代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

若者が仕事にやりがいを求める背景についての考察 秋元さん写真.jpg

秋元悠史
島根県海士町・島前高校魅力化プロジェクト及び
隠岐國学習センター スタッフ


「ひとの居場所をつくる」(西村佳哲著)を最近読み終わりました。
ランドスケープ・デザイナーの田瀬さんの世界観を通して、自分が求めているものについて改めて考える機会となっています。
農業や農的な営みは自分には関係ないことと思っていましたが、そうではなかった。水と馬を核とした農のある暮らしが、僕にとってすごく理想的に見えたことに驚いています。思わぬ気づきがあった理由について考えを巡らせているうちに、あるキーワードに出会いました。それが、もしかしたら日本人、特に若者が「やりがい」を求める風潮の説明になるかもしれません。


島の高校生たちを見て思うこと
 僕は離島の公営塾で3年半ほど働いています。
この島にある公立高校は進学校というよりもいわゆる「進路多様校」に該当します。離島ゆえに本土の高校へ通うには経済的負担がかかるため、大学進学を希望する子も高卒で就職を考えている子も通学しているためです。(とはいえ年々大学進学を希望する生徒が増えている印象です)

 また、わざわざ東京、大阪をはじめ全国から生徒が集まる稀有な学校でもあります。島の高校生の進路の決め方は、公立進学校出身の僕にとって新鮮に映ります。進学校の生徒は勉強するのは当たり前、大学進学は既定路線となっていました。

 したがって大学の決め方も「手前から」考えることが多いように感じます。つまり、得意・不得意で文理選択をし、実力的にいけそうな大学のラインを見積もり、その中で興味が持てそうな大学・学部・学科を見繕うという流れ。

 政経、法、教育、文など文系学部はすべて受験するなんて人も少なくないです。ところが、島の高校生にとって大学進学は必ずしも既定路線化していません。大学に行くと決める前に、なぜ大学に行きたいのかを考えている生徒が多いようです。将来こういう仕事がしたい、そのためにこういうことを学びたい、だから○○大学△△学部に行きたい。

 つまり、「向こう側から」考えているわけですね。もちろん高校生ですからそのロジックには稚拙な部分も見られるわけですが、自分の「内なる動機」を意識しないことには大学を選べない、そんな雰囲気を感じます。進路多様校だからこそ、周りに流されない目的意識が要求されるという背景もあります。近年関心が高まっているキャリア教育が流れを後押ししているという面もまたあるでしょう。


「内なる動機を大切にせよ」
 こうしたメッセージが世に広まるようになった契機を考えてみたいと思います。内発的動機こそ大事だと思わされてきた世代
たとえば、勉強というものの捉え方について。高校生にもなると膨大な知識の習得が求められますが、何らかの意義を見いだせないと単に辛いだけ。しかも、「いい大学に入って大企業に入ることがゴールではない」という風潮が主流になりつつある。にんじんに頼り過ぎてしまうと、消耗しきった未来の自分がイメージされてしまう。

 こうして内発的動機が大事なのだと悟る若者が出てくるのも当たり前かもしれません。内なるモチベーションを保てる仕事、つまりやりがいのある仕事に若者が注目するのは、世の中がそう思わせたからだ、という面は確実にあると思います。


「意味のないことなんてしたくない」
 僕の中で大きいのは、「意味のないことはしたくない」という気持ち。「これをやって誰が喜ぶのか」「これをすればどこかに不具合が出るのではないか」そんなことで悩みながら仕事をするのは出来る限り避けたい。実際、これまで価値があるとされてきたことが意義を失っていく様を目の当たりにしてきたわけですから、「物事の意義」に向いた引力が一層強化されるのも無理がありません。

 つまり、これは内発的動機付けにも関わる話です。自己の利益だけを追求したいのではない。自分のやっていることに意義を見出したい。こうした欲求が芽生えれば、自然と仕事を選ぶ目も厳しくなるでしょう。若者の「誰にでもできそうな仕事」を避ける傾向について言及する人もいますが、これも仕事に対して意義を求めるからこそではないでしょうか。

