代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

ギャップイヤーについて牧浦さんJGAP.png


牧浦土雅(Makiura Doga)
e-Education ルワンダ代表


現在世間で話題になっているキーワード「休学」・「ギャップイヤー」。
 僕はイギリスのボーディングスクール在学4年目に(日本の高校2年生)、高校卒業後は大学入る前に1年置いて、ギャップイヤーを取ろう、と既に回りにもそういう人間が多い中、決断していました。その大きな理由は2つあり、その時の自分はまず、高校卒業→大学進学のレールの意味が分からなかったこと。そして、その頃から興味を持っていて、教科書やメディアで見たり聞いているだけの''途上国''だけじゃなく、自分の目で現状を確認し、何か大きなことを自分の手で大学入学前にやってのけたい、と考えたからでした。

 丁度、NHKの現代クローズアップでもギャップイヤー・休学に関してやっていたので、今日は僕の個人的な意見と経験、そして本場英国のギャップイヤーの考え方を交えながら、皆さんと一緒にギャップイヤーコンセプトに関して考えていけたらな、と思っています。


海外嫌いだった平凡な学生が"ワクワク"を求めてインドネシアへ飛び出した坂井さん写真DSC_18670521.JPG


坂井 健(立教大学経済学部4年)
※e-Education Project(インドネシアで格闘中)

 現在インドネシアでe-Education Projectの活動をしています。
e-Education Projectとは、「途上国の教育課題を若者の力で解決する」ことをミッションとして掲げ、教育課題を抱えた途上国にDVD授業を提供することで「すべての若者が可能性に挑戦できる世界」を作るべく活動をしている団体です。

 このプロジェクトは2010年にバングラデシュで始まり、現在はその輪を世界中に広げ、ルワンダ、フィリピンなど7カ国9地域で展開しています。

 僕はその中の1つ、インドネシアで現在活動をしています。

この記事ではギャップイヤーを選択し、現在の活動するに至った経緯を綴ろうと思います。


「"ASEANで働く"を近くするウェブメディア『ASEAN WORK NAVI』創りへの挑戦」JGAP鈴木 佑豪 さん.jpg


鈴木佑豪Yugo Suzuki
(慶応義塾大学総合政策学部4年休学中)※東南アジア10カ国を奔走中


"ASEANで働く"を近くする。
 こんな思いを持って、半年間ギャップイヤーを取得し、4月から東南アジア10カ国の旅に出ました。
各国で活躍する日本人に取材をしながら、"ASEANで働く"を伝えるウェブメディア『ASEAN WORK NAVI』を創っています。


◆私がASEAN(東南アジア)にフォーカスする理由
 私は、高校時代にアメリカ、大学時代に中国へ1年ずつ交換留学をしました。
昨年の夏には、トルコから中国までのシルクロードを陸路で旅しました。バイトで稼いだお金は、ほぼ海外旅行へ注ぎ込み、今まで15カ国を旅しました。

中学生の頃から言い続けて来た言葉。

「広い世界を見る!」

 それを実現するために、様々な機会に飛び込み、形にしてきました。
世界の流れを肌で感じながら、直感で感じたこと。

「これからは東南アジア!」

 ちょうど、中国で反日デモが激化した後のことでした。ビジネスでは企業の東南アジア進出が急激に増え、政治でも安倍内閣になった直後に東南アジア各国に訪問するなど、東南アジアのメディアへの露出度が高まりました。

 安定した経済成長率、若い生産人口の多さ、中間所得層の急増、EUより多い人口、2015年のAEC(ASEAN経済共同体)の誕生。

 まさに、可能性が満ちあふれている地域、それが東南アジアだと考えています。
でも、いくら上に挙げたようなデータや事実を突きつけられても、どう"アツイ"のか全くイメージがつかないというのが実際のところだと思います。

 自分の足で歩き、実際に目で見て、肌で感じる。
そして、現地で働いている人の生の声を聞く。

そうすることで"アツイ"と言われるASEANのリアルを知りたい。


◆未来を担う若者達を巻き込みたい
 1人でASEANを見て、自分の中で完結させるだけでは、社会に何も残せません。
これからのASEANと日本の関係を築いていくのは、もちろん若い世代です。

 そこで、「若者達の視点をASEANに向けるにはどうすればいいか?」と必死に考えました。

 何度も壁にぶち当たり、声をかけたのが一番信頼する面白い友人、早川遼。
彼とは、学生団体で何度か一緒に企画を形にした経験があり、「こいつとなら面白いことが創れそう」と思い、声をかけました。

