代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

伊藤淳さん.jpgのサムネール画像「なぜ今、コンサル辞めてウガンダで起業なのか?」

伊藤 淳
WBPF Training 代表(2014年6月にウガンダにて起業)


 昨年12月に、9年近く勤めたコンサル会社を辞めて、今年1月に東アフリカへ拠点を移し、6月よりウガンダで起業しました。
学生自体には、アフリカにも起業にも社会起業にも国際開発などにも全く関心がなかった僕が、なぜ、アフリカでの起業に至ったのか、その経緯をお話したいと思います。

 思い返せばそれは、偶然に偶然が重なり、人とのご縁が何重にも積み重なった結果生まれたものでした。元来、人付き合いが苦手な自分が(今も得意ではないですが)、たくさんの人に応援頂き、助けられて、今の事業をスタートすることが出来ました。
「人生やキャリアは計画出来るものではない」という一つの事例として参考にして頂ければ幸いです。


乗り物が好きで、エンジニアを目指していた高校・大学時代
 僕は、勉強は全然出来ない子供でしたが、算数と理科だけは好きでした。小さいころから自動車や電車、飛行機などが好きな子供で、そのままエンジニアになりたいと思い、大学では機械工学科を専攻しました。

 大学時代には、F-SAEという学生だけでレースカーを製作し競うというアメリカ発の競技会があり、1年時からその活動に参加していました。普段の大学の講義では味わえないような実践的な経験が得られる大変有意義な場でした。

 幸か不幸か、その実践的な場にいたことで、大学3年生になるの頃には、自分がエンジニアとしては向いていない。そして、一生かけて自分が追い求めるものではないのかもしれないと気づくようになっていました。

 当初は大学院に行って研究を続けるつもりでしたが、エンジニア以外の道も探り、就職活動をした結果、より幅広く色々なことを学びたいと思い、アクセンチュアという外資系のコンサルティング会社に就職することになりました。

 当時、英語は全く出来なかったのですが(大学卒業時のTOEICは400点台)、将来は海外を飛び回る仕事がしたいというのもあり、2005年に外資系に就職しました。


大きな怪我がアフリカへと繋がった
 アクセンチュアで多忙な日々を過ごし、何とか力がついてきた社会人4年目の頃。大好きなスノーボードで、大怪我をしました。1か月の寝たきり生活を含め、職場復帰には3か月かかる重傷でした。

 元来、とても自分勝手な人間なのですが、入院生活の中で、大きな迷惑をかけたであろう友人、職場の人、そして家族からたくさんの優しさ・励ましを頂きました。

 数か月の静養中に思ったことは二つでした。
1.『人生は一度だけ。やりたいことをもっとやった方がいいのではないか』
2.『自分のため"だけ"ではなく、世の中や人に繋がることをやった方がいいのではないか』
ということでした。

 アクセンチュアには、社員の人材育成と社会貢献を目的としたプログラム(VBP:VSO Business Partnershipプログラム)がありました。1999年から実施しており、途上国のNGOや政府、CBOなどに会社のボランティア(無給)として働くというものです。

 自分の力を試してみたい、海外できちんと働きたい、出来れば一般のビジネスでは中々行けないようなところで仕事をしてみたいという想いもあり、このプログラムに応募しました。世界では多くの社員の方が参加しているのですが、日本では私が3人目の参加者でした。

 その後、ボランティア側と受入側(世界中の途上国のNGOや政府など)とのスキルのマッチングが行われるのですが、その結果、私を受け入れることになった団体は、アフリカ・ケニアの田舎、マサイ族の村で地元のマサイコミュニティへの様々な活動を行う小さな地元のNGOでした。電気も水道もないサバンナの真ん中にある場所でした。(近所を歩いていると、運がよい時はキリンやシマウマ、ゾウに会うような場所です)

