代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

JGAP寄稿者短信"拡大版": 「銀行員のススメ」0プロフィール堀米.jpg


堀米 顕久
(大分大学医学部医学科・2012年度 BADO! 世界を旅するチェンジメーカー奨学生)


 ギャップイヤーは私にとって、1年かけて日本中・世界中の素敵な医療施設・福祉施設・教育施設を巡る旅でした。
http://japangap.jp/essay/2012/08/-2012-bado.html
 それはある意味でとてもやりがいのあるプロジェクトで、世界中の面白い人たちや尊敬できる人たちとの出会いの連続で、幾度となく周りの人たちに助けられながら、毎日新しい発見があり、毎日自分の中の世界が広がっていく、そんな充実した旅でした。だからあの1年は私の人生においてかけがえのない時間で、今振り返っても、あの1年を過ごせて良かったと心から思います。

 でも一方で、ギャップイヤーの前に銀行員として過ごした5年間は、ギャップイヤーの1年、あるいはそれ以外のこれまでの様々な活動に勝るとも劣らない、とても充実した毎日でした。

 だから今回はあえてこのタイトルで、ここに記事を書かせていただきたいと思います。きっとJGAP読者の皆さまの中には、日本で起業されたり、ベンチャー企業に入られたり、海外で大きなことをなされた方(あるいはこれからそうしようとしている方)が多いんじゃないかなと思います。私もそんな生き方に尊敬と憧れを抱く一人ですが、でも一方でそうではない、一見地味に見える一般サラリーマン的な生き方も実は存外悪くないものなんだな、というバランス意見として受取っていただけたら幸いです。


「そうだ、銀行員になろう」
 以前このJGAPに寄稿させていただいたエッセイにも少し書きましたが、根っからの理系だった私が銀行員という文系就職をしたのは、「とにかく自分がこの世界に一人放り出されても戦っていけるだけのビジネススキルを身につける」ということが一番の目的でした。

「...やりたいことはやりたいことで将来ちゃんとやるとして、でもその前に、自分がこの世界に一人放り出されても戦っていけるだけのスキルを見につける必要があると感じました。そこで、まずは民間企業に入って最低限のビジネススキルを身につけるとともに、自分がこの社会で広く通用していくための専門性として、金融、特に銀行を選びました。銀行であれば色々な会社とお付き合いがあるので、広く世の中を知ることができます。また、法人融資を担当して財務に強くなれば、金融業界以外の企業でも働くことができる専門性が身につくし、それは将来自分が何をやるにせよ、必ず活かせる知識・スキルだと思ったからです」
http://japangap.jp/essay/2012/08/-2012-bado.html

 社会のことも良く知らないし、ビジネスのこともお金のこともよくわからない。だからこそ、それらが絶対的に必要になる仕事は何だろうと考えて、思いついたのが銀行業でした。上記のエッセイにはさも就活時からしっかりと考えていたかのように書いていますが、当時の自分は今振り返ると危ういほどに短絡で、十分な業界研究もせず、何となく面白そうで自分が成長できそうな企業を茫漠と探していました。「銀行で働いたら色々と経験できそう・スキルが身につきそう」というざっくりしたイメージから「よし、じゃあ銀行員になろう」という、そんな安直な就活をしていました。


「銀行で働くということ」
 私の銀行員時代の主な仕事は、地方支店での中小企業融資でした。5年間の間に札幌、鹿児島、福岡と日本各地を転々としながら、各地域に根ざす地元企業の融資担当として働いてきました。あんなに安直に就職を決めたにも関わらず、幸運なことに銀行員としての日々は、就職前に自分が求めていたものをすべて提供してくれるとともに、とても充実した毎日でした。

 例えば、銀行内部の業務を通じて一般的な大企業の意志決定のされ方を身をもって知るとともに、為替の仕組みから直接金融・間接金融のあり方まで、世の中のお金の流れを現場で肌で感じることができました。

 あるいは、社会人・銀行員としてのマナーや振る舞いを上司・先輩から学び、PDCAを何度も回して自分なりの仕事の進め方を思考錯誤し、法務・財務・税務等々を日々勉強して身につけ、それらを実践・改善していく毎日でした。

