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多種才々なイノベーター達のエッセイ集

「大学生の君へ~ソマリアと向き合ってきて今思う3つのこと」
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永井 陽右
(早稲田大学教育学部4年、日本ソマリア青年機構全体代表)


 私がなぜソマリアに対してアクションし始めたのか?という問いに対する答えは、以前取材された際の記事にまとまっているのでこちら(http://tsunagalien.com/no.354.html)を参照していただきたい。簡潔にまとめるならば、私が大学に入学した2011年当時、世界で最も悲惨な場所がソマリアであり、私はその惨状を無視することができなかったという理由である。そしてその状態は今もそれほど変わってはいない。だから変わらずソマリアにフォーカスし続けている。

 破綻国家として名高い世界屈指の紛争地であるソマリアと全力で向き合ってきて、今思うことが3つある。本稿では対象を大学生としてその3点をシンプルに説明していきたい。


国際協力を志す大学生が考えるべきこと
 国際協力が大学生の世界で一大ブームとなっているということは言われて久しい。事実、国際協力系の学生団体なるものは今や数えきれないほどに存在している。しかしながらそれらにおける活動地域や分野は非常に偏っていると言わざるを得ない。活動対象地域は東南アジアと南アジアが圧倒的に多く、活動内容は交流やごく簡単な基礎教育、または建物建築などが多い。また、ビジネスやICTを活用した取り組みも増えてきており、誰でも国際協力できる時代となってきていると感じている。しかしながら、そこにソマリアやシリアといった紛争地ならびに情勢不安定な場所は登場しない。そもそも場所を物差しにすること自体ナンセンスであるので、紛争地を無視していると一概に批判しているわけではないが、なんにせよそこに紛争地の姿はない。その理由は、劣悪な治安、自分にできることの少なさや覚悟の欠如など様々あるようだ。どれもこれもしっかりと考えれば対処可能だと私は考えてしまうのだが、それらを考えるためにはまず大学生の特性を考える必要があると思われる。

 大学生による国際協力における致命的な欠点というものは、その活動に期間が設けられていることである。基本的に大学生でいることができる期間は通常4年間であり、その中で活動を考えなければならない。もちろん、後輩たちにうまく引き継いでいけばその期間を伸ばすことは可能だが、学生団体という組織の脆弱性を考慮すればそれもどこまで妥当なのか正直怪しいところである。だからこそ、プロジェクト期間を短期的に設定してアクションをしていくか、そもそも難しいことはしないか、といった帰結になってくる。加えて、大学生には遊びに勉強、バイトや就職活動など多くのやるべきことがあるので、課外活動の優先順位は必然的に低くなる。このような状態で何ができるのであろうか。結局のところ、何がしたいのだろうか。就活でアピールする経験を獲得したいのだろうか、自分探しをしたいのだろうか、何かわかりやすいものを作り恍惚に浸りたいのだろうか。

 基本的に、大学生による国際協力はプロの国際協力の二番煎じになってはならないと私は考えている。二番煎じならばプロの仕事を支援したほうが良い。むしろ、私は大学生にしかできないことがあると信じている。それは強がりでも願望でもなく歴然として存在しており、ソマリアのような場所であっても同様である。私が今ソマリアに対して活動している最大の理由は「(私が)大学生である今しかできないことがあるから」だ。その活動は決してプロになるまでの準備運動ではない。現地のニーズに対するアプローチに大学生にしかできないことを踏まえることができれば、それはプロの二番煎じでは決してないというは明らかであるはずだ。だが、その場合、プロ意識を持って全力で取り組むべきだ。学生の組織といえども他者を巻き込んだ瞬間から一定の責任があるわけであり、その責任を自覚し尚且つ結果を追求しなければならない。

