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多種才々なイノベーター達のエッセイ集

「子連れ新興国海外駐在員シリーズ④~米国同時多発テロの混乱、"やりたいことがわからない"を経て、"相互理解のための国際交流"との出会い」


後藤 愛
国際交流基金ジャカルタ日本文化センター アシスタント・ディレクター

第4回:米国同時多発テロの混乱、「やりたいことがわからない」を経て、「相互理解のための国際交流」との出会い

読者のみなさん、これまで第3回(下欄参照)までお付き合いいただき、ありがとうございます。
第4回となる今回は、アメリカ留学で遭遇した「2001年米国同時多発テロ事件」と、そこから得た自分の「原点」そして、就職活動に至るまでをお話ししたいと思います。

ペンシルヴァニア大学1年間の留学の最初の週に米国同時多発テロ事件に遭遇。
大学3年の交換留学は国際関係論の中心地であった米国を希望し、かつ政治に近い東海岸ということで、フィラデルフィアにあるペンシルヴァニア大学へ行きました。
(前回の記事に書きましたとおり、学費は国立大学の学費を納め続けるのみ。生活費は奨学金で賄いましたので、日本で在学するのと比べて追加の自己負担は限りなくゼロに近い留学です。)

1か月ずつだった高校1年と大学1年の語学留学と比べて、初めての長期留学です。緊張と期待でいっぱいです。学生寮に3人のルームメイトとともに住みました。

大学の新学年が始まる9月の第2週。火曜日の朝8時過ぎのことです。

「今日はどの授業に行こうか」とルームメイトとのんびり話していたら、リビングの電話が鳴りました。

「Ai、東京のご両親から国際電話よ」。
電話に出ると、「よかった!部屋にいたのね。テレビ見てる?」
「これから授業なんだから、テレビなんて見ていなけど、どうかした?」
「ニューヨークで、飛行機がビルに突っ込んだのよ。ニュース見て。それじゃ!」

何事かと思いながら、ニュースをつけると、ニューヨークの高層ビルが煙を上げ、アナウンサーが絶叫しています。渡米直後の私には、困ったことに、この英語がまったく聞き取れません。

ルームメイトを呼ぶと、ニューヨークのブルックリン出身のアフリカ系アメリカ人の彼女の顔が引きつりました。「Oh my god! Oh my god!!!!」と叫び、目を大きく見開き、棒立ちのまま、動かなくなってしまいました。

間もなく、私たち2人の目の前のテレビ画面の中で、2台目の飛行機が、ツインタワーに突っ込み、やがてビルは崩れ落ちました。

「いったい、何事??これは、事故ではない・・・」
背筋が凍りました。

これが、アメリカ主導による長くて出口の見えない「テロとの戦い」の幕開けとなる、2011年9月11日の朝でした。

大学は、その日のうちに午後はすべて休講。

「フィラデルフィア市内の歴史的な場所はテロの標的になる可能性があるため、近づかないように。」「高層の学生寮で安心できない寮生は、低層の寮に一時的に移転してよい。」

そういったEメールが、大学の事務局から次々メールボックスに入ってきました。 

フィラデルフィアは、テロの標的となったニューヨークと、ワシントンDCのちょうど中間に位置し、どちらの都市にもバスや電車で2時間程度で行ける近距離です。またハイジャック機のうち1機は、同じペンシルヴァニア州の西部のピッツバーグ郊外に墜落していました。

キャンパスを行き交う学生や教授陣の顔色は青ざめていました。全米ナンバーワンを誇る学内のウォートン・ビジネス・スクールの卒業生からは、世界貿易センタービルで勤務していた犠牲者も多くいたことから、この事件は私にとっても、テレビの中の出来事ではなく、非常に身近な事件として感じられました。

数週間のうちに、大学の周りの商店や個人宅では、アメリカの星条旗が多数掲げられ、「United We Stand」(私たちは共に立ち上がる)の標語で埋め尽くされました。

日本でも、小泉首相(当時)が米国ブッシュ大統領への協力を早々と表明し、東京でもテロ追悼集会が開かれるなか、私は極めて微妙な心境でした。

テロリストは悪者。悪者を、退治しなければならない。
ひとつの正論でしょう。

けれども、たとえば、寮にいたイスラエル人の留学生は「これまで中東の問題を放っておいて、ニューヨークが現場になった途端、本気になるんだ」とあきれ顔。アメリカ国内の少数派であるアフリカ系やアジア系の学生は、「これでまたアメリカ国内で差別が広がらないか心配だ」と暗い顔。

