代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

「26歳の私が日本社会の用意してくれたレールから降り、妻と2人で世界一周の旅に出た理由」I西村祐紀さんMGP8611 (1).jpg


西村祐紀 @夫婦で世界一周中

 私は現在、妻と二人で世界一周旅行をしています。
世界一周という言葉の響きから、それが何か大それたことのようにも聞こえますが、実際にはそんなことはありません。必要な情報はどんなものであれインターネットを使えば簡単に見つかる今、個人旅行の困難性や、それに伴う冒険性は激減したように思います。

 そんな中、世界遺産や絶景スポットなどに興味があるわけでもない私が、日本での暮らしを捨て、この旅行を始めた理由についてまずお伝えしたいと思います。


私が世界一周旅行に出た理由
 私が大学を卒業後に約4年間勤めた会社を退職し、世界一周旅行を始めたきっかけは、学生時代に何度となく経験した"旅"にあります。

 パンの耳を恵んでもらいながらママチャリで日本一周をしてみたり、アジアを貧乏旅行しながら世界の現実に触れる中で、日本社会の用意したレールをある程度鳥瞰し、自分の論理による価値観を育て、それを実行に移す勇気をも、そういった学生時代の旅行から学び取ったように感じます。

 会社勤めをしていた頃は、幸運にも上司や同僚に恵まれ、居心地は全然悪くありませんでしたし、その暮らしに苦痛はありませんでした。

 ですが、その生活も四年目に入った頃には、学生時代に私が強く想った目標へのスタートを切れるだけの資金が手元に残り、それ以上会社員であり続ける理由が無くなりました。お世話になった会社に別れを告げることは、やはり心苦しいものがありましたが未練はありませんでした。

 私の目標とは、幸運にも先進国に生まれ、高等教育を受けた人間の役割として、どんなに小さな一部分でもいいから、世界を自分の手で良い方向へ変えたいということです。
フワフワした戯言にも見えますが、行動を起こす軸としてはこれで十分だと私は考えました。

 従って、私にとっての世界一周とはその舞台、つまり"第二の母国"ともなり得る新たな活動場所を探す旅であるとも言えます。

 幸いなことに、私がまだ学生だったころにマレーシアで知り合った妻もそのような生き方には共感を示してくれて、2人で旅行に出ることが出来ました。


日本を離れて半年以上経った今思うこと

 当初、3年くらいかけて世界中を周れたらと思い出発した旅も、気が付けば半年以上の時が経ち、まだ7か国しか訪れられていない私たちがいます。

 そもそもの目的が、観光地を効率的に回りたいわけではなく、むしろ普通に生活するようにのんびりと、じっくりと一見何もないような都市にとどまってこそ近づくものだと思うので、これはある意味仕方のないことなのかもしれません。

 例えば東ティモールのディリには3週間ほど滞在し、その間にJICAの青年海外協力隊員さん達と知り合い、興味深いお話を伺うことも出来ました。

 当分尽きることのないだけの預金があっても、収入の無い身分というのはやはり辛いもので、絶えず将来に対する不安にさらされます。
ですがそれは自らが望んで得た立場でもあるため後悔にはつながりません。

 何より日本にいた時の、会社員という社会的身分を持つ安心感から生じる、仮面、又はフィルターをまとって、目の前に靄がかかったようなもどかしい感触から解放され、今は何者でもないむき出しの自分が世界にさらされているという感覚を、心地良く受け止めています。

 学生時代に途方もなく遠い目標に向かい、頼りないママチャリのペダルを一生懸命漕いだあの日と同じように、誰に押し付けられたわけでもない、自分だけの目標に向かって日々を紡いでいられることを幸せに、そして小さくこっそりと誇りにも思いながら、かけがえのない今を過ごしています。


プロフィール:
西村祐紀
1988年2月26日生まれ
2014年1月より夫婦で世界一周中

ブログ:日本人が一生行かないディープな床屋だけで散髪しながら世界一周してみた。
http://tokoya-travel.info/
Twitter:@tokoyatravel

「秋田発 ‐ 世界着 ~ 自分の限界と可能性を広げる2年」庄内さん写真.JPG

庄内 聡 (SATOSHI SHONAI)
JICA青年海外協力隊 平成24年度2次隊
コンピュータ技術職
バングラデシュ人民共和国派遣 人事省PACC(コンピュータセンタ)配属


