「今日が、人生最後の日だとしたら、あなたは今日と同じ日を生きたいですか」
八田飛鳥(インドで起業準備中)
私は、あの日を境に「この問い」を大切にして生きていこうと決めました。
これは、スタンフォード大学でアップル創設者のスティーブ・ジョブスが行った伝説的なスピーチの中で話したものです。
1年半前、久しぶりにそのスピーチを聞いた私は、聞き終わった後に何かが引っかかる感覚がありました。この感覚が何なのかすぐにはわからず、ただ、このジョブズの問いが心の中で、現れてはまた消えていく。そんな繰り返しの日々が続きました。
当時の私は、都内の起業家支援をしている会社で働いていました。
夜は遅い日が続いたけど、仕事は楽しかったし、会社も好きでした。仕事を通じて、たくさんの素敵な人との出逢いもありました。
ある朝、ふと玄関の鏡越しの自分に聞いてみました。しかし、どうしてもあの問いに「yes」と心から答えることが出来ない自分がいたのです。
「人生には必ず終わりがある。」
死生観について教えてくれたのは、大好きな祖父でした。私の祖父は元海軍でとても厳しい人だったそうですが私の知っている祖父は、仕事に一生懸命で、細かい部分まできっちりと仕事をする人です。多くを語らないけど、背中で教えてくれる人でした。しかし、そんな祖父が毎年お盆の時期だけは、自分が体験した戦争の時の話をよくしてくれました。おじいちゃんになっても、戦争経験から苦しんでいることが子供の私にもわかりました。改めて考えると、私が世界や平和に目を向けた原体験がここにあるのだと思います。
数年前から、祖父はパーキンソン病を煩い、だんだん自分では体が思うように動かせず、飲み込むことも難しくなってしまいました。私たち家族も頻繁に病院に行くようになっていた時期でした。
「祖父の最後の言葉。」
そして、ある週末。ほんの少しの間にも一進一退でどんどん容態が変化していき、病院に行った時、祖父はもう起き上がることも話すことも出来なくなっていました。病室に入ると、窓の外から差し込む光が入るベッドの中で、横たわったまま私たちのことをじっと瞳で追う祖父がそこにはいました。
私は、今でも忘れない祖父の言葉と温もりがあります。祖父の手をぎゅっと握っていた時、突然、本当に細くなってしまった祖父が、大人の健康な男性が思いっきり手を握るのと同じくらいの力で手を握り返してくれました。それも長い間ずっと・・・。祖父はもう話す事は出来なくなっていたけど、その時不思議と祖父の声が手を伝わってきたのです。上手く説明出来ないのですが、本当に「生きろ」と言葉が聞こえてきました。私はそのメッセージに涙が止まりませんでした。
「決断のとき」
大好きだった祖父が骨になった姿を見た時、何かが自分の中で変わりました。初めて「人生には必ず終わりがある。」ということが"すとん"と自分自身に落ちた時でした。ならば、「今まで大切に育ててくれた人たちに恥じない生き方をしよう。」「情熱を本気でぶつけていこう。」
その半年後、2年半勤めた会社を退職しました。もちろん、この退職については、多くの人が大反対。力不足なことはわかっていたし、不安がないわけではありませんでした。しかし、その衝動を止めることは私にはできませんでした。
「片道切符とスーツケース1つ。」
私は、インドに行くことに決めました。そのダイナミズムの魅力と、"縁"というか、双子の姉が2年前から暮らしていることも判断に影響を与えました。
生まれた場所で全てが決められてしまう世界があって、理不尽な世界があるならそれを変えたいと思っていました。日本とインド、この2つの国をテクノロジーで繋げ、お互いの良い部分を繋げたい―と模索していた時期です。方法はまだわからない。だけど、行ってみるしかありませんでした。
「インド最貧困州のビハールへ。」
インドでは、1ヶ月で3回日射病になって、塩がしょっぱくない体験をしたり、なぜかゲイとの集団旅行に行ったり、インドの村で子供に囲まれたりと、盛りだくさんの内容を経験(笑)。
インド北部のビハール州に着いた時、同じ2012年という年に世界にはこうも違う世界があるのかと、ただただ驚いたことを覚えています。でも、そこに「今」を生きる人がいる。その瞬間に「今」を生きているのです。
状況は、今までインドで見た中でも最も過酷なものでした。家は、土壁で、食べ物も満足にあるとは言えず、病院もない。収入源もほとんどありませんでした。それでも、「自分の村が好きだ」と答えた村人。日本のように、溢れる物に囲まれることだけが幸せじゃない。