大手メディアに発信される大きな話をそのまま自分の世界観とするのではなく、現場でどのような人たちがいて、何を考えているのかを、自分の目と耳で知ったうえで、考えなければいけないと強く思いました。

そして、このような不寛容、無理解、攻撃的で、独善的な言説ばかりが地球を覆っていくことへの不安感と危機感が芽生えました。

空港の手荷物検査では、明らかにイスラム教徒とみられる服装の人や、中東系の顔立ちをした人ばかりが検査室に呼ばれていきます。これは、アメリカが長らく戦ってきたはずの人種差別への逆戻りではないのだろうか?これから世界はまた冷戦時代のような緊迫と相互不信の情勢になってしまうのだろうか?

毎日の英語での授業と、自室の机に高々と積みあげられた電話帳何冊分もの分厚さの読書課題をこなしていていくだけで精いっぱいの私には、もどかしさと無力感だけが募りました。

小さな正義感だけでは、何もできない。まずは、自分が英語力を高め、経験を積み、何か、人類の相互理解のための仕事をしたい。そう思いました。このときの思いは、私の原点になりました。


ボストンでは鳴かず飛ばずの就職活動~「何がしたいのかわからない」期間
そうこうするうちに、秋から冬になり、留学期間を含めて4年で大学を卒業したかった私は、そろそろ真剣に就職を考えなければなりません。

日本人留学生のためのボストン・キャリアフォーラムにも参加してみましたが、2001年は、米国同時多発テロの影響で、参加する日系企業が前年と比べて数分の一という不況。

さらに、私の学んできた「国際関係論」という専門では、「マーケティング」や「営業」や「財務」など企業実務に直結することを学んできた学生らと比べて、まったく太刀打ちできません。

このままでは、アメリカまで来て一生懸命勉強したけれど、仕事にならないのではないか・・・と打ちひしがれて、キャリアフォーラムの会場を後にしました。

自分がしたいと思っていた「国際的な仕事」とは、何なのか。具体化しなければなりません。

大学4年の5月に交換留学を終えて日本に帰国してからも、「自分のやりたいことがわからない・・・」と途方に暮れました。

海外展開をしている日本のメーカーや、東京に支社のある外資系コンサルティング会社など20社くらいにエントリーをしましたが、ウェブエントリーだけで不合格となった某人気メーカー。最終面接まで行ったものの、「君はアカデミックなことや国際貢献に興味があるようだけど、本当にサラリーマンになりたいの?」という問いに言葉に詰まり、最終面接不合格となった某メーカー。試験のみで不可だった外資系コンサルティング会社・・・・。

めげずに活動を続けるのは、本当に根気がいりますね。


「相互理解のための国際交流」との出会い。就職へ
そんななか、学生時代に一番力を入れ、興味が強かったことは何か?と自問を繰り返したときに、「国際交流」というキーワードに思いいたりました。

そのまま仕事になるとは想像しづらかったのですが、大学の就職情報室のパソコンの前に座り、試しに検索サイトに「国際交流 採用」と入力して検索してみました。いろいろな団体が出てくる中で、国際交流基金のことを知り、ちょうど募集活動をしていることがわかったので、急いで履歴書を準備し、応募書類を送りました。

調べてみると、大学1年生のときに参加して、ドイツで2週間を過ごした、日独学生交流のサークルは、ドイツ側では国際交流基金ケルン日本文化会館の支援を受けていたことを知ります。

また、大学1,2年生の時に力を入れていた模擬国連という学生活動も、全米派遣団というニューヨーク本部に学生を送る活動については国際交流基金から助成を受けていたことがわかりました。

ケルン日本文化会館は、自分も訪独した際に訪問していましたし、全米派遣団は自分は行かなかったものの、友人を送り出していたため、どちらも活動内容のイメージはすでに掴んでいました。

日本と世界の相互理解、そのための文化交流のための団体であることを理解し、就職活動の第一志望にしました。この職場であれば、自分が学んだことを生かし、何かできるかもしれないと直感的に考えました。

その後、筆記試験と2回にわたる面接試験を経て、縁あって、採用内定をいただくことができ、就職が決まりました。

大学4年生の5月に帰国してから、夏には内定を得て就職活動を終えましたので、実質的には3,4か月間という短い期間の就職活動でした。活動の最中は必死で辛かったですが、終わってみればあっという間の就職活動でした。

