境界がオープン化していますし、力のシフトが起こっていて、トレードオフがなくなりつつある。世界は多極化しつつあり、昔の秩序がなくなり、ある意味では混乱しています。
 こうした時代に私たちは生きているのですから、もっと広い所に目をむければ、自分の強みを全く違う観点からみることができます。新しい分野に行ってみる、試してみる、自分自身をオープン化することによって、自分の新しいユニークさを見つけるのです。今までの考え方とは違うキャリア戦略の考え方、方向の大きなシフトが必要です。だから「戦略シフト」という言葉を使ったのです。

Q:ところで、先生ご自身の強み(ユニークさ)は何ですか?
 私自身のユニークさは、何しろ常に新しいことをやりたい、新しもの好きということでしょう。新しい試み、興味をかきたてられることにチャレンジするということでしょう。今慶應に移ったばかりですが、今まで知らなかったテクノロジーやデザインなどの基礎コースを1年生と一緒のクラスに出て学んでいます。また、常に新しいことをやっているところに行きたいと思っています。

Q:価値観として大事にされてきたことは?
 常に良い面を見よう、探そうとすること、常に前向きでいたい、YES(肯定)から始める、年齢や肩書などとは関係なく、誰でも同じように対応しようとしていることでしょうか。


チャレンジ精神旺盛な若者はいる


Q:若者は内向きというか、保守的になっていませんか?
 統計的には日本からの留学生や海外に長期研究に行く人が減っていることは事実ですし、企業では海外で働きたくないという若者が多いという話も聞きます。しかし、私の周囲にいる若者はそうでもなく、チャレンジ精神旺盛な人が多数います。
 ただ、チャレンジする前にやめてしまうというケースを時々見ます。たとえば、ある学生が奨学金の申請のためにサインを求めてきたのですが、奨学金はもらえないかもしれないから申請を辞めようかと言ってきました。取れるか取れないかわからないうちに辞退するのではなく、申請だけはやった方がいいと強く押しました。
 私自身も昔MBAの学生の時に同じようなことを考えたことがあります。就職活動で面接を多数していたのですが、内定が多数来たらどうしょうと悩んで、ビジネス・スクールの先生に相談したことがあります。「まず内定もらいなさい。」「内定もらってから考えろ!」と言われました。(笑)


最初の学部時代の米国留学が"人生"の原点


Q:若者は、先生が背中を押すことを知ってやってくる(笑い)?
 私の周囲にいる若者は、私が「転職や新しい分野を試すことが良い」と考えていることを知っているので、「新しいことをやろうかな」と思っている時に私の所に相談に来ることが良くあります。「自分では何がしたいのか、何が心配なのか」と聞いて、新しいチャレンジをする時の心配ごとを解決するようなアドバイスをすることが多いです。
 転職や留学など、大きな意思決定をする時、私はオプションを並べて、プラスとマイナスを考えるという分析的な考え方はほとんどしません。自分に正直に、自分だけで本当にやりたいことはどれか、と考えたらどうなのか、を決めます。それから、その道をとった時のリスクや心配ごとをリストアップして、そのリスクを少なくするような方法を考えるわけです。
 私にとっては、大学3年でアメリカに行ったことのインパクトがとても大きく、それ以降の自分の人生の原点になっています。米国のリベラルアーツの女子大に行ったのですが、学生は活発だし、リーダーシップもあるし、多数の才能あふれる人に直接触れました。その経験から、目標を持つ、それに向かって行動する、そうすれば、思いもかけないようなことができる、と確信を持つようになりました。外国でも一人で何とかやっていけるという自信もつきました。何しろ自分が体験することが大事です。自分の目で見て、耳で聞いて、現場に触れて、体感することです。行動してその結果を自分自身で知ると、大きな自信につながります。
 今は、両親など大人が進むべき方向のレールを敷いてしまい、それ以外のことをやらせない。また危ないから、と子供や若者を守ってしまい、自分自身で体験する機会を奪ってしまっています。子供に質問しているのに、親が答えることが良くありますが、あれほどナンセンスなことはないと思います。
 何でもやらせてみて、自分で経験させる。問題ない道をいかせようとするのではなく、ひどいけがなどをしないようにだけみている。その環境をつくればよいのです。失敗しても自分で立ち直れるような場を創る。よほど危険な時だけ助けるのです。自分で経験するとそれから学び、次の時は考えて行動するようになるのです。経験を積んでいくと力が磨かれます。
 よく若者は自信がないという話をききますが、自信は他の人には与えられません。「自信」とは「自分を信頼する」ことですから、自分でやってみて、こういうことができると実感としてこそ持てるのです。
 世界が変わりつつあるというのも、若者が自分で世界にいってみて自身で体感することが必要なのです。私や他の人から聞いた話ではダメなのです。「世界には、アジアにはこんなにエネルギーがあるのだ」と自分で体感する。それができるように周りは支援する。そのためのインフラや環境を作ればいいのです。
 震災復興についても、これから20年、30年生きるのは若い人たちなのだから、彼らが主役になるべきで、20年後にいるかわからない60歳以上の人たちはその知識や経験を使ってサポートすべきだと思います。主役となって考えるのは若い人たち、自分たちで自分たちが生きる社会を創る。それに知識や経験が必要であり役に立つのであれば、それをサポートすれば良いと思います。なぜ新しい日本を創る議論を年寄りがするのか?もう一度問い直したら良いと思います。若い人には、経験がない、知識がないといわれますが、逆に考えればしがらみがないということでもあります。今のように、世界が大きく変わりつつある中で、今までの経験はほとんど役にたちません。若い人の方が経験もなく、しがらみがないので、自由に発想することができるのです。