 日本各地で融資担当としてお付き合いをする企業は多種多様で、彼らのことを知り、場合によっては融資の是非について議論したり交渉したりするために、絶えず社会経済や各業界の最新知識を仕入れ続けていました。

 そんな風に、私が就職で第一に考えてた点は、銀行での仕事は溢れんばかりに提供してくれたのです。毎日が勉強で、毎日学びがあって、自分が確実に社会人・銀行員として成長しているという手応えがありました。そしてそんな充実の毎日から、地域の中小企業融資の現場の面白さにのめり込んでいく日々でした。

 札幌、鹿児島、福岡と地方の支店を回りながら仕事で担当したお客さんは、第一次産業をはじめ、その地域にしっかりと根を下ろして事業を営んでいる人たちでした。

 私は、学生のときはチェンジメーカーだソーシャルビジネスだとなにかカッコイイ響きのある働き方に興味をもって、そんなインターンを経験した時期もありましたが、銀行員として地域に根ざす経営者たちと膝を突き合わせて関わらせてもらうと、地域で事業を営んでいる人たちの実際を知らずに浮ついたことを言っていた自分が恥ずかしくすらなりました。銀行業を通してお付き合いをするようになった彼らは、心から地域への愛着と使命感を持って、目の前の仕事と向き合っているひとたちばかりでした。

 可能な限り効率化して経営を安定化させるとか、時代の流れを捉えて過去の事業をやめて新しい事業に取り組んでいくとか、そんなことは、彼らだって事業を営んでいるうえで当たり前に考えていることでした。でも彼らには、

「ここで続けることに意味がある」
「ここで事業を営んで、この地域の雇用を維持したい」
「それが自分たちの地域への、あるいはお世話になってきた人たちへの最大の恩返しなんだ」

たとえ多少経営が厳しくても、目の輝きを失わずにそう言って譲らない一線があります。

「だって、もし自分たちがここで雇用を創出することをやめたら、近い将来この地域は人がいなくなってしまうから...」

 経済合理性だけを考えたら、廃れる地域に留まり続けることは非合理的でしょう。極論を言えば、労働力は田舎に残さず、すべて都市部に集めてしまった方がずっと効率的になるでしょう。でも、私はそう言う彼らに対して、経済合理性や理屈だけで事業再編を訴えることはできないし、自分の心の中のどこかが(あるいは誰かが)それは間違いだと主張します。

 もちろん銀行の経営上、また預金者のお金を預かって代わりに運用しているという間接金融のスキーム上、銀行側として譲れない一線もあります。でもそれでも、人口減少地域の成熟産業に資金融通ができるのは、結局は銀行しかないのだと思います。

 例えば首都圏を中心に、何か新しいビジネスに投資するベンチャーキャピタルも、それはそれで大切な資金融通の担い手ですが、こんな地域の成熟(あるいは衰退)産業で、雇用を今まさに支えている経営者と関わることはきっとないと思います。だから、もし自分が別の会社に就職して都会で働いていたとしたら、漠然とした「地域を応援したい」は持っていても、こうして銀行で働いた末に思えるほど具体的に、つまりは固有名詞をもって、応援したいリアルには辿り着けなかったと思います。

 そんな風に、銀行での仕事を通じて、組織や経済や社会のあれこれを身をもって学ぶことができました。そして同時に、地域に根ざして、地に足ついて事業を営んでいる人たちと真正面から向き合うことができました。

 他の銀行の現状はそれほど詳しくありませんが、少なくとも私が就職した銀行は、まだ昔ながらのメインバンク制をとても大切にしていました。だからよく上司から、

 「その会社はうちがメインバンクなんだから、銀行の融資担当者がもっと勉強して助言していかなきゃダメでしょ」
「出口戦略は持っておくとしても、ギリギリまで何とか支えるんだ、経営改善の後押しをするんだって想いと責任感を持って仕事してよ」

と言われ、自分が融資担当者としての考え方の軸・スタンスを中途半端なままに稟議書をつくるとすぐに突き返されました。
 あるいは、取引先への融資の是非を問うたときに、社内実績よりもまず取引先のニーズを第一に議論してくれる人たちが当たり前に社内にいたから、私は自分自身の仕事に対する想いを衰えさせることなく、妥協したり諦めぐせをつけたりすることなく、そして自分自身に嘘をつくこともなく、働き続けることができたのだと思っています。

