私のGAP YEAR時代

今、第一線で活躍されている方々に、「青春時代の麦踏期間」にあたる「GAP YEAR時代」を振り返っていただきます。
そこには、先達たちの人生の現在の自己形成に重要な影響を与えた価値観創りや生きる術(すべ)など
個々の人生にとっての大きなターニング・ポイントが隠されているはずです。

第2回 マグロ漁船に「インターン」として乗船していた大学教授 北海道大学観光学高等研究センター教授 敷田麻実さん

北海道大学観光学高等研究センター教授 敷田麻実さん 石川県加賀市出身、高知大学農学部栽培漁業学科で水産業を学ぶ。1983(昭和58)年から石川県水産課に15年間勤務した。その間に、1990年、オーストラリアのジェイムスクック大学大学院に留学し、沿岸域管理学を専攻する。帰国後、金沢大学大学院社会環境科学研究科博士課程で博士号を取得する。1998年に石川県を退職し、金沢工業大学助教授、02年から教授となる。観光学の大学院設立を受けて07年4月から北海道大学教授に就任する。05年度から野生生物保護学会会長となり、2期6年会長を務めた。専門はエコツーリズムと地域マネジメント。趣味は、写真撮影と山歩き、天体観測と多彩。
 "ギャップイヤー"という言葉が日本でほとんど知られていなかった1980年、「敷田青年」は大学3年時に休学した。赤道直下での遠洋漁業に、たった全身26メートル、全幅6メートルに満たないマグロ漁船に乗船し、15人の漁師とともに旅立った。今風にいうと、70トンの冷凍庫が満載になるまで帰国できない、南十字星下での海外「漁師インターン(操業49回に及ぶ就業体験)」だ。個人スペースは畳一枚もない男だけの世界。生傷耐えない、作業連携を誤ると死にもつながる過酷なマグロ漁師体験という異色の経歴を持つ大学教授。「私のGAP YEAR時代」企画第2回は、敷田教授に、破天荒な大学生時代の体験が現在のキャリアの源流となっていることを語っていただく。

(聞き手:砂田 薫 JGAP代表理事)

Q:石川県加賀市出身の敷田先生は、遠い四国の高知大学(農学部栽培漁業学科)に進みました。理由があってのことだったのでしょうか?
 進学先には特に思い入れや計画性はなく、南の、どこかあったかい所に行きたかったので、結局、高知を選びました。当時の北陸はほんとに寒くて、天気も気持ちもどんより曇りがちだったんです(笑)・・・。どうしても暖かくて明るい地方に行きたくて、高知とか沖縄とかの「南方」を探しました。でも、都会へ行く気はなく、田舎であったかいとこがいいなと思っていました。


Q:進学先の選定について何か考えていたことはありますか?いろんな学部がある中でなぜ水産だったのでしょうか?
 別に、水産にこだわったわけではありません。海に関係があるところへ行きたかったというのが正直なところです。海洋学部、海洋関係の商船大学とか・・・。農学部の水産専攻を受験したのですが、水産なら海に関係するだろうと思っていました。


"居場所"が見つけられなかった大学生活


Q:その後、大学3年生の時にマグロ漁船に乗ったわけですが、大学生活に不満があったのでしょうか?
 思っていた大学生活と現実には、大きな「ズレ」がありました。大学の勉強に興味がなく、自分の居場所がないのです。同級生はみんな真面目で、どうも私と合いませんでした。水産に来る学生は、今もそれほど大きく変わらないと思うのですが、魚釣りが好き、生き物としての魚が大好きで熱心です。そういう学生がクラスの8割で、ほとんど「さかなクン」の世界です(笑)。あとの1割は家業が水産関係という学生、そして、最後の1割は何となく来ちゃった私のような学生(笑)。魚が特段好きなわけでもなく、実家が漁業でもなく、話が噛み合わない。クラスではいわば「マイノリティ」でしたね。


