代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

【JGAP寄稿者短信"拡大版"】「あのとき、いま、これから ~東北被災地での活動報告~ 」

堀米 顕久
(大分大学医学部医学科・2012年度 BADO! 世界を旅するチェンジメーカー奨学生)

 JGAPをご覧の皆さま、こんにちは。

 昨年8月に「フロンティア・フォーラム」欄にエッセイを寄稿させていただきました、世界を旅するチェンジメーカー奨学生の堀米顕久と申します。

 病気や障がいを抱える子どもたちの居場所づくりを模索して、国内・国外の医療施設・福祉施設・野外体験施設等への視察・ボランティアの旅をしながら情報発信を続けていますが、今回は2012年5月~7月と2013年3月にボランティアとして訪れていた東北被災地の現状や活動についてご報告させていただきます。


東北被災地の現状とボランティア活動 
 私が初めて東北被災地を訪れたのは、今回の旅の途中の2012年5月のことです。この時は、以前から繋がりのある東京の国際NGOであるNICE(日本国際ワークキャンプセンター)のボランティアとして、約3週間の間、岩手県陸前高田市に入りました。

 陸前高田市は、太平洋岸沿いの平地に市の中心部が集積していた街でした。そのため、震災による津波で市役所・基幹病院が丸ごと被災し、市の家屋の7割以上が被害を受け、約1割の住民が亡くなりました。
 最初に訪れた2012年5月は、震災から1年以上が経過しているにもかかわらず、がれき処理も十分には進んでいませんでした。被災した人々は、ひとまず仮設住宅に移って暮らしてはいましたが、元々の土地は未だ被災したままで、新しく住む場所も決まっておらず、今後どこで何をすればいいか全くわからない状態でした。

 ボランティアの仕事については、地域の社協等が中心となって設立したボランティアセンターが住民からのニーズを取りまとめ、ボランティアに割り振っていきます。NICEは、個々のメンバーのマイナーチェンジはありつつも、2011年4月から1年以上継続してボランティアに入っている団体ということで様々な仕事を任せてもらっていました。

 例えば陸前高田市は、牡蠣の養殖が盛んな町でした。津波で牡蠣養殖用のいかだがすべて流されてしまったため、養殖業者を含めて漁業者の2/3が震災後に漁師を辞めてしまったそうです。そんな中でも、何とか地場産業を復活させようと牡蠣の養殖に再度取り組む漁師さんたちがいて、NICEだけでなく多くのボランティアが、いかだ作りから種牡蠣の準備まで、牡蠣養殖の一連の行程を手伝っていました。
http://ameblo.jp/mylifeasapig/entry-11369098304.html

 あるいは、流された住宅跡地を畑や花壇として蘇らせる活動も行ないました。海沿いの、海抜の低い地域は、津波の危険があるので家を新築することができません。でも、代々受け継いできたその土地を、家が建てられないからと言って荒れ放題のまま放置することは心苦しく、かと言ってすべてを一人で行なうのは難しいので、ボランティアセンターにニーズとして上がってきます。プラクティカルには利益を生まないように思える活動ですが、被災地の人たちが心穏やかになれるように、また前を向けるように、そんなお手伝いをすることもありました。
http://ameblo.jp/mylifeasapig/entry-11369152574.html

 また、こちらはボランティアセンター経由ではないですが、学校の校庭が仮設住宅で埋まってしまい、自由に遊べる場所がなくなってしまった被災地の子どもたちのための遊び場作りや、野外キャンプ等にもいくつか関わらせていただきました。
http://ameblo.jp/mylifeasapig/entry-11317404946.html


ようやく2年が経過したけれど... 
「おばあちゃんには悪いけど諦めてもらえ!お前らだけでも逃げて助かれ!」

そう叫んだことが、頭を離れないといいます。

 震災当時、地元の消防団員として、地震のあと津波が来るのがわかっていたから必死で避難を呼び掛けて回って、それから自分自身ももちろん逃げました。避難先である高台の小学校への坂を上っている途中、後ろから津波が迫っているのが見えて、それと同時に、坂の下の方でおばあちゃんを助けながら登っている若者数名が見えて、でも津波は彼らのすぐ後ろまで迫ってきていて...。




