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日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

「子連れ新興国海外駐在員シリーズ③~新興国で仕事にも家庭にも全力投球という働き方」


後藤 愛
国際交流基金ジャカルタ日本文化センター アシスタント・ディレクター

第3回:「憧れ」を、「目標」に。中学時代の「素敵!」を温めて、大学の交換留学決定まで


皆様、明けましておめでとうございます!

第1回では、ジャカルタに赴任してからの仕事と育児のセットアップについて書きました。
http://japangap.jp/essay/2014/12/post-90.html
第2回では、「小さく100点を取るよりも、60点の環境で成長を続けよう」をテーマにしました。
http://japangap.jp/essay/2014/12/post-91.html
第3回となる今回は、時間を少し巻き戻して、国際的な仕事に興味を持ち始めた中学の頃から、大学3年のときの1年間のペンシルヴァニア大学交換留学までを書いてみたいと思います。

振り返ってみると、私のこれまでの人生は、単純な「憧れ」を、具体的な「目標」に落とし込み、それを実現するための実に地道なステップを踏んできたことの繰り返しだったと思います。そして、今、現在も、このステップを繰り返して、成長し続けたいと願っています。

これからそうした「憧れ」を「目標」に変えていき、そしてもちろん、「達成」していかれるであろう、皆さんの参考になることがあれば、とても嬉しく思います。

それでは、時間を巻き戻して、書いてみましょう。

雅子妃殿下に憧れて「国際的な仕事」を志す
1993年6月。中学1年の時に、皇太子様と雅子様のご成婚が日本中を祝賀モードに包み、お二人のパレードが、私の通っていた中学の近くの新宿通りを通りました。

背が高く颯爽として知的な雅子妃殿下の印象は、この上なく素敵で、私はすっかり憧れてしまいました。

そして、このとき初めて、雅子妃殿下のご結婚前の職業である「外交官」という仕事の存在を知りました。

英語やその他の外国語を使いこなし、日本の代表として、ほかの国との友好的な関係を作るために、日夜働く・・・。なんと、格好がよく、またやりがいのある仕事なのでしょう!雅子様の前職ということは、女性でも就ける仕事なのかもしれないという印象もありました。

また、その後、国際機関で働く明石康さんや、緒方貞子さんのことも報道で知るようになり、外交官に限らず、人類が抱える様々な課題に対して取り組む「国際的な仕事」への強い憧れが芽生えました。

でも、私は、日本生まれ、日本育ち。13歳の時点で、海外に行ったこともなければ、もちろんパスポートも持っていませんでした。

帰国子女でもなんでもない私が、国際的な仕事をするには、どうしたらよいのでしょう??


NHKラジオ基礎英語で地道に英語を学ぶ
そこで、まず考えたのは、とにかく英語を習得することでした。

NHKのラジオ番組に、「基礎英語」というものがあります。毎夕6時前後の決まった時刻になると、20分程度の短時間で、英語を基礎から学ぶことができます。テキストは近所の書店で購入することができ、しかも当時300数十円程度と手に入りやすい価格でもありました。

中学1年のクラス担任はベテランの女性の英語教師のS先生。このS先生が、中学1年の入学式のあとの保護者会で、「英語学習のためには、『基礎英語』をおすすめします」と話したことから、単純に、この基礎英語を聞いて地道に勉強することにしました。

中学1年の毎日夕方、自分の部屋に閉じこもり、ラジオに耳を傾け、コツコツ勉強する日々が始まりました。

このように、実に地味な英語の勉強ではありましたが、苦痛に感じたことは不思議と一度もありませんでした。

雅子妃殿下のイメージが頭にあり、彼女のような颯爽としたキャリア女性になりたい一心です。
人への「憧れ」の力は絶大です。

さらに言えば、すぐ近所に住んでいた母方の祖母からの一言もありました。祖母は、若いときに女学校(今でいう中学・高校)に通っていたけれど、家庭の事情で中退せざるを得ず、英語の勉強が途中で終わってしまっていたのです。