Q:マグロ船に乗船できたのは、水産試験場でのアルバイトがきっかけですか?
 きっかけというよりも、乗船を待っている間に水産試験場で調査のアルバイトをしていたんです。当時いきなり希望する私を引き受けてくれる船がなかったので、時間待ちのイメージでした。当時は、職安(現ハローワーク)で探すというより、人の紹介で乗るのが漁船員への道だったんです。
 大学の調査船の船長さんがもと漁師だったので、いい船を探してくれないかと頼んでいました。「半年待ちながら、つなぎでバイトするなら、他の仕事より水産試験場に行ったらどうだ」という話でした。その助言を受けて1日船に乗って戻ってきたり、船に乗らなくても海の近くで作業する半年間を送り、そこで随分慣れましたね、ロープワークとかですね。船に慣れ、結果的によい準備になりました。


自分を説明する基礎づくりが "マグロ漁船"乗船


Q:マグロ漁船に乗船し、漁師をした時のいきさつ、きっかけ、当時の想いってどんなものだったのでしょうか?なぜマグロ漁船に乗ろうと思ったのですか?

北海道大学観光学高等研究センター教授 敷田麻実さん いくつか理由はあったのですが、私はクラスの少数派で、専門に興味もないので、同級生からは「低く」見られていると感じていました。何にもないんですよ、クラスでも話に参加できないし、2、3人そういう同級生はいるのですが、そうかと言って、お互い話すわけでもなく・・・。クラスの主流派の人たちは"生き物好き"だから授業や演習で生き生きしている。好きなところ(大学)に来て、好きなことを勉強しているんです。うらやましかったですね。しかしクラブ活動に打ち込むこともできず、他の特技も特徴もない学生で、それに反論もできなかったのが当時の私でした。不満はあっても大学を辞める勇気はなかったし、ただ悩んでいました。そのために当時は、生活自体も荒れていたというか、うまくいっていなかった。これといった目的が定まらないので、張り合いのない大学生活でした。
 その時に、結局、自分に何も「誇るべき」特徴ややりたいことがないことに気がつきました。「ないこと」に気がつくというのはすごいことで、何とかしなければならないと焦ります、しかし、それを大学での勉強で何とかしようとは思いませんでした。むしろ、同級生が持っていないものを身につけようという気持ちがありました。自分にある種の「ハク」をつけなきゃいけないと思ったんです。それが乗船のきっかけのひとつでした。


Q:今の大学生と共通の部分がありますね・・・。
 やぁ、今の学生の状況はよくわかりますよ。学校行っても共感できる友達はいないし、同じテーマで盛り上がって議論できることもない。日々は淡々と進んでいくし、自分が認められる「世界」はない。この日常がこの先も続いたらどうなるんだろうという「不安」の中にいました。華々しい学生生活ではなかったです。
 今と違って当時は家でインターネットに没入したり、オタク化して狭い世界での安心を得にくく、引きこもれる環境はなかったのですが、今だったら私も同じようにしていたでしょう。しかし、大学の寮に住んでましたから、部屋にこもることも難しく、寮で痛飲したりの「高吟放歌」で、ほとんど勉強しなかったですね。前半の2年間は・・・。


Q:マグロ漁船への乗船には「居場所探し」という意味があったということでしょうか?
 今冷静に考えると、居場所というより、自分が自信を持ってちゃんと自分を説明できる「基礎」がほしかったのだと思います。


Q:念願かなって乗せてあげようという船主さんが見つかったんですね。
 大学3年の8月末に適当なマグロ漁船は見つかり、室戸(高知県)から出漁すると知らせがありました。


Q:「素人」の大学生が漁師として乗船することは、珍しいことでは?
 10年ほど前に同じ専攻の先輩が乗ったことは知っていましたが、なかなかいないですね。世間一般では、マグロ漁船は厳しい労働で、つらい仕事が続くと思われていて、実際そうでしたが、乗る前から「人が好んで働く職場ではない」と聞かされていました。
 しかし、マグロ船というのは当時はまだ高知の漁業において、シンボリックな存在でした。厳しい職場であるからこそ、挑戦しがいがあると思っていました。そこで務まるなら大丈夫だと。でも、見聞きしていることと現実は大きな違いがありました。


Q:大学生とはいっても、マグロ漁船の実際の漁師ですね、甲板員だった?
 もちろん見習い船員です。


Q:乗船してからの具体的な仕事って、どんなものだったでしょうか?
 マグロ漁船の基本的な漁労作業はひととおりやりました。見習いというのは形式的なもので、しばらく習った後に、ひととおりのことをやれるようになるので、一般の漁船員と同じことをやります。もちろん、航路を決めたり、漁場を決めたりなど、幹部船員のやる仕事はしませんが・・・。


