代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

矜持と諦観~「"なにものでもない自分"と島根県津和野で向き合った2年間」福井さん写真.jpg


◎「自分探し」をやめた
 初めて津和野を訪れてから丸2年が経った。
津和野を訪れたとき、自らの才能や、興味関心、これまで培った経験が活かされる場所だと直感的に感じ、ここに住み、町の未来を作る仕事に携わろうと決めた。

 その背後にあったのは、「じぶんとは何者か」「何のために生きるのか」といった自らの存在価値を見つけたいという想いである。
恐らく、ギャップイヤーを志す多くの学生も、少なからず似たような感覚を胸に、世界へ飛び出すのであろう。

 結論からいうと、わたしはそういった「自分探し」を辞めた。辞めた、と言うより、ある答えを見つけたから、探す必要が無くなった、と言った方が適切だろうか。

◎理不尽と向き合う
 津和野に来た当初、わたしは、「他の誰にもできない役割を果たし、圧倒的な成果を残す」ことで、自らの存在価値が証明され、その行為そのものが津和野にとって必要とされることであるという点で、津和野という町と、わたし個人のwin-winな関係が成立すると考えていた。

 しかし、仕事を進める上で、形容し難い理不尽にぶつかったり、想い通りに行かない、絶対的な解が見つからない事象に何度もぶつかった。
論理的な提案が、組織の体質により打ち砕かれる。
必死のアウトプットが、評価されること無く無視される。

 そういったことに直面するごとに、"自らの存在価値"が揺らぎ始め、何度も、何度も、「わたしは、津和野にいない方がいいんじゃないか」と考えた。


◎誰かの中に生きる「わたし」
 考証癖があるわたしは、取るに足らない事象に関しても、熟考し、思い悩んでしまう。
前述した「生きづらさ」によって、今年一年だけでも、3度以上はふさぎ込んだ。

 誰とも会いたくなくなり、何度も何度も、生の終わりを考えた。
そんな中、この取り組みに誘ってくれた人、パートナー、町で親のように世話になっている人から言葉をもらった。

 「おれは、"できる"お前が好きなんじゃない。なにをしてるお前でも、どんなお前でも、俺にとっては大事で、お前と一緒に生きる未来が来ることを望んでる。」
一人ひとり、選ぶ言葉は違えど、"自分自身"はそういった言葉をかけてくれた人の中にも生きていると思わされるものだった。


◎苦悶する
 自分の存在価値を自力で証明しようと津和野に移住し、それが破綻した先に、他人の中に無条件に肯定される自分自身を見つけた。

 かつては出自や、家系で生き方が定められており、「自分自身が何者か」という問いに向き合う必要性は少なかった。近代以降、人々の人生が自由に解き放たれると共に、自分自身の人生に対する責任を自分が持たなければならなくなり、「自分自身が何者か」という問いと向き合うことになった。

そして、現代、そういった問いに向き合いながらも、中々答えが出ず、大きなチャレンジをせずに、"うっすらとみえる既存のレール"に乗り、大学へ進学し、就職活動をし、大学を卒業し、「何者にもなれない(と自分自身を見詰める)」自分を抱えて、飲み会で愚痴をこぼし、「将来こういうことがしたい」という"ワナビー"をアテに酒を飲む若者が私の周りのもたくさん居る。

 「自分自身とは何か」という問いや、「こういう風になりたい」という"ワナビー"を抱えながらも、集団から外れることを恐れ、空気を読み、"自分"を演じることで、「自分とはなにか」という問いから逃れようとする風潮もある。

 幸い、私は、他人の中に「自分自身」を見つけた。
しかし、これは、考証し、苦悶し、もがいた結果見つけたものである。
人生に、将来に、自分自身に対して、迷いや、戸惑い、恐れを感じながら、日々を過ごす"かつての私"のような人に伝えたい。

 恐れず、大いに悩み、自分自身が切られるような環境に身を置くことをオススメする。
「ギャップイヤーを経験することで、全て解決される」というような大きな希望も、「この決断で、人として一回り大きくなれる」というようなあやふやな期待も、「なにか社会を変えることができる」という稀有壮大な夢は持たない方がいい。


◎矜持と諦観
 どれだけ大きな計画や、人から褒められるような活動や、賞讃されるような生き方をしたところで、自分自身の存在価値は見出せないだろう。

 そこで待つのは、更なる欲望であり、更なる承認欲求である。
そういった、事実を悲観的ではなく、静けさを持って心に沈下させ、受け容れる。理不尽や、理解し難い物事を能動的に受け容れ、しかし悲観すること無く、自己の責務を放棄せず、果敢に事実と対峙する姿勢。
こうした、諦観とそれに基づく視座が、今の私を支えている。