 津波の第一波が去った後、町は跡形も無く壊れてしまっていて、さっき駈け上がってきた坂の途中では津波にのまれて倒れて死んでいる人がいて、でも良く目を凝らすと、かろうじて生きているらしく、蠢いている人たちもいて...。
 生き残っている人を助けようと、消防団員でまだ動いている人のところに駆け寄ったとき、

「悪いが、(津波の)第二波が来たらおれは真っ先に逃げるぞ」

と、他の団員たちにはっきりと言ったのだといいます。
 その時はもう全てが狂っていて、自分や周りの言ったこと・したことが仕方なかったとも思うし、でも今でも、あの時の自分は間違ってたんじゃないかとうなされることもあるのだといいます。
 そんな、仮設住宅で食事をご一緒させていただいた、震災当時消防団にいらっしゃった方からのお話...。




 「あれから2年が経過した」と外部の人間は客観的に捉えますが、地域の人たちにとって、「まだ2年しか経っていない」というのが実際の心情なのだと思います。
 いつまでも下を向いているわけにもいかなくて、どこかで何かをしたいけれど、何かをしなければならないとわかっているけれど、でも仮設住宅以外に住むべき土地も見つからず、生活も不安定で、どこで何をしたらいいかわからない状態にある人もいるのかもしれません。
 少なくとも多くの人は、まだ気持ちの整理すらついていません。心は震災に取り残されたまま、何もしないわけにはいかないからとりあえずできることを始めているだけで、ふとした瞬間、例えば同じ境遇の、同じく被災した人たちが集まって飲んだりしているときに、堰を切ったように当時のやり切れない思いが溢れてきて、背負わされた十字架が彼らに何度も重く圧し掛かってきます。
 そんな風に、現地の人たちにとって震災は過去の出来事にはなってはおらず、まだ被災下という進行形の中を、苦しみながら生きていました。

 私は今更外部から来て、数週間のボランティアをするだけの身です。自分の分をわきまえて、ただ、話して下さる方の話に、真剣に耳を傾け続けて...。


ボランティアのいる意味
 私は、これまで日本でも海外でも多種多様なボランティアに取り組んできましたが、今回ほど、ボランティアの無力さを痛感したことはありませんでした。被災地の傷は広く深く、自分たちが何かをすれば、すぐに何かが変わったり、成果が見えるものでもありません。そういう意味で、「震災ボランティア」「復興ボランティア」とは何なのか、自分たちに求められていることは何なのかを考え続けながらの活動でもありました。

 一つ一つの作業をしているとき、例えば草取りをしているときに、ふと「これって重機を導入して一気にやってしまったほうがずっと効率的なのでは...」と思うことがあります。でも、ボランティアが被災地に来て活動することは、ただ「作業」をしてハード面の成果を出すことだけが目的ではないのだということを、NICE内で話し合いながら、あるいはボランティアセンターで働く地元出身の方から話を伺いながら、考えるようになりました。

 それは例えば、地域の人たちと一緒に働く中で、交流をするということ。親族や友人が流されたり、家が流されたりして、近所の人とのネットワークが全部なくなってしまった地域の人と、たとえ庭の草取りでもいいからボランティアが一緒にやって汗をかくことで、彼らが人と話したり、人の温かさに触れたり、改めて人との繋がりを築いたりして、いつかまた前を向くことができるかもしれないから。
 あるいは、ボランティアが今も全国から集まって活動している姿を、地域の人に見てもらうということ。その姿を見せることで、まだみんな陸前高田のことを忘れてない、応援しているんだってメッセージを伝えることができるから。そしてその事実が、被災地の人たちを元気づけることに繋がるから。
 すべては、被災地の人たちの心の復興のため、彼らがまた前を向いて歩き出すきっかけになるためなのだと思います。

 例えばいかだ作りのボランティアをして、後日、別の場所で地域のおじいちゃん・おばあちゃんと話しているときに、ふと言われたことがあります。

「広田湾にいかだが浮かぶとね、あぁ、あの日常の風景が戻ってきたなって思えてホッとするんだ。ここに住む人間にとって、広田湾にいかだが浮かんでいるのがいつも当たり前だったから...」