退学でなく、休学を容認してくれた教授の存在


Q:30年前に大学を休学して乗船したわけですが、当時の周りの目はどうでしたか?
 学生アドバイザーの教授が、「休学してもいいよ、退学するのではないから」と比較的簡単に許してくれました。「さしたる理由のない休学などは、もってのほか」などとは言わずに認めてくれた。今でもあの先生はえらかったと思います、恩人です(笑)。しかし、両親にはちゃんと承諾をもらわず休学してしまいました。父も母も心配したと思いますが、息子の勝手な「反抗」を許してくれたので感謝しています。


Q:「退学」か「休学」、そこに大きな岐路があったんですね。
 まず、いったん大学を休学して、「流れを変えたい」という気持ちがありました。マグロ漁船に乗りたいから大学を休学したのではなく、いったん「中断」したいから、休学したのです。そしてそれがマグロ漁船の乗船につながった。大きな目的がないと休学してはいけないのではなく、とりあえず休学し、本当にしたいことを探してもいいのではないでしょうか。ちょっと危ない考えかもしれませんが(笑)。


Q:船に乗ることが決まった時、友人、同じ学科の人達の目はどんな感じでしたか?
 クラスに2-3人の友達はいましたが、実は友達はほとんどいなかったので、主流派の学生たちからは、「あいつ本当に行っちまった」という話にはなっていたそうです(笑)。
       

Q:マグロ漁船への乗船について、ご両親にはいつ報告されたのでしょうか?
 乗船後に、寄港先のグアム島から電話で知らせました。なぜかわかりませんが、マグロ漁船への乗船には親の「許可」をもらっていくものではないと思っていました。


Q:それにしても、マグロ漁船とはすごい決断ですね(笑)・・・。
 まぁ、今から考えるとすごいですけど、当時はあまりすごくはないと思いますよ。大学も何年も通っていた人もいたし、ブラブラしてる人もいたし、途中で消える人もいましたし、もっとゆるやかな社会でした(笑)。


公務員になったのは、"マグロ漁船"体験後の高揚感と結婚願望から


Q:卒業して、石川県庁の水産課で仕事に就くことになりますが、なぜ県庁だったんでしょうか?

北海道大学観光学高等研究センター教授 敷田麻実さん マグロ漁船に乗ると、「現場は過酷だから支援が必要だ」「漁業を何とかしなければいけない」という「使命感」に酔ってしまいます。そしてそれを実現するには、水産関係で勤めたいと思うようになりました。マグロ漁船に乗る前は、自分の興味や関心でなんとなく仕事が決まると思っていましたが、乗船後は、「何かしたい、社会貢献したい」という、積極的、逆に言えば「舞い上がった」気持ちになっていました。しかも、当時私は好きな彼女と結婚したかったので、手っ取り早く結婚するには就職が必要だと思っていて、案外すんなりと公務員を進路に選びました。
 ところが、都道府県の水産試験場の職員は、当時は倍率が高く採用されにくい職種でした。その点では、石川県職員に水産の専門職員として採用された私は幸運でした。ただ、高知大での主流派学生たちに反抗して、当時の私は「(現場のことがわからない)役人(公務員)になるのは、水産を学んだ者としておかしい」とまで公言していたので、今でも主流派の同級生には「裏切り者」とか、「お前はひどい」と言われます(笑い)。
 
 水産試験場でしっかり研究して、自分が見てきた現場の人のために働こうと思っていました。理想を追う、私は漁業者のために一生懸命やろうと、マグロ漁の体験で"志"が強固になっていました。ところが、水産課では研究や現場ではなく、因果なことに水産行政の仕事をする「お役人」の職場に配属されます。当時の課長がそう決めたからです。しかしそれでよかったのだと今は思っています。


