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多種才々なイノベーター達のエッセイ集

最終回:「子連れ新興国海外駐在員シリーズ⑤ 社会人1年目にはトイレで泣いたことも。そこから得た「気づき」と『30歳までの5か年計画』とは?」


後藤 愛
国際交流基金ジャカルタ日本文化センター アシスタント・ディレクター

第5回:「社会人1年目にはトイレで泣いたことも。そこから得た「気づき」と『30歳までの5か年計画』とは?」

読者のみなさん、これまでの過去全4回をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、いよいよ最終回。
第1回では、ジャカルタに赴任してからの仕事と育児のセットアップについて書きました。
第2回では、「小さく100点を取るよりも、60点の環境で成長を続けよう」と書きました。
第3回は、「憧れ」を、「目標」に変えて、ひとつひとつハードルをクリアする方法をお伝えしました。
第4回は、アメリカ留学で遭遇した「2001年米国同時多発テロ事件」と、そこから得た自分の「原点」そして、就職活動に至るまでをお話ししました。(リンクは下記参照)
最終回となる今回は、仕事を始めてから、結婚と2度目の留学(修士号)を経て、ジャカルタへの子連れ駐在員に至るまでを書いてみたいと思います。


新社会人1年目。最初の部署では、上司に叱責され、トイレで泣いたことも。
 入社1年目。当時、港区赤坂にあった高層ビルの国際交流基金本部に、私はグレーのスーツに黒い革靴を履いて、意気揚々と出勤しました。ピカピカの新社会人生活の始まりです。

 しかし、仕事というものの勝手がわからず、学生時代の延長線上で考えてしまい、会議の席で、組織にとっては意味のない自説を展開するなどの失敗を犯しました。

 中には、私があまりにしつこく自説ばかり展開するので、「いい加減にしろ!これはいったい誰のための仕事なんだ!」と上司に一括され、トイレに駆け込んで泣きました。
まるで、テレビドラマのようですが、本当にあった話です。(笑)

 この出来事の直後は、自分を正当化する言い訳ばかりを考えていました。

 しかし、その後、このうまくいっていない状況を周りのせいにするのではなく、自分にできることは何なのか?と内省しました。売れていそうなビジネス書を買い集めて多読しました。

その結果、

「上司の目線で仕事を眺める」

「自分のやりたいことを主張するのではなく、どうしたら自分が組織に貢献できるかを考える」

といった職業人としての極めて基本的な態度が必要だったのだと気づきました。
自分の至らなさを客観視し、全体を見て考え行動することを心がけるようになりました。

 部下を持つ身になって思うのは、当時の私は頭でっかちで、さぞ使いにくい部下だったろうなということです。(苦笑) 

 そして、あのとき、適当に見逃すのではなく、「あなたは間違っている」とはっきり伝えてくれた上司、そして、職場で泣くという失態があっても見捨てずに、「頑張りなよ」と支えてくえた先輩たちには、大感謝です。

 この上司とは、数か月後に、私から一対一でお話しする時間をお願いし、「足りないところを率直におっしゃってください。学びたいのです」と素直にお話ししたところ、具体的に書類に使う文章の書き方や、社外人脈を作る方法といった熟練の技を伝授され、かつ、最後には大学院留学という夢を応援していただけるまでになりました。

 人間関係は、第一印象が肝心とは言いますが、一度や二度の出来事であきらめることなく、相手の立場に立ち、時には懐に飛び込んで、粘り強く自分の努力で関係づくりを行えば、どこかで分かり合える瞬間があるのかもしれません。

 皆さんも、人間関係で悩んだら、このエピソードを思い出してみてください。

 私にとっては今でも思い出すだけで、赤面してしまう話ですが、皆さんの参考に少しでもなるのであれば、恥ずかしい思いをした甲斐もあったというものです。(笑)


2年目の秋に、初の海外出張でアメリカへ。ハーバード大学で目標の前で記念撮影。3年後に、実現。
 入社2年目、2005年の秋に、10日ほどのアメリカ出張の機会を得ました。支援しているアメリカの大学やシンクタンクを訪問し、プロジェクトの進捗状況をヒアリングし、東京に向けて報告を書くこと、翌年度のプロジェクトに至りそうな事業の種を見つけてくることがミッションです。