 「人のふんどしで相撲をとっている」だとか、「雨の日に傘を取り上げる」だとか、批判も多い銀行業界ですが、約5年間働いてきて、少なくともそこで出会ってきた周りの銀行員たちは、ほとんどが誠実さと責任感をもって仕事に取り組んでいる人ばかりでした。


「銀行員のススメ」
 ここまで読んで下さった方の中には、「そんなの社会人として当たり前じゃん」と思う方もいらっしゃると思います。そして、私もその通りだと思っています。私はたまたま銀行業を選んだだけで、基本的にすべての仕事は社会的な意義があるから仕事として成り立っているものです。だから、今まで銀行員の魅力・やりがいのように書いてきたことは、実は世のすべての仕事に共通する部分もたくさんあると思います。

 だから、そう考えて視点を広げてみると、「銀行員のススメ」とはすなわち「社会人のススメ」ということになります。そしてここでいう社会人とは、必ずしも起業したり外に飛び出したりするという選択をするだけじゃない、日本で普通に就活をして成り得る社会人ももちろん含みます。

 言い古されたことかもしれませんが、楽しくやりがいを持って働けるかどうかは、組織やポジションとは関係なく、自分の心掛け次第だと思っています。それはつまり、「どんな与えられた仕事でも、それを他人事ではなく、自覚的に自分の仕事として向き合う」ということです。あるいは、働き方研究家の西村さんの言葉を借りれば、立場が雇われだとしてもその中で「自分の仕事をつくる」ということなのだと思います。

 銀行員で言えば、それは例えば「自らの仕事に対する確固たる考え方の軸をもつこと」「責任感を持って仕事と向き合うこと」「誰に見られても恥ずかしくない理性に基づく融資判断をすること」...。

そんないくつかの鉄則が浮かびますが、そうやって自分自身の理性と良心と論理に従って仕事を進めていくこと以上に面白くやりがいのあることは、人生でそうないと思います。

 起業したり海外で働いたりするのもきっと面白くやりがいに溢れていると思いますが、きっとそれと同じかそれ以上に、日本社会の縁の下で自覚的に働いていくことも面白く、やりがいに溢れている、というのが今回の記事で一番のメッセージになります。


そしてそれから ~ 銀行を辞めて想うこと ~
 銀行を辞めて、気がつけば2年以上が経ちました。そんな折、昨年に半沢直樹が流行ったのにあやかって、原著の「オレたちバブル入行組」シリーズを読みました。

「いかなる理由があろうと、銀行員は銀行を辞めた瞬間、銀行員ではなくなる」

 内容があまりにリアルな大手銀行支店の中小企業融資現場で、渉外や検査や臨店など懐かしい場面に昔が思い出されたりしながら読み進めましたが、この本を読んで一番響いたのは、文脈的にはネガティブに繰り出された上記の言葉でした。

 この言葉を読んで、私もいい加減その事実を認めなければいけないのだと気付かされました。あの頃の自分も、あの延長戦上にいたはずの自分も、もうどこにも存在しないしこれからも存在し得ないのだという事実を、私も真正面から受け止めなければいけないのです。今はただの、何もできない一学生になってしまったのだという事実を受け入れなければいけないのです。

 冬の間は多くの時間を読書に費やしてきましたが、そんな中で半沢直樹とは別に読んだ堀江さんの文章にも、とても心打たれました。

「人が新しい一歩を踏み出そうとするとき、次へのステップに進もうとするとき、そのスタートラインにおいては、誰もが等しくゼロなのだ」

それは痛みを伴いつつも、とてもはっとさせられる一言でした。

「つまり、「掛け算の答え」を求めているあなたはいま、「ゼロ」なのである。
そしてゼロになにを掛けたところで、ゼロのままだ。物事の出発点は「掛け算」ではなく、必ず「足し算」でなければならない」

