代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

新着:「"自分"の存在する人生〜高校卒業後ニューヨーク進学という選択」郷上 プロフィール画像.jpg

郷上 亮
※2015年8月より米国・ニューヨークのFashion Institute of Technologyに入学予定

 忘れもしない。2012年12月24日。

 同級生がセンター試験に向けて最後の追い込みをかけている中、僕は一人部屋の中で「自分」と戦っていた。今日がクリスマスイブなんてことに気付くことすら出来ずに。

 原因はその日の昼過ぎに高校で行われた三者面談だった。その前から担任には話をつけていたし親にも自分の意思は伝えていた。何事もなく終わるはず。だが、そんな甘い期待が現実になることはなかった。そこで僕を待ち受けていたのは「やはり日本の大学に行くべきじゃないか」なんていう自分の中ではすでに議論し尽くされた意見だった。

 中高一貫校に通い夏休みまでは受験勉強していたし英語がそこそこ出来ていたためにある程度の大学には行ける可能性があったからだろう。4対1の圧倒的不利の中、僕の意思なんてものは蚊帳の外に置かれ、世間的な安定を求めた進路の話はどんどん進んでいった。「もう一度家で話し合ってきてください」と締められたこの面談、行き帰りの車の中を含めたあの時間ほどの地獄を僕はまだ知らない。

 家に着くとそのまま自分の部屋に篭った。翌日の夕食の時までそこから出ることなく、ただただ「自分」を信じるために戦っていた。それはどこかで迷っていたからだろう。それまでの覚悟なんてものは表面的なものでしかなかったんだと心底自分を嫌った。たかが先生と両親から強烈な反対を受けたから、ただそれだけで揺らいでしまったのだから。

 改めて自分と向き合い直した。しかし自分の底の底へと進んで行けば行くほど、彼らの意見はどんどん霞んでいってしまった。それに反比例するようにして「自分」がどんどん浮き彫りになってくる。「安定」というメリットなのかデメリットなのかもわからないような言葉は、少なくとも18歳の自分とっては魅力を感じる対象ではなかった。きっとこの時だと思う。「決意」なんて呼べるようなものが出来たのは。周りの何かではなく「自分」が一番になったのは。親が与えてくれたこの人生と真摯に向き合えるようになったのは。


「 ロリータファッションで世界を幸せに!」井出さん写真.jpg


井手彩名
国際教養大学ギャップイヤー12期生
※本年9月入学予定

 雀の涙ほどだったお小遣いを貯めて、生まれて初めて買ったロリータファッションのブランドのカットソーに袖を通したことを、今でも鮮明に覚えています。当時の私にとってロリータ服は高価すぎて、ようやく買ったその一枚のカットソーが、大切な宝物のように感じました。それが中学校3年生の、冬のことでした。不思議の国のアリスやドレスのお姫様に憧れながら生きてきた私にとって、それは確かに夢が叶った瞬間でした。

「念願の会社を休職ではなく、退職。"日本で一番役に立たない公務員"としてネパールに行く理由」川喜田さん写真.jpg

川喜田 敬
青年海外協力隊・コミュニティ開発隊員(2015年~2017年)


「君たちは日本で一番役に立たない公務員なんだからな」
この「日本で一番役に立たない公務員」とは、青年海外協力隊のこと。
国民の税金で仕事をさせていただくという意味では公務員。
でも、その舞台は日本ではなくて途上国。
だからこそ、長期的には必ず日本にその経験を還元しなさいと言う意味で、事前研修の講師の先生が冒頭に仰った言葉です。

そんな「日本で一番役に立たない公務員」である、青年海外協力隊のコミュニティ開発隊員として、私は2015年の夏から2年間、ネパールに赴任します。
新卒から3年間、お世話になった会社を退職しての参加です。
学生時代からずっと入りたかった第一志望の会社でした。

この時点で「じゃあなんでたった3年で辞めるの?」って思うかもしれませんが、さらにもう1つ。
実は会社には青年海外協力隊用の休職制度もありました。
2年間不在にするにも関わらず、給与も賞与も満額支給されるような非常に手厚い制度です。
尊敬する上司から紹介してもらい、制度を使って行って来いとまで言ってもらいました。
しかし、選んだのは「退職」でした。

なぜ、青年海外協力隊になる道を選んだのかと合わせて、なぜ休職ではなく退職を選んだのかを書いていきます。


「グローバルマインドを身につけるためのギャップイヤーの活用」豊田さん.jpg


 私は現在、グローバル人材育成の一環として、日本の企業や大学から依頼を受けて、ビジネスパーソンや大学生を東南アジアやインドに連れて行き、実践的なビジネス研修を提供するという事業を営んでいます。

 20年前に留学コンサルティング会社を立ち上げ、以来15年間は主にアメリカの大学・大学院に留学する日本人のサポートを行っていたのですが、5年前に欧米からアジアの新興国にビジネスの場を移すことになりました。

 きっかけは日本の企業を取り巻くグローバルビジネスの状況が変わったことです。日本の内需が大きかった時代は、海外から安いものを仕入れ、あるいは海外で安く生産し、日本で売上をたてることができましたが、内需がどんどん減っていく一方、東南アジアやインドなどの新興国がますますマーケットとして大きくなっていく中で、多くの日本企業がそれらの国々に打って出ることになったのです。しかし、先進国ほど法律や規制が整備されておらず、また社会インフラも整っていない新興国では、日本でビジネスをしているような感覚では仕事が進みません。日本のように何でも揃っている国とは異なり、生活そのものも苦労があります。

JGAP寄稿者短信"拡大版":「旅から学んだ大切なこと~『深夜特急』のメッセージと感謝」田中さんテニス1.jpg

田中 隆彬
武蔵大学経済学部 4年次休学中 ※世界一周から帰国


 
 8ヶ月間に及ぶ世界一周が遂に終わり、帰国して早くも1ヶ月が経とうとしている。帰国直後は日本に帰ってきたという気が全くせず、次の国に到着した気持ちになっていた。だが、バスに乗車し最寄り駅に着くとそこには馴染み深い光景が目に入ってきた。次第に帰ってきたという実感が湧き、家に到着して家族の「おかえりなさい」を耳にした途端、両肩に乗っていたバックパックではない重みが全て吹き飛んだ。「帰ってきたんだ!」という実感がそこにはあり、、夢から覚めたのだと思うと身体の力が抜けていった。

正直に言って、僕の旅は全てが楽しいものではなかった。むしろ何回恐怖を味わったことか思い返しただけで今でも身体が震える。強盗に何度もあったり、現地人に連れられて田舎にある家に招待されたかと思いきや金を巻き上げられて、家や村から出られない始末、挙げ句の果てにタクシーに乗れば事故を起こしたり、6針を縫う怪我もしたりとハプニングに巻き込まれたことか計り知れない。特にバングラデシュで遭った睡眠薬強盗は身に堪えた。

 日本で仕事をしていた写真を見せられて完全に現地人を信用してしまった僕にも非はあるかもしれないが、そんなものは実際に誰かと遭遇してみないと分からない。自分がいつの間にか入院していて、 死にかける寸前までいっていたなんて当初は全く想像していなかった。もちろん僕も全ての人を信用しているわけではなく、人を選んだ上でこういうことに巻き込まれてしまった。心の交流を図るフレンドリーな旅を希求していたのに、それをいつの間にか拒否してしまった部分もあり、自分の弱さもあろう。

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