 また、バブル崩壊によって、同じ会社で定年まで働けるかもわからない時代になり、定年まで働いたとしても公私に充実した暮らしが送れるわけでもなくなりました。なおさら就職先選びには慎重にならざるを得ません。「ひとの居場所をつくる」を読んで導かれたのは、「徒労感のない仕事」というキーワード。意義がないことはしたくない。自分の内なる動機を実現する働き方がしたい。こうした僕の意識もまた、時代の流れによって形成されたのではないかと感じています。


社会貢献が「正解」に見えてくる
・忙しく働いて家庭を顧みないのは望ましくない。
・自己の利益追求の結果、環境を破壊したり、他者の犠牲を伴ったりするのは良くない。
・仕事に没頭しすぎて生きがいを見いだせないサラリーマンはカッコ悪い。

 「否定」の言説ばかりの中で、自分はどういう働き方をすればいいのか。「否定」されない仕事、自分が納得できる仕事とはどういうものか。バブルの崩壊は「正解」の崩壊でもあった、と個人的には思っています。こう見ると、次なる「正解」を探そうとする意識が芽生えるのも無理はないかもしれません。社会貢献志向を持つ若者が増えているのもここにつながっているように思えます。

 もちろん、社会貢献志向そのものが悪と断定することはできません。しかし、そのモチベーションが「正解」を求める姿勢にあるとすると、齟齬(そご)が生まれます。

 「自分が社会貢献をしている」状態そのものに関心を持つようになってしまったら。「社会貢献が目的でなく手段になるという本末転倒な事態が生じうるでしょう。

 内なる動機を大切にしているようで、実は外見に強く注意を払っているに過ぎないということもありえるのではないでしょうか。「内発的動機が重要である」という言説が、外発的動機付けに転じてしまったと見ていいかもしれません。


「心の声」に耳を傾けられる社会へ
 これまでの話を整理しましょう。
・21世紀を生きる若者は、内発的動機こそ重要という風潮に包まれていた
・これまで当然視されてきた価値が失われる中で、一層意義の重要性が際立った
・バブル崩壊によって否定の言説が充満し、これまでの「正解」もまた失われた
・ところが、次なる「正解」を求めようとする外発的動機付けがかえって強化されてしまった

 「やりがい」は内発的な動機付けが前提にあります。「正解」を求める外発的動機付けによる「やりがい」志向、「社会貢献」志向はなんら本質ではなく、だからこそ就職活動や地域活動で空回りする事態が発生するのかもしれません。

 結局のところ、今の日本社会では「心の声」を受け止める土壌ができていないのだと思います。内発的動機付けが重要視されながら、その具体的な作法が浸透していない、ということ。(「心の声」について考察するだけで複数記事になりそうなので、一旦抽象的な表現に留めます)ノイズをなるべく取り除き、自分の「心の声」に耳を傾ける。自分の常識に囚われず、相手の「心の声」を拾い上げる。結論は非常にありきたりな言葉に落ち着いてしまいました。具体的にどうすればいいかは今後も引き続き考えていきたいと思います。

プロフィール:
1986年11月23日生まれ。 秋田県仙北郡神岡町神宮寺(現大仙市)出身。2005年4月 大学進学のため上京。2009年4月~2010年10月都内のソフトウェアベンダー勤務。2010年11月~現在 島根県隠岐郡海士町在住。 高校魅力化PJおよび公営塾勤務。

ブログ:秋田で幸せな暮らしを考える
http://yakimoto.me/

フロンティア・フォーラム寄稿No16:「なぜ、私は新卒で就職したIT企業を1年半で飛び出して、島根県・海士町に移住したのか?!」秋元悠史さん
http://japangap.jp/essay/2011/12/it.html

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