「幸せを測るものさし」は、人生の数だけある。それは忘れてはいけません。しかし、誰にとっても大切な人を守ることができ、生きるために十分な衣食住があり、愛され、愛することができる。そんな社会が少しでも実現出来るように行動を起こしたいと強く思いました。ビハールでは、姉と共に、知り合いのチャリティースクールを運営しているNGOでお世話になりながら、英語と日本語教育、子供達の絵のデザインを使った商品化などのお手伝いをし、現地の村の様子を調査しながら、子供達と1ヶ月半の時間を過ごしました。
「デリーにて再出発。」
ある尊敬する経営者に言われた言葉がありました。
「ただやりたい事に飛込んでいくのは、鎧を持たない兵士と同じ。本当に成し遂げたいものがあるなら、鎧を着る。勝つための戦い方をしろ」
最大の目的を達成するなら、最大の手段があります。私には、最大の手段が必要でした。
「インドで働くという決断」
この先どうするか?すごく、すごく迷いました。
そして、行き着いた答えは、今の自分は、インドでビジネスを本気でする期間が必要だということ。インドには、日本と異なる文化やビジネスマナーがたくさんあります。もっとインドを知り、ネットワークを広げること、なによりも、もっと自分の能力を高める必要があると思いました。
そして、デリーで人材を中心に進出サポートをする企業の門をたたくことに決めました。2度目の就職活動は、インドですることになるとは思っていませんでした。4度の面接を経て、採用が決定。
決断したからには、全力でぶつかっていきたいと思っています。スキルを高め、多くの人に喜ばれる人間にならなくては、その先はありません。
「決めるのは自分。」
日本にいると、他の人と違う行動をすることがすごく大変なことのように感じることがありますが、それは日本で育った私たちだから、そう思うだけで、意外とそんなことはないのかもしれません。
日本での「普通」は当たり前だけど、他の国では「普通」とは限りません。先入観という殻にこもるのは、もったいない。本当にやりたいと思うことがあって、覚悟があるなら、どんどん挑戦した方がいいです。決めるのは自分。納得した答えなら、どんなに辛い時も力が湧いてくるし、その結果、誰かにもっと役に立てる人間になれるのだとそう信じています。
「中国4000年。インド4600年。」
インドは、奥が深いです。そして、私たち日本人にとっては「不便」がたくさんある国です。この国で生活していると、アメリカ、メキシコ、中国に住んだ経験がある自分でも、「想定範囲」がどんどん壊されます。まだまだ正直、好きにはなれないけど・・・(笑)。世界はまだまだ広くて、自分がちっぽけだなと、新しい自分の感情や考え方に日々インドで出逢います。
「一歩踏み出せば、可能性が広がる。」
新しい決断をする時は、不安を伴うもの。それでも、覚悟を決めて一歩踏み出せば、可能性が広がります。フィールドを海外にすれば、なおさらです。
インドはようやく日系企業の進出に加速がかかっている時期で、今後増々、日本とインドのつながりは強くなっていくでしょう。
立ち上げ期の会社が多く、一人の裁量は大きく、ダイナミックな環境で仕事が出来ます。また、インドの国で働くことは楽ではないけれど、エネルギーが溢れる場所です。
今思えばインドに飛込んだ私は「無知」でした。私の方法は、友人にはおすすめしません(笑)。それでも、あの時決めたことは、人生で最良のタイミングだったと、今は思えます。
今の時代に生きる「自分」は、何が出来るか。それは今も模索中ですが、
死んだ時に後悔しない人生を歩んでいきたいと思っています。
「今日が、人生最後の日だとしたら、
あなたは今日と同じ日を生きたいですか?」
私は、もう一度この言葉を問いかけました。まだまだ足りないものばかりで、スタート地点に立ったばかり。もっともっと成長しなくてはいけませんが、今の私は鏡越しの自分に対してこう答えます。
「答えはYes.だ!」
■プロフィール
八田飛鳥
19歳で渡米。
アメリカのカリフォルニア州立大学で国際関係学を学ぶ。
大学4年時に、現場で何が起きているかを知るために、メキシコ交換留学プログラムに応募、半年間メキシコで過ごす。
中国瀋陽にて中国進出のサポート事業を行うコンサルティング会社にてサマーインターンを経験。
日本帰国後、起業家支援会社で社会起業家支援プログラム等の
担当を行うなど、特にアーリー・ベンチャーを中心とした起業支援に携わる。
2012年、7月末に大好きだった会社を退職し、BOPビジネスの分野で起業をすることを心に決め、
8月末にインドに渡る。
2013年、インド、デリーにある人材系の現地法人会社にて修行予定。
多くの人との出会いを大切にして、日々を過ごしています!!
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