 そんな風に、皆で作っては広田湾に浮かべていたいかだは、牡蠣養殖の再開という産業復興を担うのみならず、地域の人たちの心の拠り所となる役目をも担っていたのでした。


あのとき、いま、これから ~東北被災地と関わりを持たせてもらった人間として~
 震災が起こった当時、私は福岡で銀行員をしていました。地震直後からtwitterのタイムラインを追い、NHKのUst配信を見ながら、でも自分では何もできなかったあのときの歯がゆさを、今でも鮮明に覚えています。
http://ameblo.jp/mylifeasapig/entry-11185921655.html

 それから1年越しに、ようやく被災地に行くことができて、今年の3月までに合計で1ヵ月強のボランティアを行なってきました。NICEやその他の活動で現地を歩き、地域の人と一緒に汗をかく中で気付いたのは、確かに月日が経過して、ハード面では徐々に片付いてきているけれど、地域の人たちにとって震災はまだついこの間の出来事のようで、集まって話すと、まだ皆の心は地震・津波とその後の混乱の中にある、ということでした。
 だから、ボランティアに必要なのはきっと、彼らの心の復興を支援するということ。彼らとしっかりと関わりながら、いかだ作りや住宅跡地の花壇作りのような、一つ一つの活動をゆっくりとでも着実に人の手で行っていくこと。そんなボランティアの姿を見せて、また彼らとの関係性を深めていきながら、無理やりにではなく、彼らが自発的に前を向くきっかけになるよう地道な活動を続けていくことなのだと思います。

 2013年4月から九州での2度目の大学生活を始めて、東北から距離は離れてしまいましたが、今後も継続的に、これまで関わりを持たせていただいた人や活動を再訪していくことが、一度東北被災地と関わりを持たせてもらった人間の使命なのだと思っています。距離的・時間的制約はありますが、今後もこれまでの活動と子ども関係の活動を少なくとも数年間は継続していきながら、微力でも、被災地の人たちが前を向いて歩き出すきっかけになれればと思います。

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以上、簡単ですがご紹介、ご報告になります。
プログラム中に各組織を訪問した際の感想や写真等については当方のブログ上に掲載しておりますので、ご興味のある方はそちらもご覧いただければ幸いです。
(参考:http://ameblo.jp/mylifeasapig/entry-11343355848.html

また、もし本記事をお読みになりご質問等ございましたら、わかる範囲でお答えいたしますので、気兼ねなくご連絡をいただければと思います。
(次回以降のSIISプログラムの予定や、参加に関するお問い合わせ等もウェルカムです)

連絡先:akihisa.tabi●gmail.com ←●を@に変更してください


プロフィール
2007年北海道大学農学部卒。有機農業2年・大手銀行勤務5年(札幌・鹿児島・福岡)を経て、現在は大分大学医学部医学科に在籍。銀行員時代の2008年、難病の子どもを対象とした子ども野外キャンプ(そらぷちキッズキャンプ)に参加しキャンプリーダーを務める。以降、同キャンプの参加を続ける中で医学の道を志し、2011年10月に銀行を退職し大分大学医学部に編入学。2012年4月から1年間休学し、日本中・世界中にある病気の子ども向け野外体験施設・医療施設・福祉施設等の視察・ボランティアの旅に出る。また旅に際して、BADO株式会社から「世界を旅するチェンジメーカー奨学生」として支援を受ける。将来は小児科医として働くとともに、病気の子どもを対象とした野外キャンプの実施や、子どもたちの居場所づくりについて模索中。

■「フロンティア・フォーラム」欄No.80:「子ども×自然×医療:銀行員は医師を目指して"旅人"になる」寄稿
http://japangap.jp/essay/2012/08/-2012-bado.html

■JGAP寄稿者短信:「病気の子どもと家族のための"滞在型アミューズメント施設"Give・Kids・The・World・Villageでの活動報告」
http://japangap.jp/info/2012/10/jgapgive-kids-the-world-village-where-happiness-inspires-hope-2012.html
■JGAP寄稿者短信:「世界で最初の小児ホスピス -英国ヘレン・ダグラス・ハウス- の視察報告」
http://japangap.jp/essay/2012/12/post-37.html

■JGAP寄稿者短信:「子どもたちのもうひとつの居場所 ~NPO法人フリーキッズ・ヴィレッジのこと~」
http://japangap.jp/essay/2012/12/post-38.html

Blog:http://ameblo.jp/mylifeasapig/
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(注1)BADO!旅の企画書:http://www.bado.tv/cp2012s/view/49

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