 そこから、バイトと課題の合間を縫っては、このプロジェクトの議論に費やしました。気づけば、それぞれ得意分野を持つ仲間が増え、6人で議論するようになっていました。

 周りを巻き込み、1人から6人に。
そして、目指すのは、より多くの若者を巻き込むこと。


◆"ASEANで働く選択肢"を考えるキッカケを創る
 独自に取ったアンケートでは、海外で働く必要性を感じている人は多数いる一方で、実際にその選択肢を取れる人は非常に少ないことがわかりました。

 では、なぜ海外で働くという選択肢を取れないのか?
それは、"海外で働く"をイメージする機会がないからではないでしょうか。

 人はイメージできないことに対して臆病になります。
海外で働くことをイメージできれば、「海外に出たい」と思っている人が、もう一歩を踏み出しやすくなるでしょう。

 ASEAN WORK NAVIでは、ASEAN10カ国にフォーカスし、"ASEANで働く"をイメージできるために、以下の3つのコンテンツを発信します。

【Voice】現地で活躍する日本人のリアルな声をインタビュー形式で発信。
【Business】現地のビジネス環境や流行のビジネスモデルを発信。
【Lifestyle】住居環境、物価、交通、食など生活に関わる情報を発信。

 ASEANと言っても、各国で経済レベルも違えば文化も異なる、多様な地域です。
各国の情報を深く伝え、"働く"選択肢を考えるキッカケを提供するのが、ASEAN WORK NAVIのミッションです。

 これからASEANと深く関わっていくのも、これから社会を変えていくのも、これから変わっていかなければならないのも、他でもない私達若者世代です。
私はそんな同じ世代の人達と出来る限り恊働したいと思っています。

-こんなことを知りたい!
-現地のこの人に会った方がいい!
-帰国後にコラボしてイベント開催したい!
-実際に旅に合流して、ASEANのリアルを感じたい!
など、様々な面で皆さんと恊働したいので、よろしければご連絡ください。

 "ASEANで働く選択肢"を考えるキッカケを提供するために、ASEANを駆け抜けます。
是非、ASEAN WORK NAVIをご覧下さい!


Web:http://www.asenavi.com
Facebook: https://www.facebook.com/yugo.suzuki
Twitter: @yugosuzuki

「知らないって、楽しい!~ギャップイヤーから帰還して考えたこと」0421浅子さん写真.jpg


浅子 拓耶(あさこたくや)
※大学卒業し、4月から企業に勤務


社会に出てから早3週間。
そして、半年間の世界一周から帰ってきて2ヶ月が経ちました。

この2ヶ月はどんなことがあったか。

たくさんの友人と久しぶりに盃を交わしました。
旅で出会った人と再会しました。
福井・金沢に行って、日本旅にハマりそうになりました。
旅先や色んな所で、また新たな出会いがありました。
一般企業に入社して、新たな門出を迎えました。

旅写真の整理は全然終わっていません。
書きたいことだっていっぱいあります。

うんざりすることだってあるけれど、今のところは楽しくやってます。

この1ヶ月、色んな人に再会して、色んな人に出会いました。
元からの友達や旅絡みの人と会うことが多いから、だいたい世界一周の話をします。

「世界一周、どうだった?」
「どこの国が一番良かったー?」
「ごはんはどうだった?」

毎日のようにそんな質問を投げる友人がいて、答える僕がいます。

人に話すことで旅中のことを思い出して、クスっとしてしまったり、胸が締め付けられるような重いをすることもあります。

自分の言葉でアウトプットしているはずなのに、誰かの追体験のように聞こえてきてしまう。

「本当に自分があそこに立っていたんだなぁ」

そんなことを考えてしみじみと立ち尽くしてしまうこともあります。

1ヶ月経った今も自分を大きく動かし続けている、188日19ヶ国の旅。

ちょうど旅も終わりに差し掛かった、メキシコのカフェにいた時のこと。
中南米を一緒に旅した相方から、こんな問いが投げかけられました。


「この旅を、一言で表すと?」

一瞬の沈黙の後、僕が発した一言は、

「知らないことって楽しいんだ。と思えるようになった。」

でした。

旅に出る前の自分は...いや、旅に出てからも最初の1ヶ月くらいまでは、知らないということは怖いことであるという認識がありました。

自分を守る術を知らなかったがために犯罪に巻き込まれたら?
お金の知識がないがために大金を騙し盗られたら?
行った国の風習が全然違くて、石を投げられたら?