訪問先には、たまたま、ハーバード大学も含まれていました。

 教授らとの面談が終わったあと、同行してくれたニューヨーク事務所のアメリカ人スタッフにカメラを渡し、ハーバード大学のキャンパスを背に写真を撮ってもらいました。私が1人で嬉しそうに映っていて、いかにも「この大学で学んでいます」といういい感じの写真が撮れました。

 大学卒業時に、大学院進学もしたいという希望もあったのですが、大学の指導教授に「仕事の経験を積んだうえで、大学院で学ぶ方が絶対に良い」と助言されたこともあり、仕事の経験を積みながら、近い将来、海外の大学院で修士号を取りたいというのが一つの目標でした。

 ここで撮った写真を東京の1人暮らしの自室の壁に貼り、「ハーバード大学の大学院に留学して、この写真の自分を実現しよう!」という目標の自己像に定めました。


修士号留学への挑戦1回目はあえなく不合格。あきらめずに再チャレンジして、2度目のアメリカ留学へ。
 さあ、これで目標も定まったことだし、あとは実践あるのみ!と、調子に乗って職場の海外留学制度(注:その後制度は廃止)に応募したところ、まさかの不合格。もっと留学目的が明確で、職歴も長く、組織にしっかり貢献していた別の候補者がいたためでした。

非常に落胆し、目標を見失いました。目の前が真っ暗闇になったような感覚です。

 けれど、ここであきらめては、それで終わりになるだけ。そう思いなおして、次の年に狙いを定め、留学目的をより明確に、「ハーバード大学教育学大学院の修士課程で国際教育政策を専門とし、国際相互理解のための教育プログラム作りを学ぶ」として、帰国後の職場への貢献ポイントもアピールして、申請を出しなおしました。

 そして、写真を撮ってから2年後にあたる2007年。努力の成果が実りました。

 職場内の選考と、そしてこの年は並行して出願していた米国政府奨学金「フルブライト奨学金」に合格し、職場に籍を置きながらハーバード大学教育大学院へ留学し、1年間で教育学修士号(Ed.M)を取得して、2008年には日本へ帰国しました。

 なお、2006年秋には結婚していたのですが、一度目の留学挑戦に不合格になった際、私が「結婚も決まったし、もう留学はしなくてもいいかなぁ」と中途半端な発言をしたときに、「そんな理由で、自分の夢をあきらめてはだめだ」と叱咤激励し、可能性を広げてくれた夫には、これまた感謝です。


目標を思い出させてくれる秘訣。25歳のときに立てた「30歳までの5か年計画」とは?
 「なぜ、そんなに生き急ぐの?」と聞かれたことがあります。20代のうちに留学、就職、結婚、そして二度目の留学、と忙しく歩を進める私を不思議がった友人からの言葉です。

 実は、私は、25歳のときに、ひそかに「30歳までの5か年計画」を立てていました。

すなわち、30歳までに:

①自分の家族をもつ(結婚→できれば出産まで)
②欧米の大学で修士号を取る

というものです。

できるかどうかはわからなかったのですが、とにかく目標として立ててみました。

 3人姉妹の真ん中として育ち、近所には祖父母もいて、大家族に囲まれて育った私は、アメリカでの寮生活や1人暮らしでは寂しさが身に染み、「Aiはいつもホームシックだね!」と友人たちからからかわれるほどに、「寂しい寂しい」とよく周りにこぼしていました。(笑)

 この経験から、自分はおそらく、1人でもやっていける強いタイプの女性ではないのだろう、と自己分析しました。そう考えると、女性として「仕事を続けてゆきたい」という目標と並んで、一人の人間として「一緒に毎日を分かちあう家族をもちたい」と願い始めたのは、とても自然なことでした。
(これもまた、できるかどうかは別として、まずは願ってみました。)

 できれば30歳くらいまでには出産ができたら理想的かもしれない、と考えると、修士号は28歳ごろまでに、それであれば26歳か27歳で大学院入学と奨学金を確保しよう、と理想的な時間軸を考えてみました。
(これまた、できるかどうかは別として、まずは理想をイメージしてみました。)

 そう考えると、のんびりしている時間は、あまりなかったのです。

 必ずできるという保証はどこにもありませんでしたが、まず自分が精いっぱいの努力をし、健康を保てれば、できるかもしれない。その可能性を試してみることにしました。

 実際、修士号留学の不合格や、ほかにも途中の失敗や挫折はいろいろとあったのですが、幸運なことにその都度、いろいろな方に支えられ、振り返ってみれば、なんとか、少しずつではありましたが、一つずつ地道に歩を進めてきたことになります。