「愛ちゃん。女の子は、英語ができたらいい。きっと仕事にもなる。おばあちゃんは、途中で終わってしもうたからなぁ。」

と言ってくれていたのです。勉強できる環境を、無駄にしたら、もったいない!そんな気持ちでした。

中間テストや期末テストの勉強の際には、どんなに疲れていても勉強が苦にならない英語を後回しにしていたほどです。


「外国の人ともできるから」、硬式テニス部に入部
さらに、中学1年の6月は、部活を決める時期でもありました。

中高の生活の大きな部分を占める部活選び。

私は、小学校のときから続けていて、得意だという自負のあった書道部に入ろうかなとなんとなく思っていました。

けれども、3歳年上の姉に言われたのです。

「中高の部活の花形は、運動系。愛はなんだか軟弱だから、なおさら運動系に入らなきゃダメ!今の自分にすでにできて、楽だからという理由で書道部に絶対に入っちゃいけない。」と。

(まさに、第2回でお伝えした、「60点」の発想法ですね。姉はいつも、鋭い視点から刺激をくれて、感謝しています。)

さらに、母からも「テニスなら海外の人ともできるから、将来役に立つわよ」と言われたこともあって、テニス部に決めました。

これが、学内で1,2を争う厳しさで知られる部活でした。

1年生が素振りと球拾いだけなのは当たり前。

夏でも水を極力飲まない、練習中はもちろん学内で先輩とすれ違ったときにも90度お辞儀など、まさに、バリバリの体育会系ですね(笑)。

(私たちが高校2年生になったときに、トレーニング方法などを見直し、もう少し優しい部活になりました)

身体がもともと強くなかった私は、真夏の練習についてゆくことができず、よく貧血を起こして倒れていました。

貧血で体調が辛いだけであればまだよかったのですが、同学年の仲間から何気なく出た一言が心に突き刺さりました。

「愛ちゃんは貧血になるから、休めていいな」。

言った本人は、特に悪気もなかったのでしょう。しかし、私はまるでサボっているといわれたようで、「好きで弱い身体なのではないのに・・・!」と歯がゆい思いをしました。

その後、練習を重ねるなかで、徐々に慣れてゆき、高校2年に同学年の皆と一緒に部活を引退するときまで、なんとか続けることができました。このときの経験から、集団についてゆけない弱い存在がいることにも自覚的になれたように思います。

(ちなみに、この硬式テニス部の仲間とは、今でも時々集まると、女子トークに花が咲きます。彼女たち曰く、「あの夏の練習を乗り切ったことを思えば、妊娠・出産なんて、全然平気だよね!」と言うから、パワフルです。こんな力強い仲間を得ることができたのも、部活だったからこそ。中学高校の頃に一生モノの友人を作ることにも力を注ぐと、人生が豊かになりますね。)


初めての海外ホームステイ。英語が通じない。そして、文化の壁
そんな厳しい夏の練習から逃れたい気持ち半分、これまで頑張ってきた英語力を試したい気持ち半分で、高校1年の夏に初めてカナダに1ヶ月、ホームステイに行きました。

学内に貼ってあったポスターをみつけて、親に頼んで行かせてもらいました。

日本から、高校生が約10名。引率の先生が1名。

毎日午前は近所の教会で英語学習。午後は課外活動があって、夕方から夜にかけてと週末はホストファミリーとの時間です。

この中で、たくさんの小さな悔しい思いをしました。

たとえば、

得意なはずの英語が思ったほど通じない。
ホストファミリーの5歳の男の子の言うことがほとんどわからない。
自分の希望をうまく伝えられなくて、毎朝同じハーブティを飲むことになる。

・・・などなど、小さな不便や悔しい思いです。

なかでも、文化の違いを目の当たりにした出来事もありました。

ある週末、別のホストファミリーが、一緒に航空ショーを見に行こう、と私を誘ってくれました。

私のホストマザーが、気を遣ってくれ、「このパン美味しいから持って行って」と手土産を持たせてくれたのです。魚味の変わったパン。私も好きでした。

ところが、このパンを持っていくなり、訪問先の20代の長男から、「なんだ、この臭いにおいは!?そのパンが原因だな。こんな臭いものを持ってこないでくれ!」と怒られてしまったのです。