 学生のうちから国際協力をしたいと思う人はこのことをしっかりと意識する必要がある。つまり、大学生にしかできないことを真剣に考え、その行動に付随する責任をしっかり理解し覚悟するべきということである。このような姿勢の中に無限の可能性がある。その可能性こそが、すべての学生が諦めるソマリアのような場所もしくは解決が難しい問題に立ち向かうために必要な要素なのだ。また、現在すでに行動をしている人にとってはその行動の質の向上に繋がる。これらのことを自分なりに考え自らの姿勢を定めることこそが、国際協力を志す大学生にとって最も重要なことであると切に思う。

 その終わりのない思考と取り組みの中で、タイムアップの時を迎えたとしても、それを何かしらの形で引き継いでいけばいい。その取り組みの中で、何かしらの「変化」を感じることができたなら、それは有意義であったと言えるであろう。その「変化」から、何を掴むかは自分次第だ。


人間としての責任
 もう一つ真剣に考えていただきたいことがある。それは「人間としての責任」という概念についてである。この概念は2014年10月にアイルランド・ダブリンで開催された世界最大級の青年国際会議(私は日本代表団として出席した)にてパレスチナ、ウクライナ、カシミール地方などの紛争地からの代表たちと議論している際にパレスチナ代表が主張したものである。概念としては決して難しいものではない。というよりもあまりに明らかであるからこその希薄ささえ漂うように思われる。それは即ち同族同種のシンパシーに過ぎず、遺伝子レベルで組み込まれている性質に他ならない。ではなぜわざわざ私はこれについて思考しているかというと、そこには解釈の問題が存在しているからなのだ。

 その壮大なキーワードが行動を起こすべき(Take Action)という主張の文脈で使用される時、その責任をどのように認識し解釈するのかは個々人に委ねられている。また、やっかいなことに、物理的にも心理的にも距離がある問題について多くの人々はその責任を認知しない。認知したとしても自分事として理解することは非常に稀であり、ここにおける意識が高い人と低い人の永遠なる乖離は一向に縮まりを見せない。それを縮めるのは宗教だろうか、教育だろうか、それとも危機感だろうか。そもそも「人間としての責任」を果たすということは具体的に何を表すのだろうか。

 前述したように「人間としての責任」は強制力を持たない。それでいて曖昧で具体性に欠ける。しかしながら、いつも誰かがその責任を果たすべく汗を流している。そしてそのことは紛争地や政情不安定な場所でも当てはまる。私にはソマリア、マリ、コンゴ民主共和国、中央アフリカ共和国、シリア、イラク、ウクライナといった場所で気高く活動している同世代の友人(現地人)がいる。また彼らは現地の問題解決に向けて行動しながらも常に世界の情勢についてもアンテナを張っており自身にできることを模索している。G7の一員である日本にはどれほどこのような人がいるだろうか。
 
 「人間としての責任」における「人間」はまさしく21世紀を生きる私達に他ならない。グローバル化が極度に進み様々なものが他国と密接に関係し合っている時代であり、色々な出来事が他人事ではなくなっている時代である。税金を払うだけでは、この社会、この時代に生きている人間として十分なのであろうかということだ。それは自分が暮らす場所、自分が暮らす国だけを最大アクターとして考えるのではなく、72億人が暮らす地球に自分が生きているということを意識する必要があるということを意味する。「地球公共財(Global Public Goods)」という概念がそのことを象徴しているであろう。

 私が思うに、おそらく当事者としての意識が重要であり、「人間」という箇所は「仲間」に置き換えることができうる。つまり、「人間としての責任」という概念は、各人にどこまでを自らの「仲間」と見なすかを問いているわけであり、直接的な当事者ではない人々にはこの局面である種の想像(もしくは飛躍)が求められていると言えよう。そして私には、その際の想像力こそが人間を真に人間たらしめる重大且つ根源的な要素であるように思われるのだ。想像し、共鳴する――この極めて人間的な行為が私にはたまらなく興味深く、また同時に、誇らしくもあるのだ。その感情こそが私の「人間としての責任」に対する1つの解釈なのだと思う。そして私は今世紀に生きる人間として、その責任をしっかりと果たしたい。また、「人間としての責任」を積極的に解釈し行動にまで移すことができる社会の良心達と共に今後の人生を生きていきたい。なぜならこの姿勢こそがこの時代における人間を人間たらしめるものだと信じているし、そのほうが無神論者の私にとって今生きている意味を見いだせるからだ。