そう、知らないこと=悪いこと・損なことであると思っていました。
だから本を読もうと思ったり、ニュースを見たり、人から生の声を聞いたりしていました。

旅に出てから1ヶ月が経ったころ...ちょうどタイにいる頃かな。
だんだんと、自分の予定どおりに旅が進まなくなってきていることに気がつきました。

行きたかった場所に行けない。他に行きたい場所ができた。観光に疲れた。居心地のいい場所を見つけた。

理由は様々でしたが、前もって立てた予定通りになんて旅は進みませんでした。

それから5ヶ月は流れに身を任せて、気の向くままに旅を続けました。

あそこに行ってみてくなったからルートを変えよう。
今日はここに行くはずだったけど、この人と遊んでみよう。
ごはんがおいしいから、もうちょっとここにいよう。
この人ともっと一緒にいたいから、滞在を延ばそう。
この人と一緒に旅がしたいから、そのためになんとかしよう。

旅の本や、旅特集が組まれた雑誌なんかを見ていると、必ずといっていいほど「予定通りにいく旅なんて面白くない。自由に、気の向くままに旅をしていると、思わぬ出会いや感動があったりする。」というようなことが書いてあります。

本当にその通りだ。

心の底からそう思い、今までの自分の旅を悔やんだこともありました。

もちろん、地球の歩き方やネットを見て情報収集することも必要ではあります。
最低限の知識が自分の身を守ってくれるから。

でも、予定を組んで意地でもそれを強行する...なんて旅をしていたらもったいないなあ。と、僕は思います。

気の向くままに旅したことで、たくさんの偶然に出会いました。

フィリピンでは誕生日パーティーに招待してもらい、カンボジアに大好きな場所ができ、インドではたくさんの人の現地生活に触れ、イスラエルではパレスチナ人の会社に招待してもらい、エジプトではイルカを見て、スペインでは宿でダンスパーティーをし、アルゼンチンでおじいちゃんの友達ができ、ボリビアでたくさんの友人ができ、ペルーで日本の友達と再会し、メキシコの海に出会い。

数えきれないくらいたくさんの偶然。
言ってしまえば全てが偶然だし、あのタイミングで、あのメンバーでなければこんな素敵な思い出はなかったかもしれない。

何も知らなかった自分が、たくさんの偶然に出会うことであらたな価値観に触れることができた。
何も知らなかったから、現地の人が優しく教えてくれた。

そう、何も知らなかったからこそ、目の前にある光景にただただ感動した。

もし元から全てを知っていたら、旅ってそこまで面白くないんじゃないかと思う。
仮に全てを知っていたら、あんなに感動することってないんじゃないかと思う。

知らないことを知っていくことがこんなに楽しいだなんて、旅前の自分は考えてもいなかった。

今までそれを知らなかったからこそ、新しいことを知ることができる。

なーんだ、知らないって怖いことじゃないんだ。
むしろ、知らないっていうことは楽しいんだ。

この世は知らないことだらけ。
どれだけ知らないことを追い求め続けても、世界の全てを知ることなんてできない。
そんなことができるのは、"全知全能の神"くらいかもね。いるとしたら。


知らないことに胸を踊らせて、日々の学びや発見、気持ちの移り変わりを大切にしていきたい。
そう思うことができたエピソードについてのブログでした。

「あなた旅を、一言で表すと?」

「知らないって楽しいことなんだと、心の底から思えるようになった。」


プロフィール:
浅子 拓耶(あさこたくや)
タイトル「知らないって、楽しい」
ブログURL: http://takuyaasako.blogspot.jp/
Twitter: @TAKU_YEAH
Facebook: Takuya Asako

【JGAP寄稿者短信"拡大版"】「あのとき、いま、これから ~東北被災地での活動報告~ 」

堀米 顕久
(大分大学医学部医学科・2012年度 BADO! 世界を旅するチェンジメーカー奨学生)

 JGAPをご覧の皆さま、こんにちは。

 昨年8月に「フロンティア・フォーラム」欄にエッセイを寄稿させていただきました、世界を旅するチェンジメーカー奨学生の堀米顕久と申します。

 病気や障がいを抱える子どもたちの居場所づくりを模索して、国内・国外の医療施設・福祉施設・野外体験施設等への視察・ボランティアの旅をしながら情報発信を続けていますが、今回は2012年5月~7月と2013年3月にボランティアとして訪れていた東北被災地の現状や活動についてご報告させていただきます。


東北被災地の現状とボランティア活動 
 私が初めて東北被災地を訪れたのは、今回の旅の途中の2012年5月のことです。この時は、以前から繋がりのある東京の国際NGOであるNICE(日本国際ワークキャンプセンター)のボランティアとして、約3週間の間、岩手県陸前高田市に入りました。