私のホストマザーは、フィリピン系で、親の代でカナダに移住してきた移民2世でした。
一方、訪問先はヨーロッパ系の白人カナダ人の家庭。

食文化が、全く異なるのです。魚の香ばしいにおいを、美味しそうと感じるのか、臭いととらえるのか。それは育ってきた食文化によって真逆の反応でした。

この事例は、本当にちょっとした食文化のすれ違いでしたが、ちょっとした文化の違いで、よかれと思ってした行動が、完全に裏目に出ることもあるのだということを学びました。

こんなに小さなことでも、共感できない人類。
いったいどうしたら、一つの世界に共存共栄できるのか?
そんなテーマに興味を持ち、もっと世界を見てみたい、海外で学びたいという気持ちが募りました。


大学選び、交換留学生としてペンシルヴァニア大学へ
大学選びにあたっては、偏差値だけで選ばず、交換留学制度、それも奨学金のあるところを探しました。

高校2年のときに、外交官の女性が先輩として話をしに来られ、出身の一橋大学は商・経・法・社の4学部のみで学年が1000人程度という少人数で、意欲に満ちた教授と学生が集まっていること、ゼミの制度があって教授と学生の距離が近いことを知りました。大学の雰囲気も自由闊達として、前身が商科大学だったこともあり、学問偏重ではなく、実社会とつながって実践的かつ起業家精神あふれる校風であることにも惹かれました。

また別の卒業生からは、さらに、交換留学制度があり、学内の選考にさえ合格できれば、世界中の提携している大学へ1年間の海外留学をさせてもらえること、しかも如水会、明治産業株式会社および明産株式会社の寄付による返済不要の奨学金で往復の飛行機代と毎月の生活費まで、まかなうことができることも知りました。

これであれば、国立大学の学費(当時年間約50万円弱)を納めていれば、学費が20,000ドルから30,000ドルもする北米の私立大学へ1年間という期限付きではありますが、その大学へ通うことができ、アメリカ人の学生および世界中から集まった留学生らと同じ授業に参加し、単位取得をすることができるのです。取得した単位を、一橋大学の単位に互換し、卒業要件に用いることも可能でした。

東京大学にも試しに電話をして聞いてみたのですが、一橋大学のように学内を挙げての制度というものはないという返答でしたので、私は一橋大学を第一志望にすることにし、その後、無事に合格することができました。

目当ての交換留学制度に応募ができるのは大学2年生からで、渡航は早くても大学3年生の夏から。入学したすぐには、できることはあまりないように見えたのですが、交換留学になんとしても合格するべく、大学に入学した4月から次の手を考えました。

私が考えた手段は、次の2つです。

①英語の学習を続け、真剣に学ぶこと。
②交換留学にたくさん合格者を出している教授のゼミに入ること。

です。

①については、大学1年の夏に、これまた親に頼み込んで、高校1年の時に続いて、人生2度目の海外1か月生活。今度は、日本人が少なそうなボストンを選びました。これが、偶然、ハーバード大学のすぐ横にある語学学校でした。

最初は意識していませんでしたが、毎日ハーバード大学の存在が目に移ります。学生らが、分厚い教科書を抱えて、緑の芝生が眩しくも美しいキャンパスを、堂々と歩いていました。

当時は、まさか自分には縁があるとは思っていませんでしたが、いつしか、「こんな大学で学べたら、どんなに素晴らしいだろうか」という憧れをもつまでに長くはかかりませんでした。
(*この経験から8年後の2007年にハーバード教育大学院へ入学し、この憧れも後日現実のものとなります)

②については、のちのゼミの指導教授となる大芝亮教授の授業に1年生から参加させてもらい、3年生への活動を先取りしてゆきました。

また、交換留学に行っても、在籍期間にはカウントされますので、4年間で大学を卒業したいと考え、大学3年の4月から7月の夏学期には、月曜から金曜の週5日、朝から夕方まで全コマ授業を入れ、週25コマというかなり無理な授業の取り方もしました。