ロータリー財団社会人奨学生として、豪でも「ギャップイヤー」経験


Q:1983(昭和58)年から、石川県水産課に勤めて7年後の1990年にオーストラリアのジェイムスクック大学大学院に留学のために渡豪、これは石川県庁の仕事で行ったのでしょうか?
 それもまた「ギャップイヤー」でした(笑)。水産課の仕事はそれなりに楽しかったし、よい職場仲間にも恵まれたのですが、何か物足りないと焦りを感じていました。その悶々とした中で、仕事で興味を持っていた海の管理、「沿岸域管理」というテーマにとても惹かれたのです。
そこでいろいろ考えた末、当時国内にはこの分野専攻はなかったので、海外で沿岸域管理を学ぼうと考えたのです。
 そしてロータリー財団の奨学生制度にエントリーし、奨学金を得たので、仕事を1年間休んで派遣してもらいました。当時の石川県には、公的な留学制度というのは、県立病院の医師のケースぐらいしかなかったのですが、無理を聞いてもらえました。あの時代の地方公務員としては異例の措置でした。


Q:なぜ、オーストラリアだったのでしょうか?
 ロータリー財団奨学生に選ばれてから、アメリカやカナダの大学を調べたのですが、最終的に、留学先はオーストラリアにしました。オーストラリアは学生時代に、マグロ漁船で得た資金で1カ月滞在して馴染みがあったことと、グレートバリアリーフが世界自然遺産になってからの沿岸域や海の管理での評価が高かったからです。より先端的な研究ができるアメリカに行く選択もありましたが、アメリカに行ったら、すごい人たちの中で埋もれていたでしょう(笑)。人の行かないところに花はあります。
 結局、オーストラリアのジェイムスクック大学の大学院に留学し、グラデュエート・ディプロマという資格を目指して頑張りました。仕事を離れて1年2ヶ月滞在し、授業を受けながら、資料を集め、自分の研究テーマについて調査をしました。そして留学を終えて水産課に戻り、また水産行政の仕事に復帰したのです。


Q:その後も水産課に勤め続けられたのですか?
 帰国してもとの職場に戻って、しばらくはおとなしくしていました(笑)。仕事もそれなりに充実していて、やる気もありました。留学したことで、再び「使命感」に燃えていたこともありました。ところが、やっぱり何か物足りないと感じ始めるのです。
 ちょうどその時に開設された金沢大学の大学院博士課程に応募し、入学しました。それまで昼間しかなかったのですが、社会人学生を対象として新たに大学院がスタートしたのです。今度は留学ではなく、昼は県庁の水産課で仕事をしながら大学院に通いました。33歳の時のことです。


悶々とするところから、「情報収集力」は生まれる


Q:決断力とともに、情報収集力もすごいですね。
 そうですね、何かしたいという意識は持ちながら悶々としているので、その時に刺激があるとぱっと反応できるのです。意識があっても忙しすぎたり、現状に満足しすぎたりしているとだめです。迷ったり悩んだりしているからこそ、見える、気がつくのだと思います。


研究していたライフワークを生かしたい-----その想いが大学教員に向いた


Q:1998(平成10)年に石川県を退職し金沢工業大学助教授に転出、そして2002年には教授に就任、この転身のきっかけは?
 新聞記事へのリンク
 社会人入学して3年後には、金沢大学で博士号をとることができました。公務員は安定した職場でしたし、さしたる不満もなかったので、県庁を辞める理由はありませんでした。そもそも専門分野に近い分野で、仕事がいやだったのではありません。
 ただ、本当に今まで学んだことは生かせてはいない。それは自分のライフワークの場でしか生かせないのかなと思い始めていたことは事実です。つまり、公務員としての職場は「仕事」、自分を生かせるのは、「趣味」というか、自分の課外の活動で、つまり職場以外で沿岸域管理の研究を続けていくのかなと思っていました。そのため休日などに、学会活動や論文執筆をしていました。その時に金沢工業大学から教員として来ないかと話がありました。


Q: 金沢工業大学は、学生の満足度が高いことと、入学後学生が伸びることで有名ですが、そこで担当された教務部副部長は、どんな仕事だったのでしょうか?
 教育分野の仕事には大学として熱心に力を入れていましたし、教務部副部長になってからは「教育の仕組み」を作ること、効果的な学びを実現するための仕組み作りを担当しました。先生方個人でも頑張るけれども、個人の頑張りがうまく組織的に活用・連携できる教育の仕組みを目指していました。昔の大学の授業は、先生が一方的に話して、最後に試験をするスタイルで、あまり効果的ではありませんでした。この授業形態を変えていく仕事でした。
 もちろん、個人的にも学習理論や知識の活用に興味を持っていました。専門分野の沿岸域の管理ではないのですが、広い沿岸を管理するために支援を得たい地域活動やNPO活動が、組織的にどういうふうに向上していくか、どう実現していくかは「学習」のことをよく知らないと考えられない。個人が学ぶことに加え、チームや組織が学ぶ、組織学習の理論は重要なことだと思います。