 これが、僕とっては初めてのアフリカとの出会いであり、かつ9か月の長期滞在となりました。2010年3月のことでした。


ケニアの大地で感じた、アフリカ社会、アフリカ経済への大きな可能性
 ビジネスの経験しかなく、国際開発、国際援助などのバックグラウンドが全くない自分が、いきなり国際援助の草の根活動の末端に放り込まれたのは、驚きの連続でもあったのですが、先入観なく現場を見ることができたという意味でも、とても良い経験になりました。

 その小さなNGOの中で、私は色々なことに関わらせて頂きました。代表的なものだけでも、NGOの組織改革、経営改革、各種プロジェクトの立て直し・運営(小学校の建設、小学校の運営、診療所の立ち上げ、マイクロファイナンスの立ち上げ、Youthビジネスの支援)、会計や人事業務の構築、など本当に様々な活動を行いました。

 これらの活動を通して、自身のこれまで磨いてきたスキルが目に見える形で社会や人の役に立つことを実感しました。また、アフリカ(ケニア)には多くの課題があると同時に、何とも言えない大きな可能性を感じました。


アフリカへの想いを募らせながら悶々とした日々
 帰国後、英語力も向上し、グローバルの多様性の中でのコミュニケーションやプロジェクトマネジメントへの自信がついて、グローバル・プロジェクトで仕事をする機会がぐっと増えました。

 ケニアに行く前は、グローバルで働くといっても、漠然と欧米で仕事をしてみたいと思っていたのですが、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、中東などに出張する機会が増える中で、先進国よりもダイナミックでポテンシャルのある途上国でのビジネスに強く惹かれていきました。また、同じ途上国でもアジアとアフリカの違いを大きく感じることになりました。その中で、ケニアで漠然と感じていたアフリカへの可能性は徐々に確信に変わっていきました。

 また、帰国後から日本のそして世界の社会起業への関心も強くなり、SVP東京という社会起業家への支援・協働を行う団体に所属することにもなりました。

 SVP東京などの活動を通して、同じようにアフリカの可能性を感じ起業した方々、組織の中からアフリカの事業・活動に関わっている方々と多く出会うようになりました。自然と、彼らと時間を共にする機会が多くなっていきました。

 この頃から、少しずつ起業して自分の好きなことに人生を捧げるのも良いかなと思い始めるようになりました。しかし、具体的にアフリカでやりたいことは日本にいていくら考えてみても出てきませんでした。まずは、アフリカに長期滞在し現場の中でニーズを探ることから始めようと考え、そこに繋がる道を模索することにしました。日本企業のアフリカ駐在から、外資系企業のアフリカオフィスへの転職、現地アフリカ企業への転職、そして国際機関や開発機関への転職も含め、様々なチャンスを模索しました。


再度手にしたアフリカで働くチャンス
 そんな中、アクセンチュア社内で日本人でもアフリカで働けるチャンスがあるとの話を聞きました。途上国のソーシャルセクター(NGO、国際機関、政府機関)の団体や機関に対して、通常の営利企業よりは安価な価格でコンサルティングサービスを提供するプログラム(ADP:Accenture Development Partnership)があり、アクセンチュアの社員ならば全世界から応募が可能というものでした。

 ただし、当時、実質的には日本オフィスからの窓口は大きく開かれておらず、2003年から始まったプログラムですが、これまで日本からの参加者は2名だけでした。

 アクセンチュアに所属しながらアフリカに関わるならば、このプログラムしかないと考え、ADPのグローバルの担当者に何度も連絡する中で、幸運にもケニアで働ける機会が回ってきました。

 2013年6月、東アフリカの医薬品のサプライチェーンの拡大戦略を策定するというプロジェクトのプロジェクト責任者として、ケニアの首都ナイロビで仕事をすることになりました。但し、それは3か月という短期間のプロジェクトでした。

 3か月の期間の中で、アフリカで自分が何をしたいのかを見極めたいと考えていましたが、現実は甘くありませんでした。
日本人一人の中で、イギリス人、アメリカ人、ケニア人、エチオピア人、ルワンダ人、マラウィ人を束ねるプロジェクトは、難易度が高く、夜も休日も、文字通り日夜仕事に没頭する日々が続きました。