 諦観に加え、「他人の中に生きる"自分自身」としての矜持も持ち始めた。
矜持はプライドとも言い換えられるが、私にとってはプライドとは少し違った意味合いで捉えられる。
無条件に肯定される関係性の中に、「何かができるから」「こうしないと肯定されない」といった強迫観念はない。

ありのままの、自分でいい。
ありのままの、自分だからいい。

 ありのままの自分でいるには、矜持が必要である。簡単に、自分を曲げてはいけない。空気を読み、賢い人間であろうとするほど、その矜持は自分からはがれ落ちて行く。
"うっすらとみえる既存のレール"に乗ることで、その矜持を失っていないか。
自分自身を、押さえ込んで生きていないか。
同世代の若者には、こうした問いを、立てて欲しい。


◎"あそび"の精神
 先ほどの諦観に従うと、身体が軽くなる。
どれだけ必死に生きようと、どれだけ頑張ろうと、人間いつかは死ぬという事実がある。それに悲観することなく、受け容れ、自分の人生を全うする。
そうなってくると、意味があるか、ないか、自分に利益があるか、ないか、などといったことに興味が無くなる。

 小さな子どもが、なんにも使えない石を、必死になって集めて喜ぶように、人生におけるありとあらゆることが、打算や計画を超越したところで観じられるようになる。
津和野が生んだ文豪、森林太郎はこれを「"あそび"の精神」と名付けた。

 彼に憧れ、彼に惚れ込み、彼との縁を感じ、移り住んだ津和野の地において、最近になってようやく彼が語ったことが、うっすらとわかるようになってきた。
そんな、津和野をもうすぐ離れようと考えている。

 なぜ、離れるかという理由に関しては、「わからない」というのが正直な答えである。
離れた後、何か計画があるわけでもない。
ただ、「そろそろ一度離れよう」と感じたからである。

 意味の有用無用を問わなくなると、人生におけるフットワークが軽くなる。
したいことを、矜持と諦観をもって、行うのみ。

津和野にくるまで、山に埋もれていた大きな石のようだった私自身が、理不尽や、苦悩によって削られ、一つの像にでもなった気分だ。


◎最後のチャレンジ
 津和野を去ることに決めた後、最後のチャレンジをしようと決めた。

 「自分自身」が生きる誰か、その誰かのために、自分にできることをやってみようと決めた。
私のことを、特別な"誰か"として見てくれている人たちの想いに応えるべく、町の人たちでチームを作り、津和野に根付く「生きる知恵」を集め、それらを伝えるパンフレット作りに取りかかった。

 自分が、心身ともに洗われた、この地のことについて、もっと多くの人に伝えたいと感じたからだ。
この取り組みは、現在FAAVOというクラウドファンディングサイトで資金調達を行い、今年度中を目処にパンフレットが出来上がる予定で実行されている。

 改めて、パンフレットの取材を通して、津和野に居る人と向き合ったり、資金調達のために旧友に連絡を取る中で、「この人たちは、自分にとって"何者か"なのだ」と気付いた。

 恐らく、「自分自身が何者か」という問いに向き合うためには、人に関心を向け、「自分自身にとって"何者か"である人を見つけること」が必要なのであろう。


◎路傍の石から天使を解き放つ
 「自分自身とは何か」「何のために生きるのか」といった問いに向き合ったり、そういったかたちで言葉にできないような問いに向き合う同世代のあなたに伝えたい。

 あなたは、自分のことを、なんの特徴もない道に転がる石のように感じているかもしれない。恐らくそれは事実だろう。生まれた時から、誰にとっても価値があるような、重宝される銀のような存在である人間は一握りである。

 しかし、その路傍の石も、人と交わり、自分と向き合うことで、あらゆる部分が削られ、石像の如く、姿を変えるかもしれない。

 どのような石像を好むか、という嗜好は人によって様々だが、それは銀を好むことと比べると大したことは無いかもしれないが、あなたという石像を好む人はきっとこの世に存在する。

 同時に、あなたが関わることで、向き合うことで、自分自身を路傍の石だと思っていた人を、天使の石像に姿を変えることがあるかもしれない。

 自らを解き放ち、自由に生きる。
自由に生きることに伴う、様々な不自由と向き合う。

 諦観と矜持をもった、石工が増え、生きづらさではなく、ささやかな希望を肴に盃を酌み交わす若者が増えることを祈り、駄文の締めとさせていただく。

▼最後のチャレンジ プロジェクトはこちらから
https://faavo.jp/shimane/project/179
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▼活動団体紹介
HP : http://foundingbase.jp/
Facebook : https://www.facebook.com/foundingbase

▼コンタクトはこちらから
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2012年7月30日 エッセイ集 フロンティア・フォーラム欄 No.78「なぜ東京の若者が島根・津和野で、"町長付"ギャップイヤーなのか?!」 福井健さん(国際基督教大学2年=一時退学中)http://japangap.jp/essay/2012/07/post-27.html

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