 陸前高田市は、太平洋岸沿いの平地に市の中心部が集積していた街でした。そのため、震災による津波で市役所・基幹病院が丸ごと被災し、市の家屋の7割以上が被害を受け、約1割の住民が亡くなりました。
 最初に訪れた2012年5月は、震災から1年以上が経過しているにもかかわらず、がれき処理も十分には進んでいませんでした。被災した人々は、ひとまず仮設住宅に移って暮らしてはいましたが、元々の土地は未だ被災したままで、新しく住む場所も決まっておらず、今後どこで何をすればいいか全くわからない状態でした。

 ボランティアの仕事については、地域の社協等が中心となって設立したボランティアセンターが住民からのニーズを取りまとめ、ボランティアに割り振っていきます。NICEは、個々のメンバーのマイナーチェンジはありつつも、2011年4月から1年以上継続してボランティアに入っている団体ということで様々な仕事を任せてもらっていました。

 例えば陸前高田市は、牡蠣の養殖が盛んな町でした。津波で牡蠣養殖用のいかだがすべて流されてしまったため、養殖業者を含めて漁業者の2/3が震災後に漁師を辞めてしまったそうです。そんな中でも、何とか地場産業を復活させようと牡蠣の養殖に再度取り組む漁師さんたちがいて、NICEだけでなく多くのボランティアが、いかだ作りから種牡蠣の準備まで、牡蠣養殖の一連の行程を手伝っていました。
http://ameblo.jp/mylifeasapig/entry-11369098304.html

 あるいは、流された住宅跡地を畑や花壇として蘇らせる活動も行ないました。海沿いの、海抜の低い地域は、津波の危険があるので家を新築することができません。でも、代々受け継いできたその土地を、家が建てられないからと言って荒れ放題のまま放置することは心苦しく、かと言ってすべてを一人で行なうのは難しいので、ボランティアセンターにニーズとして上がってきます。プラクティカルには利益を生まないように思える活動ですが、被災地の人たちが心穏やかになれるように、また前を向けるように、そんなお手伝いをすることもありました。
http://ameblo.jp/mylifeasapig/entry-11369152574.html

 また、こちらはボランティアセンター経由ではないですが、学校の校庭が仮設住宅で埋まってしまい、自由に遊べる場所がなくなってしまった被災地の子どもたちのための遊び場作りや、野外キャンプ等にもいくつか関わらせていただきました。
http://ameblo.jp/mylifeasapig/entry-11317404946.html


ようやく2年が経過したけれど... 
「おばあちゃんには悪いけど諦めてもらえ!お前らだけでも逃げて助かれ!」

そう叫んだことが、頭を離れないといいます。

 震災当時、地元の消防団員として、地震のあと津波が来るのがわかっていたから必死で避難を呼び掛けて回って、それから自分自身ももちろん逃げました。避難先である高台の小学校への坂を上っている途中、後ろから津波が迫っているのが見えて、それと同時に、坂の下の方でおばあちゃんを助けながら登っている若者数名が見えて、でも津波は彼らのすぐ後ろまで迫ってきていて...。




 津波の第一波が去った後、町は跡形も無く壊れてしまっていて、さっき駈け上がってきた坂の途中では津波にのまれて倒れて死んでいる人がいて、でも良く目を凝らすと、かろうじて生きているらしく、蠢いている人たちもいて...。
 生き残っている人を助けようと、消防団員でまだ動いている人のところに駆け寄ったとき、

「悪いが、(津波の)第二波が来たらおれは真っ先に逃げるぞ」

と、他の団員たちにはっきりと言ったのだといいます。
 その時はもう全てが狂っていて、自分や周りの言ったこと・したことが仕方なかったとも思うし、でも今でも、あの時の自分は間違ってたんじゃないかとうなされることもあるのだといいます。
 そんな、仮設住宅で食事をご一緒させていただいた、震災当時消防団にいらっしゃった方からのお話...。




 「あれから2年が経過した」と外部の人間は客観的に捉えますが、地域の人たちにとって、「まだ2年しか経っていない」というのが実際の心情なのだと思います。
 いつまでも下を向いているわけにもいかなくて、どこかで何かをしたいけれど、何かをしなければならないとわかっているけれど、でも仮設住宅以外に住むべき土地も見つからず、生活も不安定で、どこで何をしたらいいかわからない状態にある人もいるのかもしれません。
 少なくとも多くの人は、まだ気持ちの整理すらついていません。心は震災に取り残されたまま、何もしないわけにはいかないからとりあえずできることを始めているだけで、ふとした瞬間、例えば同じ境遇の、同じく被災した人たちが集まって飲んだりしているときに、堰を切ったように当時のやり切れない思いが溢れてきて、背負わされた十字架が彼らに何度も重く圧し掛かってきます。
 そんな風に、現地の人たちにとって震災は過去の出来事にはなってはおらず、まだ被災下という進行形の中を、苦しみながら生きていました。