 また、駐在員として生活するナイロビは、ケニアの田舎を経験した自分にとっては東京で仕事をするのと大きく変わらないと思うようになっていました。

 色々と状況が複雑化するなかで、プロジェクト自体は前に進んだのですが、管理者である私が途中で離脱するという結果になりました。


偶然にもプロジェクトでの大失敗で救われた命
 プロジェクトから離脱することになり、とても落ち込んでいた時に、ある友人(友人とはいえ二回り以上も上の大先輩)から、「落ち込んでいるなら、タンザニアにいるから会いに来なよ。」と言われて、プロジェクト後にタンザニアに向かいました。
 そこで、彼から「プロジェクトを抜けたことも、ここタンザニアで会えたことも、全て意味がある。偶然ではない」と言われ、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)という本を借りました。

 プロジェクトを離脱することになったため、本来であれば9月末までケニアに滞在する予定が9月中旬に帰国するはめになりました。

 私が帰国した3日後、2013年9月21日土曜日、ナイロビのショッピングモール(Westgate)で大規模な爆破テロが起こりました。このショッピングモールは私が住んでいたアパートから徒歩5分のところにあり、土曜日はここで買物をするのが日課になっていました。

 もし、プロジェクトが失敗に終わらず離脱せずにケニアに残っていたならば、僕は事件に巻き込まれていた可能性が高かったと思います。上記のシンクロニシティの話もあり、今、このタイミングでプロジェクトが失敗したこと、タンザニアに行ったこと、などすべてに何か意味があるのではと思うようになりました。


自分と向き合う中で決意を固め、アフリカへ
 帰国後すぐに、お世話になっていた上司から「伊藤、帰ってきたみたいだな。お前にピッタリの案件があるぞ。やらないか?」と電話を受けた際に、口から出ていた言葉は、「いや、会社を辞めてアフリカで起業したいと思っています」でした。

 そんな言葉を発していたのですが、この時点では、まだ強く起業したいとは考えていませんでした。
また、アフリカで成し遂げたい大きなビジョンは明確になっていたのですが、相変わらず、具体的にやりたいビジネスアイデアは見つかっていませんでした。

 しかし、今がそのタイミングなのではないかと感じるようになっていました。

 その後、有給をフルで使い1か月半ほど休む中で、100名近くの方に相談させて頂きました。毎日色々な方とお会いし、相談した内容をメモに纏め、近所の図書館に行きメモと向き合いながら自分の心に問いかけるという作業を毎日毎日繰り返しました。

 お世話になっていた様々な方から、大きなヒントを貰い続けた日々でした。また、これまでの人生の中で、最も自分の心と向き合った期間でもありました。この自分の心への問いかけの作業を通して、アフリカで起業するということを強く決意するに至りました。

 ただし、この時点でも依然として具体的なアイデアはありませんでした。見つからなかったというより、現場に行き自分の足で現地のニーズを感じて紡ぎだす以外に、自分が心から揺さぶられる活動は見えてこないと確信していました。

 2013年12月、アクセンチュアを退職し、2014年1月からケニア・ウガンダに拠点を移し、起業することにしました。
(ウガンダに拠点を移し、なぜ今の「ウガンダ人社会人向けのトレーニング事業」等を始めるに至ったかは、また別の機会にお話しできればと思います。)


プロフィール:
伊藤 淳
WBPF Training(World-class Business Professional Fundamental)代表
Blog: http://ameblo.jp/bellede/
Facebook: https://www.facebook.com/Itojun
LinkedIn: jp.linkedin.com/in/bellede/


(関連記事)
2012年12月9日付フロンティア・フォーラム・アーカイブス「経営コンサルタント辞めて、ベトナムで"パティシエ見習い"になったワケ」(荒島 由也さん、Star Kitchen Inc.社長、ホーチミン在住): http://japangap.jp/essay/2012/12/-star-kitchen-inc.html

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