活動紹介
 2012年9月よりJICA青年海外協力隊コンピュータ技術職として、南アジアのバングラデシュ人民共和国に派遣中、人事省の情報部門であるPACC(コンピュータセンタ)にて、PC・サーバー運用保守や職員を対象としたICTトレーニング・ワークショップを企画・実施しています。また、本活動とは別に、週末時間を利用して国内各地でPCトラブルを抱えている活動先を訪問し、課題解決・予防保守の啓発・各種相談を行う「出張PCメンテナンス隊」という活動を隊員有志で行っています。


きっかけは、東日本大震災
当時、あの未曾有の震災からわずか1週間後、私はベトナムにいました。現地の方から「日本は大丈夫?」と心配されたことをよく覚えています。その後、親族が宮城県に住んでいたこともあり、何か出来ないかと思って、有給休暇を使い、震災ボランティアとして何度か東北3県(岩手・宮城・福島)に足を運んでいました。その時、現地で私が目にしたのは、海外から仕事を捨ててまでして、ただただ日本の早期復興を願って来られたボランティアの姿でした。また、その後インターネットなどで知ったことですが、派遣国バングラデシュの小さな貧しい村からも当時義援金が寄与されていたのです。このような体験から、自分も何か恩返しが出来ないかと考えていた頃、ちょうど職場の先輩に青年海外協力隊OBの方がいて、背中を押してもらい応募に至りました。


"世界一"から"世界最貧"へ、そのギャップとは?
 私が派遣されているバングラデシュという国は、アジア最貧国の一つと言われるほどに深刻な貧困問題を抱えています。しかし、農村の貧困を撲滅すべくムハマド・ユヌス氏が創始したマイクロクレジット事業を筆頭に、数々の国際NGO、ODA機関による支援によって、今ではソーシャルビジネスの聖地とも謳われるほど、知る人ぞ知る注目国家に転身しつつあります。実際の光景は少し違っていて、とりわけ首都ダッカに住んでいると、日本人よりもむしろお金持ちじゃないかと思えるほどの富裕層の姿をよく見かけます。一方で道端には物乞いの障害者・子供たちが時に苦しそうな表情で、時に屈託のない笑顔で食べ物やお金をくださいと寄ってくるのです。日本に住んでいたら決して直視することのない悲壮な光景に、毎日否が応でも遭遇せざるを得ません。そんな光景が、現地では当然とされていること、そして自分もそれに慣れていくことが何より恐ろしいと感じました。私の職種・活動範囲ではほとんど関与できることはありませんが、少しでも何か解決の手立てはないか、そんな問いが常に頭の中を駆け巡り、いまだに足踏みしています。日本は戦後大きく成長・発展し、様々な分野で世界をリードする国の一つとなりましたが、この国に来て、逆に今の日本に疑問を感じる場面が多くなりました。貧しくても溢れ出る笑顔、家族を大切にする気持ち、自分たちの言語・文化・国を愛する心、日本が発展する中で置き去りにしてきたかも知れないものが、ここにはたくさんあるのです。


1.期待に応える、2.深く馴染む、3.生きて帰る
 これは、私が赴任当時に掲げた表明です。ボランティアとして来たからには職場の期待に応えること、2年も住むからには現地人との生活に深く馴染むこと、そして快く見送ってくれて帰りを待ってくれている家族・友人・知人のためにも現地での健康・安全管理に重きを置いて、無事に生きて帰ること、これらは今でも変わっていません。大したことではないと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、これらが今の私の支柱であり、目指すべきところなのです。青年海外協力隊での活動は、うまくいくことの方が少なく、現に私も多くの壁にぶつかりながらも、一日一つ達成できたら自分を褒めるように心がけていたりします。困難なことが多い分、初めに意思表明をし、心の支柱を築くことは、今の自分を奮い立たせるためには非常に役立つプロセスでした。


青年海外協力隊という道のりで得られたもの
 私は秋田県の漁師町育ちで、良い大学に入って、良い企業に就職して、30歳までには海外で働いてみたい、というなんともミーハーな気持ちがいつの頃からか備わっていました。しかし実は、いつもどこかで自分の限界を感じて、それでも可能性を探しての繰り返しでした。そして、そんなミーハーな夢を叶えたのは他でもない青年海外協力隊という選択肢です。職場を離れることでのブランクや戻る時の不安は今でも拭い切れません。それでも、ここに来なければ得られなかったものがたくさんあって、外に出てみて本当に良かったと思っています。青年海外協力隊に応募してから今に至るまでに得られたであろうものは、語学力はもちろん、これまで想像できなかった途上国での人脈、当たり前を簡単に覆してくれる異文化体験の数々、一生付き合っていけると思える仲間、そして何よりも自国日本に対する客観的な視野・思考力だと思います。今、あの時の"恩返ししたいという気持ち"が、ここまで自身の人生の糧になっていることを嬉しく思うとともに、海外に出て見聞を広める醍醐味を、身を以って感じています。「情けは人の為ならず」、私の好きな言葉です。そして何よりも、情報が簡単に手に入ってしまう時代だからこそ、"知っている"で終わらせず、自分の五感を十分に使って体験することに、これから意義が増していくのではないでしょうか? 体験することで、自分の限界も可能性も広がっていくのだと私は思います。