学生に必要な力は「知識を取り入れる力」「それを結びつける力」「表現する力」「評価を得る力」の4つ


Q:「総合力」評価のCLIP教育システムを開発されたのですね?
 金沢工大CLIPHPへのリンク
 金沢工業大学は、「努力する学校」なので、外部の評価が高まっていた時期でした。私がかかわってつくったのは、教員の努力をより具体的にする仕組み。強制ではなく自然に「授業をちゃんとやらなきゃいけない仕組み」です。一方的にしゃべっているとそれがわかっちゃうシラバスのモデルを作った。また、やみくもに「人間力の向上」などといって叱咤激励するのではなく、学生に必要な4つの力、①知識を取り入れる力、②それを結びつける力、③表現する力、④評価を得る力をどうやって伸ばすのかを考えました。この4つの力に限定して考えることで、あいまいな「人間力づくり」から逃れることができ、生きる力を具体的に実感しながら身につけていくことができます。

Q:人材育成分野だけでなく、大学教員の教育能力を高めるための実践的方法を意味するFD(ファカルティ・ディベロップメント)に近い考えですか?
 それに近いです。FDを大学全体として運営しているよい例です。


「資源のマネジメント」の概念でつながる「水産」と「観光」


Q:その後、2007年4月から北海道大学の教授に移られましたが、エコツーリズムと地域マネジメントという研究は、簡単にいうとどんなことでしょうか?
 地域を豊かにする方法としてエコツーリズムの推進を研究しています。地域資源である自然環境を保全しながらエコツアーで利用し、そして地域が再生するために、どのような組織や政策が重要かを研究しています。
 最初は、沿岸域の管理の研究だったので、今は違うことをやってきているように思えますが、資源を保全しながら持続可能なレベルで利用するという点、資源のマネジメントという点ではつながっています。実は、その前の水産も資源をどう使うかという分野です。そのため人から見ると「何でも屋」に見えますが、見た目ほど自分の中で矛盾はありません。それに水産業と観光業は、いずれも「水商売」、最初と最後がつながっているんです(笑)。


ギャップイヤーの効用は、「視点位置の転換」で視野・視界が広がること


Q:30年前は「ギャップイヤー」という言葉は日本に広まっていませんでしたが、休学してマグロ漁船に乗船したのは、まさしくギャップイヤーですね。当時の経験が、その後の敷田先生の人生や研究にどんな影響を与えているとお考えでしょうか?
 当時はまだギャップイヤーという言葉は普及していなかったのですが、JGAPのHPのとおりだと思います。悩んだり、迷ったりしている時に、無理に回答や解決策を見つけるのではなく、いったん今の状態から離脱してみるということです。こうした「視点位置の転換」ができたことは、その後の人生で役立ちました。ずっと続けることもいいが、いったん休むことで見えてくることもあると体感できるようになりました。なので私は、ギャップイヤー取得では先進的な存在でしょう。でも今日は、ギャップイヤーという団体もできていると聞いて驚きました・・・(笑)。


Q:休学してマグロ漁船に乗船した就労体験は役立ちましたか?

北海道大学観光学高等研究センター教授 敷田麻実さん マグロ船の乗船体験も、やがて勤める分野での就労体験と考えると、今は普通になった「インターンシップ」と同じです。私はインターンシップでも先進的でした。マグロ漁船でインターンシップしたというと学生に笑われるんですけど(笑)。
 地方都市で比較的恵まれて育った私は、大学に進学しても「蟹工船」のようなすさまじい労働現場のことは知らなかった。極限の状態を知らなかったんです。その点でも、マグロ漁船でぎりぎりの現場を体験できたことは貴重な体験でした。
 しかし、「貴重と言うのなら、当時一緒だった漁師の人たちと同じ漁師になればよい」という人もいましたが、そうはなりませんでした。やはり船上の時間はギャップイヤーだったのです。ある意味ではそれが限界でもありましたが、漁師になるより、自分の場所に戻ってまた異なる生き方をすることを選んでよかったと思います。漁師をやっていける資質も意地もなかったからです。ギャップイヤーは進路変更ではなく、あくまでひと休みして視点を変える余裕を持つことに意味があるのです。それが一番大きかった。