 この人生の選択をしたのは、自分自身です。銀行での日々は間違いなく私の血肉になり、社会人としての土台としてこれからもずっと活きていきますが、今の私はもはや銀行員ではなく、医学部の学生というまさに新しい世界のゼロ地点にいます。そしてこれから自分ができるのは、ただただ地道な足し算を積み重ねることだけです。

 だから、こんな風に銀行員だった頃のことに触れるのは、そろそろ最後にしたいと思います。いつまでも過去の自分を引きずるのはみっともないと頭では理解しながら、無意識に引きずっている自分がいました。不肖ながら、私が銀行員として働きながら感じてきたことで、皆さん、特にこれから社会に出ていく学生の皆さんに伝えたい、少しでも伝える意味があるかもしれないと思ったことは、この記事といくつかの過去のブログ記事で概ね出し切ることができたと思っています。

 これからの私は、再び一人の学生として、地道な歩みを続けていきたいと思います。正直に言えば、一度働くことの面白さを知ってしまってから仕事の現場を離れ、再び学業に集中しなければならない環境がこんなにもストレスフルだとは、退職前は想像していませんでした。なので、日々「早く働きたい」という葛藤と闘いながらの二度目の大学生活ですが、その葛藤も日々の勉学へのエネルギーに変えていきながら、もう数年後に再び社会に出られる日を夢見て、一歩一歩前進いきたいと思います。

 銀行員の話から社会人の話、そして最後は自身の近況報告(笑)と話があちこちに飛んでしまいましたが、長文にお付き合いいただきありがとうございました。当面は医学生として、そしてその先には医師として(あるいは医学生・医師であると同時に何かをしている変な人として)、これからも様々な形で情報発信を続けていきたいと思っています。どうぞ今後とも、よろしくお願いいたします。


 
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プロフィール
堀米 顕久
2007年北海道大学農学部卒。有機農業2年・大手銀行勤務5年(札幌・鹿児島・福岡)を経て、現在は大分大学医学部医学科に在籍。銀行員時代の2008年、難病の子どもを対象とした子ども野外キャンプ(そらぷちキッズキャンプ)に参加しキャンプリーダーを務める。以降、同キャンプの参加を続ける中で医学の道を志し、2011年10月に銀行を退職し大分大学医学部に編入学。2012年4月から1年間休学し、日本中・世界中にある病気の子ども向け野外体験施設・医療施設・福祉施設等の視察・ボランティアの旅に出る。また旅に際して、BADO株式会社から「世界を旅するチェンジメーカー奨学生」として支援を受ける。将来は小児科医として働くとともに、病気の子どもを対象とした野外キャンプの実施や、子どもたちの居場所づくりについて模索中。

■「フロンティア・フォーラム」欄No.80:「子ども×自然×医療:銀行員は医師を目指して"旅人"になる」寄稿
http://japangap.jp/essay/2012/08/-2012-bado.html
■JGAP寄稿者短信:「病気の子どもと家族のための"滞在型アミューズメント施設"Give・Kids・The・World・Villageでの活動報告」
http://japangap.jp/info/2012/10/jgapgive-kids-the-world-village-where-happiness-inspires-hope-2012.html
■JGAP寄稿者短信:「世界で最初の小児ホスピス -英国ヘレン・ダグラス・ハウス- の視察報告」
http://japangap.jp/essay/2012/12/post-37.html
■JGAP寄稿者短信:「子どもたちのもうひとつの居場所 ~NPO法人フリーキッズ・ヴィレッジのこと~」
http://japangap.jp/essay/2012/12/post-38.html
■JGAP寄稿者短信:「ソーシャル・イノベーションの街で社会起業を学んだ1ヵ月 ~米国シアトルのNPO法人iLEAPによるSIISプログラム~」
http://japangap.jp/essay/2013/01/-npo.html
■JGAP寄稿者短信:「あのとき、いま、これから ~東北被災地での活動報告~」
http://japangap.jp/essay/2013/04/-1npoileapsiis-1.html
■JGAP寄稿者短信:「日本縦断・世界一周の決算報告~ギャップイヤー総括」
http://japangap.jp/essay/2013/08/post-58.html
■JGAP 寄稿者短信:「銀行を辞めることにした日」
http://japangap.jp/info/2014/02/jgapeconnect-japan.html

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