大学生なのに、朝8時50分から夕方17時過ぎまで授業がびっしりという、まるで高校生のような時間割。このときの多少の無理のおかげで、のちには、無事4年間で卒業することもできました。

今の時代に大学選びをする皆さんであれば、最初から海外の大学に入学するという選択肢も検討されるとよいと思います。

上述のとおり、海外の大学は、中でも特に北米は、日本と比べて学費が高いですが、各大学で奨学金のプログラムも多数用意しているようですので、奨学金つきの留学を調べてみるとよいと思います。

また、日本の大学に行った場合にも、私のようなかたちで海外を経験することは十分可能ですので、ぜひ各自が、その先の目標に合った、そして、自分の英語力その他の実力そして経済力から可能な、選択肢を積極的に考えてみてほしいと思います。

こうして、ペンシルヴァニア大学ゆきが決まり、大学3年生の夏に、私は、スーツケース1つをまとめて、フィラデルフィアに向けて出発しました。

これまた、大変な毎日になるのですが、その話は、また次回に・・・!

* * * * *
いかがでしたか?

こうして振り返ってみると、「国際的な仕事がしたい」から始まって、「国内での英語学習」、「1か月月の短期の私費語学留学」、「1年の長期の奨学金つき交換留学」と少しずつ歩を進めてきたのがお分かりいただけると思います。

その途中では、小さな葛藤や悩みは、常にありましたが、「憧れ」の力に支えられて、そして、その都度、周りにいたポジティブかつ現実的な助言をくれる家族や先生の導きによって、一つ一つ、歩を進めることができました。

みなさんも、まずは、「自分は、何に憧れているのか?」「自分にとっての理想の人生とは何なのか?」を考えてみましょう。

そして、その「憧れ」や「理想」を、具体的なステップや手段に落とし込んでみましょう。そうしたら、やるべきことが見えてきます。

それがわかったら、あとは、"行動あるのみ!"です。

今回のお話は、これから自分なりの「憧れ」の実現を目指す皆さんへの応援エールの気持ちを込めて書きました。

皆さんの次のステップのための参考になれば、これ以上嬉しいことはありません。

次回、いよいよ最終回となる第4回は、ペンシルヴァニア大学留学時代、帰国して就職活動、そして国内での勤務、結婚、ハーバード大学教育大学院への留学(フルブライト奨学生)、帰国して出産および産休・育休、そしてジャカルタ赴任が決まるまで、について書いてみたいと思います。ご期待くださいね。

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(関連記事)
2014年12月6日付
No.195:「子連れ新興国海外駐在員~新興国で仕事にも家庭にも全力投球という働き方(第1回)」(後藤 愛さん、国際交流基金ジャカルタ)
http://japangap.jp/essay/2014/12/post-90.html

2014年12月12日付
「子連れ新興国海外駐在員シリーズ②~リスクとは、私たちが成長するチャンスのこと~自分を成長させるための基本姿勢とは?」(後藤 愛さん、国際交流基金ジャカルタ)
http://japangap.jp/essay/2014/12/post-91.html

プロフィール:
後藤愛
国際交流基金ジャカルタ日本文化センター アシスタント・ディレクター

一橋大学法学部卒。大学3年の1年間を米国ペンシルヴァニア大学にて交換留学生として過ごす(国際関係論専攻)。留学1週目に2001年9月の米国同時多発テロ事件が起こったことから異文化間の相互理解に携わることを志す。2003年大学卒業と同時に国際交流基金に就職。日米センター知的交流課にて、米国の大学やシンクタンクとの学術交流事業の助成金管理、セミナーなどのイベント企画・広報に携わった後、2007年~2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院留学(教育学修士、Ed.M)。帰国後、同基金日本研究・知的交流部欧州・中東・アフリカチームにて欧州、中東地域との知的交流事業に携わる。2010年長男出産。産休・育休を経て2011年職場復帰。日本で約10か月間ワーキングマザーとして働いたあと、2012年2月よりインドネシアのジャカルタに1歳9か月の長男を連れて子連れ海外駐在員

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