プロフィール:
名前: 庄内 聡
東北大学理学部、地圏環境科学科卒 2008年、日本電気株式会社(NEC)に入社。5年目にて現職参加制度を利用して2012年9月より青年海外協力隊に参加し、現在バングラデシュに在住。趣味は料理、週末一人旅。現地では「居酒屋庄吉」として現地在住者の胃袋を掴む。
Facebook: https://www.facebook.com/satoshi.shounai

「迷ったら前に出る!小さなことから"何でもやってみる"の精神で取り組む。国際社会で人間力を養う。」川野さん写真.jpegのサムネール画像

川野 晃太(ボランティア団体 LIDS 代表) 

− a gap year adventure of mine -
■ギャップイヤー期間
2013年4月1日~2014年3月31日
■期間滞在場所
2013年4月~8月 東京
2013年8月~2014年3月 ドイツ(ハンブルク、ラオフ、etc)
2014年3月 東京、宮城県石巻市


はじめに
 私は地元中学を卒業と同時に三重県の国立高等専門学校に入学し電気電子工学を学んだ。親元
を離れて寮生活をしながら、一端のエンジニアを目指していたが変化の少ない生活に疑問を抱いてい
た。平凡な学生生活を送る中で、学内に掲示されていた、アメリカへの短期学生派遣に応募し、参加
したことをきっかけに海外に興味を持つようになり、翌年最初のギャップイヤーとも言える1年間の
イギリス留学を行った。目標であったスコアに現れない英語力の取得と現地学生の家庭教師を行うこ
とに成功した。この時の経験からビジョンを描き、それに向けて達成するというプロセスを自然に出
来るようになったと自負している。

 帰国後、シンガポールでの技術英語研修を経て、メキシコでの専門分野での国際学会、タイで
の国際シンポジウムに学校を代表して参加させて頂いた。そして私の人生に大きな影響を与えたベト
ナムでの海外インターンシップに参加後、希望であったグローバルに居拠点を置き、ビジネスを展開
する製造業メーカに就職した。そして入社前に一年間休職して行う社内研修プログラムを利用し、二
度目のギャップイヤーを日本そしてドイツで行った。帰国後、国内でメンバーを集め、現在の活動団
体を発足し、第一回目のイベントに向けて奔走している。
現在までに、アメリカ、ドイツの他、色んなご縁が有り海外19カ国を訪れている。


The sky is the limit!〜飛ばないヘタレはただのヘタレ〜赤.JPG


赤田佳奈絵
PEPT創設代表
きっかけパスポート 創設共同代表
法政大学現代福祉学部臨床心理学科 法政大学4年時休学中 

あなたが、今かけている、その見えない"メガネ"の向こうには、何色の世界が広がっている?

心の奥にある、埃を被ったままの"パスポート"
使う?使わない? このまま、有効期限切れになるのを待つ?

もし、今日が、これを見ているあなたの、人生最後の日だとしたら。
今からやろうとしていることって


「一度きりの人生、夢を全力で追いかけろ!」河本さん写真.jpg

川本和
英国・サウサンプトン大学進学予定


 イギリスの大学に行くと決めたのは、高校1年の秋。第2希望なんてものはなかった。
通っていたのは中高一貫校、そのまま行けば大学もついてくる。いわゆるエスカレーター式だ。でも頭はイギリスでいっぱいだった。いや、夢に夢中だったと言うべきかもしれない。ただひたすらに、F1という世界最高峰のレースの舞台で、最速のマシンを作りたかったのだ。これが僕の夢。
しかし半年前には、こんな自分の姿は想像もできなかっただろう。

「俺は将来、何をすればいいんや?」

 春、高校に入ったとき、夢なんてものはなかった。
ただ、目の前に積み上げられた宿題があるだけ。なんとなく、宿題をこなす毎日。地球温暖化と言われてるから、将来は環境を守る仕事がいいのかな?そんなことを思いながら、毎日をただ"だらだら"と過ごしていた。ありふれた高校生活だ。