Q:青い地球を見て、同じようなことを言う宇宙飛行士もいますね。
 そうですね。月から見た地球、その感覚かもしれないですね・・・。先ほども言いましたが、「ギャップイヤー」は視点位置の転換です。それは途中で降りてみることのよさでもあります。あのまま鬱々として大学で学んでいても、また職場で同じことを続けていても、やっぱりだめだったと思います。もちろん、続けていればそれなりに成果は上がったのでしょうが、降りてみて別の体験をしてみると、相手の立場もわかります。降りることは中断ですから、一見、能率や効率を悪化させるように思えますが、実は、効率を超えたところに大きな意味があるのです。ですから悩んでいるときばかりではなく、順調すぎるときや調子のよいときにもギャップイヤーのようなことがあってもよいと思います。


Q:「ギャップイヤー」は、竹の節目と同じかもしれませんね。
 私は物事を継続することに飽きるんですね。しかし、そこから離れて完全にどこか別の場所に行っちゃわなかったから、楽しかったのかなと思います。ギャップというのは前と後とをつなぐ。完全につながってはいないけれど、ちょっとずれてつながります。この体験で変節することができるのだと思います。ちょうど節があることで竹が強くなることと同じです。


大学生でいることを最大限利用しよう!


Q:現在の悩める大学生は、誰も人間的な魅力と能力・スキル開発や向上を目指していると信じています。先生のご経験から、大学時代の過ごし方の提案や、彼らに対するアドバイスやメッセージは?
 大学生でいることをもっと利用した方がよいと思います。企業に勤めるとそんな自由にはさせてくれない。企業にいて、ちょっと外に出てみることは厳しい。しかし、大学にいる間であれば、その安定を利用して、ちょっと外に出てみることはできます。その点大学は学生を導きますが管理はしないので、大学生であることを利用していろんな活動ができる。そしてまた大学に戻れます。大学から出てしまう退学はなく、休学してちょっと外れてまた大学に戻ることはおかしなことではなく、ちゃんと制度としても認められることを考えて、選択肢に加えて欲しいですね。


ギャップイヤー期間はハンディでなく、正当化する工夫が必要


Q:大学内にギャップイヤー制度(インターン・ボランティア・国内外留学)を根付かせる手法で何かアドバイスはありますか?サービスラーニングやキャップストーンも含めた概念だと捉えていますが・・・。
 今年就職した私の長女の親として、ひととおりの就活プロセスをみてきました。ゴールが決まってそこへたどり着くことが細かく設計されていて、企業にとっても最適な人材が選べるように、効率よくマッチングを考えていますね。しかし、このように効率よくシステマティックに選んでゆく方法がある一方で、「ギャップイヤー」のように、結果はわからないけど、とにかく「中断」してみる選択もあると思います。そこには連続して効率よくすることにブレーキをかける思想のようなものがあります。
 そこで「ギャップイヤー」を大学側から単位認定してはどうかという提案もあるでしょう。これについては、単位化の前に、まずギャップイヤーの中断期間をハンディにしない、それを正当化する工夫が必要だと思います。単位化したりシステムに組み込んだりすることもよいのですが、一方で管理されやすくなります。例えば、就職過程に組み込まれやすくなる懸念もある。そうするとみんながギャップイヤーを義務的に取り始めるようになり、それでは正規の授業で得られない経験をするための本来の仕組みが生きず、面白くありません。
 学生にとっても、効率がいいのは、まじめに集中して勉強して4年で卒業することでしょう。最短で就職すれば、生涯賃金からもみてもそうでしょうが、そうしないことで得られるものが、実は大きい。失うこととで得られることも大きいと思います。私は1年休んだので、当然失ったものもありますが、後で考えると失うことで得られたものが大きいのです。