 私は今更外部から来て、数週間のボランティアをするだけの身です。自分の分をわきまえて、ただ、話して下さる方の話に、真剣に耳を傾け続けて...。


ボランティアのいる意味
 私は、これまで日本でも海外でも多種多様なボランティアに取り組んできましたが、今回ほど、ボランティアの無力さを痛感したことはありませんでした。被災地の傷は広く深く、自分たちが何かをすれば、すぐに何かが変わったり、成果が見えるものでもありません。そういう意味で、「震災ボランティア」「復興ボランティア」とは何なのか、自分たちに求められていることは何なのかを考え続けながらの活動でもありました。

 一つ一つの作業をしているとき、例えば草取りをしているときに、ふと「これって重機を導入して一気にやってしまったほうがずっと効率的なのでは...」と思うことがあります。でも、ボランティアが被災地に来て活動することは、ただ「作業」をしてハード面の成果を出すことだけが目的ではないのだということを、NICE内で話し合いながら、あるいはボランティアセンターで働く地元出身の方から話を伺いながら、考えるようになりました。

 それは例えば、地域の人たちと一緒に働く中で、交流をするということ。親族や友人が流されたり、家が流されたりして、近所の人とのネットワークが全部なくなってしまった地域の人と、たとえ庭の草取りでもいいからボランティアが一緒にやって汗をかくことで、彼らが人と話したり、人の温かさに触れたり、改めて人との繋がりを築いたりして、いつかまた前を向くことができるかもしれないから。
 あるいは、ボランティアが今も全国から集まって活動している姿を、地域の人に見てもらうということ。その姿を見せることで、まだみんな陸前高田のことを忘れてない、応援しているんだってメッセージを伝えることができるから。そしてその事実が、被災地の人たちを元気づけることに繋がるから。
 すべては、被災地の人たちの心の復興のため、彼らがまた前を向いて歩き出すきっかけになるためなのだと思います。

 例えばいかだ作りのボランティアをして、後日、別の場所で地域のおじいちゃん・おばあちゃんと話しているときに、ふと言われたことがあります。

「広田湾にいかだが浮かぶとね、あぁ、あの日常の風景が戻ってきたなって思えてホッとするんだ。ここに住む人間にとって、広田湾にいかだが浮かんでいるのがいつも当たり前だったから...」

 そんな風に、皆で作っては広田湾に浮かべていたいかだは、牡蠣養殖の再開という産業復興を担うのみならず、地域の人たちの心の拠り所となる役目をも担っていたのでした。


あのとき、いま、これから ~東北被災地と関わりを持たせてもらった人間として~
 震災が起こった当時、私は福岡で銀行員をしていました。地震直後からtwitterのタイムラインを追い、NHKのUst配信を見ながら、でも自分では何もできなかったあのときの歯がゆさを、今でも鮮明に覚えています。
http://ameblo.jp/mylifeasapig/entry-11185921655.html

 それから1年越しに、ようやく被災地に行くことができて、今年の3月までに合計で1ヵ月強のボランティアを行なってきました。NICEやその他の活動で現地を歩き、地域の人と一緒に汗をかく中で気付いたのは、確かに月日が経過して、ハード面では徐々に片付いてきているけれど、地域の人たちにとって震災はまだついこの間の出来事のようで、集まって話すと、まだ皆の心は地震・津波とその後の混乱の中にある、ということでした。
 だから、ボランティアに必要なのはきっと、彼らの心の復興を支援するということ。彼らとしっかりと関わりながら、いかだ作りや住宅跡地の花壇作りのような、一つ一つの活動をゆっくりとでも着実に人の手で行っていくこと。そんなボランティアの姿を見せて、また彼らとの関係性を深めていきながら、無理やりにではなく、彼らが自発的に前を向くきっかけになるよう地道な活動を続けていくことなのだと思います。

 2013年4月から九州での2度目の大学生活を始めて、東北から距離は離れてしまいましたが、今後も継続的に、これまで関わりを持たせていただいた人や活動を再訪していくことが、一度東北被災地と関わりを持たせてもらった人間の使命なのだと思っています。距離的・時間的制約はありますが、今後もこれまでの活動と子ども関係の活動を少なくとも数年間は継続していきながら、微力でも、被災地の人たちが前を向いて歩き出すきっかけになれればと思います。

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