代表ブログ Jギャップは社会変革のイニシャル!

※→BLOGOSにも掲出。18日日経朝刊のスクープによりギャップイヤーが話題になり、12時にBLOGOSにも掲出し、総合トップ面に掲出。全体記事総合ランキングでいきなりベスト20入り、半日で2,000PV(=閲覧ページ数)を記録。ツイッターのRTも両者で早々に100件を超えた。

「秋入学と半年ギャップイヤー」のセットは"一石二鳥"狙い  
 東大が入試時期を変更なしに全学秋入学という学内懇談会の「中間報告(まとめ)」が明らかになった(18日付日経が1面トップ)。世界の7割は秋入学であり、国際化の推進と春から秋までの半年間のギャップイヤー制度を設けることで、入学予定者に社会体験(ボランティア・課外の国内外留学)・就業体験を積ませる"一石二鳥"を狙ったものだ。筆者はこれから茨(いばら)の道だろうが、英断として喝采したい。

 ギャップイヤーは諸外国でも希望者ベースで、全学全員が取得するという例は聞かなく、計画は快挙である。もちろん東大が高等教育の大転換を実行する場合は、産官学民の各セクターがそれぞれステークホルダーとして支援・協力を考える必要がある。


産官学民の各セクターの論点 
 まず「産(経済団体)」は、企業の採用を6月に卒業しても受け入れる事実上の「通年採用化」に舵を取る必要がある。官(政府・文科省・経産省・厚労省等)も新卒採用に関しては同様で、各種の国家試験・公的資格試験の時期の問題をクリアしなければならない。この2セクターは特に半年ギャップイヤーの制度設計にも関わることが求められる。筆者は、入学予定者が3千人に及ぶことを考えると、自分で当該期間の過ごし方(研修先)を見つけるケースと、大学側が用意するプログラムの二本立てが現実的と見る。

 「学」は学内の守旧派・慎重派のコンセンサスをどう取っていくか、総長の手腕が問われるだろう。主要大学が追随してコンソーシアムやアライアンスのようなものが形成できるかも大きいテーマだ。東大だけのスタンドアローンでは厳しいものがある。高校がもし優秀な生徒を海外大学に誘導しだしたら、それは知的資本の流出であり、そこにも目配りがいる。

 そして「民」も一様でなく極めて扱いにくい。思いつくまま考えても、受験生・現役東大生・保護者・社会一般が存在し、それぞれの協力・賛同なしには実現しにくい。但し、「民」といっても就活ビジネスや受験産業といった既得権益のような類のところには考慮する必要はない。良識ある「民」は、この勢力がどういう背景の上で反対の立場を取るか見極める必要がある。


東大側にさらに危機感が募ったことが推測される 
 浜田総長は当初、6年任期の2015年に決めて引き継ぎたいとしていたので、筆者は9月1日付のブログ(BLOGOSにも転載)で以下のスピード感の欠如を指摘をしていた。

5年のロードマップでは"Not invented here" の懸念
   英語に、"Not invented here"症候群という言葉がある。「いいんだけど、俺が考えたわけでないから、責任は持てないし、知らない」という心をヒダを表す言葉だ。東大が「教育は国家百年の計」のテーマにチャレンジするこの大変革が成功したら、推進してきた前任者の手柄、失敗でもしたら後継者として酷評を受けることになるから、誰が積極的に関わるだろう。また、そんな次元でなく、日本の高等教育の国際競争力の低下や弱体化は、浜田総長自身も痛感しているから、懇談会立ち上げという進展を遂げてきたのではないだろうか。検討終了が5年先なら、実現はまたその先であり、はたしてそこまで待てる悠長な話なのだろうか。

 今回はさらに危機感が募り、スピード感を持って任期中にケリをつける方向性が見えていることは評価したい。教育先進国が秋入学なのにそろえなかったことは、むしろ日本の「ゆで蛙」状態であって、死を待つしかなかったといえる。グローバルスタンダードに合わせたほうが、学生や教員は外に行きやすいし、受け入れやすいことは明らかだ。


ギャップイヤーの効用
 ギャップイヤーの効用についても、他人と違うことをすることを是としない受身の高校時代までの価値観から主体性を持って親元離れ、非日常性の中、異文化に触れながら次の修学やその後の就業を考えるプロセスということは、バーンアウト(五月病)防止にも寄与するし、人間の成長過程で当然の期間であろう。

 だからハーバード大やMITでもギャップイヤーを推奨する。昨年夏に行なわれた東大・京大の副学長参加のシンポジウムでも、医学部の場合では学力に加えて、「倫理観や使命感」を求めたいという。ギャップイヤーは、"目的意識や使命感醸成の期間"であり、恰好の装置である。むしろ、半年では短いくらいという議論もあるはずで、成果を検証しながら入試時期を変えるタイミングがもしあれば、今後は1年を視野に入れればよい。


実現には、秋入学は初めてではなく、ハードルは高くないと考えるべき
 何度も繰り返しているが、秋入学はそれほど突飛なことではない。元気に満ちた明治・大正期に"半年ギャップイヤー"があった。1920年まで30年以上の間、3月に卒業した生徒は7月の大学入試に向け受験勉強していて、9月に入学するまで"空白"期間があったのだ。ギャップイヤーの概念も「かわいい子には旅をさせよ」「情けは人のためならず」「他人の釜の飯を食う」という日本の3つのことわざの具現化でしかない。

 今回のこの「中間報告(まとめ)」は最初の一歩に過ぎない。今後、本格的な学内議論が進むだろう。その状況は是非可視化してほしい。それは一大学の問題にとどまらないからである。産官学民の各ステークホルダーは、考えれば考えるほど、玉突きのようにぶつかり合う局面もあろう。しかし、それでも日本における高等教育の競争力向上の視座から、フィージビリティ(実現可能性)テストを自主的に行ないたいところである。

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