代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

「誰かのためではなく、あの人・あの土地のために~僕らが公園を造れたワケ」日高1.jpeg

日高 雅人
(明治大学在学中 きずなInternational 2代目代表)

 3.11東日本大震災から今日で3年目。3年前のあの時に感じた恐怖、不安は今も決して消えない。そして、決してあの未曾有の出来事を風化させてはいけない。今一度黙祷し、犠牲になられた方々に対し、深くお悔やみ申し上げます。そして、被災された皆様に対し、心よりお見舞いを申し上げます。

 震災後、少しでも早く現場で力になれることがしたいと思っていました。しかし、余震が続く不安と自分が現地に行き、果たして何ができるのかばかりを考え、なかなか現地に行くことができませんでした。そして、ようやく多大な被害を受けた石巻に足を運んだのが震災から3ヶ月後のこと。テレビで見てきた映像を自分の目で見て、「本当に地震、津波がこの町を襲った」と再認識するとともに、自分はここで逃げてはいけない、これからもここに来続けなくてはいけないと感じました。

 私が現場に足を運ぶきっかけとなったのが、現在大学の公認団体である「きずなInternational」でした。同級生の友人から石巻でのボランティアに誘われ、行くことを決意しました。参加後、継続的な活動の必要性を強く感じ、私はこの団体とともに東北に力を注ぐことを決めました。定期的に現地に行くことによって、現地でいま何が必要とされているのか、住民の方々は何に困っているのかを把握し、活動してきました。

 震災から1年が過ぎ、漁業や農業の復興のため、人手が求められてきました。そのため、上記の団体から長期休暇を利用して、学生を石巻・南三陸にインターンを派遣するプログラムを行なっていました。その際、私は今まで活動したことのない南三陸に参加を決め、現地に拠点を置く一般社団法人のもとで、2週間の農業支援を行ないました。

 活動中、車を運転して農地まで向かうのですが、その途中、道路で遊んでいる子供を轢きそうになってしまいました。自分の不注意さを感じるとともに、なぜ子供達は道路で遊んでいるのかが気になりました。2週間のインターンを終えて、東京に戻り、いつも通り学校に通いました、しかし、私の心の中では、南三陸で轢きそうになった子供が忘れられずにいました。家でなんとなく、南三陸のことについて調べてみると、公園や校庭の半分以上に仮設住宅が建設され、子供達の遊ぶ場が限られていることを知りました。また、東北3県の子供達の外で遊ぶ時間の減少からPTSD(心的外傷後ストレス障害)を引き起こす数が増えているという論文を読みました。そこで、私はいてもたってもいられず、南三陸でインターンを受け入れてくれた一般社団法人に電話をし、

「南三陸に子供達が安全に遊べる場、公園を造りたい」

と電話を掛けました。すると、すぐに快い返事を頂け、週末には南三陸に向かっていました。

 南三陸につき、まず行なったことが公園を造る土地探しからでした。車で探しまわったものの最適な場所は見つかりませんでした。そこで、地元の方から紹介して頂いたのが縦240m、横15mの巨大な空き地でした。ここは下にトンネルが通っており、建物を建てられないことから、雑草しかない空地でした。雑草は腰の位置までの高さがあり、また東京では見たことのないような大きさの蜘蛛がうじょうじょいました。そこで私は2つのことを思いました。

「ここに公園を造るのは無理」

「だけど、自分がここに公園を造ったら子供達は外で安全に遊ぶことができるかも」
 
 そこから、公園を造る活動を始めました。まず、その土地の管理が町役場にあることから、その土地の周りに住む130世帯の住民に公園造り賛否のアンケートを取り、それとともに公園造り案の企画書を作成し、町役場に公園造り案のプレゼンをしました。1週間の検討後、町役場から許可を頂き、社団法人に力をお借りして、3日間掛けて草刈りを行ないました。このときが2012年10月。そこから、東京と南三陸町とを往復する日々が続きました。

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 しかし、公園を造るにも何から手をつけていいのか全く分からず、もともと設置してあった腐りかけのベンチを1人で8時間ヤスリがけしていました。正直何度もやめようと思いました。やめて南三陸町にはもう来ないとも思いました。けれど、あの轢きかけた子供のことを考えると、やめることはできませんでした。また、協力してくれる友人が増えていきました。地元の人達も積極的に手伝ってくれました。そんな人達がいるから一層やめるという選択肢はなくなっていきました。

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 2012年12月24・25日のクリスマスには、公園造りとは別に仮設住宅での活動を行ないました。具体的には、学生がサンタとなって130世帯の仮設住宅1軒1軒にプレゼントを渡してまわり、各仮設住宅の集会所で、ハンドマッサージをしながら会話をしました。これは、公園造り賛否のアンケートのなかで、仮設住宅に1人で住む70代のお婆さんの「私は公園造りに賛成も反対もしません。ただ、このまま仮設住宅で一生を終えてしまうのが悲しい」という言葉を見て、自分がこのお婆さんのために出来ることをしようと思い始めました。これにも多くの友人や企業が協力してくれました。

 公園造りでは、地元の方が紹介して頂いたことで、町役場から砂利、現地のコンクリート会社からは必要な資材を頂けました。2013年2月には、きずなInternationalの代表を引継ぎ、この公園プロジェクトを団体の事業に組み込みました。作業は全て手作業で、散歩道の両端にコンクリート会社から頂いた重さ7キロのピースをひたすら穴を掘り、埋めていきました。道の部分には一輪車で砂利を運び、雑草が生えないように敷いていきました。こんな地道で、服がかなり汚れる作業にも関わらず、多くの人が協力をしてくれました。

 3月には、友人経由で中国の留学生10人が手伝いにきてくれました。私は毎週末南三陸町に行き、平日は学校の授業と現地活動費のためのアルバイトを夜中までするという日々を続けていました。

 4月にはNPO法人Habitat for humanityが協力してくれて公園に置く新しいベンチとテーブルを作成しました。そして5月。のべ130人の学生と一般社団法人、NPO法人、民間企業の協力を経て、全て手作業の公園が計画場所まで完成しました。披露宴には住民300人以上が集まり、お祝いをしました。そこには、私が車で轢きそうになった子供が来ており、公園を走り回る姿に感銘を受けました。

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 私がこの活動をずっと続けてこれたのは、車で轢きそうになった子供が頭にあったからです。仮設住宅の支援を今でも続けているのはアンケートを書いてくれた70代のお婆さんが頭にあるからです。もし、私が「誰か」のために活動をしていたら、1回きりで終わったかもしれません。しかし、私は「あの人」のために活動していたので、継続的に活動してこれました。また、「被災地」ではなく、「あの土地」のために、活動してきたことも続けてこれた理由だと思います。私の場合は、それが縁あって「南三陸」の「あの子供」「あのおばあさん」だったのです。

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 1人ではできなかったことも、周りの友人や家族、地元の方々の協力で実現ができました。

 「一人で夢みる夢はただの夢、一緒に夢みる夢は現実となる」

 そしてきずなInternational初代代表のビジョンを3代目代表にバトンを渡し、私は昨年半年間カナダに留学しました。日本を離れてみたからこそ、東北への想いはさらに深くなりました。

 今も私の後輩たち総勢50名が南三陸で農業・漁業支援をしています。「あの子供」「あのおばあさん」との出会いをきっかけに、より多くの南三陸の皆さんと私たち学生が一緒になって活動する場を大事にして"きずな"を創っていきます。

プロフィール:
日高 雅人
(明治大学在学中)
facebookアカウント:https://www.facebook.com/masato.hidaka.5

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