これから就職活動を控えている学生さんや、今まさに就職活動真っ最中という方には、ぜひ、度重なる不合格にもめげずに、自分のできることを探して、一歩ずつ前に進んで行ってほしいと思います。

「やりたいことを仕事に」とは、すでに10年以上前である私の就職活動のころから言われていました。今の私は、このメッセージは、ちょっと違うんじゃないかなと思っています。

どちらかといえば、「得意なことを仕事に」と考えるのがしっくりくるのです。

つまり、ほかの多くの人と比べて、自分がより良いパフォーマンスを出せることを探してみる。もちろん、興味があったりやりたかったりすることであれば、より良いパフォーマンスを引き出すきっかけにはなるでしょう。

けれども、「やりたいこと」や「好きなこと」とは、あくまでも自分の都合。一方、仕事は、雇用主や顧客があってこそのものです。その相手のニーズに合っている価値を提供できれば、仕事になるし、ニーズに合っていなければ、仕事にならないからです。

さらに言えば、「得意なこと」に加えて、「あなたがどこに呼ばれているか」も意識してみると良いかもしれません。これは高校時代の恩師の言葉です。

「呼ぶ」は、英語では「Call」。英語で天職のことを「Calling」と言います。

あなたの素質や才能を「ここなら生かせるよ」と、あなたを呼ぶ声が、雇用主やお客様から聞こえてきたら、そこに身を置いて、試してみるというわけです。私もまだまだ、自分の貢献できるポイントを日々探す毎日ですが、みなさんも、そういった回りからの建設的な声にも耳を傾けつつ、ぜひあなたなりの道を探してみてくださいね。

*  *  *  *  *
ここまで、お読みくださって、ありがとうございました。いかがでしたか?

今、留学するか否か、迷っている読者の方には、こう言いたいです。

「迷っているなら、行きなさい」、と。

選択肢の先に、どのような人生が展開しているかは、行ってみないとわからないのですから。ぜひ、自分の可能性を信じて、具体的な一歩を踏み出してみてはいかがでしょう。
きっと、新たな視界を手にできるはずです。

*  *  *  *  *
いよいよ最終回となる次回は、仕事を始めてから、結婚と2度目の留学(修士号)を経て、ジャカルタへの子連れ駐在員に至るまでを書いてみたいと思います。
ぜひお付き合いくださいね。


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(関連記事)
2014年12月6日付
No.195:「子連れ新興国海外駐在員~新興国で仕事にも家庭にも全力投球という働き方(第1回)」(後藤 愛さん、国際交流基金ジャカルタ)
http://japangap.jp/essay/2014/12/post-90.html

2014年12月12日付
「子連れ新興国海外駐在員シリーズ②~リスクとは、私たちが成長するチャンスのこと~自分を成長させるための基本姿勢とは?」(後藤 愛さん、国際交流基金ジャカルタ)
http://japangap.jp/essay/2014/12/post-91.html

2015年1月6日付
「子連れ新興国海外駐在員シリーズ③~"憧れ"を、"目標"に。中学時代の"素敵!"を温めて、大学の交換留学決定まで」(後藤 愛さん、国際交流基金ジャカルタ)
http://japangap.jp/essay/2015/01/post-93.html

プロフィール:
後藤愛
国際交流基金ジャカルタ日本文化センター アシスタント・ディレクター

一橋大学法学部卒。大学3年の1年間を米国ペンシルヴァニア大学にて交換留学生として過ごす(国際関係論専攻)。留学1週目に2001年9月の米国同時多発テロ事件が起こったことから異文化間の相互理解に携わることを志す。2003年大学卒業と同時に国際交流基金に就職。日米センター知的交流課にて、米国の大学やシンクタンクとの学術交流事業の助成金管理、セミナーなどのイベント企画・広報に携わった後、2007年~2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院留学(教育学修士、Ed.M)。帰国後、同基金日本研究・知的交流部欧州・中東・アフリカチームにて欧州、中東地域との知的交流事業に携わる。2010年長男出産。産休・育休を経て2011年職場復帰。日本で約10か月間ワーキングマザーとして働いたあと、2012年2月よりインドネシアのジャカルタに1歳9か月の長男を連れて子連れ海外駐在員

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