代表ブログフロンティア・フォーラム

日本をよくする提言から多様性を高める主張、ギャップイヤー文化構築提案まで、
多種才々なイノベーター達のエッセイ集

法政3年高橋プロフィール写真.jpg「休学1年間=カナダ+西アフリカ+カンボジア=スタートライン!」

高橋昌祐樹
法政大学法学部国際政治学科3年(※9月より復学)

 はじめまして! 僕は昨年3年時後期より1年間休学し、この秋から大学に"帰還"しました。僕の休学生活を簡単にまとめると、10ヶ月半のカナダでの語学留学とインターン。40日間の西アフリカ、シエラレオネでのNGOインターンと"ミニ会社"起業。2週間のカンボジアでの小さなNGO活動です。これらは「留学・海外インターン・一人旅・国際協力」など、最近揶揄(やゆ)されることもある"意識の高い"学生のトレンドの組み合わせです。でも僕はまだ「何も成し遂げてない」し、世界の99%を知らないと思っています。


中上さん写真.jpg「アフリカ大陸南東部モザンビークでのボランティアで出会ったのは、『本当』の自分だった」


中上亜紀
(千葉大学法経学部3年後期から休学中)

後悔は無い、でも何かが足りない大学生活~「就活」を前に考え、ギャップイヤーを選択
 大学生活3年目の春。就職活動を目前に、焦燥感にかられるものの、どこか他人事な私を一つの疑問が支配した。「本当にこのまま就職していいの...?」

 将来、国際協力という分野で世界と関わる仕事がしたいと思っているものの、その気持ちだけが先行し、自分には知識や経験、計画性が足りなさ過ぎていた。具体的に何がしたいのか、どういう分野から問題にアプローチしていきたいのか。そして何よりも、中学生の頃からの夢であるアフリカの地を未だに踏んだことがないということが、ずっと胸にひっかかっていた。そしてその気持ちに正直に、知らない世界を見ることを決意。休学に断固反対だった両親には、自分が思い描く将来とそのために必要だと思うことを伝え、どうにか協力を得ることができた。そして2011年7月末にアメリカへ。ここから私の1年間のギャップイヤーが始まった。


米国NPOでのファンドレイジング(寄付金集め)で泣いた日
 この1年間の活動先として私が選んだのは、アメリカの、とあるNPO。半年間の研修を受けると、"開発インストラクター(Development Instructor)"という肩書きが与えられて、アフリカで残りの半年間NGO勤務という1年間のプロジェクトだ。多国籍なNPOで初めての共同生活。ここで一番苦労したのは、言語でも課題でもなく、アフリカに行くための資金を自分で集める募金活動(ファンドレイジング)だった。始めの半年のうち約2ヶ月を寮から離れてこの募金活動に費やしたが、街中で幾度と無く「死ね」「地獄へ落ちろ」と罵られ、数え切れないほど涙を流した。見ず知らずの人に罵声を浴びさせられ、何百人・何千人という人に募金を断られて培われた精神力は、自信にもなったし、これからの糧にもなると信じている。


夢のアフリカ大陸だったが、帰国を検討~選んだモザンビークで出会った「本当」の自分
 米国NPOでの半年間の研修を終えて、今年2月にモザンビークに到着。"結核治療啓発ボランティア"として活動する生活が始まった。英語が全く通じず、ポルトガル語が公用語の国、男性からのボディタッチと口説きに嫌気がさすのに加え、不衛生な環境、そして働かない現地ワーカー...。全てに準えて来たつもりだったが、序盤の2ヶ月はストレス性胃腸炎に苦しんだ。本気で帰国を考え、本気でモザンビークを嫌った時期だった。そしてこの時期に本当の自分に出会った。