Q:多様性があった方がいいということですね。
 大学時代にギャップイヤーを経験しておけば、その後も同じようなことをしやすくなると思います。雇用の流動化から、いったん勤めてずっと同じ仕事ということは日本においても少なくなっていますが、いきなり仕事を変えてしまうのではなく、ちょっと休んでみて、もとの仕事で違う展開を考えることはあってもよいのではないでしょうか。
 また、いずれはそういう経験をせざるをえないのなら、それを若くて柔軟性があるうちに体験して、何も連続して直線的に人生を登ってゆかなくてもよいと思えることは重要です。


社会や企業の肯定的「認証」構築とギャップイヤー体験者の「外向けの内省」が必要


Q:しかし、企業側は休学した人も価値をなかなか認めない。多様性がない選定方法が存在します。学生が休学で得たものを見てあげてほしいという意味での認証を考えたい。経済団体に理解して欲しいのですが、どうでしょうか。
 社会の側が認めることは必要だと思います。しかしギャップイヤーをとった側も、得た体験を「消化」して他者に表現できなければいけません。自分の内向きな体験で終わってしまわずに、その体験を他者と共有できることも重要なのです。
 その点で私の体験も参考になると思います。戻ってからマグロ漁船の乗船手記を高知新聞に書きました。それを書くことで、私は自分の体験の意味や社会的な重要性を表現できました。単なる結果報告ではなく、積極的で「自分の外にむけた内省」のようなことができたと思います。
 そして、高知新聞に手記が連載されたことで、評価してもらえたし、休学していた間に何をしていたのかをわかってもらえました。そういう体験をしてきたと人に説明できることが、企業や社会が認めることになるんじゃないか。だから「体験しちゃった」だけではではおそらくそうはならないのです。


Q:ある意味で高知新聞が手記の価値を認めたということで、これもりっぱな認証ですね。今読んでも臨場感が伝わってきます。
 高知新聞の当時の記事(PDFファイル)
 繰り返しになりますが、手記という形で表現をしてよかったと思うのは、自分で体験してきたことを整理して人に説明できたことです。それが大きいと思います。「ギャップイヤー」を体験してよかったという意味に加えて、その体験がどういう意味を持つかを人に表現する機会があること、これが大切ですね。
それに、確かにその後もこの手記が色々な場面で役立ちました。ギャップイヤーの支援では、こうした表現の場の創設も重要だと思います。また現在は、企業もそれを評価してくれるでしょう。JGAPでこういう評価を支援することは重要だと思います。
 最後になりますが、ギャップイヤーを体験して帰ってきた学生が、ギャップイヤーを満足してすごせることはもちろん、それがどういうことだったのか、社会的に意味がある体験をしたと、本人が胸をはって表現できれば、とてもすばらしいと思います。

 本日は、示唆に富むお話をありがとうございました。


【インタビュー後記】


 「くすぶり」から「醸成」へのギャップイヤーのケース
 大学3年生の時、敷田青年は、大学での居場所が見つけられない中、大学を辞めることと引き換えで、大海原を縦横無尽に駆け巡るマグロ漁船に活路を見出したといっていいかもしれない。それは、第1回で紹介したブリティッシュ・カウンシルのジェイムズ駐日代表のそれとは様相が違う。ジェイムズさんの一点の雲もない青空のようなさわやかな日本行きでなく、霧と雲に覆われた低い灰色空のような鬱屈した期間が相当期間あった。しかし、乗船が決まるまで、気持ちの上で大きな「くすぶり」はあったものの、首尾よく乗船し帰路につく頃には、マグロで満船になった高揚感も手伝って「醸成」し、ジェイムズさんにも負けないくらい充実した時間を持たれたことが伝わってきた。だから、ギャップイヤーは一様でないことが今回確認できた。忘れてならないのは、遠洋に出て、実際に船乗りに必要な技術とスキルを「インターン」として発揮できたことではないか。これが後の人生やキャリアアップへの自信につながっている。05年に実施された東大社会科学研究所の「職業の希望に関するWEBアンケート」(回答数875、20~40歳代、男女比50:50%)を思い出した。それは、「挫折と希望」の関係だ。挫折した経験のある人で、現在希望を持っている割合は80%で、挫折経験のない人より希望は11%も上回っていると一見不思議なデータだ。挫折は希望の母かもしれない。また、性格的には「楽天的」かどうかより、「好奇心が強い」「チャレンジ精神がある」人ほど希望を保持していることである。敷田先生のパワフルな活躍のターボエンジンの秘密は、こんなところにも隠されているかもしれない。

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