若者には、限りない可能性のある時代だと思う


Q:高等教育にいる、あるいは大学めざしている若者に、キャリアの視点から、アドバイスをいただければ?こうすれば、よかったという反すうかもしれませんが・・・
 若者には、今までの枠にとらわれない、限りない可能性が拓かれています。生まれた国、今まで住んでいる場所、分野にとらわれず、広く考えることができます。そのためには視野を広く、多くの経験を積むことです。自分で経験することから学べることがたくさんあります。臆病にならないで、自分でやってみる。悩んでいてもしょうがない。新しい世界を求めて、どんどん行動に移す。そうすると、世界の一流に触れる機会も得られますし、自分の力やポテンシャルを知ることができます。自分では凄いと思っていても新しい分野にいってみたら、誰も相手にしてくれない場合もあるだろうし、逆に凄いとこかから声がかかる場合もある。何もしないといつまでもたっても始まらないし、自分の力もポテンシャルもわからない。失敗したくなければ何も新しいことをやらなければいいのですが、それでは人生おもしろくないと私は思います。

Q:最後に、慶応に移られたところですが、先生の最新のテーマは?
 KMDは、テクノロジー、デザイン、マネジメント、ポリシーの融合を目指しています。そこで、私は、プロデユーサーとして、若者の力、日本の長所を世界に発信していきたいと思っています。
 最新のテーマは、「世界の課題解決と共通価値の創造」です。
 共通価値の創造(Shared Value Creation)とは、エネルギー、資源、環境、貧困、教育など世界の課題を、政府、企業、市民団体が協働して解決しようという最近の動きの一部なのですが、私自身は政府(官)より企業(民)、日本より世界、若い世代が中心という3つにフォーカスしています。
企業の立場から、どうすれば企業のユニークな強みや資産をいかして世界の課題解決に貢献できるか、そして、長期的には企業の利益に結び付くか、を研究しています。「戦略シフト」はその考え方を書いたものですが、それを実際企業で試したいというのが今の研究テーマです。
 航空会社のフライトを活用して、非営利の組織やボランティアを助け、航空会社のブランド構築につなげるという若い人のプランを応援するプロジェクト、日本発のNPOであるTable for Twoをグローバルに個人に展開してスケールアップするプロジェクト、個で勝負できるグローバル人材を開発するリアルとバーチャルな「場」、オープン・プラットフォームを創るプロジェクトなどを企画しています。欧米を初めとして各種の教育のためのオープンなプラットフォームが開発されているので、日本でも同じように、世界の多くの人がともに学べるようなプラットフォームをつくりたいと思っています。


本日は、示唆に富むお話をありがとうございました。


【インタビュー後記】


"普通の女子大生"から一流の知識人・教育人への過程を、失敗や挫折を交え包み隠さず披瀝できる"強くしなやかな"人

 石倉先生には、"内向きで元気がなく、だけど日本の未来を託すしかない"次世代の若者に向かって、早々に語りかけていただきたいとお願いした。私には連載初の女性の先達は、米国留学時にボランティア体験もされている石倉先生しかないと考えていた。それは、「留学とボランティア」の掛け合わせは、ギャップイヤーの一つの要件だからだ。先生の事情は4月下旬は一橋から慶応に大学を移られた矢先、しかも5月のGW明けにはスイスに出張される最悪のタイミングでのオファーとなってしまった。それにも関わらず、「時間を見つけます」と、即刻研究室がある日吉から丸の内の東京21cクラブにお越しいただいた。まさに、"電光石火"、このインタビューで語られた「時間、順序、スピード」を体言するような判断だった。お読みになったらお解かりのように、そのときどきの重大な決断時の心のありさまや考え方を惜しげもなく、しかもある意味赤裸々に指南されている。この先生のしなやかさと同居する強靭さは何だろうかと一晩考えた。
 それは、石倉先生は"現在進行形"の方で、若者に伝えるべきメッセージはこれからもずっと続くからだと理解した。その先生が"キラキラ"した目で言う。「私の原点は、(親元離れた)最初の米国留学時の体験です」。先生だって、失敗の多い"普通の"悩める女子大生だった。適職や天職も最初からこの世に存在するはずもない。そして、なければ自分で切り開いて創ればよい。若者には、石倉先生からそんな人生の一つの"お手本"を感じ取ってほしい。
 そして、いま若い皆さんにも将来"人生の蹉跌"を惜しげもなく真摯に語りかける、そんな懐深い素敵なおとなになってもらいたい。

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