 全ての人が私と同じように考える必要は一切無い。当たり前だが思想は自由だし皆個人の事情がある。この国に蔓延る貧困や闇深い社会構造なども理解している。だけれども、全ての人が「人間としての責任」をどのように解釈するかを熟考する必要はあるとは思う。それが日本という先進国に生まれ暮らしている私達が今世紀するべき一つの義務だと信じてやまない。


この時代のヒーロー
 「人間としての責任」を積極的に解釈し行動にまで移すことができる人を「社会の良心」と形容したが、この点について最後に少しだけ言葉を紡ぎたい。私はこの時代におけるヒーローを公共性のあふれる「社会の良心」と自分なりに定義している。1000年前だったら敵将を打ち取った者がヒーローであったが、現代ではそんなことはありえない。金メダリストも良いのだが、私は私利私欲溢れるこの社会で公共性のある人に英雄を見る。

 個人的な話をすると、国際協力に関心を寄せてから、私のヒーローは「国境なき医師団」であった。紛争が勃発した際、そこから避難する人の波に逆らい現場に直行し人々を助けるその姿は私の憧れそのものだ。給料が抜群に良いのならば話は別な気もするが、プロフェッショナルでありながらもその給料は高くない。自己だけではなく他者に心を寄せ、尚且つ必要だが誰もやりたがらないもしくはやれないことを実行するその性質こそが私のヒーローであり、その象徴的な具体例が「国境なき医師団」なのだ。

 紛争地に暮らす友人が増えてくるにつれて、死や死んだ後の世界を考えるようになった。論理至上主義の私はどうしても宗教は信仰することができず、その代わりに哲学を勉強するようになった。本筋からズレてしまうので哲学の話は割愛させていただくが、なんにせよ、死んだ後に何も無いのならこの限りある命をどう生きようかと考えるようになった。自分がどんなに好きな人を愛したとしても億万長者になったとしても数十年後に必ず死ぬということを考えると、あまりにも虚しい。極論、私が生きてゆく意味はどれほどあるのだろうかという問いにぶち当たる。しかし自殺するのもどこか勿体ない気がしてならない。そこで、それならばせめて他人のために生きてゆこうという考えになった。理不尽な死を防ぎたいと腹の底から思うようになった。生まれ、今生きていることはどうにもならないのならば、自己を他者と照らし合わせ自分が何をやるべきかを論理的に考えて死を待とうというわけである。幸運なことにその姿勢は社会的に美徳とされており、なんだか色々な方々が応援をしてくれる。というわけで、私が今生きている理由はこうして形成された。

 結局何が言いたいのかというと、今生きている意味を見いだすことができずにいる人やそれをこれから考える人は、ヒーローという生き方を検討してみてもいいのではないかということだ。公共性があれば誰だってヒーローの卵なのだからそれほど難しいことではない。私は海外に住んだことは一度も無いし、通った高校は偏差値50ほどだった。バスケットボールばかりしていて浪人を経験したし、小学校時代は常に教育委員会で議題になるほど荒れていた。つまり、誰にだって可能性はある。ちなみに私は4年間、早稲田大学を拠点に色々な人と出会ってきたが、その中で私が最も尊敬の念を抱いたヒーローは大学構内で障がい学生に対して様々なサポートを人知れず行っている学生の方々であった。どう生きても結局死ぬのだが、そのように気高く、人間らしく、生きていくことも悪くないのではないだろうか。なにより世界(社会)はヒーローの登場をいつでも待ち望んでいるのだから。