 「私は心身両方の調子が整って、余裕がある状態じゃないと人をサポートすることができない。自分の生活が保障され、納得するリターンがないと自分は頑張れない。」

 そこにいたのは、我欲の塊で自分本位な私だった。ずっと夢だったボランティアも、その場の環境に任せてやる気を失った時期もあった。それだけ自分は弱くて甘かった。


葛藤の日々を乗り越えて、これからを考えた
 毎日オフィスか部屋に篭(こも)り、フィールドワークを避けて人との接触を絶った期間を乗り越えたきっかけが、活動開始から2ヵ月後の今年4月に出会った日本人だった。彼らに出会えたお陰でこの国の楽しみ方とオンオフの切り替えの仕方を覚え、それからの生活は見違えるように彩(いろど)りを取り戻した。共にフィールドに出るワーカーとのポルトガル語での会話、何時間も続く悪路をバイクの後ろに乗って孤立したコミュニティに行くことや、新しい結核患者を見つける工夫をワーカーと考えることも、全てが楽しく思えるようになった。

 そして自分のプロジェクトが終わりに近づいた頃、8月末に控える帰国後の自分の『未来』を考えるようになった。私にはまだ1年半の大学生活が残されていて、尚且つ『就職』『大学院進学』『ボランティアで海外派遣』という自分が望む全ての選択肢を選べる自由な環境がある。今自分が出来る事と出来ない事、そしてやるべき事を考え、自分なりに答えを出す期間がこのモザンビーク生活終盤の2ヶ月だった。


足りなかったのは、「知識」ではなかったか? だからこれから学びなおす
 この1年間の経験は全てが全て良い思い出だったわけではなく、何十回と帰国を考えたほど私には過酷だった。しかしその状況が、「世界に根強く残る貧困問題をどうにかしたい。モザンビークで出会ったような社会的弱者層を支えたい」という、渡航前から抱いていた感情が本物だったと証明し、自分の核を形成できた。次はこの気持ちを大切にし、仕事として関れるように自分の未来を選んでいきたい。また、今の私に圧倒的に足りないものは知識だと実感させられたこの1年。残りの学生生活は今まで身についていなかったことをもう一度学び、それと合わせて自分の経験を発信することで、更なる自分の成長へと繋げたい。

プロフィール
大阪の高校を卒業後、千葉大学法経学部に入学。パキスタン支援NGOインターン、国際協力団体『夢追人』1期千葉リーダー、インドでのボランティアなど、様々な活動をするものの、自分の経験や知識、計画性に納得がいかず、昨年3年の後期より1年休学。今秋、大学に戻る。アメリカNPO『IICD』で半年間の研修を受けた後、Development InstructorとしてモザンビークNGO『ADPP』で半年間『Total Control of the Epidemic(感染症蔓延コントロール)』プロジェクト-結核病感染予防・治療啓発部門の活動に従事。

中上亜紀
Twitter: @aki_peacemaker
Facebook: Aki Nakagami(中上亜紀)
Email: aki.peacemaker@gmail.com

【モザンビークひとくちメモ】
旧ポルトガル植民地であり、1964年から独立戦争を戦い、1975年に独立を達成した。独立後も1977年から1992年まで内戦が続いた。内戦終結後は好調な経済成長を続ける反面、HIV/AIDSをはじめとする感染症の蔓延が問題となっている。隣接国が全て英語圏の国家であるため、1995年から英連邦に加盟している。

堀米さん写真Akihisa.jpg「子ども×自然×医療:銀行員は医師を目指して"旅人"になる」

堀米 顕久 Horigome Akihisa
(大分大学医学部医学科在籍。2012年度 BADO! 世界を旅するチェンジメーカー奨学生)

農学部から銀行?さらに銀行から医学部へ?
 元々は北海道で農学を学んでいたのに、就職は国内の大手銀行へ。北海道から九州まで全国を転々としながら5年弱働いて、ようやく銀行員として一人前になってきたと思ったところで辞めて医学部へ入学。さらに今度は医学部を休学して、日本縦断・世界一周の旅へ...。客観的に見ると、理解に苦しむ経歴かもしれません。でも、自分の中では、その時その時の自分の心の声に正直に、信念を持って生きているつもりなのです。