 しかし僕は幸運だった。高1の夏休みに、タイに行く機会があった。研修先はタイのトップ校、マヒドール高校。そこの生徒は天才的な頭の良さを持つと共に、英語もペラペラ。将来何をしたいかも明確。正直、自分なんか歯が立たないレベルである。彼らとの差に、僕は焦りを感じていた。このままではダメだと。

 マヒドール高校の友達の家にホームステイする機会もあった。当然、日本とは全然違う。ある日シャワーを浴びていると、どこからかトカゲが現れてきたりする。そんな時、トカゲを怖がって避けていた僕を見て、その友達は笑った。
「なんでトカゲを怖がるん?めっちゃかわいいやん!」
果たして、英語で言われたので関西弁なわけはないのだが、とにかく僕には、わけが分からなかった。「かわいい?トカゲが??こいつは変な奴だ」

「変なのは俺の方だ。」

 生き物が好きだから、トカゲを見ると笑顔のその友達。変じゃない、むしろ素直すぎるくらいだ。
自分はどうだ。別に好きじゃないのに環境保全の仕事をしたい。人のため?そんなの、ただかっこつけてるだけじゃないか。トカゲさえ嫌がるのに、環境という、生物に関係する仕事をしたいなど、どうかしてる。
おかしいのは自分自身だ。

 タイから帰国後、必死で考えた。
自分は将来、何をすればいいのか。

「なんで好きじゃないことをするん?」

 頭の中によぎるこの思い。そうだ、自分の好きなことをすればいいんだ。
素直になると、答えはすぐに出てきた。

「俺はF1が好きや。F1で最速のマシンを作ったる!」

デザイナーの奥山清行さんは、彼の著書"人生を決めた15分 創造の1/10000"でこう書いている。

 "好きなことが見つかるまでは、ふらふらしていても構わないが、いったん自分の好きなことを見つけたら、死ぬほど努力して、心の底から「負けたくない」と思うべきだ。"

"好きなことを見つけたら全力集中。そして堂々と「自分は努力している」と人に語ろう。"

 まさに夢ができたとき、僕は誰にも「負けたくない」と思った。イギリスに行くという選択も、本気で夢を叶えたいと思ったからこそだ。F1が初めて行われた地で、現在もほとんどのチームがイギリスに本拠地をおいている。もちろん、レースの世界では英語が共通語。日本にとどまる理由など、全くなかった。むしろ一刻も早く、本場で学ぶべきだ。最先端の技術が集まるF1には、優秀な人間が集まる。相手はケンブリッジ大学で学んできたやつらだ。のんびりしている時間などない。
 気付けば、だらだらと過ごしていた以前の自分は、跡形もなくなっていた。例えば、TOEFL iTP。当初は380。それを527、海外大学への進学レベルまであげることができた。

高3の冬
 周りが推薦で大学を決めるなか、自分だけが取り残されていく。もし落ちたら、親には日本の大学に行けと言われていた。さすがに怖かった。でも自分は努力した。誰にも負けたくないと本気で思った。だから合格通知をもらったのは、今思えば当然のことだと思う。

 これから5年間、イギリスで空気力学について学んでくる。空気の力を味方につけて、より速いマシンを作るためだ。英語が通じなかったり、バカにされることもあるだろう。でもそんなのは関係ない。ぬるま湯につかるために、イギリスに行くんじゃないんだ。

 夢を見つけたとき、やりたいことができたとき、行動して前に進み続けなきゃいけない。しかし多くの人は、途中で進むのをやめる。夢への道の険しさを前に、あきらめるのだ。夢を叶えるのは、一握りのあきらめなかった者だけ。皆と同じように、楽な方向に進みたいか?僕は嫌だ。一度きりの人生、意地でも前に進み続けてやる。

そして夢を叶えてこう言ってやる。
「俺は誰よりも努力したんだ。」


プロフィール:
川本 和
1995年京都生まれ
立命館高校を卒業し、2014年秋からイギリス・サウサンプトン大学に進学。イギリスで大学院卒業後、F1のエンジニアになるのが夢。ブログ「わたぽんWorld@UK」にて、「イギリス」や「留学」、「F1」などについて、情報発信中。

Twitter: @wataponf1_uk
Facebookページ:わたぽんWorld-イギリス留学×F1(http://on.fb.me/1nQMrxv
ブログ「わたぽんWorld@UK」:http://watapon-f1.com/

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