結びに代えて
 上記した3点を考えるということの根底には、「何のために生きていくのか?」という問いが存在している。その問いを思考することを先延ばしにするのではなく、学生でいる間から考えることが重要なのだ。なぜならば、それによって<今ここ>における行動とその質が変わるからだ。自らの死と向き合うことは誰だって怖いが、そこで見つかるものがある。

 ここまで好き勝手主張してきたが、この論理がすべての人に伝わることは有り得ないしそもそもそんなことは狙っていない。上記した主張はあくまでも私の純粋な意見でありそれを押し付ける気もない。特に「国際協力を志す大学生が考えるべきこと」は現場主義である私の経験が大いに影響しているので多少の偏りは自覚している。ただ、全力を賭して行動し続けてきた私が思うことを一市民の私が公に主張する、そこに自重する理由もない。私の意見が皆さんにとって何かしらの刺激になれば本望である。

 最後に私がいつも決まって言うセリフを以て結びとしたいと思う。「原則として国際協力は誰にでもできるものですが、誰かにしかできない国際協力もまたあります。その誰かが必要とされる時、私はその誰かになりたい」。心からそう思っている。


◇プロフィール
永井 陽右
早稲田大学教育学部複合文化学科4年、日本ソマリア青年機構全体代表
Twitter:https://twitter.com/you___27
Facebook:https://www.facebook.com/yosuke.nagai.9
日本ソマリア青年機構:http://jsyo.jimdo.com/

1991年生まれ。現在早稲田大学教育学部複合文化学科4年生。日本ソマリア青年機構全体代表、One Young Worldアンバサダー、国連フォーラム幹事。2011年に国連が発表したソマリアの大飢饉を機に、多くの難民やソマリア人NGOと交渉を重ねて氏族間対立を乗り越え、日本で唯一紛争地ソマリアに特化した団体である日本ソマリア青年機構を創設。2014年7月、第28回人間力大賞(青年版国民栄誉賞)、外務大臣奨励賞受賞。2014年12月、大学生 OF THE YEAR 2015 総合グランプリ受賞。2015年3月、小野梓記念特別賞、早稲田大学校友会稲魂賞受賞。2015年9月よりLondon School of Economics and Political Science(ロンドン大学)のConflict Studies修士課程に伊藤国際教育交流財団奨学生として進学予定。

◇関連記事
「『覚悟をもって、困っている人を助ける。』日本ソマリア青年機構設立者 早稲田大学教育学部4年生 永井 陽右」http://tsunagalien.com/no.354.html

「ハイパー学生のアタマの中:紛争地ソマリアでユースギャングの更生に尽力、早稲田大学 永井 陽右」http://journal.rikunabi.com/p/student/hyper/14636.html

「ガクセン:いじめをした後悔を「人助け」に向け強い覚悟を持ってソマリアを変える」
http://gakusen.jp/nagai-yosuke/


【JGAPの解説】
超危険国家とされるソマリアには「ソマリランド」と「プントランド」という地域が存在する。

ソマリアは「戦国ソマリア」と呼ばれ、お隣のプントランドは「海賊国家プントランド」と書かれているソマリアの北部にある「アデン湾」ではプントランドの海賊達が暴れ回っていることによると言われている。日本の自衛隊を含め各国の海軍が隣国のジブチに派遣されているのは、この海賊を取り締まるためだ。

そして、「謎の国家」の書籍もあるソマリランドがある。

ソマリランドは「ソマリアから独立した国家」と主張していて、独自で民主化を進め、独自通貨を発行し、10年以上に渡り治安を維持している。しかし国連やアフリカ連合、日本はもちろんの事、世界の1つとしてソマリランドを国として認めている国は皆無。

外務省の安全ホームページでは危険を表す「赤」だが、それは日本と国交がないためだ。「ソマリランド内で万一のことがあっても日本政府は救助ができないという意味も含めて退避勧告が出ている。


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