「カラフルな世の中へ~その意味とは?!」熊谷さん写真.jpg


熊谷祐介
長野県小布施町出身
埼玉大学2年教養学部(休学中)
※2012年4月より半年間単身で、現在世界一周中。

この世は多くの選択肢にあふれている。

この文章は、特に地方の人に読んでもらいたい。
そしてなにか一つでも感じてもらえれば幸いです。


「なぜ世界一周?」
 大学入りたての時、たまたま世界一周をした人の話を聞いた。正直、僕には出来ないと感じた。お金、治安、語学...。不安要素だらけ。しかも海外未経験。しかし、世界一周が怖くて出来ない自分を格好悪いと感じる自分もそこにはいた。だから、「出来る!」と確信できるその日までは、自分が不可能だと思っていたことをやってみようと思った。1年生の夏に自転車で関西一周、冬にはヒッチハイクで東北縦断して、北海道一周。

 そして日本の最北端、宗谷岬に着いた時だった。「日本って小さいな」と心の中で呟いている自分に気がついた。北海道一周した時は達成感なんてこれっぽっちも感じなかった。唯一感じたのは、虚無感。20年間日本という小さな国で生きてきたこと。世界がとてつもなくでかいのではと想像したこと。あの時は本当にむなしかった。「20年間俺は何をしていたんだ?」と怒りさえ覚えた。その一週間後、東日本大震災が起こった。その時、世界一周が確信に変わった。人がいつ生涯を終えるか、何が起こるかなんて誰もわからない。まだ若いと思っていたら大間違いだ。今だ。今しかない。後悔する人生なんてまっぴらだ。


「なぜ東京の若者が島根・津和野で、"町長付"ギャップイヤーなのか?!」 福井さん写真.jpg


※「続編」にあたる10月15日に更新した「島根県・津和野町長付 半年記~"よそもの"に何ができるか?!」はこちらです。
http://japangap.jp/essay/2012/10/post-30.html

福井健(ふくいけん)
国際基督教大学2年=一時退学中

※現在、島根県鹿足郡津和野町にて「町長付」として地域活性に取り組む。

 "点描画をルーペで拡大してみる。そこには、色彩鮮やかな絵の具の粒があった。
37,000,000分の1ではなく、8,300分の1で勝負する。
8,300のドットの中で、自分にしか出せない色を出す。"


自身3度目のギャップイヤー
 大阪生まれ、大阪育ちの私が初めて自分の意志で大阪の外へ飛び出したのは、高校入学前の春休み。一人でバックパックを背負ってタイへ行った。今まで知らなかった世界が、そこにはあった。タイでの感動が忘れられず、何も知らないところで生活してみたいという想いに駆られ、高校在学中に留学を決意し、高校を休学し1年間スウェーデンに留学した。初めてのギャップイヤーだ。その後、高校に留年復学し、同級生より1年遅れで大学を受験するも失敗。受験浪人する気も、実家にいる気もないと徳島県のホテルで働き始めた。結果的に、これが2度目のギャップイヤーとなる。就職して9ヶ月程過ぎた頃、ひょんなことから再び大学を目指すことになった。締め切り間近の決意で、国際基督教大学に出願し、ひと月程受験勉強し合格し、昨年2011年4月に入学した。そして2012年、やっとの想いで入学した大学を退学し、島根県鹿足郡津和野町で活動することを選んだ。3度目のギャップイヤーである。

 なぜ、大学を飛び出したのか。


本気で、社会を変える取り組み
 「50年後の日本を想像してみる」
 人口が1億人を下回り、若者が居ない超高齢社会。昔あった笑い声も消え、活気のあるコミュニティすらなくなり始めている色のない町。
 そう遠くない未来の日本の話である。
 同時に今の日本にも、この「50年後の日本」を象徴している地域がある。そのような地域で、大学生が本気で社会を変えるという取り組みを行おうとしているのが私が所属するInnovation For Japan(IFJ)である。IFJは、東京で意欲のある学生を募集し、彼らに「町長付」というポストを用意する、ただし、一年間休学して現地の役場で活動する、という条件付きで。私はこの制度を利用し、IFJの一期生として津和野町にやってきた。大学ではできない、"学び"のために。机の上、Macの中、本の1ページにはない、現場にしかない「何か」を求めて。

 しかし、なぜ、津和野なのか。なぜ、アフリカではなく、世界一周ではなく、政治家の秘書でもなく、田舎でのインターンシップを選んだのか。


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