(とはいえ、日常的に同僚と交流したり、友人たちと出かけたり、そういった時間は極力確保し、一方で留学準備のための英語の勉強などは、職場への行き帰りの通勤電車の中で集中して行いました。)


修士号を取得後、帰国して仕事再開。産休・育休を経て、仕事復帰へ。
 2008年6月、修士号を取得。ハーバード大学の名高い卒業式にも参列した翌日に帰国し、東京での仕事を再開しました。上司や同僚に恵まれ、やりがいのある日々でした。

 2010年に長男を出産。実に、自分の30歳の誕生日の2週間前でした。気づいてみれば、25歳のときに考えていた期日に合わせるかのように、叶っていたことになります。

 産休・育休を取得して、翌年4月に息子が10か月の時に保育園に入れたのと同時に、日本での実に慌ただしいワーキングマザーライフが始まりました。

 そして、最後は、第1回でご紹介した、ジャカルタでの子連れ駐在員に至る、というわけです。

 ここに書いた以外にも、失敗談やエピソードには実に、事欠きません。

 計画を立てたからといって、計画通りに進まないことも、もちろんあります。

 私の場合も、就職活動に苦労したこと、新社会人としての壁にぶつかったこと、修士号留学の1回目は不合格になったことなどは、どれも計画外であり、小さな失敗でした。

 けれど、計画があれば、転んでも、必ず何等かの学びを得て、ただでは起きないようになります(笑)。

 ですから、みなさんも、失敗を恐れず、まずは憧れをもつこと。
 それに向かった具体的な目標を立てること。
 それを計画に落とし込むこと。
 そして、そこまでできたら、あとはめげずに着実に歩を進め、要すれば軌道修正をしながら、進んでゆくこと。

 これらを続けてゆけば、きっと、みなさんの願ったものが得られるはずです。

 ここまで、お読みくださって、ありがとうございました。

 皆さんの夢がかないますように。

そして、その夢の先で、みなさん自身が、今度はまた誰かの夢をかなえるお手伝いができるようになりますように。


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(関連記事)
2014年12月6日付
No.195:「子連れ新興国海外駐在員~新興国で仕事にも家庭にも全力投球という働き方(第1回)」(後藤 愛さん、国際交流基金ジャカルタ)
http://japangap.jp/essay/2014/12/post-90.html

2014年12月12日付
「子連れ新興国海外駐在員シリーズ②~リスクとは、私たちが成長するチャンスのこと~自分を成長させるための基本姿勢とは?」(後藤 愛さん、国際交流基金ジャカルタ)
http://japangap.jp/essay/2014/12/post-91.html

2015年1月6日付
「子連れ新興国海外駐在員シリーズ③~"憧れ"を、"目標"に。中学時代の"素敵!"を温めて、大学の交換留学決定まで」(後藤 愛さん、国際交流基金ジャカルタ)
http://japangap.jp/essay/2015/01/post-93.html

2015年2月13日付「子連れ新興国海外駐在員シリーズ④~米国同時多発テロの混乱、"やりたいことがわからない"を経て、"相互理解のための国際交流"との出会い」(後藤 愛さん、国際交流基金ジャカルタ)
http://japangap.jp/essay/2015/02/post-99.html

プロフィール:
後藤愛
国際交流基金ジャカルタ日本文化センター アシスタント・ディレクター

一橋大学法学部卒。大学3年の1年間を米国ペンシルヴァニア大学にて交換留学生として過ごす(国際関係論専攻)。留学1週目に2001年9月の米国同時多発テロ事件が起こったことから異文化間の相互理解に携わることを志す。2003年大学卒業と同時に国際交流基金に就職。日米センター知的交流課にて、米国の大学やシンクタンクとの学術交流事業の助成金管理、セミナーなどのイベント企画・広報に携わった後、2007年~2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院留学(教育学修士、Ed.M)。帰国後、同基金日本研究・知的交流部欧州・中東・アフリカチームにて欧州、中東地域との知的交流事業に携わる。2010年長男出産。産休・育休を経て2011年職場復帰。日本で約10か月間ワーキングマザーとして働いたあと、2012年2月よりインドネシアのジャカルタに1歳9か月の長男を連れて子連れ海外駐在員

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